保健室

文字数 5,774文字

 澪の学校なら、彼女の両親の居場所を、把握しているかもしれない。
 校舎に高く掲げられた“常に挑戦・常に前進・常に積極的”のスローガンが、黒くぼやけた何かの文字にしか見えない。
 それでも校舎を見上げれば、懐かしい気持ちが込み上げる。
 しかし、それらは、美しいだとか、楽しいだとかそんなものとは正反対のものである。
 苦い思い出がせり上がりそうになり、左襟に、ピンで留めた弁護士バッジに触れる。
 ギザギザの凹凸は、自分が弁護士であることを証明してくれるものに間違いなかった。
 現在は、一人の少女を救うために学校にやってきている。
 それ以上でもそれ以下でもないから、古く錆びれた過去を噛み締め直す必要はない。

 昇降口で、来客用のスリッパに履き替え、白杖の石突で、段差を探り当てた、ちょうどその時。
 ガラッーー。
 保健室の扉が空き、中から、白衣姿の女性が首を出す。
廊下を去り行く生徒に、「また具合悪くなったらおいで、ね?」神崎の声が追う。
「はい」という男子生徒の返事がこだまのように返ってきて、走り去っていく足音が遠のいていく。
「おぉ?」
 白衣の女性が、シロタの存在に気づいたようで、物珍しそうに目を見開いている。
 真っ赤な口紅に、真白の肌、黒檀のような色合いのロングヘア。
 年の程は外見からは、判別しかねる。
 それでも例えるなら白雪姫。
 ここの保健室は、昼休み、特に男子生徒でごった返すに違いなかった。
 白雪姫のごとき、美貌。
 白衣の天使。
 そんな彼女は、白ストッキングを履いた脚をクロスさせ、ドアに右腕と共に上半身をもたせかける。
「こんちわ。最近寒くなってきたね」
 教師、それ以前に社会人とは思えない言葉遣いである。
「お客さん?」
 気だるそうに白衣のポケットに両手を突っ込んでいた女は、首からぶら下げたカードホルダーから、「玉ノ井高校 養護教諭 神崎 杏子」と印字された名刺を1枚抜き取る。
「わたくし、養護教諭の神崎と申します」
 どこかふざけた調子で、抜き取った名刺の端っこを唇に咥えた神崎は、
「ちょっといいですか〜?」
 シロタの両手をそっと真ん中に引き寄せ、咥えた名刺を両手の上に載せる。
「初めまして。よろしくです」
ルージュが逆三角形を形作る。
 ついで、シロタが下駄箱に立てかけていた白杖を握り、とても丁寧に、自分のもののように慣れた手つきで折りたたんだ神崎は、段差を下り、シロタの隣に立ち、ナースシューズを履いたつま先を、ゆっくりと段差に載せる。
「どうもありがとうございます。でも、弱視なのである程度は見えますよ」
 とはいえ、とても助かります。
 まぁ、昔大学でこういうのやったんだよね。
 そんなやりとりを、繰り返し。
 神崎は、シロタの顔を覗き込んだ。
「ところで、どういったご用件で?」
「いや……」
 ここで澪の名前を出すのは憚られた。
 この養護教諭が、澪が少女Aとして犯罪の嫌疑をかけられていることをどこまで知っているかはわからないが、いつ、どういったタイミングでタチの悪い記者に聞かれているかわかったものではない。
 事情を察してくれたのか、神崎は、立てた親指を保健室に向けた。
「とりあえず上がってく?」

