長谷川の家

文字数 9,800文字

 古びた日本家屋は、あたしが大好きだったおばあちゃんの家に似ている。
 表札には「長谷川」と書かれている。
「ほんとにいいの? お邪魔しても?」
「あぁ。誰もいねーし」
 薄汚れた軽自動車とガレージの隙間に押し込むように自転車を停めながら長谷川くんは、あたしの目の前を横切って、門戸に手をかける。
 その手が、女の人みたいに繊細な作りをしていてあたしは数秒見惚れた。
「上がっていけよ。これ、俺一人で食うには多すぎるぜ」
 長谷川くんは、スーパーで買ったお菓子やジュースが入った袋を持ち上げた。
「お邪魔……します」
 緊張からか若干、皮膚の内側がすうすうする感覚がした。
 男子の家は、はじめてだ。
 長谷川くん家に入ると、よその家の香ばしいような湿ったような匂いがした。
「こっちだー」
 先を行っていた長谷川くんは、廊下を少し進んで左側にある襖の部屋から首だけを覗かせた。
「お邪魔、するね」
「あぁ」
 部屋に入ってすぐ、脚が立派な紫檀長のこたつ机が目に入った。
 長谷川くんの部屋全体を見渡す前に、衝撃が走る。
「長谷川くん、煙草、もしかして吸うの?」
 こたつ机の上には、ガラスの灰皿とセブンスターが置いてある。
 灰皿には、折れ曲がったシケモク……。
 胡座をかいた長谷川くんが、そばに置いたスーパーの袋をガサガサと漁り始める。
「勉強の息抜きに」
 セブンスターと灰皿を慣れた様子で鷲掴みし、あたしから離したと思えば、こたつ机の下に置いて隠してしまう。
「たまに、だよ」
 コップがねーから、持ってくるわ。
 そういって長谷川くんは部屋を出て行った。
 彼がいない間、あたしは好奇心に負けてしまったので部屋をぐるっと見渡すことにした。
 カッチコッチと振り子が揺れるたびに、静かに空気を振動させる古時計。
 砂壁に掛けられている◯◯商店と書かれた昔ながらのカレンダー。
 そういや、おばあちゃん家にもあったなぁ。
 カレンダーの隣には、洋服を入れる茶箪笥。
 和紙が一部破けた障子。
 本棚と勉強机だけが、若者らしいデザインで、おそらく長谷川くんは亡くなった祖父母の部屋を引き継いだのだろう。
 日焼けしてささくれだった畳を踏み締め、本棚に近づくと、教科書やワーク、新品のノートなどが上段に詰め込まれている。
 そして下段には。
「へぇ〜」
 図書室に置いてある新書を眺めるような気持ちで、下段の本の背表紙にざっと目を走らせていく。
 「一般人でもわかる法律入門」、「〜18歳になるきみへ〜弁護士が教える正しい身の守り方〜日常トラブル編〜」……などなど。
 右端にいくにつれて、「刑事訴訟法」、「詳しい民法」「必携 刑法判例集」「ポケット六法全書」と、内容が専門的になっていく。
「よっと」
 両手に透き通った緑と赤のコップを持った長谷川くんと目が合う。
「ごめん。ちょっと長谷川くんのお部屋、散策しちゃった」
 長谷川くんは何も言わずに、()で襖を閉める。
 そして、どっかり胡座をかいて、ファンタグレープを緑のコップにトクトクと注ぎ始める。
「見ていいよ。棚橋が(・・・)気になるヤツがあるんなら」
 ファンタを勢いよく喉に流し込みながら、ちら、と本棚を横目で見る。
 また、からかわれちゃった。
 こそばゆい。
 スカートの裾をきゅ、と握った。
「別に……六法全書って世界一つまらない本だなーって思いながら見てただけ」
 こたつ机の長辺の位置に座る長谷川くんに対し、斜めになるように座ったあたしは、ポテトチップを3枚つまんで噛み砕いた。
「さっきさ、サイゼリヤいたときに、お前らダイエットの話してただろ」
「だから何?」
 食いすぎると太る、ということ?
