第7話

文字数 9,663文字

 「おっと、ちょっと待った。」
すべての行程を終え本日最後の客の要望通りに髪を仕上げて、会計に移ろうとした時、不意に客の前髪の1本が2ミリだけ他の毛よりも長くなっていることに気付いた俺は、断りを入れつつホルスターに忍ばせているハサミを手にして切ったのだった。
理容師という仕事に誇りを持ち、常に完璧な仕事を追求する俺にとって、わずかなミスもやり残しも許されるものではない。
客がたとえ気にしていなくとも、俺自身が許せないのだ。
それがハードボイルド理容師たる俺に課せられた宿命なのだから、何とも因果な商売で困った性分だぜ。
「カット3500円。」
「じゃあ1万円からで。」
「はいよ、6500円のお返し。」
とつとつと代金の受け渡しを済ませた俺のパーフェクトな仕事ぶりに、客もさぞ満足していることだろう。
「あ・・あの。このお釣りなんですが・・・・。」
「どうしたい、間違っていたかい?」
「いえ・・・あの・・・・間違ってはいないんですが・・・・、500円玉はともかく、2000円札3枚って・・・・。・」
「その方がかさばらなくていいだろう。」
「いや・・その・・・それはそうかもしれませんが・・・・、使える場所が限られる・・・」
最後の方がぽしょぽしょと弱気に尻すぼむ客に、俺は渋く微笑みかけながら語りかける。
「礼ならいらねぇよ。」
「いえ、あの、その、そうでは・・・なくてですね・・・。」
「今どき財布の中に2000円札を3枚も持っている奴なんてそうはいない、レアってやつだぜ。」
本当は銀行に行きそびれたために、釣り銭用の1000円札が切れてしまっただけなのだが、悟らせてはいけない弱みを見せてはいけない、何故なら俺のハードボイルドなキャラクターが崩壊してしまうからだ。
「すみませんが・・・できれば1000円札で・・・いただきた」
「よっ大物!!よっ大統領!!小さな事を気にしない、そんなアンタが好きだからーー!!!」
なおも縋りつかれそうな気配を察した俺は、客の言葉を遮って強引に入口へと案内してドアを開け、さっさとお帰りを願った。
「どうも!!ありがとうございやしたーー!!!」
威勢の良い居酒屋店員顔負けの良く通る声であいさつして、客に一切の反撃の隙を与えない。
そんな俺の気迫に押されたのか、根負けした客がこれ以上のやり取りを諦めて、背を見せた瞬間この勝負の勝敗は決した。
腑に落ちない納得できない感じを満載に背負った背中が、トボトボと3軒隣のコンビニへと向けて小さくなっていった。
1000円札に両替するために立ち寄るのだろうが、そこのコンビニでは両替はお断りなんだぜ。
ならば駅前の銀行を思い浮かべるかもしれないが、あいにくもう営業時間はとっくに終わっているのさ。
両替することもままならず、大量の2千円札を抱えたまま、彼は今夜1晩悶々とした思いを抱えて生きるのだろう。
人間が生きていくってことは、つまりそういうことなのさ。
仮に買い物なんかで2000円札を消費しようとしたところで、どこのどんな店であろうとも、店員から微妙な間と困惑の視線を受けることだろうさ、まぁ悪く思うなよ。

 そんなこんなで、今日も無事に理容師としての1日の仕事が終わりを迎えた。
最後の客が帰って久しく、閑散とした店内。
俺は掃除や諸々の後片付けといった、残務処理をマイペースにこなしていた。
だがそんなものは俺にかかれば何ら苦も無く次々と片付けられていき、閉店から30分も経つ頃にはすべての仕事が終わりを迎えていた。
まったく、できる男ってやつは違うぜ。
きれいに整理整頓された清潔感が漂う店内を見渡して、自分の城であるこの店に思いを馳せた俺は少し黄昏てみた。
ニヒルでハードボイルドでダンディズムにアンニュイな心情と言えばお分かりいただけるだろうか、つまるところ複雑な感情ってこと。
そんな心の機微は表情にも如実に表れていて、普段は客を座らせて髪を切るべき椅子に、俺はどっかりと腰を下ろしてみて物思いにふける。
椅子の角度を変えて、仰向けに近い角度で天井を見上げていると、これまでの俺の理容師としてのキャリアが走馬灯のように甦ってきやがる。
「思えば遠くへ来たもんなのか来ていないのか・・・わかりゃあしないぜ。」
ここまでやって来た俺の道は、振り返れば決して栄光ばかりではなかった。
いや、挫折や困難の連続であり、だからこそ俺は今ここにいるのだ。
それに挫折や苦悩って、ハードボイルドには欠かせない要素だろう?
誰に問いかけているわけでもないが、俺はただ天井を見上げたまま呟き続けていた。

