第14話

文字数 19,717文字

 プロの理容師たるもの、風邪をひいてはならない、ましてやインフルエンザに感染するなんてもってのほかだぜ。
多くの客と接する商売柄、常に感染してしまうリスクは避けては通れないのだが、俺がぬかるなどはまったくない。
手洗いうがいは当たり前、毎年風邪が流行り出す季節にはいち早くマスクを着用して仕事にもあたっている。
それは例年猛威を振るうインフルエンザ対策も同様であり、初秋の季節、かかりつけのドクターが運営しているクリニックにインフルエンザワクチンが入荷次第、即座に予防接種を受けに行くという徹底ぶりだ。
 そして今年もそろそろそんな季節になろうかというある日、店で客の途絶えたタイミングで食事をしている時に、俺のガラケーが鳴ったのだった。
「斗毛元だ。」
「おう斗毛元さん?小谷だが。」
「あれが入ったんだな?」
電話をかけてきた相手・小谷が名乗った瞬間に瞬時に用件を理解した俺は、ダンディーに声を整えて必要最小限のやり取りをしていく。
「相変わらず察しがよろしいな。明日の朝1番に入荷することになっている。」
「そうか。」
「明日は店も休みだろう?よければ午前中に予約を入れておくが。」
「それで構わない。」
小谷の提案を承諾した俺は、壁にかかった時計に目をやりながら時間を指定する。
「10時30分だ。10時30分に行かせてもらう。」
「わかった。そのように手配しておく。」
「すまない。」
「ああ、言い忘れるところだった。」
「何だ?」
「明日は朝からわしは学会に出席しなければならんけぇ、不在なんだ。」
「何?」
「だが心配はいらん、代わりの者がしっかりと処置に当たってくれるよう言っておくから。」
「・・・そうか・・・・。」
小谷から告げられた言葉に一抹の不安を感じながらも、俺は手短に電話を切った。
「・・・・・・・・・。」

 ~同時刻~
 暗く陰湿な雰囲気の漂う室内に、1人の男が赤いパンツ一丁で息を殺し聞き耳を立てている。
室内の至る所には、特殊な諜報機関も顔負けの物量で、無線機などの機械が居並んでいる。
そんな異様な風景の中に仁王立ちで無線を傍受しているこの男こそ、斗毛元の宿敵である未来久留巣(みらくるす)に他ならない。
はち切れんばかりの全身の筋肉の隆起に、胸に蓄えた剛毛なる胸毛、サイドを刈り込んだモヒカン風のヘアスタイルの、どこぞのストリートで繰り広げられる戦いに参戦するファイター顔負けの圧倒的存在感で、口の周りを囲んでいるひげをゆがめて不気味に微笑んでいる。
己の配下に仕掛けさせた盗聴器材から欲していた情報を入手したことに気分を良くした未来久留巣は、自身のスマホに手を伸ばして操作しだした。
呼び出しのためのコール音が3度鳴り、4度目に差し掛かったところで電話口に相手が出た。
「遅い!!俺からの着信には3コール以内でと、いつも言っているだろうが!!」
未来久留巣がいきなり怒鳴ったために、室内が激しく振動している。
「次はないぞ!!」
静かなる高圧的な恫喝を宣告された通話相手は、ただただ恐怖に怯えるばかりのようだ。
「す、すみません!!」
一見短気過ぎるように映る未来久留巣の言動だが、そこには自分が支配する者たちのミスは絶対に許さないといった、暗黒帝王のプライドと威厳が込められているのか。
「いいか、指令を下す。明日の午前10時30分、ターゲットは府内某所のクリニックにやって来る。こちらの全勢力を持って、ターゲットの行動を阻止し、亡き者にせよ!!」
「はっ、了解であります!!」
「いいな?失敗は絶対に許さんぞ!!」
「はい!!」
配下の者の危機感に満ちた返答を持って、通話は途切れた。
未来久留巣はスマホを机の上に放り投げると、ボディービルダーのように次々とポーズを決めていきながら、高笑いに興じていた。
「ふわっはっはっはっは!!はっはっはっはっはっはっ、のおうぅぅーーーーーー!!」
勝利を確信した笑い声が、いつまでも室内に響き渡っていくのだった。

 
 ~翌日~
 今日は週に1度の定休日、だが俺は寝坊をすることもなくいつものように朝早く起床していた。
朝食を食べ歯を磨き用を足して、パリッとアイロンを利かせたスーツに身を包んで身支度を整えていく。