 別にいいじゃん。
 美味しいものは美味しいから、食べるしかないんだよ。
「棚橋は、それ以上痩せる必要なくないか?」
 なるほど。
 長谷川くん、よくわかってる。
「うん! あたしもそう思う! よかった。同志がいて」
 今ごろ美礼がいたら、キッーーと睨まれてるところだ。
「ダイエットすると、胸から痩せていくんじゃなかったっけか? 女子は」
 あたしが開封したマカダミアナッツの包装紙の中に、横着して片手だけで突っ込みながらチョコを取り出そうとしている長谷川くんはどこか、したり顔。
 彼の目線を辿っていくと、あたしの……胸。
 ばっーー。
 両腕を真ん中に引き寄せ、胸を押し隠す。
「や、やめてよ! あたし、これ、大きすぎて、き、気にしてるんだからっ」
「悪ぃ悪ぃ」
 長谷川くんにしては珍しく大きめの声だった。
 教室では決して聴くことのない声……に胸がきゅっと縮む。
「でもそれくらい大きい方がいいと思うぜ、あくまで一般論な。俺の持論ではないが」
「サイッテー!」
「俺、ダメだな。お前といると、なんか酒飲んでるみたいだわ」
「どーゆー意味!?」
 あたしは長谷川くんに取ってもらったティディベアを投げようとしてすんでのところで手が止まった。
「なあ、棚橋」
 ポテトチップの塩で汚れた指を舐めとったあと、長谷川くんはーー。
「なんで、俺なんかに話しかけてきたわけ?」
 あたしはティディベアを隣に座らせて、自分もぺたんと座った。
「ぶっちゃけると、きみはイケメンだから」
 今度はあたしが長谷川くんをからかう番だ。
 倍返ししてやる!
「ほう……?」
 長谷川くんは俯き、首筋の裏をかいている。
 効果はてきめんだ!
「他の男の子と違って、騒がない・走らない・うるさくない・暑苦しくない。どんだけ人生楽しくないのかな、あたしが関わったら少しは人生楽しくなるかなって思って最初は、聖母マリア様のような慈悲できみに話しかけたの」
「……」
「この子は、絶対領域見せても無反応だろうなぁって思って、でもモノは試しって言うから、きみに太ももをチラ見せしたら、長谷川くんったら、獲物を狙う猫みたいに目をまん丸にして、」
「なあ」
 片膝を立て、すっくと長谷川くんが立ち上がる。
 そしてそのままあたしの元へやってくる。
 あたしは、三角座りのまま後退りをした。
 彼は、何を考えているのかわからない、教室にいる時と同じ無表情あたしを見下ろしている。
「なに? セクハラされたから、やり返しただけど?」
 逆ギレですか?
 そもそもきみが最初にーー。
 長谷川くんが、あたしの目の前で跪く。
 彼の左腕がにゅっと伸びてきて、あたしのほっぺを、通り越す。
 その直後、あたしの後頭部は他人の体重に押さえつけられる負荷を感じた。
 長谷川くんの顔が、近すぎる位置に来たと思った時、あたしはキスされていた。
 マシュマロみたいに柔らかい、クラスメイトの唇。
 それは、尖った長谷川くんのイメージとは結びつかず、弾力がありつつも綿菓子のように甘くてすぐ溶けてしまいそう。
 学ランから漂う、教室の匂い、クラスメイトたちの騒がしさ、チョークの粉の粒子。
 あたしは、長谷川くんのキスを受け入れた。
 拒む理由は、ひとつもなかったから。
 後頭部に置かれたものは、長谷川くんの手だと気づく。
 あたしの後頭部を押さえていた手は、押し付けられるように滑って背中まで移動する。
 その手が、セーラー服のボウタイの赤い三角を、探る。
 そこを触っても意味がないのに……。
 その小さな行為が、いったい何を意味するか、16歳のあたしには理解できた。
 唇はあたしからそっと離した。
「……したいの?」
 長谷川くんは、自責の念に駆られているのか表情が暗い。
 だけど、あたしから目を逸らしながら、こくん、と頷いた。
「……別に、いいよ。きみとなら」
“別に”なんて言葉使ったら、長谷川くんに対してとても失礼だ。
 でも、押し寄せる未知の戸惑いに押しつぶされないためには、こうするしかなかった。
