透明な一日

文字数 2,717文字

 僕は今、暖かい物に包まれている。その温度は僕の体温と同じくらいの温度で、僕はとても気分がいい。しかしそれの温まり方には斑があって、手足を動かすと冷たい部分に触れて、それが僕の体と同一でないことを教えてくれる。そして冷たい箇所に触れた感触が、僕の頭の中で小さな火花を結んで、沈んでいた僕の意識をゆっくりと掻き回してくる。やがてその感触に違和感を覚えた僕は、その感触を振り払おうとして布団を深くかぶった。これでもう大丈夫。と一安心すると、今度は二段ベッドの上で寝ている妹の起き上がる音に邪魔されて、僕はとうとう目を覚ましてしまった。
 起きたのか。僕は目を瞑ったまま胸の中で呟くと、首を左右に振って骨を鳴らし、両手を伸ばして大きく伸びをした。
 僕のぬくもりが残るベッドから這い出て妹と一緒に部屋を出ると、そのまま風呂場の脇にある洗面所で歯を顔を洗った。
 リビングに出ると、父がソファの上で横になりながらテレビのニュースを見ていた。僕が父に朝の挨拶をすると、父はテレビを見つめたまま鷹揚に答えた。
 母が用意してくれたトーストと目玉焼きをコーヒーで流し込むと、僕は部屋に戻って制服に着替えた。妹がドア越しに早くして。と急かすと、わかったよ。と小さく答えた。ついこの間まで幼稚園の鞄を背負い、母に手を引かれていた筈なのに、今ではすっかり大人びて、成熟した女の琥珀色とは違う―青々とした麦の穂を無理やり向いたときに出る、あの白く生臭い液体のような―女の雰囲気をかすかに漂わせている。中学に上がった去年から髪をツインテールにして、それのセットに時間がかかるから早くしろと妹は言うのだが、僕に言わせれば、髪をまとめるだけの行為に、どうしてそれ程の時間が必要なのだろうか?
 もしかしたら妹は髪をまとめて制服に着替えるという行為は、彼女にとって、何か宗教めいた儀式のような物なのだろうか?だとしたら彼女がパジャマを脱いで制服に着替えるまでの様子を見て、この疑問を解決してみたい。
 着替えを終えて廊下に出ると、出勤する父とすれ違った。僕は父に気をつけて行ってらっしゃいと声を掛けると、父はとぼけた様子で僕に答えた。
 父が出てしばらくすると、僕と妹は家を出た。母に学校に行ってくるよ。と伝えると、母はそんなの判りきった事だというような表情のまま、僕と妹を見送った。
 僕が今年から通っている高校は川を越えたちょうど先にあり、すぐ裏手には木材の卸問屋の倉庫がある。成績は高くもなければ、低くもない。普通の街にある。普通の公立高校。毒にもならなければ薬にもならないような学校だ。妹も来年は受験だが、ここに通うことになるのだろうか。
 学校の南側を流れる川にかかる、橋の頂上までくると、湿った水の匂いを含んだ春風が、僕に向かって吹き付けてきた。埃っぽい風が僕の頬を叩き、舞い上げられた歩道の砂粒が僕の身体に当たってはじけ飛ぶ。風が耳元で渦を巻き、不快とも快音ともいえない音を立てて、どこかにフェードアウトしてゆく。僕はその音の余韻を耳の裏側で感じながら、校門を潜った。
 上履きに履き替えて教室に着くと、クラスメイト達が個々にグループを作り、それぞれの話題に興じていた。部活のこと、友達のことなど、別に今すぐ話さなければならないような話題でもないのに、彼らは何か話をして、必死に今の時間に対して何かの意味づけをしようとしている。
 そんな光景を眺めていると、始業のチャイムが鳴り、担任の先生が教室に来て、ホームルームが始まった。担任の先生は社会科の授業で、二限の授業PC教室を使うとの連絡がった。
 午前中の授業が終わると、僕はクラスメイトで幼馴染の美月を誘って、学食でお昼を食べる事にした。お互いに日替わりランチを注文し、学食の一番奥にある席に向かい合って座ると、近くの席に座っていた上級生の恨めしそうな視線が、僕の肩の辺りに投げつけられるの感じたが、僕は気にしないように心がけた。だが美月ととり止めもない話をしている位置に、投げつけられたときの、皮膚の下の神経が壊死して行くような感触が何時までもついて周り、美月との会話は思ったほど弾まなかった。
 ささやかな二人だけの時間が終わると、僕と美月は学食の出口で別れた。話している最中、美月に僕の異変を悟られなかっただろうか?と気になったが、深く考えないことにした。優しい美月のことだから、たとえ僕の異変を感じ取ったとしても、そのことを指摘するような事はしないだろう。
 午後の授業が終わり、部活動などで学校に残るほかの生徒達を見送りながら、僕は家路につく事にした。日が長くなったせいで、空はまだまだ明るいが、建物が作り出す影の形や、その間を吹き抜ける町の空気にはまだ冬の面影が残っていた。

 家に戻ると、妹が女友達を数人連れてリビングで話をしていた。僕が妹の友達に挨拶をすると、母は買い物に行っていると妹は答えた。
 僕は部屋に入って制服を着替えると、本棚から西欧文学の作品を集めた本を取り出し、ベッドに寝転がって読むことにした。
 その本を半分ほど読むと、僕は本にしおりを挟んで本棚に戻した。時計を見ると、午後三時五十三分。散歩に出かけるには、ちょっと遅い時間だった。
 どうしようかと考えあぐねていると、買ったばかりのスマートフォンに美月からのメールが入った。内容は今度開かれる卒業式で美月が述べる、卒業生を送る言葉についての内容だった。僕は、明日あたり学校で詳しく話そうと返事を書いて、美月に送った。それですることがなくなってしまった僕はベッドから起き上がり、部屋を出ると、リビングに居る妹に散歩に行ってくると言い放ち、家を出た。
 空はいつの間にかどんよりした雲に覆われていて、時折吹いてくる風には水の匂いがどっぷり染み込んでいた。今夜あたり雨になるだろう。雨が降るたびに暖かくなるのはいいが、あの冬の意固地な雰囲気が終わってしまうのだと思うと、少し残念な気がする。特に事故の中において精神性や実存について深く考えるときは、生き物達が息を潜める冬場のほうが、騒々しい春夏よりずっといいのだが、冬の間に結論が出ずに、その問題は春にまで持ち越されて、その問題は次の冬まで持ち越されてしまう。
 商店街を抜けて、公園の近くまで来ると、公園に植えられたソメイヨシノのつぼみがぷっくりと綻んでいた。このつぼみも後もう少しで花開き、この鬱屈とした鉛色の世界が取るに足らないものだったと、僕に語りかけてくれるのだろうか。
 僕は妙なことを考えたなと自分で自分を笑うと、公園を離れて家路につく事にした。
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