目的地は府内某所にあるクリニック、そうインフルエンザの予防接種を受けに行くのだ。
昨日かかってきた電話の主・小谷はそこのクリニックの院長で、俺とは若い時分からの付き合いがあり、何かと旧知の間柄にある。
俺は大小を問わずケガや病気にかかった際は、必ず小谷の元に出向いては治療を受けてきた。
理容師でありながら幾多の血生臭い死線を潜り抜けてきた俺にとっては、なくてはならない重要人物の1人とも言える。
そんな小谷の運営しているクリニックには、治療以外に年に1度必ず通う日があった。
インフルエンザへの感染を防ぐために、予防接種を受けに行くという日が。
しかも決まって、インフルエンザワクチンが入荷したその日のうちに受けに行くのが慣例となっており、昨日の電話はそのことを伝えるためのものだった。

 目的のクリニックにやって来た俺、時刻は朝9時16分といったところか。
予約を入れた時間は10時30分であるから、1時間以上も早く来てしまったことになる。
俺はプロとして、仕事における時間にはうるさかった。
依頼主との約束の時間や店に訪れる予約客の予約の時間は1度たりとも破ったことはない、信用が第一の世界に生きる俺にとって、時間を厳守することは当然のことで最低限の己に課したルールだからだ。
そんな俺だが、いささか早く来過ぎてしまったことは否めなかった。
もちろん時間にぎりぎりに現場に到着するよりは、余裕を持って早めにやって来る方が望ましいに決まっている。
べ・別に注射するのに緊張して一睡もできずに、落ち着かなさに駆られて早く来過ぎちゃったわけではないんだからね!!
その辺の喫茶店などで時間を潰しても良かったのだが、待合室もあることだし院内で待つことにした俺は、クリニックの自動ドアを通過して侵入を試みたのだった。
 その足で受付へと向かった俺は、持参した保険証を手に予約を入れてある旨をカウンター越しに応対してくる看護師に告げた。
ピンクがかった白衣に身を包んだ20代中盤と思しき女性看護師が、俺の顔と名前を確認している。
見たことのないこの看護師は、最近勤めだした新入りなのだろうか?
「少々お待ちください。」
愛想もそこそこに席を外した看護士が奥へと入っていき、何名かの人間と会話をしている。
院内ということもあり極力抑えめにひそひそと語られている内容まではさすがに聞き取れなかったが、異なる声音や声のトーンから男性1名に女性2名の関係者がこの会話に参加していることは感じ取れた。
他人の会話のやり取りに耳を傾けるのは多少憚られるが、鍛え抜かれた俺の五感が反射的に研ぎ澄まされてしまうのだから仕方のないことだ。
そうこうしているうちに、話を終えた看護師が戻ってきて俺に告げる。
「斗毛元様、お待たせいたしました。予約の確認が取れましたので、恐れ入りますがお時間が来るまであちらにてお待ちいただけますでしゅうか?」
営業スマイル全開でにこやかに提案してくる看護師だったが、最後噛みましたよね?
まあそんなことはさておき、俺は指示された待合スペースに赴いて待つこととする。
椅子に腰かけるより先に、俺はジャケットの懐からマスクを取り出しては着用した。
もちろんスーツ同様にアイロンをかけてあることは、言うまでもないことだぜ。
パリッパリにアイロンがけされたマスクを指で整え、俺の鼻にフィットするようにしていく、この瞬間が何とも堪らない。
 病院の待合室とは、家外でも屈指のウイルスに感染しやすいスポットだ。
当たり前のことだが、身体のすべての部位が健康体の人間はまず病院を訪れることはない。
もっとも今日の俺のように、健康でありながら予防接種を受けるためにやって来る者もいるだろうが、どちらかと言えば少数派だ。
多くの病院利用者はケガや病気の治療のために訪れるのだから、診察を受ける順番を待つ場所である待合室は、何かしらの不調を抱えた人間が密集する。
とりわけ俺が指示された待合スペースは内科に該当するため、ここにやって来る患者は風邪などのウイルスに感染した患者が多いことは予想に容易い。
ゆえに俺は自らの身は自分自身で守らなければならない。
うかつにマスクもしないまま、風邪をひいている患者のウイルスをもらうわけにはいかないのだ。