 椅子から立ち上がった俺は、そろそろ帰っても良かったのだが、まだ帰りたくないな♡ポッ!!
ならば一杯飲みに行こうか、いやそれも何か違うな。
これと言って特にやることはない手持無沙汰状態なのだが、浮かんでくる選択肢の数々がどれもみなしっくりとこない。
ああでもないこうでもないとこの後の行動を決めあぐねていると、俺は発見してしまった。
天井のエアコンの送風口に、1センチほどのほこりが付着しているのを。
こうなると俺の気がかりは大きくなるばかりで止められない。
「・・・・・・・・・・・・・・」
来週に迫った業者による定期的な清掃まで我慢してやり過ごすか・・・・・・・・・・・・・・・・、否、できない、そんなこと俺のプロ意識が美意識が耐えられるはずがない!!
「・・・取り外してほこり取るか・・・・・・。」
自分の感性に見てみぬふりはできず、葛藤の末に俺はアクションを起こすことを選択せざるを得なかった。
店の倉庫に向かった俺は、ミニサイズの脚立を肩に担ぎ戻って来た。
そのままエアコンの送風口の真下に脚立をセッティングした俺は、1番上から2番目のはしごに足を乗せて作業に取り掛かっていく。
知っているかい?脚立の天板と1番上のはしごに足を乗せて作業するのは、正式にはNGのご法度だってことを。
おっと、余計な豆知識を披露しちまったぜ。(なんか昔テレビのバラエティー番組で見たような、確証はまったくないんだけど、そんなようなことを言っていた気がする。)
エアコンの送風口に取り付けられている蓋を取り外し、脚立を降りて水道まで運び、俺はブラシを用いて激しくブラッシング!!
プロとしての誇りを持って生きている俺だが、塵やほこりは必要ないんだぜ。
俺はブラシで水洗いした蓋に、シュウさんから買い取った強力洗剤をふりかけて、立て続けのブラッシング!!
モクモクと湧き上がってきた泡が、天井へ向かって一直線に伸びていく。
フハハハハハ!!泡立て泡立て、どこまでも高く泡立ってお行き!!
送風口の蓋はとっくにきれいになっており、付着していたほこりを除去しただけではなく、ヤニや蒸気による付着物も洗い流されて、新品同様に不自然なほどに真っ白になっていた。
だがもはや俺の興味は、人間は物を洗浄する行為において、どれだけの泡を立てることができるのだろうかということにすり替わっていた。
というわけで、俺は目下ギネス記録更新に向けて洗剤を泡立てる手を止められない。
もっとも、そんな記録を打ち立てたところでギネス認定は誰がするのだろう?そもそもギネスの対象種目として、存在しているのだろうか?
だが始めだしたことは止められない、途中からなんだか楽しくもなってきて、意味不明なハイテンション状態になった俺は、結局1メートル28センチまで洗剤の泡を泡立てることに成功したが、その反動で水浸し洗剤の泡まみれになった水道周りの惨状に、余計な掃除の手間を増やしてしまったと後悔した時、哀愁の風が心の隙間を吹き抜けてちょっぴり悲しくなっちゃった、ぐすん。

