ファミリー・コート

文字数 3,773文字

「シロタ先生、完全に手駒にされてますね」
「へ?」
 家庭裁判所庁舎内のカンファンレンス室。
「ふふ……私もはじめは騙されました」
 チョロロ……と、うぐいす色の茶を湯呑みに注ぎながら、家庭裁判所調査官の丘八重子(やえこ)は微笑む。
 澪との面会のあと、澪の担当家裁調査官である丘と話し合いをするために、シロタが向かった先は家裁だった。
 澪のことを知っている関係者に会って、彼女について詳しい情報が欲しかった。家裁調査官は弁護士よりも非行少年との距離が近く、少年のカウンセリングをはじめ、鑑別技官や医師、カウンセラー等、少年の学校や職場との橋渡しの役目を負っている。
 清楚な黒髪ショートヘアに、整った顔立ち、グラマラスな体型をタイトなスーツで必死に隠してる丘は、男女問わず見惚れてしまうような雰囲気をまとっている。
「あれは、棚橋少年の詐病です」
「詐病?」
 訳がわからず聞き返すシロタに対し、にっこり。
 丘は笑って見せる。
「どうぞ。いいお茶の葉なんですよ」
 うとうとさせられるような天使のような声に、調子が狂いつつある。
「どうぞ、お構いなく」と、シロタはお茶を断る。
 シロタの向かいに、丘が、優美な動きで腰掛ける。
 ストッキングに包まれた、細く引き締まった両脚をきっちり斜めに揃え、パンプスのつま先を行儀良くそろえ、丁寧に唇を開く。
「よくある話です。少年が弁護士相手に詐病を使って『俺は、私は、悪くない』って言って自ら犯した罪から逃れようとする……」
 逆立った猫の毛を優しく撫でるような穏やかな声に、眠気が上塗りされそうになる。
 パイプ椅子をゆっくり引く音がする。
 やがてーー。
 コツン。
 シロタのものではないパンプスの音が、カンファレンス室に響く。
 コツ、コツ。
 会議机をゆったりとした動作で迂回する足音は、シロタに近づく。
 そしてゆっくりと丘は、シロタに対してひざまづくようにしゃがむ。
「失礼しました。名刺を差し上げるのを忘れていました……」
 艶やかに光るまつ毛を伏せながら、申し訳なさそうな表情を丘はつくる。
 シロタは声で、丘の表情を読み取る。
 綺麗に磨かれた短い爪の下には、“家庭裁判所調査官 丘 八重子”と印刷された文字が整然と並んでいる。
「丘です。よろしくお願いします」
 おっとりした声音に、そのまま呑み込まれそうになる。
「私も忘れていました。すみません……」
 慌ただしく名刺入れから名刺を取り出すシロタの様子を優しげに見つめている丘の目線が、あるものの上で止まった。
「白杖。いつも、使ってらっしゃるのですか?」
 サッチェルバッグの上に、折りたたんで置かれた白杖をしげしげと興味深そうに眺める。
「まあ、そうですね。慣れた道以外は」
「そうなんですね。ご足労さまです……」
 中腰になった丘は、シロタに更にじりじりと歩み寄る。
 すりガラス越しのように不明瞭な視界に、どんどん大きくなる人影。
「……?」
 内緒話でもするのだろうか?
 シロタが首をかすかに傾げたときーー。
 ぎゅむ。
 柔らかい、熱を含んだ肉質的なものがシロタの左肩と腕に押しつけられる。
 これはーー。
 胸。
 ふくよかな双丘の間に、腕が半分めり込んでいるのだ。
「へぇっ!?」
 何を、するんですかーー。
 びっくりして、シロタは丘の顔を見上げる。
 シロタの生まれつきの“眼振”を、“動揺”と勘違いし、愛しさを覚えたのか、丘は、宝石に見惚れるように目をうっとり細めてシロタの瞳を見つめ返す。
「ありがとうございます。少年たちのために動いてくれて」
 シロタ先生。
 薬指に輪を嵌めた両手が、シロタの左手に覆い被さる。
 香水ではない、女性が自然に放つ芳香が鼻を掠める。
 シロタの頬は中心から円を広げるように、紅が差す。
 身体が熱くて、冷や汗が止まらない。
 シロタは、自分が抱いてる感情というものがわからなかった。
「けれど、非行少年たちはシロタ先生が思うほど甘くはないですよ」
 ぱっと丘が立ち上がり、シロタは内心ホッとした。
 変な雰囲気の人だ……。
 胸を撫で下ろしながら、シロタはハンカチで冷や汗を拭う。
「少年って、全体的にどんな感じなんでしょうか?」
「非行少年たちは、人の痛みに鈍感なんです」
「鈍感……未熟さ故でしょうか?」
「自分のことでいっぱいいっぱいなんです、彼らは。例えば、虐待やいじめなどの背景を引きずって非行に走ってしまう子が圧倒的です。つまり、非行に走る少年たちは、“被害者意識”が圧倒的に強いのです。だから謝罪の気持ちよりも前に、“自分がなぜ責められなきゃいけないんだ”という思いが前に出るんです」
「だからといって、少年たちは、大人相手に詐病までするのですか?」