もしもそのような油断から風邪をひいて寝込んでしまった日には、俺の気分は最高潮にブルーになってしまうこと請け合いなわけで。
店を臨時休業にしなければならなくなるし、自宅で苦しみ寝ていたとしても、夜の仕事をしている妻が看病してくれることなんてありえない。
あの妻のことだ、俺がうんうん唸っていても、「そんなやわな男を夫にした記憶はございません!!」などとのたもうた挙げ句に、無関心を決め込んではほったらかしにされるのが目に見えている。
想像しただけでも鳥肌が立ってくるったらないぜ・・・・。
 
 俺は待合スペースをざっと見渡してみて、壁際の不規則に出っ張った柱に身を隠す位置にある椅子に腰かけた。
皮張りの椅子だが、高級ソファーの感触とは程遠い病院によくあるタイプのものだ。
予防接種に訪れても、背後からの狙撃に備えてこのような場所を選んでしまうとは、自分自身に染み付いたプロ意識に可笑しくなってしまうぜ・・・。
俺は1人自嘲気味にわずかに微笑むと、通院患者の暇つぶしのために置かれている雑誌を手に取り目を通していった。
それは一般ピーポーが好みそうなゴシップ絡みの写真週刊誌で、芸能人のスキャンダルを中心に構成されている物だった。
冒頭から読み始めた俺だったが、特別芸能通というわけではないので特に興味を惹かれる記事はなかった。
そのまま半分もページをめくった俺だったが、雑誌のある部分に差し掛かって指が動きを止めた。
目は釘付けとなり両手はかすかに震え出した俺は、おもむろに立ち上がりそのページを開いて固定したまま、受付の看護師の元に向かっていった。
鬼気迫る表情でスーツ姿の俺が近付いて来ることに気付いた看護師は、少し緊張した表情を浮かべて尋ねてくる。
「ど・・・どうかされましたか?」
「あの・・・あの・・・」
俺の鼻息は自覚している以上に荒くなり、酸素の供給が追い付かないから思うように舌が回らなかったのだが、何とか呼吸を整えて声高に叫ぶことができた。
「この袋とじ、開けてもよかですかーー!?」
「は・・・はい・・・・?」
俺の迫力に気圧されたのか単純に引いているだけなのかはともかく、看護師は困惑を隠せずにいる。
「だから!!ここですよ、ここ!!ここの袋とじ、俺が開いて中を見てもいいかって聞いているんでしょうがーーー!!!」
「あっ、はい・・・・、別に構いませんけど・・・・・。」
「そうか!!」
看護師の押し切られた解答に、俺は渾身のガッツポーズを作って歓喜を表現してしまった。
「・・・・・・・・・。」
当然というか、看護師はポカーンと口を開いて固まっているが、そんなことはどうでもよかった。
俺はさらに看護師に向かって、畳みかけて出る。
「それとねーー!!」
「ま・・まだ・・・何か・・・・・?」
「定規を貸していただけないかーーー!?」
「は!?」
「いやだから、定規を貸してって言ってるでしょうがーーー!!!」
「い・・いいですけど・・・・、何故?」
「何故!?何故と聞きなすったかい!?」
「は・はい・・・。」
「閉じられた袋とじを、定規を使ってきれいに破るためでしょうがーーー!!!」
「・・・・どうぞ・・・。」
看護師は受付の机上にあった文房具が収納されているペン立ての中から、定規を掴みだして手渡してくる。
さながら、この人は何故そこまで袋とじにこだわるのだろうか?、という珍妙な者を見る視線が注がれていることを敏感に感じ取った俺は、社会経験の不足したこの看護師に理解できるように説明してやった。
「決まっているでしょうーー!!指で無造作に破ったら切り口がいびつになっちゃって、肝心のグラビアが台無しになってしまうからでしょうーー!!だからさ、定規を使ってきれいに直線的に破る必要があるんでしょうーーー!!!」
「・・・は・・・はあ・・・・・。」
看護師はせっかく説明してやったというのにうんざりした態度を示し、できることなら早くあっちに行ってくれというメッセージを瞳に込めて流してきた。
やれやれ、若い子猫ちゃんには少々難しかったと見える。
ともあれ俺は席に戻り、慎重かつ丁寧に袋とじの開封作業に取り掛かった。
おっと、断っておくが俺は袋とじなら何でもいいという、エロスな男ではないぜ。
普段の俺なら、袋とじに関心を示すことなどそもそもないだろう。
だが!!今回ばかりは違うのさ!!