 予定外の掃除に従事して、再び一息付けた頃にはもういい時間になっていた。
俺はタバコをふかしながら、これを吸い終わったら帰ろうと心に決めていた。
なんせあまり遅く自宅に帰ろうものなら、妻にあらぬ疑いをかけられた挙げ句に死ぬほど怒られることになるので、それだけは避けなければならない。
などと考えながら、手元にある携帯電話の画面に視線を落としたまま、一応これから帰る旨を妻にメールしておくべきか思案していた。
うん?俺の携帯?
もちろんガラケーさ、決まっているだろう。
スマホに買い替える気はさらさらないのさ、ハードボイルドな俺にはガラケーこそ絵になるし、何より情緒があるからいいのだ。
だからライン?グループメッセージ?
知らねぇな、何だそれは?
聞き慣れない新しいものにすぐ飛びつきたがるのは人間の悪い癖ってやつさ、べ・別にスマホが使いこなせないからとかってわけじゃないんだからね!!
男はガラケーで、電話とメールのみできれば十分なのさ。
俺は黄金のレフトハンドを使って、妻へ送るメールを打ち始めたのだが、これがなかなかにはかどらない。
下手な文脈を送りつけようものなら、妻の逆鱗に触れてかえって怒りを買ってしまうことが容易に想像できるため、打っては消して消しては打っての繰り返し。
困難を極める妻へのメールを打っているそんな時だった、俺が店のドア越しに外から注がれる何かの奇妙な視線を感じたのは。
俺の視線は間違いなく手元の携帯に注がれている、にもかかわらず突き刺さる視線はどこから何者によって?
俯いたままの俺の脳裏に真っ先に浮かんだのは、未来久留巣の刺客による懲りない襲撃の可能性だったが、五感というか直感がその可能性をすぐに打ち消す。
この俺に向けられている視線は、明らかにそういった類の物とは大きく異なっていて、嫌な予感と背筋に走る悪寒が止まらないからだ。
ヤバい、これは絶対にヤバいやつだと、俺の本能がそう訴えてきて仕方がなかった。
絶対に目を合わせてはいけない、だけど好奇心や興味がやけに掻き立てられるのには抗えそうにもない。
静かに唾を飲み込んだ俺は、意を決して振り向いてドアの方に目をやった。
そこには、白いワンピースを着た髪の長い女がボーっと立ち尽くし、こちらを覗き込んでいた。