 ふふ。
 目尻を下げて微笑み、調査官はシロタを見つめた。
「シロタ先生。失礼ですが、弁護士になって1年目と聞きました。弁護士の仕事は、何があっても依頼人を信じることーー。ですが、少年事件においては、私の方が、シロタ先生より“先輩”ですよ?」
 アメリカのお菓子のように甘い、囁き声に混ざる牽制。
「私は、私なりに……弁護士だからこそできることを、少年たちにできたらなと思っておりまして」
「それは素晴らしいのですが、少年事件でそのポリシーを持ち込まれると、ときに私たちは困るのです」
「……それは、一体、どういうことでしょう?」
「少年事件は、チームで少年を鑑別します。裁判官、家裁調査官、鑑別技官、鑑別の教官、医師、臨床心理士……私たちは、棚橋少年が、罪を犯した前提で調査や鑑別を進めているのです。そこに、付添人弁護士であるシロタ先生だけが、棚橋少年が無罪であるベースで独断的に動かれると、私たちは一体、どうすればよいのでしょうね?」
 勝手な行動をするな、と丘は言っている。
「少年事件に関しては、丘先生が仰る通り、私が未熟な故に間違いございません。しかし、これは私の直感ですが、澪ちゃんには何か事情があると思っておりまして、」
「事情!?」
 家裁調査官の声が、ヒステリックに1オクターブ跳ね上がり、シロタの身体も小さく痙攣した。
「あるとすれば、どんな事情があるのです、シロタ先生?」
 なるほど、さっきまでの懐柔するような態度は、“私たちと一緒に仲良くお仕事しましょうね”ということだったのだ。
 とても殺人どころか、人を傷つけるようには見えないのですーーと言いかけてシロタは開きかけた唇を閉じた。
 それは、あまりにも楽観的すぎて、論理性を欠いていて。
「……何と言いますか、澪ちゃんは……天真爛漫で」
 静寂が、わずかの間室内を支配した。
「てんしん、らんまん」
 吐き捨てるように、丘はシロタの台詞を繰り返した。
「シロタ先生、これ以上、お伽話のような戯言は聞いていられませんよ?」
 白田を真っ直ぐに睨みつける丘は笑っているものの、下唇と両手が震えている。
 舐めるなーー。
 そんな気迫が、シロタにも伝染し、身震いがする。
 家裁調査官は基本的には少年の味方だと聞いていたのにーー。
 まさかこんなことになるとはーー。
 あてが、大きく外れて、くらっとする。
「棚橋少年の“冤罪”調査自体は、シロタ先生の“趣味”か何かの延長線でやってもらって、私たちと動くときは、棚橋少年が罪を犯したという前提でお願いします」
「……はい」
 深く頭を下げる。
「棚橋少年は殺人罪を犯しています。そのこと、どうぞお忘れなく」
 天使の声は、シロタに対する一切の厚遇を失っていた。
 しかしここで大人しく帰る訳にはいかない。
 付添人弁護士は、少年の唯一の味方だからだ。
 鑑別所での澪の声や表情は、切実さと戸惑いでいっぱいだった。
 それを思い出すと、ここで踏んばらなければならない。
「丘先生が、棚橋少年が、罪を犯したと断定できる根拠を教えて頂きたいのです」
「根拠も何も、決定的な証拠があるのですよ」
 刺々しい言い草に、シロタは思わず苦笑した。
 いったい、さっき(•・・)のは何だったのだ。
「証拠とは、供述調書ですか?」
「それもあります。しかし、もっと決定的なものです。それは、棚橋少年が、男性を複数の不良グループと取り囲んでリンチしている画像だったり、棚橋少年が取調室で暴れている姿を映した写真だったり……」
 言葉を失わざるを得なかった。
 グラっと脳漿を揺さぶられる。
 自分は、いわゆる“チョロ”すぎたのか。
 私は少女に騙されたーー?
 しばらくして丘の声が聞こえてきた。
「ようやく、棚橋少年に騙されていたこと、実感できました?」
 冷徹にシロタを見下ろす丘の姿がそこにあった。
「……いえ」
 眉根を摘むシロタは、被りを振った。
 白い髪がふるふると揺れた。
「まだ、わかりません」
「では、とくとご確認ください」
 丘が、シロタの目の前に置いた黒色のファイルには、
“少年調査票”
 とある。
 名前欄には“棚橋 澪”の文字が。
「天真爛漫な棚橋少年の、裏の顔を」
 最大限の蔑みを、眼球の下げ具合と角度で表現した丘は、シロタと出会った直後に時間を巻き戻したかのように、ニコッーーと微笑みかけた。
「無事、少年審判(•・・・)で、お会いできるといいですね」
 少年事件に詳しい弁護士なら、ピンとくるはずだがーー。
 丘の残した言葉の意味が、このときのシロタにはわかりかねた。
 もう一度、澪ちゃんに直接会って“直感”を強固にしたいーーその思いしかなかった。
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