何故なら、若い頃から好きだったアイドルが年月を経て、ついに脱いじゃったのだからなぁ!!
ぴちぴちしていた当時とは趣がまた異なり、それは成熟して美しく熟れた果実の如きもの、ずっとこの目で見たかったが叶わずに妄想を膨らまして補っていた彼女の裸身が、ついについに白日の下に晒されるというのだから!!
そう考えただけで、定規を握る手は興奮に震え指先の自由もままならずに、なかなか思うように開封作業がはかどらなかった。
その間も俺の脳内では、期待値がどんどん膨れ上がっていっており、様々なタイプのいくつもの美しい裸身が生まれてはまた興奮へと変わっていく。
ヤバい、心臓の高鳴りが止まる気がしねぇ!!
そしてついに、袋とじの開封を終えた俺は、満を持して敬い拝むような手つきと思いで開け放ったのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・。
「何じゃこれはぁーーーーー!!!!!」
期待に胸を膨らまして飛び込んでいった夢の世界は、俺にとって見るも無残な悪夢だった。
あんなに彼女は美しかったのに!!
あんなに澄み切ってみずみずしく、可憐だったではないか!!
だが、袋とじの中に秘められていたグラビアに映っていたのは、醜いババアの姿以外の何者でもなかった。
わかっていたさ、アイドルだって同じ人間、俺たちと同じように生きて年も取っていく、そんなことがわからないほど俺は夢見てはもちろんいなかった。
でもでもよう、年を取るにしてももっと色気を含んだ素敵な取り方ってものが、いくらでもあるじゃあねぇか!!
それが何だ、今俺の目に映っている存在は!?
スタイルはまず平均以下でナイスバディとは程遠く、何なら腹の周りや二の腕に付着した脂肪分がいちいち目に付いて仕方がないし、お尻なんかだらしなく垂れ下がり放題。
厚く塗りたくられたメイクまみれの真っ白な頭部と、首から下のがっかりボディーとの不自然過ぎるアンバランスさが際立った未確認生物に近し存在に、俺の驚愕は増すばかりだ。
それにも増して、何より俺が我慢ならず納得できない真実があった。
女性特有の芸術とでも言うべき胸にありし2つの突起。
その突起がまず不自然な位置に配置されていて並び立っていること、バストの大きさに対して不自然なほどにその突起が肥大していること、さらにさらにその色が温泉街の名産である温泉卵の殻に匹敵するくらい黒過ぎることだ!!
別にそれ単体そのようなボディーをお持ちの女性については、俺だって特に否定はしない。
だが、それが俺が長い間憧れ続けた彼女に付随していることがひどくガッカリで、蓄積されたイメージとのギャップに裏切られてしまったみたいな切なさを覚えて切り裂いてくるのだ。
これなら俺の妻の方がまだいくらか美しいとさえ思えるほどに、よくもこんな身体で脱いだなと発狂しそうになってきやがる!!
気が付けば俺はひどく落胆していて、無意識に崩れ落ちていた肩から雑誌は床へとなだれ落ち、周囲にいた患者たちの冷ややかで不審な視線が注がれ続けていくばかりとなっていた。
俺の100年の恋心は瞬く間に冷め切り、代わりに積年の恨みが芽生えてきて、妙にやるせないぜ・・・・・。

 それからいくばくかの時間が流れ、院内の待合スペースは訪れた患者たちで結構賑わってきていた。
小谷が運営しているこのクリニックは、個人の開業によるものにしてはなかなかに立派で、広さと共に充実した設備にも定評があった。
俺が訪れた当初には随分と空席が目立っていた待合スペースも、通院患者によって埋められていく一方で、若干の居心地の悪さを隠すべくクールに待ち姿を立て直していた。
 と言っているそばから俺の席の近くに、家族連れの一団がやって来た。
専業主婦の生活感を纏った母親に連れられて、3人の子供が迫り来つつある。
兄妹であることは一目瞭然の3人の子供たちは、皆せいぜい2歳ずつくらいしか年が離れていないようで、一様にまだまだ幼い。
それゆえここはクリニックで、静かにしなければならないといった常識的観念に乏しい。
1人はやって来るなり所狭しと走り回り、1人はおもちゃのマイクを片手に大声でリサイタルを開催し始め、残る1人に至ってはモデルガンのような銃器を構えては撃つ気満々ときたもんだ。
俺の生まれ持った感性が嫌な予感を感じなくとも、どのみちかかわり合いたくはないものだ。
理容師として、日頃から小さなお子様たちの髪を切ることは日常的であるが、根本的な問題としてやかましくも身勝手でわがままな子供という存在が、ハードボイルドたる俺には苦手としている連中なのだ。
特に中途半端に聞きかじった浅知恵を持った生意気そうなお子様は、天敵と言っても過言ではないだろう。
うん、ここは静かに時が来るまでひたすらに無関心を決め込んで、空気のように風景と同化してやり過ごすのが得策である。
 ところがだ、そう決意してものの数分後には、両脇と眼前をこの3兄妹に完全に包囲されてしまっているのはどういうことだろうか?