「本当にいいわけ? 俺みたいな陰キャで」
 掠れた声。
 緊張しているのかな。
「はじめに、ちゅーしたの、誰」
 がくん。
 長谷川くんが首を項垂れた。
「……だよな」
 あたしたちは、電気を消した。
 部屋は一気に薄暗くなった。
「棚橋、それなりに経験あると思ってたけど、初めてなんだな」
「キスならあるよ」
 ふっ。
 長谷川くんが静かに歯を見せて笑う。
「だろうな」
「ほら、一回、やってみなさい」
 あたしは、長谷川くんの前で、きっちり結ばれたボウタイを強調する。
「解いても、怒らないから」
 長谷川くんは黙って頷き、あたしの胸元に手をかける。
 これからあたしたちがしようとしていることは、きれいなことじゃない。
 でも、好きって気持ちが重なった男女が必ず行き着く先。
「こう?」
 一箇所に詰め込まれた赤いリボンを、1本ずつ不慣れな手つきで引っ張り出していく。
「男子にはないもんね。あたし、ブレザーが良かったな」
 今朝、自分で結んだボウタイが、長谷川くんの手で解かれた。
 ボウタイは、あたしを守っていた南京錠だ。
 錠を解かれたあたしのセーラー服の裾を掴んで、ばっと捲り、下着の上から感じるところを探し当て、指でぐりぐりと押し付けたかと思えば、すぐに下着を乱暴にずらし、あたしの胸をーー。
「んん、っぁ」
 あたしらしくない。
 鎖骨を天井に曝け出すように身を仰け反り、慌てて口を押さえた。
「んーっ」
 あたしが、半ばふざけてモーションをかけたクラスメイトの男の子に、いま、思い切り仕返しされている。
 悪いのはあたし。
「んんんーーっ」
 悲しくもないのに泣きそうな声が出る。
「何カップあんの? ぶっちゃけ」
 挑発的な長谷川くんの意地悪な微笑。
 いつもは、うんざりするのに。
 いまはとてもキュンと来る。
「ぁ、言えないっ」
「ふーん」
 そこで長谷川くんは立ち上がった。
「うーん、どこやったかな。確かあったはず」
「何か探してるの?」
 あたしが訊くと、長谷川くんはいつもの冷静な顔で、うなじに手をやっている。
「いや……アレだよ。保健の神崎が言ってた……例の」
 長谷川くんが、何を言いたいかはわかった。
 ただ、何か引っかかるものがある。
 長谷川くんって、もしかしてーー。
「初めてじゃない? こういうことするの」
 箪笥の引き出しを開けて衣服の海を漁っていた彼は、
「……まぁ……何回かは」
「……そっか。彼女と?」
「一応付き合ってたのかな。うん。まぁ、そんな感じ」
「……そっか」
 あたしの声は震え始めていた。
 さすがに、「うちのクラスの子?」とまでは訊けなかった。
 ちょっとがっかりというか、あたしが勝手に抱いていた長谷川くんのイメージが、ショートケーキのいちごをフォークでそっと削り取ろうとしたらケーキごと倒れてしまったときのようにそっと崩れてしまって、それに対してあたしは、子どもじみた失望を抱いてしまった。
「ちょっと引いた?」
 まるであたしの心情を全部見抜いているような優しくて大人びた表情と声音に、さっき抱いた失望はかき消された。
 ううん、とあたしは首を横に振った。
 強がりなどではなく、本心からだった。
「あたしは、はじめてなんだから優しくしてよね……」
 これから始まることを直視する勇気がなくて、あたしはそっぽを向いた。
「あぁ、あったわ」
 保健の授業で、保健室の神崎先生が臆することなく教室で掲げていた正方形の袋ーーを、先生は、「愛のカバー」って言っていたな……。
 それを、長谷川くんは指に挟むように持っていて、こたつ机の上に置く。
 あたしの胸が、トクトクと鼓動を早めていく。
 彼は、あたしの前髪を避けると、再びあたしの今度はおでこに唇を短く押し当てた。
 そして、学ランの上着を素早く脱ぐ。
 学ランを脱ぐと、長谷川くんの童顔が際立つ。
 捩れた、胸ポケットの上に校章のワッペンが入ったカッターシャツと、ベルトのバックル。
 あたしは、長谷川くんのプライベートに入り込もうとしている。
 いいのかな? 
