中禅寺湖まで

文字数 5,194文字

 夕食を終えて一休みし、パソコンのワードを立ち上げて書きかけの原稿を書き進めていると、傍らに置いたスマートフォンがLINEの着信を教えた。手に取って誰から来たものか確認すると、以前同棲していた美咲からの連絡だった。彼女とは一年間、彼女の温情にも近い施しによって一年間ほど同棲していたのだが、四年前に引っ越しを兼ねて別れたのだった。別れたと言っても、それは寝る場所と住む所が別々になっただけで、関係が終ってしまったという事ではなかった。
 僕はLINEを開き、美咲からの届いたメッセージを確認する。彼女の好きなアニメの魔法使いの少年をアイコンから出た吹き出しには「こんばんは、何していた?」という粗雑な印象の言葉が書かれていた。
「いま書こうと思っていた文章を書いている最中」
 僕が返信すると、一分も経たないうちに美咲から返信があった。
「作業中にごめんね。明日暇かなとおもって」
 僕は小さく鼻で笑った。一緒に住んでいた頃の僕のイメージがまだ抜けきらないのだろう。だがそこに美咲が持っている、僕に対する変わらないイメージを見つけると小さな喜びを覚えた。
「仕事とか、書かなければならない物は幾つかあるけれど、明日は何の予定も入っていないよ。どうかしたの?」
 再び返信すると、美咲から帰って来たメッセージはこうだった。
「久しぶりにまたバイクでどこか出かけようかと思って、何処か日帰り県外で
行きたいところある?」
 そのメッセージに僕はこう返した。
「中禅寺湖。高速で行けばそんなに時間はかからないはず」


 僕が送った返信の後、僕と美咲は東北道下りの佐野サービスエリアで午前九時に待ち合わせる約束を取り付けた。集合地点までは僕より美咲の方が早く着くから、集合地点としては悪くない筈だ。
 そして次の日、僕は先週に車検を通したばかりのホンダ・X4に、日帰りツーリング用のシートバッグを取り付けた。そしてライダースウェアとショウエイのフルフェイスヘルメットを身に付け、バイクに跨り集合地点に向かった。
 午前七時に家を出たが、余裕を持って目的地に付きたかったので、王子北から首都高速に乗り、そこから東北道に向かった。十一月に入ったばかりだったが、地上から離れた首都高の高架の中は肌寒く、トレーナーを着てその上に冬用のジャケットを着てちょうどいい具合だった。ここから北上し山間に入れば、もっと肌寒く感じられるだろう。
 浦和の料金所を超えて、東北道に入る。少し道路が開けていたのでギアを落とし、アクセルを開けて一気に加速する。僕のX4はキャブレターとマフラーをチタンの集合管に変更しているから、猛烈な排気音と共にあっという間にレブリミットまでエンジンの回転が上がるギアを連続して一気に二速上げると、速度計の針は一四〇キロ近い数字を差し示している。久しぶりに美咲と会えるから、無意識に気分が高揚しているのだろう。
 僕は東北道を時速一一〇キロ前後で巡行しながら、集合場所の佐野サービスエリアに向かった。それ程高い回転数は使ってはいなかったが、佐野に着いたら燃料を補給しておく必要があるかもしれない。利根川にかかる橋を超えて埼玉県から群馬県に入ると、まだ紅葉していない北関東の山々が僕の行く先に見えた。この辺りの空気は乾燥してはいたが、かじかむような寒さにはなっていなかった。
 さらに北上して、下りの佐野サービスエリアに入る。建物は改装中の為、フードコートや土産物を売るバイク駐車場に入ると様々なバイクに跨ったツーリング客でにぎわっている。本格的な寒さの到来の前に美しい景色の中を走りたいのだろう。それは僕も同じだった。
 僕はヘルメットを脱ぎ、腰に付けたユーティリティポーチからスマートフォンを取り出した。美咲が見るかどうかは判らないが、僕は佐野サービスエリアに着いた事LINEで報せた。
 僕はスマートフォンから目を外し、サービスエリアに集まったバイクの群れを眺める。BMW製の大型ツーリングバイクに、お金をかけて改装したカワサキのビンテージバイクや比較的新しい年式の二五〇CCの国内メーカー製バイク。国内メーカー製と表現するのは、製造がタイ王国やマレーシア王国で行われているからだ。
 多種多様なバイクには、それに応じた価値観や人生観があるのだろうと感慨にふけっていると、周囲とは違う四気筒エンジンの音が背後で聞こえた。振り向くと、タンクの赤いホンダのCB1100が一台、僕の方に向かってくる。白いシンプソンのヘルメットを被ったライダーが僕の事を視認すると、左手を軽く上げて挨拶をしてくれた。美咲だ。
 CB1100に乗った美咲はバイク駐車場に向かい、僕のX4の側にバイクを停めた。一緒に住まなくなった男女が同じメーカーの大型バイクの所有者になっているのは、少し面白い事実かもしれない。エンジンを切ってスタンドを掛けると、美咲は被っていたシンプソンのフルフェイスを脱いだ。数年前より少しやつれたような美咲の横顔が、離れていた時間の流れを強く意識させた。
「久しぶり、待った?」
 再会の言葉を最初に口にしたのは美咲の方だった。
「いいや、あんまり。久しぶりだね」
 僕のひねりの無い言葉に、美咲は苦笑いを漏らした。
「まさかお互い同じホンダのバイクを買っているなんて、思わなかったよ」
 ミサキは苦笑のあと、傍らに停めてある僕のX4を眺めながら呟いた。僕の攻撃的な改造が施されたマシンを見て、彼女は何を思うだろうか。対する美咲のCB1100はモリワキの集合管にエンジンスライダー、風よけのメーターバイザーにステアリングダンパーが付いている。大人しい空冷バイクにしては、可能な範囲で走りに振った装備が付いている。
「結構派手に改造しているね。高かったでしょう?」
「ついているパーツの約半分は中古品だよ、新品で手に入れたのは、メーターバイザーとハンドルに、タイヤくらいかな」
 僕は事実を告げた。一応様々な条件で痛快に走れる改造を施して乗り味も劇的に変わっているが、ライディングテクニックがないから性能の良いパーツをつけて、道具に助けられているのに過ぎなかった。
「それで、これから中禅寺湖に向かうのよね。いろは坂は上るの?」
「そうだよ。いろは坂を上って、中禅寺湖まで」
「いいよ」
 美咲は朗らかに答えた。久々の再会である筈なのに、何処かぎこちなくて他人行儀な会話だった。