後ろに退こうにも出っ張った柱を背にしてしまった自らの選択が仇になった形で、抜け出すことが容易ではない。
身じろぎたくとも困難な俺に、子供たちの無邪気さを免罪符にした圧力が迫って来るばかり。
末っ子と思われる男児が俺の右腕によじ登り、真ん中の女児が俺の左腕を競い合うようによじ登って来やがった!!
俺は無下に振り払うこともできずに助けを求めるように母親に視線を送ったのだが、当の貴婦人は微笑ましげに見守るばかりだった。
「あらあらいいわね~、おじさんに遊んでもらえて~。」
いやいやいやいや、ちょっとお母さん!!
遊ばれているのは俺の方ですよ!!俺の心中は全然穏やかではないんですけどーー!!
っていうか、何監督責任を放棄して丸投げしつつ、そんなに微笑んでいられるんですかーー!!
さらに輪をかけて怖ろしいのは、俺の両腕をよじ登ってまとわりついて来ている子供たちが、揃ってゴホゴホと咳き込んで飛沫を飛ばしてく来ていることだった。
こんなのマスクを着用してなければ、俺はとっくにお陀仏だったぜ!!
この瞬間ほど、用心深くマスクの着用を欠かさない俺自身の取ったアクションを褒めてやりたいと思ったことはないのではないか。
が、それもつかの間の自画自賛となった。
何故なら眼前にふてぶてしく陣取っていた残された長男が、今まさに手にしていた銃口を俺に向けて照準を定めようとしているのだから。
プロの俺には一目でわかったが、長男が手にしている銃はモデルガンでもなく、もっと簡素でお手軽な水鉄砲だった。
だからとて、予断を許さない危機が去ったわけではない。
長男は慈悲もなく何ら躊躇う様子も見せずに、引き金を引きやがった。
「ファイア!!」
舌足らずに活舌もそこそこに放たれた発砲の号令に、一直線に俺の口元・マスクを目指して液体が飛んできた。
か弱き力と侮れない両腕をロックされた状態で俺のマスクに、液体は見事に命中して布にみるみる浸食してきた。
まあしかし、所詮はただの水鉄砲、水道水を浴びせられたところで俺に決定打を与えるには及ばない。
そうたかをくくっていた俺の認識が、数秒遅れの時間差で打ち壊されることになろうとは。
ただの水道水だとばかり思っていたその液体が、妙に臭う。
それどころか嗅覚を刺激する異臭は留まるところを知らぬ勢いで、悪臭気を増しては刺激を伴って俺にダメージを与えてくるからだ。
「くっせえぇーーーーーーーーーーーーー!!!!」
鼻が曲がるどころか、ポロっと外れて落ちてしまいそうな匂いがマスク越しに漂っては、口に鼻に目にジャブを織り交ぜて強烈なストレートの一撃を次々と見舞ってくるのはどうしてだ!?
キャラに似合わずに大声で悲鳴を上げてしまった衝撃で、俺の両腕からは子供たちが転げ落ちていき、革張りの椅子に見事にダイブしてきれいに着地して、けたけたと笑っているけれども。
なおも臭い続けてくるこの悪臭は何なんだ!?