 入っちゃっても。
 長谷川くんは、スカートには手を入れず、絶対領域を、つー……と人差し指で縦になぞる。
「なに、してるの?」
「んん? あぁ、ここが気になってて仕方がなかったんだよ。学校で嫌というほど人に見せつけてるからさ、嫌でも俺の目の中に入ってきて、悩ましかったよ」
 濡れた舌先が、絶対領域を舐める感触がそこから全身に広がった。
「あぁぁあ……くすぐったい」
「こんなとこで……悪ぃけど」
 長谷川くんは、一瞬、部屋を雑に見渡した。
「いいよ。あたし、ここ、好き」
「横()なって」
 長谷川くんの“要望”に、あたしは頷いて、そのまま仰向けに倒れ込む。
 そして、あたしのセーラー服を、めくり、胸に10本指を埋め、粘土のようにこねる。
「大っきいな……ホントに。これ言うとセクハラで棚橋に訴えられるけど」
「いまは……いいよ」
 眼球を下げて、長谷川くんの表情やあたしに対してする行動を見守る。
 あたしの胸の先端に吸い付き、片方の指で硬くなった先端を擦るように転がしている。
 スカートの中の、左脚と右脚の間に、熱を感じ始める。
 長谷川くんが、胸を触り、平原のようなお腹に口付けするたびに、どんどん両脚の間の真ん中に熱を帯びていく。
「長谷川くんの髪、きれいだね。触ってもいい?」
 あたしの身体に夢中な長谷川くんは、かすかに頷いた。
 スカートのなかに、彼の手が侵入する。
 あたしは右手を伸ばして、烏の濡れ羽色のマッシュボブに触れた。
 さらさらで、真っ直ぐで、あたしの癖っ毛とは全然違う。
 サイゼリヤでこの髪にノリで触れていたら、「うわっ! 女子よりサラサラじゃん!」なんて騒いで終わりだったかも知れない。
 でもいまは、触らせてもらっているという感覚がする。
 長谷川くんは、彼のお父さんとお母さんの大切な子どもなんだって当たり前のことをいま、はっきりと知る。
 長谷川くんと目が合う。
 下から睨めつけるような鋭い目線。
「……外していい?」
 うん。
 あたしは首を振って応じた。
 下着の左右上部に指がかけられる。
 爪が骨盤にあたる。
 二本脚の下まで、水玉模様の下着を下ろす長谷川くんは神聖な作業をしている職人のように無言だった。
 だから、抵抗する気は一切起きなかった。
 下着が足首まで来ると、それを片方の足ずつ外し、そっとあたしの足元の近くに落とすように置く。
 長谷川くんは無言で、あたしのスカートをばさっと捲り上げた。
 ふだん、自分しか見ない性器が露わになった。
 でも恥ずかしいとは思わなかった。
 きっと長谷川くんが真剣だからだ。
 この人なら任せても大丈夫だよ、と本能が告げているのだ。
 あたしの両脚は折り曲げられた。
 そして開かれる。
 そこに、長谷川くんが、鼻先を近づけ、やがて顔を埋め始めたかと思うと、
「ひゃぁんっ」
 あたしの背中は否応なしに盛り上がった。
 はじめての経験で、どうしていいかわからない。
 でも、嫌じゃない。
 それに、こういうことを、好きになった同士がすることは、知識として、あたしもさすがに16だから知っている。
 身体の真ん中から、何かが溢れている感覚がする。
 舌がそこを、滑っていく。
 ひとしきりあたしを舐めた長谷川くんは、てろっと出した舌先から垂れる雫を指で舐めるように拭う。
「じゃ、ちょっと……」
 長谷川くんが、上半身を起こし、あたしは、本棚の方へ首を曲げた。
 六法全書に、刑事訴訟法。
 あたしだけが、たぶん知ってる長谷川くんの裏の顔。
 でもさっき、彼女がいたことあるって言ってたし、その子も知ってるのかな。
 誰だろう。
 あたしのクラスに、しれっと紛れ込んでるのかな。
 なんだか焦る。
 いちごだけをフォークに乗せようとして、ケーキを倒しちゃって駄々こねてる子どもみたいだな、やっぱり。
「ごめん」
 長谷川くんの姿を確認する前に、あたしの視界は、布のようなもので覆われた。
 柔らかい木綿の布の感触。
「棚橋、初めてだしショック受けるかなって。色々……」
 彼はあたしに覆い被さり、目隠しをあたしの両目の上に器用に乗せたまま、片手であたしの頭を持ち上げ、そのまま後ろで優しく縛った。
「ありがと」
 確かに、異性の身体の普段他人に見せないところを見る勇気は、あたしにはまだない……な。
「女神テミスって知ってる?」
 開かれた両脚の真ん中ーー自分でも触れたことがない箇所に、固いものが押し当てられる……。
 それはとても熱を持っている。
 あたしは黙って首を左右に振った。
「正義の女神だけど、いつも目隠ししながら剣と天秤を持ってる」
「んっ」
 何かを無理やり押し広げる“痛み”を感じる。
 でも逃げようとは思わない。
 お母さんもきっと、この痛みを感じたんだよね。