 「きゃああああぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーー!!」
視線の正体をこの目で確かめた俺は、自分で自分の声量にびっくりしてしまうくらい乙女チックに大声を上げて驚いてしまった。
店のドア1枚を挟んだだけの店外に佇む、白いワンピースの女。
俺の大音量の悲鳴に驚く様子もなく、むしろやっと自分の存在に気付いてもらえたことがうれしかったとでもいうように、淫靡に微笑みを浮かべてきた。
その微笑みがまた超怖い!!
何ーーー!?何なのーーーー!?
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!!!
これはあれか、オカルト的な、心霊現象とか超常現象というやつかい!?
幼き頃より霊感なんてものは皆無な僕ちゃんだったから、1度たりとも遭遇したり体験したりせずに今日まで生きてきたんですけどーー!!!
お・・・落ち着け、うんまずは落ち着こう、冷静に目の前で起きている現象に対処すればきっと大丈夫。
立ち上がった俺は、千鳥足どころかまったく腰砕けな生まれたてのバンビの如き震える足を、バシバシと自分の拳で叩いて鼓舞しながら少しずつ、女が立つドアまで近付いていった。
いっそ訪れたのが刺客や殺し屋だった方が、どれほどマシだっただろうか。
戦場で殺し屋10人に囲まれても、制圧して生き残れる自信は多分にある俺だったが、今直面している出来事は勝手が違い過ぎる。
それでも1歩ずつでもドアに近付けたことで、女の全貌が次第に明らかになってきた。
最初に目にした時は、それこそ夜の闇に青白く浮かび上がった亡霊のように映ったけれど、立ち尽くしている女には、ちゃんと足が2本付いていることはまず確認出来た。
続けて視線を顔の方に上げていくと、一応血は通っているようであり、ものすごく色白な肌をしてはいるが、血色も生者の分類に入れても差支えがないように思えた。
ただ女の顔には所々シワが目立ち、服装や遠目からの印象よりは、ずっと歳を重ねている感じがして、俺は安堵と共に少しげんなりもした。
人間と結論付けていいのか、中年のおばちゃん認定をしてもいいのか、醸し出されている不気味さは相変わらずだから、まだ若干判断に迷うが・・・・。
人間ならば無視した方が無難だろう、こんな夜に営業していない理容店を覗き込んで笑っているおばちゃんなんて、かかわらない方が俺のためである。
しかし・・・・もしも霊的な何かだとしたら・・・・・・・。
下手にかかわっても祟られるだろうが、あれだけのアプローチを受けながら無視を決め込むのは同じくらい災厄が降りかかって来そうで、それはそれで怖かった。
まさに、進むも地獄退くもまた地獄である。
様々な想像と恐怖心が俺の中で芽生えて来て、俺はドアの前にたどり着いたはいいが、そこから次のアクションを起こせずにいた。
するとドアがゆっくり重々しく開けられていき、「キイイィィィィィ・・・・」という音を奏でて俺の耳を襲う。
この店のドア、そんなに古めかしかったっけ?
割と最近油差しましたけど!!
徐々に大きくなるドアの隙間に、女が身を乗り出すようにして笑顔を浮かべたままの表情で迫り来る。
 ついに女の侵入を許してしまったと、俺は身が固くなってしまっている。
入店した女の口が開いた、その様はさしずめ口裂け女の大きく裂け開いた口を連想させたが、実際はそこまで大きくなかったと思う。
「お兄さん・・・・今、暇?・・・・・遊ばない・・・・・・・?」
そう問いかけてきた女の声はとてもハスキーなもので、一言一句がガラスに爪を立てて引っ掻く音にダブって聞こえる。
暇じゃない暇じゃない暇じゃない!!
遊ばない遊ばない遊ばない遊ばない遊ばない!!
女の問う暇=現世でやり残したことはもうないな、遊ぼう=死後の世界へのランデブーに聞こえて仕方がないったらなかった。
第一、お兄さんと呼ばれる年齢でも外見でもない、40過ぎの俺である。
「ねぇ・・・・・いいでしょう・・・・?私と今から・・・・・遊びましょう・・・・・・。」
無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!!無理ですからーーーー!!!!!
俺と同年代か、下手したら俺よりも年上の線も十二分に考えられる、正体不明な不気味な夜の来訪者、首から上と下との年齢がまったく異なることにもある意味恐怖を感じつつ、だけど俺はろくに声も出せない。
猿轡をされているように歯を食いしばって、声を出せないまでも何とか首を左右に振って、嫌々と意思表示をして女の誘いを拒んでみるが、女もなかなかしつこくて迫り続けてきやがる。
そんなに迫られても、無理なものは無理!!
首から下は30代でもまあ通用するだろう、セーフと言えなくもない。
だが首から上、とりわけ顔に至っては50代で完全にアウトーー!!
俺は渋くハードボイルドに生きてはいるが、熟女好きではなかった、二択で問われれば若い娘の方が好みに決まっているもんね!!
とはさすがにこの状況下では言えはしないが、人間であろうとなかろうと無理なものは無理な男の性だ。
後ずさりしながら拒む俺に女は実力行使に出たのか、ぬるりと細い両腕を伸ばしてきて、俺の首に絡めるように抱きついてきた。
首に受けた感触は、冷水に長時間浸していたみたいに水分を含みしっとりしていて、とても冷たかった。
「ひゃう!!」
その冷たさに反射的に、俺は声を漏らしてしまった。
いけねぇいけねぇ、ハードボイルドの俺としてはありえないリアクションの数々だぜ。