 サービスエリアで僕と美咲はガソリンを満タンにして、高速を降りる鹿沼まで走る。周囲を山と田畑に囲まれ、東京よりも人口密度が低い土地に来たことを強く意識させる光景が僕と美咲の周りに広がっていたが、気温は寒くなかったし、心細さも感じなかった。
 鹿沼の出口で高速を降りて、大手企業の工場が立ち並ぶ道路を山の方に向かって進む。中禅寺湖まで直行してはツアー客を乗せた観光バスと大差がないので、少し遠回りして山道を走りながら中禅寺湖に向かう事になった。
 セルフスタンドとファミリーレストランが向かい合わせで立ち並ぶ道路を直進し、舗装された田舎道を突き進んでゆく。バイク用の無線機があれば美咲との会話も楽しめただろうが、お互いに持っていなかった。久々に会って共通の目的地に向かっているのに、離れていた時間を埋め合わせる会話すら出来ない。覆せない無常観に、僕は自分の心が閉じたようになったのを感じた。
 標高が上がって行くと、周囲の山々の木々は赤く染まり、成熟した人間に訴えてくる芳醇な美しさがある。日が強く差し込み、熱が立ち込める季節の青々とした光景とは異なる、どこか乾燥して冷めている世界。僕という人間の心と身体も、そう言う冷めた世界にたどり着いてしまったのだろうか。
 緩やかな山道を走ると、いろは坂に続く国道に出た。直進し続けると、反対車線側にこの辺り最後のコンビニが見えたので、僕は右にウィンカーを出して美咲と一緒にコンビニに立ち寄った。
 コンビニでコーヒーを二つ買い、本格的な山坂道に備えて気分を落ち着かせる。コンビニの駐車場には僕達と同じようなツーリング客達がたむろし、冬場に使われるチェーン脱着スペースにバイクを停めて談笑している。よく見ると、彼らは僕より二十歳は年齢が上のようだ。
「いろは坂は、走った事あるの?」
 コーヒーの入った紙コップで両手を温めながら、美咲が呟く。
「過去に上りが一回。下りはまだ走った事は無いね」
「私は上りが三回、下りが二回。あなたがあんまり走っていなのは意外ね」
 美咲は小さく答えて、手に持っていた紙コップのコーヒーを一口飲んだ。
「ここには何度も来ているの?」
「前のバイクで四回ほど。このバイクに乗り換えてからは初めて」
「慣れているんだね。俺は初めて」
 僕は小さく答えた。彼女と別々の時間を過ごしていたら、色々と差がついてしまったらしい。
「道には慣れたけれど、それ以外に慣れていない部分もある」
「例えば?新しいマシン?」
 僕は小さく続ける。
「それ以外。ここから私が先導してもいい?」
「いいよ」
 僕は快諾した。その前に美咲がはぐらかした言葉の内容が気になったが、彼女は今ここで訊かれるのを拒んでいる様子だったので、聞かない事にした。
 コーヒーを飲み終えると、僕と美咲はコンビニを後にした。美咲の要望どおり、彼女を先行させていろは坂に入る。いろは坂は上りと下りで分かれた一方通行の道路で、上りは道が広く二車線に分かれているから走りやすい。前を行く美咲は僕より大人しいバイクに乗っているのに、慣れた様子でマシンをバンクさせコーナーを駆け抜けて行く、僕は各コーナーの屈曲率が掴めないので、ぎこちないコーナリングになってしまう。だが美咲は安定しているにも関わらず、速度を上げずに僕が見える感覚を保ちながら綺麗にコーナーを駆け抜けて行く。早く行っていいのにと僕は思うのだが、何か先に進みすぎる事を躊躇う理由でもあるのだろうか。