何の匂いかと聞かれても一言では言い表せない、該当する正体は掴めない。
あえて言うなら、ドリアンとナンプラーを大量に混ぜ合わせたようなそんな香り。
水鉄砲いっぱいに込められていた謎の液体をすべて発射し尽くした長男によって、俺のマスクはもうずぶ濡れの水浸しになってしまっていて、恐怖の液体が顎を伝って滴り落ちている。
目からは涙が溢れてきて止まらない、鼻からは鼻水も同様に大洪水で、口は呼吸もままならず咳き込んで苦しむしかない俺。
激しさを増すばかりの痛苦に、俺はとうとう耐えられなくなってしまい、あろうことかマスクを外すしかなかった。
久し振りに白日の下にあらわになった俺の口は最大限に開かれ、浄化された酸素を求めてやまない。
ラジオ体操以上の激しい深呼吸を繰り返していく俺の動作に、が待ったをかける連中があった。
またしてもさっきの子供たちだ、末っ子と長女が大きく伸ばされた俺の両腕に飛び移って来やがったのだ。
いくら子供の軽い体重とはいえ、それが2体同時に飛び乗られれば一気にかかる負荷はそれなりのものとなって、少しよろめいた俺はしゃがみ込むように体勢を崩してしまった。
それを待っていましたと言うかのように、俺に悪臭満載の液体を浴びせてきた長男がにじり寄って来ては、頬を摺り寄せてきやがった。
俺の頬と長男の頬が密着してゼロ距離となったのを決起として、ゴホゴホと盛大に咳き込みだして今度は風邪のウイルスを撒き散らし浴びせにかかってくる。
咳き込む発作を感じても手を押さえて飛沫を阻止する配慮など皆無の、幼子特有の力技に俺は気が気ではなかった。
風邪がうつってしまうのは飛沫感染によるところが大きい、とりわけ咳やくしゃみによって空中に舞った飛沫を鼻や口から吸いこんでしまうことが最大の元凶。
なのにだ、俺は今意図せずマスクを外され完全なる丸腰、口も鼻も丸出しの状態。
おまけに極至近距離から容赦なく発射されるこの攻撃を防ぎ切れるだろうか、俺は自分の身に降りかかってきた危機に対処すべく、究極奥義を繰り出す時が来たと心に覚悟を宿した。
 俺は息を止めて、まず空気中からの酸素の供給を完全に断った。
続けて精神を統一するように、全神経を集中させていった。
さながらバトル漫画の様相を呈しつつある院内の待合スペースだが、やっている俺は超真剣である。
感覚を研ぎ澄ませていく俺は、血液の循環と共に体内を巡っている気の流れを感じ取っては、目を見開いて叫んだ。
「斗毛元サーキュレーター!!!」
説明しよう。
「斗毛元サーキュレーター」とは、かつて俺が妻との新婚旅行でハワイに赴いた際に出会った、胡散臭い日系人に教えられて体得した究極奥義の1つである。
全身に流れている自らの気の流れを操作して、莫大な風圧とエネルギーを持って口と鼻と耳から体内の空気を一気に放出する大技であり、この技を使用している間は外部からの空気、細菌やウイルス等の一切の侵入を一時的に完全に遮断することができるのであった。
「コオオオォォォォォォーーーーーー!!!!」
その圧倒的な迫力と技の威力の前には、さしもの3兄妹も圧倒されてしまい母親の元へと逃げ戻っていくしかなかった。
「ママアァーーー!!」
「かあちゃーん!!」
「うんこーー!!」
泣き叫びながら胸元に飛び込んでくる3人の我が子を抱きかかえた母親は、「キッ」と俺の方を睨みつけてきて悪態をつく。
「何なのあのオッサン!!行きましょう、こんな病院2度と来るものですかーー!!」
ヒステリックを発動させた母親というものはすさまじく、受付に向かってはキャンセルの意志を伝え、脱兎の如くスピードで3人の子供を抱えたまま出て行ってしまった。
オッサン呼ばわりされて心外な俺だが、ひとまず目先の危機を脱したことでトイレへと駆け込んで、入念に顔を洗い流して付着した悪臭を排除することに終始した。
手洗い場の前に陣取って、身体をかかんで低く姿勢を保ちつつ、腰が痛くなってもお構いなしに何度も何度も洗い続ける。
いくら洗っても悪臭がまだ残っている気がしなくもないが、他の利用患者を寄せ付けずに独占したことで、かなりマシになったと思うので良しとしよう。
トイレから出る際には、スペアのマスクを再び着用して俺は待合スペースへと戻って行ったのだった。

 「斗毛元さーん!!」
待合スペースに戻ってからまたしばらく待って、ようやく俺の名前が呼ばれた。
「はい。」
俺は粋に立ち上がると、ダンディズム全開に受付の看護師に応えた。
「診察室の方へどうぞ。」
「どうも。」
決め顔を作って渋く微笑みかけた俺に、看護師から返ってきたのは軽蔑を込めたごみを見るような視線だった。
どうやら、先程の袋とじの一件をまだ引きずっているようである。
その反応にいかにも気にしていませんよという体を装って右手を挙げて闊歩していく俺の胸中は、柄にもなく取り乱してしまった自分自身への後悔が少しと、看護師にすっかり軽蔑されてしまって泣きそうな感情が大半を占めていた。

 診察室の前にやって来た俺は、扉を2回丁重にノックして様子を窺った。
「どうぞ。」
旧知の間柄の院長小谷が所用で不在のため、返ってくる声は若い男性のものだった。
扉を開けて室内へと足を踏み入れた俺を、白衣に身を包んだ男性医師が出迎えてくる。
傍らに女性の看護師を携えて、椅子に腰かけた医師が口を開いた。
「本日、院長の代理を務めさせていただきます、医師の川中です。」
「どうも。」
ニヒルかつ余裕を感じさせる口調で返答し、俺は入室直前に検温のために渡されていた体温計を手渡した。
差し出された体温計を受け取る川中の手のひらに、俺の危機察知能力がわずかに反応したのは、これから注射を打たれることへの緊張感から来る気のせいなのだろうか?