 皆、一緒。
 耐えれる。
 半開きの唇に、そっとキスされる。
「続けて」
 長谷川くんは何も言わずに、またあたしのおでこにキスした。
「ん」
 彼が低く唸った意味が、あたしには理解できた。
 あたしは、長谷川くんを、受け入れた。
 最後まで。
「さっきの話。いまの棚橋、テミスみたいですげぇ……どうにかなっちまいそう」
 最後の方は、小さな喘ぎに巻き込まれて消え入っていく。
 あたしの身体は、小舟のように揺れる。
 湖のうえで、あたしの小舟を漕いでいるには、長谷川くん。
「テミスってっ、女神様がっ、好きっ、なの?」
 ふっ、と息があたしの顔にかかる。
「長谷川くん、いまどんな顔してるの?」
「んー。あんまり見せたくない顔」
「これ、ちょっとだけずらしていい?」
「じゃあ、この体勢の方がいいな」
 ぐいっ。
 肩を抱き締められたあたしは、長谷川くんの熱を感じ、強制的に上半身を起こされる。
 あたしたちは、座ったまま抱き合っている。
 ある一点が、繋がったまま。
 目隠しを、摘まれる。
 視界が晴れた。
 汗だくの長谷川くんが、カッターシャツの襟を引っ張って風を身体の中に入れている。
 はぁ、はぁ、と息を切らしている長谷川くんは爽やかに微笑を浮かべている。
 体育の時、長距離走や持久走を走った後も汗だくになりながらも長谷川くんはいつも無表情なのに。
「どうして、そんなに楽しそうに笑ってるの?」
 汗だらけにもかかわらず、あたしは長谷川くんに抱きついた。
 あたしも長谷川くんも、映画の主人公みたいだと思った。
 彼の首筋にはいく筋もの汗が流れて、マッシュボブの先端を濡らしていた。
「上、なれる?」
 今度は、長谷川くんがその場に寝転ぶ。
「棚橋のことは、入学式のときから気になってた」
 あたしは長谷川くんの上に跨って、そういう描写のある漫画の知識を動員して、腰を上下に揺らし始める。
「全然、そんな風には見えなかったけどね」
 胸を上下させている彼は、長いまつ毛をたたえた両まぶたを、薄く開いて茶色い瞳孔であたしを見つめる。
 あたしだけがこれを見たってことにはならないのかな。
「長谷川くん」
 あたしは、彼に、できる限りを尽くそうと試みた。
 縦に身体を揺らして、彼の身体の生命を司る部分をあたしで包み込み、気持ち良くさせようと。
「あたしとっ、そのテミスって女神様、どっちが綺麗?」
「棚橋に決まってる」
「えっ」
 きっとあたしの腰でも押さえつけようと宙に浮かされた長谷川くんの両手をあたしは握った。
 指と指が絡まる。
 あたしがぎゅっとさらに力を込めて握ると、長谷川くんものろのろとあたしの手を握り返してくれた。
「棚橋のこと好きだって言ってる奴は結構いてさ、俺、はじめて棚橋に話しかけられたときは、『何で彼氏いるのに男子に話しかけんだ?』って内心思ってたんだよ」
「違うよ……」
 あっあっ、下からの振動を感じる。
 あたしのやり方だと拙くて、物足りなかったのかもしれない。
「告白は今までされてきたけど、」
「けど?」
 半ば強引に、こたつ机に手をついてお尻を突き出す形にさせられた。
 あたしはまるで、焼かれる前の陶芸品だ。
 長谷川くんの思いのまま、形を変える。
 そして彼はあたしと自分を結びつけた。
 今までで一番大きな振動を、身体の中と腰に感じて、頼んでもいないのに勝手に声が漏れ出る。
「んっあっあっあああぁっんっ、はぁ、はっっぁぁ」
 対する長谷川くんは、ほぼ無言であたしをこねくり回す。
 自分勝手と言ってもいいくらいに、荒々しい腰の動き。
「ぁぁんっ、あっ、ごっ、ごめんねっ、変なモーションかけてっ……っはぁっ……んくっ、そのっせいでっ、んんんーっ、きみはっ、いまぁっぁん、こんなにっ、なってっ……!」
 太ももと腰の付け根をがっしりと掴まれる。
「あぁぁぁぁぁーーっ! 激しすぎっるぅぅーっ!!」
 悲鳴が漏れ出る度に、長谷川くんと共にしているところが、じんじんと疼く。
「好きかも……しれない。棚橋の、こと」
 いつのまにか振動はなくなっていた。
 その代わり長谷川くんが、後ろからあたしにもたれかかるようにあたしを抱きしめている。
「……あたしも、長谷川くんのことちょっと気になってたんだ」
「今は、どう」
 掠れ声があたしに訊ねる。
「付き合おっか?」
 あたしの提案に、長谷川くんは、腰へのキスで応えてくれた。
 そのままあたしたちは、しばらく同じ体勢で余韻に浸ってまどろむ。
 ゴーン、ゴーンと古時計の鐘が鳴り響く。
「あーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 時刻を確認したあたしは叫んだ。
 次いで、腕組みに仁王立ち姿のお母さんの恐ろしい顔が……!
