第1話 僕が生まれた家

文字数 1,807文字

 僕がはっきり思い出せる一番古い記憶の中の景色は、綺麗な水を湛えた池のある、広くて明るい牧場だ。池の上には木々が影を落としていて、深いところにはガマやスイレンが生い茂っている。牧場の生垣の片方の端からは畑を覗きこめて、もう反対側の端からは僕たちのご主人様の家の門が見えた。その門を出ればすぐに道に出る。牧場の一番高いところはモミの林、一番低いところは急な斜面を流れる小川になっていた。
 生まれたばかりのころはまだ草が食べられなかったから、僕は母の乳を飲んでいた。昼間は母の隣で走り、夜は母の隣で横になった。暑い日は池のほとりの木陰で涼み、寒い日は林の近くの暖かな小屋で過ごしていた。
 やがて僕が草を食べられるようになると、母は日中は仕事に出て、夕方に戻って来るようになった。
 その牧場には僕のような子馬が他に六頭いたけど、みんな僕より先に生まれていて、中にはもう大人の馬とそんなに変わらないぐらいの大きさの子もいた。みんなといっしょに走るのは、いつもとても楽しかった。牧場を何度もぐるぐると、襲歩《 ギャロップ》で力いっぱい駆け回る。もっと荒っぽい遊びをするときもあって、そんなとき他のみんなは上手に噛んだり蹴ったりしていた。
 あるとき、みんなでたがいを蹴りまくっていると、母が僕に向かっていななきかけて近くへ呼び寄せ、そして言った。
「これから言うことをちゃんと聞いて憶えておきなさい。今ここで暮らしているあの子馬たちは良い子だけど、お行儀というものを習っていない。お前はとても良い血筋で良い生まれ。お前のお父さんはこの地域ではとても有名だし、おじいさんはニューマーケットのレースで二回優勝している。おばあさんは私が知る中で一番気立ての良い馬だったし、お前だって私が他の馬を蹴ったり噛んだりするところを見たことはないはず。お前には悪い作法とは縁のない、気立ての良い優しい馬になってほしい。仕事には常に真面目に取り組み、速歩《トロット》のときは脚をたくみに上げて、遊ぶときでも噛んだり蹴ったりはしない、そんな馬に」
 僕は母の忠告を決して忘れなかった。母は賢い大人の馬で、ご主人様はとても母を大切にしていた。母の名はダッチェスといったが、ご主人様はよく母をペットと呼んでいた。
 ご主人様は気立ての良い優しい人だった。僕たちに良い餌、良い小屋、そして優しい言葉をくれた。小さな子供にかけるのと同じ、優しい話し方で。僕たちはみんなご主人様が大好きで、中でも母はご主人様をとても慕っていた。ご主人様が門にいるのを見るやいなや、母は喜びのいななき声をあげて、そちらへと駆けて行く。ご主人様は母を軽く叩いたり撫でたりしながら「やあ、ペットさんや。お前の小さな黒ちゃんは元気かい?」と言うのだった。僕は全身真っ黒だったから、ご主人様はそう呼んでいた。それからご主人様は僕にパンをひときれくれるのだが、これはとても美味しい。母にはニンジンをくれることもあった。牧場中の馬がご主人様のところへやってくるのだけど、僕たちはご主人様のお気に入りだったと思っている。市の日にご主人様を背に乗せて町まで駆けていくのは、いつも母の役目だった。
 畑の手伝いをしているディックという少年が、ときどき生垣のブラックベリーを摘みにやって来ていた。その子は食べたいだけブラックベリーを食べると、遊びだと言って子馬たちに棒や石を投げつけるので、みんな全速力で走って逃げた。走って逃げればいいだけなので、僕たちはあまり気にしていなかったけど、たまに石が当たるとやっぱり痛かった。
 ある日、ディックがいつもの遊びを始めたとき、ちょうど隣の畑にご主人様がいたが、ディックは気づいていなかった。ご主人様はディックの遊びを見るやいなや、生垣をすぐさま飛び越えて、ディックを捕まえて頬を張り飛ばしたので、ディックは痛みと驚きでうめき声をあげた。僕たちはすぐ、何が起きているのか見ようとご主人様のもとへと駆けて行った。
「悪ガキめ!」ご主人様は言った。「なんて悪ガキだ、子馬を追い散らすなんて。これが初めてか二度目かわからんが、最後なのは確かだ。ほら……給金を持ってとっとと出て行け。二度とお前をこの農場には入れんからな」だから僕たちは、ディックの姿をそれ以来見かけなかった。馬の世話をしているダニエルじいさんはご主人様と同じくらい優しい人だったから、僕たちは幸せだった。
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