俺の首に伸びた女の両手は、熟練の手つきでまさぐってくる。
何何、もしかして絞められちゃうの!?僕ちゃん首絞められてあの世へ連れてかれちゃうの!?
「や・・・め・・・ろ・・・・」
息も絶え絶え声にならない声を発して抵抗する俺に対して、女は力を抜き差しして窒息しそうでしない絶妙な力加減でもって、首を弄び続ける。
俺によって積み上げられてきた無数の屍の怨霊絡みの復讐なのか、単なるプレイなのか未だ判別し切れず。
ただ後者の場合であったらば、俺はこの手のものには喜びを見いだせないことは断っておきたい。
蛇が絡みついて這いまわるように俺の首に触れていた女の両手は数分後ようやく離れたのだが、続けて指を立てた女は首から下の上半身への攻めに転じていった。
俺の上半身に備わったあらゆるポイントを、女は指を遊ばせて的確に突いてきやがる。
何がそこまで楽しいというのか、笑顔を浮かべ続ける女が甚だ疑問だったが、俺は金縛りにでもあったみたいに身動きが取れずにされるがままだ。
静寂に包まれた理容室の店内、時折聞こえてくるのは女が漏らす微笑み混じりの吐息と、壁にかかった柱時計の針が動きゆく音のみだ。
時間をかけて思う存分指で弄んだ女は、俺の肩を掴むと非力な力で椅子に向かって押し倒すように押さえ込んできた。
椅子と抱き合う形で正面から押し付けられた俺は、女に背後を完全に取られてしまった。
屈辱だ、自分の体の数倍の屈強なソルジャーにも、そうやすやすと背後を取られて押さえ込まれることなどなかった俺が、生者か死者か判別し切れないとはいえ、こんな細腕の女に成すすべなく押さえ込まれることになるなんて。
と同時に、いくら突然の未知なる恐怖との遭遇により後れを取ったとはいえ、ここまで俺が完膚なきまでにやられるものだろうか、そう考えるとこの女という存在は、やはり心霊現象に他ならず人ならざる者だと結論付けていいのではないか?
いやきっとそうだ、そうに違いない。
普段の俺からは想像もできないような情けない格好で、辱めを受けながらそう結論付けたちょうどその時。
 「ピピピピピピピピピピピピピピーーーーーー!!」
というアラーム音が店内に鳴り響いた。
何だ、新たなる心霊現象のお出ましだとでも言うのか!?
押さえ込んでいた両手を解いた女の支配から解放された俺は、体勢を立て直して身構えた。
すると女はおもむろにワンピースに手を入れると、文明の象徴とでも言うべき物体を取り出して見せた。
「はい、45分経過!!」
ハスキーボイスで告げてきた女の顔を、俺は訝しんでみる。
「28000円になります!!」
シワだらけの笑顔をさらにくしゃくしゃにして、女が俺に金銭を要求してきた。
「はあ!?」
寝耳に水どころか、事態がまったく飲み込めない。
「出張性感帯マッサージ45分コース、28000円になりまーす!!」
あれほど俺に恐怖を与え続けた異形のイメージはどこかに吹き飛ばせて、実に機械的で無機質に営業スタイルを女は全開にしてきやがった。
そう、俺のここ数十分間の思考から導き出された結論はすべて間違いであり、この女は幽霊でもなければ死者でも何でもない、ただの水商売の女、いやオバはんだったのだ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく言ったもので、この枯れ果てたババアの口から聞かされた真実を思い知り、俺は愕然となったのだった。
「何じゃそりゃーーーーーーーーー!!!!」
「うふ♡」
「うふ♡じゃねえぇーーよ!!ていうか高いよ!!あれぽっちのサービスで28000円て、完全にぼったくりじゃあねぇかーーーー!!!!」
「うふ♡きゅるりーん♡」
「うるさいよ!!そうとわかっていれば、端からお前なんてチェンジしていたさ!!ああチェンジだとも!!」
「お支払いは、現金一括払いのみとなっておりまーす!!」
「そこは♡ねぇのかよ!!えらい事務的だなーー!!」
俺の恐怖心を逆手に取り完全に嵌めやがったババアが、勝手に店のレジを開けようとしている。
「こらーーー!!ぼったくりの次は現金強奪か!!」
慌ててレジカウンターに走り込んだ俺は、ババアの現金強奪を阻止する。
「ちょっとーーーー!!まったく、抜け目のねぇババアだぜ・・・。」
「ちなみに~今料金をお支払いいただけなければ、このまま交番へ駈け込んで乱暴されたって言いますけど、いいですか~?」
いちいち可愛子ぶるな、若者ぶるな!!
「いや、よかねぇよ!!いいわけあるかーーーい!!!」
なんてババアだ、これは料金とやらを払わない限り、いつまでも俺に付きまとうに違いない。
蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだぜ・・・。
こんなババアによるぼったくり商法に金を払うなんざ死んでも嫌だが、永遠に付きまとわれたりあることないこと触れ回られるのも、等しく屈辱的で苦痛だ。
俺は渋々レジのドロアーを開き、ババアに請求された金額を払うことにした。
これも人生の授業料だと思えば決して高い出費ではないと心で念仏を唱えながら、本心ではこのババア、絶対市中引き回し磔獄門の刑に処してやると、殺意をたぎらせるのだった。
俺から料金を受け取ったババアは、札束を数えて確認すると、とびっきりの営業スマイルを浮かべながら軽やかに店を後にしていった。
「またどうぞ~!!」
「2度と来るな、このババア!!!」
落ち度があった自分の失態に腹を立てながら、俺は店先に塩を撒いてババアが去って行った方角にも、力士の土俵入り以上に盛大に撒いてやった。
鼻息荒く肩で息をする俺が、店内に戻っていき己が悲劇を嘆いてみる。