 消毒液の匂いが鼻につく。
 ランドルト環、体重計、ソファに置かれたクマのぬいぐるみ、ベッドを隠すピンクのカーテン、ガーゼや絆創膏、消毒液が並べられた処置台。
「ふぅ〜」
 丸椅子に腰掛けた神崎は、あろうことか保健室内でジッポの火を、真っ赤な唇に咥えたタバコの先端に近づけた。
「はぁ」
 天井を仰ぎ、ため息を吐く。
 学校は、健康増進法の一部を改正する法律で全面禁煙のはずだが、黙っておいた。
 自分は部外者だ。
 突っ込む資格も、義務も無い。
 自分は、澪の冤罪を確かなものだと信じるためにここへ来たのだ。
「あぁ、弁護士サンだったね。弁護士サンの前で、堂々と法律違反しちゃってるわ、あたし」
 ははは、と乾いた笑みをこぼし、全く悪びれる様子もない神崎はタバコを美味そうに味わいながら、ボードに挟まれた「保健室 来室者 記入シート」を順番にめくっていく。
「すみません、突然、押しかけることになってしまって」
「いいけど、オフレコにしといて欲しいんだ」
「ええ、もちろん、そのつもりでこちらに伺いました」
「ボイレコもナシね」
 フーッ。
 窄まった真紅の唇から、紫煙が勢いよく、吐き出され、薄まり、いつのまにか消えていく。
「承知しました」
 煙草の煙のせいではないが、この保健室は埃っぽいのかシロタは軽く咳き込んだ。
 そんなシロタを、神崎はちらりと見やり、携帯灰皿にまだ半分以上残っているタバコを押し付けて消した。
「ウワサの少女Aの弁護士と喋ったことが、ここの人間にバレたら、最悪、あたしの首が飛んじまう……ことはないだろうが、違う学校に“出向”を命ぜられるのは確実だからね。学校は組織だからさ」
 神崎は無理をしてくれているのだ。
 シロタは居心地が悪くなりつつある。
「私はここにいても大丈夫でしょうか」
「あぁ。ちょっと弁護士バッジ外して欲しいな。それ以外は、なんとでもごまかせる」
「迂闊でした」
 身分を証明するにはちょうどいいと思って付けていたものだが、一体、自分は何を考えていたのだろう。
 しっかりしなければ。
「いいよ。弁護士がおっちょこちょいだと、何だか安心するね」
 来室者リストを数枚めくったところで、神崎は、“棚橋澪”の女子高生らしい丸文字を赤い蛍光ペンで囲い、シロタに指差して示す。
「澪はさァ、1回しか会ったことないんだよ。すげぇめんこい子だった。本人何も言わなかったけれど、小さい頃から親をはじめ、いろんな人間に愛されて大切に育てられてきた子なんだなってのがよくわかったよ。非行に走るくらいなら、正面切って相手に立ち向かうような気の強さもなんだか感じたな。まぁ、1回しか彼女、来てないから、本質を知っているわけじゃないけどね」
 神崎が用意してくれた保健室来室者リストを膝の上に載せたまま、シロタは、床に置いたサッチェルバッグを開ける。
 その姿を、神崎はじっと見ている。
 が、やがて、合点がいったように両手を叩いた。
「ルーペ?」
「あ……はい。でも持参しているので大丈夫ですよ」
 と言いながらも、肝心のルーペがどれだけ鞄を漁っても出てこない。
「おかしいな……基本、点字派なので、カバンの奥底にでも眠っているのかな……」
 神崎はシロタに背を向け、デスクの筆記用具入れから虫眼鏡のようなものを引き抜いた。
「ほら、これ、よかったら使いな。うちにも、弱視の生徒が一人、いるんだよ。その子もアルビノでね。まあ、そいつは弱視なことを活かして毎回あたしの胸を覗きに来るんだよ。もういっそ「来室理由」のところに、「神崎先生の巨乳で目の保養するため」って書いときゃいいのに、律儀に「精神的なことについての相談」とか書いてやんの。笑えない?」
「障害をポジティブに受け止めて笑い話にできる能力は、正直、羨ましいです」
 神崎からルーペを受け取ったシロタは、“棚橋澪”の隣の「来室理由」にルーペを当てて、覗き込む。
「恋の、相談?」
「うん。かわいいよね」
「直球ですね」
「ここに来た時も、恋する乙女って感じでなんかモジモジしてたよ」
 長谷川くんとデートしてたーー。
 彼のことだろうか。
「最近できたボーイフレンドが、童貞じゃないことにショック受けてた」
「……」
 言うべき言葉が見つからない。
「それは、つまり……っと、その」
 0.01の視力をわずかに矯正してくれるビン底メガネのフレーム意味もなく摘むしか、シロタにはできなかった。
「まあ、処女信仰の反対バージョンじゃないかな。誰かのお古よりも、新品の方がいいって。あたしのアウディは中古だけどね! かわいいよ、中古も。前の持ち主の愛情が伝わるしさぁ。オトコの場合は別だけどネ……」
 さすが養護教諭だけあるものだ。
 性の話題を、オブラートに包まず持ち出す。
「私は、恋愛には疎いので、あまりピン来ないものがありますね……」
「ごめんごめん。こんな与太話をしてるほど暇じゃないよね、弁護士サン」
「いえいえ」とシロタは手を振って愛想笑いを浮かべる。
 むしろ与太話のなかから思わぬヒントを得ることがあるものだ。
 神崎とこのまま話し続けていたら、何かしら澪を救う手立てが見つかるのでは無いか。
「澪ちゃんが、長谷川くんの初めての彼女じゃないことに対する相談を受けて、神崎先生はどういったアドバイスをされたのですか?」
「アドバイス〜? ……まぁ、それでも澪は長谷川が好きだって言ってたから、だったらそれでいいんじゃないって言ってやった。あの子は、ただ、自分の心をかき乱した要素を一人で抱え切るには重すぎるからあたしのところまで来ただけなんだよ。要は、愚痴を聞いてもらってすっきりしたい、ってのが澪の本当の“来室理由”」