「平熱ですね・・・。予防接種を受けるにあたり、問題ないでしょう。」
体温計に表示されている数値を見ながら、たいした興味もなさそうに川中が告げてくる。
「では、腕を出していただけますか?」
川中は早速注射に取り掛かるべく要求してきて、俺はスーツのジャケットを脱ぎワイシャツの袖をめくっては右腕を差し出した。
注射器を手にした川中は、ピストンを少し動かしては針の先端から液を滴らせている。
「では、行きますね。」
傍らに立つ看護士が微動だにせず、緊張感の満ちた表情でこちらの様子に釘付けになっている中、まさに今、針の先端が俺の動脈へと突き刺さらんとしたのだが。
俺は素早い身のこなしで川中の動きを封じるように、左手で注射器を持つ腕を掴んで阻止した。
「な・・何をするのですか!?」
がっちりと注射器の自由を奪われた川中が戸惑いの声を上げるが、俺は情け容赦なく言い放った。
「それはこっちのセリフだぜ!!お前さん、一体俺に何を注射するつもりだったのかな!?」
「一体何を言っているのですか!?インフルエンザのワクチンに決まっているじゃないですか!!」
「とぼけるんじゃねぇぜ!!大方筋弛緩剤でも打って、俺を行動不能にするつもりだったのだろうが!!」
「何のことですか!!」
「はっきり言って、俺にはこの診察室に入った瞬間から違和感しかなかったぜ!!」
「・・・・・・・・・!!」
「上手く院長の代理で派遣されてきた医師に化けたつもりなんだろうが、俺には通用しねぇぜ!!」
「な・・何を証拠にそんなことを言うのですか!?」
「お前さんの手のひらにある、そのタコが動かぬ証拠だ!!」
「!?」
「医師にしてはおおよそ不釣り合いにできたタコ、できている箇所や形状から銃器やナイフを長期間に渡って使用している人間のそのものだぜ!!」
「くっ!!」
「それにな、注射器を手にする前後から、お前さんの肩から腕にかけての筋肉が極度に緊張しているのは一目瞭然だった。いくら若い医師だからと言って、ただの予防接種の注射1つにそこまで緊張を強いられるのは不自然過ぎるってもんだぜ!!」
「・・・・・・・。」
「・・・・・・・。」
診察室の狭きスペース内で、非日常感がありありと感じられる張りつめた空気が拡散していく、さながら一瞬たりとも気を抜くことを許されない戦場の如く。
「・・くっくっくっ・・・はっはっはっはっはっはっはーー!!さすがは未来久留巣さんが血眼になって殺そうとしている奴だ!!」
「ちっ・・・!!」
やはり未来久留巣によって差し向けられた刺客だったか・・・・。
「ふんぬ!!」
川中はそういきむと、関節を操作して俺に掴まれていた腕を、白衣を残したまま引っこ抜いて後ろに飛び移った。
上半身は裸で黒いパンツ姿で構えを作って牽制してくる、カンフーの達人顔負けのスタイルだった。
そしてその隣には、ピンク色の白衣を身に纏った看護師がメスを握りしめて、女の殺し屋と化していた。
1対2の肉弾戦、狭い診察室というフィールドが戦いにどう影響するのか?