 「今の女の人だ~れ?」
今度こそ帰ろうと帰り支度を始めた俺の背後から、また女の声がする。
だが、今度の声を発している主はすぐに誰かと理解できた。
幽霊でも悪魔でもない、それらをはるかに凌駕する恐怖の大魔王、妻の声だった。
振り返った俺は、さっきのババアに相対した時とは比較にならない恐怖と身の危険を感じずにはいられない。
「お・・・・お前・・、いたのーー!?」
「うん。」
「いつから?」
「あなたが女の人に抱きしめられていた辺りから、ずっといましたけど何か?」
マジか!?いくらババアにやり込められていたからって、まったく気配を感じなかったぞ。
「全然気付かなかったよ!!言えよ、言ってよ~、来てたんなら声かけてよ~!!」
「あんまり楽しそうだったから、お邪魔じゃないかと思いまして。」
「邪魔じゃない!!全然邪魔じゃないよ!!ていうか、まったくもって楽しくなんてなかったね!!さっきのはその・・・事故、そう事故みたいなものなんだから!!」
「仕事が終わってから、私と食事する約束をしていたのにもかかわらずでっか?」
いかん、完全に忘れていた、妻との約束を!!
俺は痛恨の約束の失念を、今心の底から後悔していた。
「そそそ・・それじゃあ、ちょっと遅くなっちゃったけど・・、今から飯食いに行くか・・・?」
「はあ!?今何かおっしゃいましたか?」
何とかどうにかして、この状況からの脱出を試みようとするが、相手は最強最悪の妻、徒労の極みだとわかってはいた。
冷や汗脇汗脂汗パラダイスの俺は焦りまくって取り繕うとしているのに対して、妻は能面のような表情を一切崩さず、しかしそれはもう、とてもとても怒ってらっしゃっております。
妻は黙ったままドアへ近付いていき、内側からしっかりとカギをかけた。
はい、もうこれで俺は完全に逃げられません。
さらにどこから取り出したのか、ハサミを手にして念入りに研いでいらっしゃる。
「いや・・・待て・・・待ってくれ、頼む、俺が・・・悪かった・・・!!」
「これより去勢作業に入ります。」
「ううう・・ウソやろ!!や・・やめろ・・・ギャアアアアァァァァァーーーー!!!!」

 閑静な住宅街に佇む理容店ベルべレソンにおいて、俺にとっての本当の真の恐怖の夜が幕を開けていくのだった・・・・・・・・・。
饅頭怖い幽霊怖い、いや俺には誰よりも何よりも妻が怖い・・・・・・・・。
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登場人物紹介

斗毛元 40代の中年理容師

大阪府内某所にベルべレソンという理容室を営んでいる。

ハードボイルドに生きることを生業として、様々な客や困難に立ち向かっていく。

妻・・・30代後半、斗毛元の意向によりバーを経営しているが文句タラタラの恐妻。

シュウさん・・・武器や様々な器材を調達してくれる斗毛元の強い味方。

服部・・・斗毛元馴染の蕎麦屋の店主。

上松瀬警部・・・斗毛元とは旧知の間柄であり相棒の敏腕警部。極度の熟女好き。

米谷・・・ベルべレソンの常連客。常にしゃべり続けて絡んでくるウザい芸人顔負けの一般人。

未来久留巣・・・かつての斗毛元の上司であり、理容師業界に一大勢力を築いている。斗毛元抹殺を誓い、手段を選ばずに襲いかかってくる。

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