「どした?」
「やっ! 時間! 門限! ヤバいよ!!」
「何でそんなカタコトなワケ」
「もう17時! 両原二色のバス停で20分のバスに乗らないと間に合わないよ!」
「門限何時よ?」
「18時! やっば〜、どうしよう」
「20分か……」
 そう呟いた長谷川くんは、机に置いた自転車のキーを取った。
「送ってくぜ? 俺の雑な運転で良ければ」
「マジで!? 助かるぅぅ〜! 明日教室で会ったらメルティーキッスあげる!! 親戚のおばちゃんが大量に持ってきてくれたの。スーパーのガラポンで当てたんだって」
「軽口叩いてる暇あんなら、今日買った菓子、土産に持ってけよ」


 自転車の前カゴに乗せた、お菓子の袋のヒモが秋風に吹かれて揺れている。
 ガタン、ガタン、と時折小石につまづきながら長谷川くんの運転するチャリが坂道を下っていく。
 気持ちのいい夕暮れの秋風が、長谷川くんのマッシュボブとあたしの癖っ毛をさらっていく。
「いいの〜? 弁護士目指してるお方が、2ケツなんかしても〜?」
「いいんだよ、まだ少年法があるからな」
「でも、警察に捕まっても弁護士になれるの?」
「未成年は前科がつかないんだよ!」
「そうなの?」
「前歴っていって、少年法で決まってるー」
 キキッーー。
 急ブレーキがかかり、あたしの胸が長谷川くんの背中にむぎゅ、と当たる。
「そろそろ油ささねぇとな」
 赤信号だというのに、左右を慎重に確認した長谷川くんは、自転車を漕ぎ出す。
「うっわぁぁぁぁああ長谷川くん不良だぁぁあ!」
「早くしねぇとバス出ちまうだろ。それにもう18分だ。あそこまで全速力で漕げば、30秒でたどり着ける。棚橋、ちゃんと捕まってろよ」
 長谷川くんは、ギアチェンジをしてペダルを勢いよく漕ぎ始める。
 途中、後ろからゆるキャラの“にゃにゃっぴー”と藤色のラインがトレードマークのバスがあたしたちを追い抜かしていく。
「マジか、俺の腕時計遅れてんのか!?」
「無理しないでよ、長谷川くん! 遅れても殺されるワケじゃないから安心して! 半殺しにされるだけだから!」
「どっちにしろやべーだろ。それ!」
「怪我したら大変だよ!」
 すんでのところでバスを逃したとしても、それはあたしが時間管理を怠ったからで。
 というか、あたしのために怪我はしてほしくない。
 それでもバスと自転車の距離は縮まっていく。
 長谷川くんが全速力で漕いでくれるから。
 後ろに乗ってるだけのあたしは、長谷川くんのこめかみから垂れる汗に気づいて、思わず、口にした。
「好きだよ」
「あ〜間に合ったー!」
 ちょうど、バスがゆっくり停車し、扉がゆっくりと開いたところだった。
「じゃ、また」
 さっさと自転車の方向を転換し、器用に片足でペダルに乗って助走をつけ、そのまま立ち漕ぎしながら、左右を雑に確認して車道を横切ってもと来た道を帰っていく。
 あたしは、バスの中から、その後ろ姿をずっと目で追い続けた。
 明日、学校でどんな顔して彼に会えばいいの?
 虫歯になるほど甘い悩みとお菓子とティディベアを抱きしめ、あたしは“幸せ”の味を夕日とともにそっと舐めて舌の上で味わった。





 
 

 


 

 
 
 
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