「なるほど」
「まあ、いまどきの普通の女子高生ってのが、澪に対するあたしの印象だよ」
「私も、彼女に面会した際の印象はそうでした。どこにでもいる、いまどきの……乙女というのでしょうか」
「言っとくけど、澪はここの学校では体調不良で入院してるって体になってる。生徒の前ではね。彼女の親が何故か失踪しちまってて、警察からここの学校に電話かかってきて、ここの教師は全員、澪イコール少女Aだと知ってる」
 そうだ。
 両親の居場所の手がかりを聞きに来たのだ。
 神崎の教師らしくない態度に呑み込まれ、危うく忘れるところだった。
「澪ちゃんの両親の居場所って、ご存知ですか?」
「残念ながら、本当に知らないんだ。なんにも、ね」
「そうですか……」
「家には、行ってみたワケ?」
「いえ、まだ。これから行こうとしているところです」
「やめときなよ。きっとマスコミ連中がウロウロしてるよ〜?」
「遠目にでも確認できればいいんです」
「しっかし、なんで失踪なんかするかなぁ? 大切な一人娘が、警察に捕まってるっていうのに……」
「それは私も謎です」
 不可解だ。
 途中、マスコミに絡まれても適当にあしらってインターフォンだけは押すつもりでいる。
 もしかしたら、マスコミを避けて家に籠り切っているかもしれなからだ。
「ってか、いいね」
「何がですか?」
「あたしも弁護士になりたかったんだ」
「ええ!?」
 神崎は、にんまり笑う。
「あたし、こう見えて、道、踏み外したことあってさ……」
 神崎はジッポライターのフタをキン、という音と共に跳ね上げて、2本目の煙草に火をつける。
 吐き出された紫煙が神崎の目の前に広がっている。
 いまもし生徒が来たら、どうするのだろうか。
「誰も傷つけなかったけどね〜。 気ぃ小さかったし」
 回転椅子の上で脚を組み、座面を左右に揺らしながら両目を切なく伏せて、物思いに耽っている。
 自分は記者ではないから、若き日の神崎が犯した“誰も傷つけない犯罪”の中身について訊くつもりはなかった。
「もうすぐ澪ちゃんの少年審判が開かれるのですが、澪ちゃんの証人として出廷して欲しいのです」
「え? でも澪は……」
 神崎は、シロタにしか聞こえないほどの小声になる。
「誤解しないでよ。あたしも澪が捕まったのは何かの手違いだと信じてる。でも、少女Aは、リンチして人を殺してるワケでしょ? そしたら、澪は15歳か16歳だから普通は“逆送”になるんじゃないの……?」
「確かに、少年法第20条に規定されてはいます。しかし絶対というわけではないです」
「そうなんだ!?」
 神崎は、自分の声の大きさに気づいて慌てて口を押さえる。
「あたしも昔弁護士志望だったからね。いいよ。審判くらい出てあげる」
「本当ですか!?」
「ん〜、だって可愛い教え子のためだもん。ここは一肌脱ぐところでしょ」
「ありがとうございます。このまま澪ちゃんの両親が見つからないとなると、証人が誰もいないことになってしまうので……助かりました」
「審判かぁ〜……懐かしいなぁ。あれは夏だった」
 丸椅子が揺られて軋む音がした。
「援交して捕まったんだ、あたし」
 返事に窮する唐突な告白。
「どう? あたしのイメージ、がらっと変わったっしょ」
「いや、まぁ……ですが、それは過去のことですし……」
 いまは、熱心で生徒想いな先生じゃないですかーー?
 喉をつかえて、続きの言葉が出てこなかった。
 自分は、神崎の何を知っているのだろう。
 何も知らないで、言葉だけで寄り添うのはむしろ神崎を侮辱することになる、そんな気がした。
「あたしは昔、親父から虐待されてたんだ。性を踏み躙られ、個性をかき消すってやり方。だからサイボーグみたいに育っちまった。言いなりだよ。親父の理不尽な文句とか、脅しとか、性暴力とか、そんなゴミみたいなのを受け入れるのが当たり前の日々だった。暗いし口もきけないから、学校では当然イジメられる。毎日、体当たりされてさ。全員、男子だったよ。だから割と身体が痛かった。イジメの相談を親父にしたら、『大人になったらもっと辛いことがある』って一蹴されてさ、そこで何かがぷつりと切れたんだ。セックスに焦がれるほどの興味があったワケじゃないし、行きずりの人間と寝るのが趣味ってわけでもなかった。あたしは、見せたかったんだよ。『娘が知らない男に犯されまくって、滅茶苦茶になってる姿』をね。それでショックを受けさせたかったんだ。ついで、心臓発作でも起こして死んで欲しかった」
「そんな過去が」
「いいかい? シロタ先生。あたしは、生皮剥いだら、澪なんかよりもずっとずっと弱い人間さ。それでも……、いいのかい? こんなのが証人で?」
 ところどころが、シロタの過去と重なる。
 暗く淀んだ子供時代。
「お父さんは、神崎先生の叫びを理解してくれましたか……?」
 ぎょっとした顔でちらり、と神崎はシロタを見やる。
 そして哀しく笑う。
「ううん。もっと酷くなっただけ。審判では娘思いの父親を演じてたけどネ……」
 チャイムが鳴った。
「さて、そろそろ行かないと。最近は、養護教諭も保健の授業に参画しなくてはいけなくなってね」
「今日はお忙しいところ、どうもすみませんでした」
「あの子と喋ってると教師であること忘れて純粋に楽しいんだよね。だから救ってやりたい。ああいう子は今の世の中に必要だよ」






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