 いろは坂を上り切り、下りのいろは坂と中禅寺湖方面に行く丁字路に信号に差し掛かる。信号の向こう側に見える歩道には、商店を巡り、名所に向かおうとする観光客たちで賑わっていた。
「左折するよ」
 赤信号で並んだ美咲が僕に言った。僕はヘルメット越しに何か言おうか考えたが、考えがまとまる前に信号が青になってしまったので、僕は美咲の後を追って左折した。
 左折するとすぐに、秋の空を反射して鈍い色に染まった中禅寺湖の湖面が目の前に現れた。観光客たちが乗って来た他府県ナンバーの車たちの間をすり抜け、二荒山神社の前を通る。道中の安全祈願の為に立ち寄るのかと思いきや、美咲は興味を引きそうな場所には目もくれず、湖畔に沿ってバイクを走らせ続けた。
 やがて周囲に人間が立ち寄れそうな建物が無くなり、秋の色に染まった男体山と中禅寺湖の間を暫く走る。道路の上に建つ標識に『竜頭の滝』という文字が現れた後、美咲はバイク二台が停車できそうなスペースにバイクを停めた。僕もその後に続き、バイクを停める。
 美咲はエンジンを切ってサイドスタンドを出し、ヘルメットを脱いで鈍い色に染まった湖畔を眺めた。僕も同じようにヘルメットを脱ぎ、湖畔に目を向ける。山の中にある湖にしては大きく。険しい山道を登って来たことを忘れそうになる。古代の人々が山奥に自分達の知らない世界があると考えていたのは、山道を超えた険しさと湖のもたらす静寂のアンバランスさを、上手く表現していたのだろう。
「ここはお気に入りの場所なの。湖って、独特な場所だよね」
 湖面を見ていた美咲が、周囲から聞こえる森のざわめきや、バイクや車の通過音の合間を見計らって呟く。
「確かに、池よりも大きくて、川や海よりも静かだね」
 僕は美咲の意見に沿うように答えた。
「時間が経つのを忘れそう」
 美咲は一言呟き、さらに続ける。
「水は流れるけれど、どこかに溜まることが出来るじゃない。でも時間は流れて行くだけで溜める事は出来ない。どこかに溜っている時間があるなら、見てみたいよ」
 美咲は声を切なくしながらさらに続けた。今の言葉は僕に向けたものではなく、自分自身に向けたものだろう。貯めてある時間に触れたいと思う事は取り戻したい時間が彼女にあるのだろうか。
「時間は貯める事が出来ないね。この湖の水も、どこかに流れて行くよ」
 美咲に手を差し伸べるように、僕は声を掛けた。
「人間の時間だって、ずっと溜めておくことは出来ないよ。だからこそ、バイクに乗って時間をかけてここに来たんだろう?」
 僕の言葉に、美咲が小さく反応する。少し沈んだ表情に明るさが差し込んだのを、僕は見逃さなかった。
「この湖面は静かだけれど、いつまでもこのままじゃないよ。君はバイクに乗って何処かに行けるんだ。とどまらずに流れていいんだよ」
 僕は湖面を見ながら美咲に言った。

(了)
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