立ち飲み屋にて

文字数 2,311文字

 今日は何時もより仕事が早く終わったので、僕はまっすぐ家に帰らず、最寄り駅近くにある立飲み居酒屋に行き、夕食も兼ねて軽く飲む事にした。
 店内は想像していたよりも客の数が多く、仲間連れや彼女連れの客で賑わっていた。お一人様の僕はドラム缶を改造したテーブルに着き、壁一面に張られたメニューを見る。外国人の女性従業員がおしぼりを持ってきてくれると、シークワーサーサワーと冷やしトマト、銀杏の串焼きと砂肝ポン酢和えを頼んだ。友達や仲間と飲む時以外は揚げ物を口にしないと決めている。
 スマートフォンでSNSのリプライや僕あてのメッセージを確認していると、最初に頼んだシークワーサーサワーと冷やしトマトが運ばれてきた。僕はジョッキに入ったサワーを一口飲んで、柑橘系の苦みと安い焼酎の分離した苦みを味わうと、割り箸を取って冷やしトマトを一口運んだ。トマトの酸味と苦みと甘みが混じったような本来の味と、ドレッシングの塩味が程よいアクセントになって、安い焼酎のゴム臭さを遠くに追いやってくれる。
 久々のサワーは爽快感よりも違和感の方が強いかもしれないなと思うと、僕の背後から新しい客が来店してきた。来店したのは僕よりも四歳は年下のカップルで、僕の左斜め前の席に着いた。
「こういうお店は初めてなんだよ、俺」
 彼氏の方が、店内を見回しながら独り言を漏らす。
「そう、私は何回かあるよ。よく行ったのは赤羽とか板橋の方とか」
 落ち着いた様子で彼女の方は答えた。
「前の彼氏と?」
「そう、その頃はまだあなた高校生だったでしょ」
 その会話からして、左斜め前のカップルは彼女の方が年上らしい。もしかしたら僕と大差ない年齢なのだろうか。横顔を覗き見た感じでは、具体的な年齢は判らなかった。
「それで、何を飲む?」
「俺はビールが欲しい。あとウィンナー焼き」
「ビールは瓶ビールを二人で分けて飲もうか。それにウィンナー焼きと、マカロニサラダも」
 二人の注文はとりあえず決まったようだった。すると先程の従業員が僕の近くにやってきて、残りの銀杏の串焼きと砂肝ポン酢和えを持ってきてくれた。メニューが届いた瞬間、僕はサワーではなく生ビールを頼めばよかったと後悔した。
「すみません、注文をお願いします」
 僕の注文を提供し終えた店員に向かって、左斜め前の席に居る彼氏が店員を呼んだ。店員は「ハイ」と小さく答えて、注文を取りに二人の席へと向かった。
「瓶ビールを一つ、グラスは二つで。それとウィンナー焼きと、ポテトフライ。あとマカロニサラダをお願いします」
 彼氏の方が注文を言い終えると、従業員は無言で下がっていた。炭水化物と脂質が多い注文と言うのは、もしかしたら溌溂とした状況を過ごしている事の裏返しなのかもしれない。
 僕は二口目のシークワーサーサワーを飲み、提供された銀杏の串焼きを二粒食べた。独特の苦みに青臭さと塩気はよく合って、僕の心を青くも赤くも無い黄緑色の状態にしてくれる。
「理奈子と付き合うと、こういうお店に入れていいよ」
「ありがとう。私もこういうお店が好きで、一緒に来てくれる相手を探していたのよ」
 彼女の方は少し申し訳なさそうに答えた。彼氏と来るならもっとオシャレな内装で、客層の年齢も高くない方がいい。という気持ちがあったのだろう。
「俺は好きだよ、こういうお店。気取らなくていいから」
 彼氏の方は朗らかに答えた。もしかしたら彼氏の方が彼女に合わせているのかもしれないと思ったが、二人の表情と和やかな空気を見る限り、なにかを考えているような様子はなさそうだった。
「前に付き合っていた彼氏は七歳も年上でね、見栄を張りたいのか高いお店に良く連れて行ったの」
「それはそれで良かったんじゃないの?」
 彼氏の方が訊き返す。
「まあ、良かった事もあるけれど、楽しさより息苦しさの方が私には強かった。無駄な時間を過ごした訳では無いけれど、我慢するほども無いなって」
 彼女の方は少し切なくなったのか、目を伏せてぼそぼそと語った。僕は三口目のサワーを口にして、砂肝ポン酢和えを口に運んだ。シャリシャリした歯触りと旨味と酸味の味が、柑橘系の甘酸っぱさと安い焼酎のゴム臭さの風味を覆い隠す。暫く様子を伺っていると、二人は黙ってしまった。
「後悔しているの、分かれたことを?」
 探るような言葉遣いで、彼氏の方が彼女に聞く。僕は銀杏の串を全て食べ、またサワーを飲んだ。
「後悔はしていない。ただね」
「ただね?」
「その人、家庭があったの。奥さんと二歳の息子さんがいる」
 突然の告白に向かいに居た彼氏は驚きを隠せない様子だった。盗み聞きしていた僕も動揺を抑えるために、残っていた冷やしトマトを口にした。
「私との関係は、家族との縁を切る為に持ったみたい。私は家庭から逃げるための手段として利用されたくないから、逃げたけれどね」 
 彼女の告白の後、彼氏は再び押し黙った。
「ごめん。驚かせてしまって」
「いいや、良いよ。ずっと隠しているよりは、こうして話せるほうが良かったでしょ」
 彼氏の方は少し俯いた様子で答えた。本当は明るく振る舞いたいのだが、そうは出来ない心理状態なのだろう。また沈黙が二人の間に流れるかと思ったが、それを防ぐように従業員が瓶ビールとグラスを持ってきた。
「悪いことを吐きだせたんだから、今度は楽しいことを流し込もうよ」
 彼氏はそう言ってビール瓶を手に取り、黄金色の液体をグラスに注いで彼女に手渡した。
「ありがとう」
 彼女は小さく礼を述べた。どうやら二人の関係は今のところ大丈夫な様子だった。僕はサワーを飲み干し、引き下がろうとしていた従業員を呼び止めた。
「すいません、生を一つください」
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