やれやれ、今日は定休日で予防接種を受けに来ただけなんだぜと、俺は嘆きながらも迎撃のスタイルを取って相対した。
 「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
殺るか殺られるか、一応言っておこう、ここは府内にあるクリニックの診察室である。
「きえぇぇぇーーーー!!」
先に動いたのは川中だった。
左右交互に手刀をお見舞いしてくるが、華麗なるフットワークを駆使して俺はかわし続けていく。
こちらも攻撃に打って出たいところだが、なまじ技量の高い者同士の戦闘においては、下手に動くと大きな隙を作ってしまうことになるため、交わし続けて機を窺うのが賢明だ。
だがそれは1対1のサシの攻防における定石であり、タッグを組んでいる相手側は事情が異なる。
案の定しびれを切らした看護士に扮した女性の殺し屋が、間合いを測りつつじりじりと近寄って来ては、ついに俺の背後を取った。
妖艶に色っぽく微笑みをたたえた女は俺に向けて凶刃を投げ放った、迫り来る無数のメスを切っ先を視界の端に捉えた俺は、殺し屋を生業にするにはいささか美し過ぎるのになと思いつつも、両手を床についてブリッジを決めてこれをかわした。
するとかわされたメスの行き着く先は川中以外にあり得ない。
視界から突然消え失せた俺に対する驚きと動揺も手伝って、判断が遅れがちになり、1つのメスが見事に額に命中し血飛沫を上げながら深く突き刺さった。
人体の急所の1つを射貫かれた川中は崩れ落ち、ブリッジの体勢から反動をつけた俺の蹴りが女の腹部にジャストミート。
呼吸ができなくなった女は、同時に意識を失って倒れていった。
俺は倒れた女に目を向けて、何とかこの着用済みのナース服をいただけないものだろうかと邪な思いを抱きかけたが、診察室の外側からなおも殺意がこもった意識が向けられている現状に、泣く泣く断念するしかなかった。

 診察室の扉を内側から数ミリ開いた刹那、待合スペースなどの室外から銃弾の一斉放射が降り注いできた。
あらかじめ警戒していた俺は被弾などしているわけがなかったが、多方向からの銃弾の雨あられの対応に頭を悩ませた。
とりあえず川中の死体を使わせてもらおうと、生前とは段違いに重たくなっている遺体の首根っこから持ち上げた俺は、自身の身代わりの盾としてリサイクルに打って出た。
再び扉を開き、先程とは違ってこれみよがしに開け放たれたのを決起に、銃弾が飛び交っていく中に川中を放り投げた俺は、その死体が蜂の巣になっていく間に物陰に体を滑り込ませることに成功した。
囮作戦大成功、川中よ安らかに眠れ。
だが敵もそこまでバカではない、自分たちが撃ち抜いたのが俺ではないことに気付いて、院内に視線を彷徨わせだした。
今日の俺はあいにく銃を携帯していない、その代わりに診察室で女が所持していたメスや、使えそうな医療器具を拝借して代用することになった。
 観葉植物に身を隠した俺は、院内に目を通し敵の正体を確かめている。
その顔触れは老若男女で多種多様だった。
一見よぼよぼの腰の曲がった老人男性に戦場よりもスーパーマーケットの食品売り場が似合う主婦、インテリジェンスな空気を纏った30代のサラリーマン、セーラー服が眩しい10代の女子高生と、色んな意味で労働基準は大丈夫かと問いたくなる面子が勢揃いして、クリニックの職員に扮した連中と合わせて、20名の殺し屋が一様に俺の命を狙っていた。
まず俺は手近なところから仕留めにかかる、1番近い掲示板に張り付いていた看護師と廊下に這いつくばっている男性医師に向けて、それぞれメスを投げ放った。
2人は銃撃する間もなく、的確に頸動脈にメスが刺さって息絶えた。
続けて革張りの椅子に身を潜ませている連中の始末だ。
2脚ずつが1塊で合計32脚の椅子の裏には、10名の殺し屋が息を潜め引き金に手をかけている。
椅子部隊は列ごとにローテーションを組んで、一定のリズムで発砲してくる作戦に出たようだ。
ならばこちらは、その規則的なリズムを利用させてもらうとしよう。
真ん中の列からキャリアウーマン風なスーツ姿の女が撃った銃弾が俺の肩をかすめてよろめくが、これは俺の芝居である。
よろめいた振りをして前方に3歩出た俺は、消毒液を染み込ませるために丸められた綿を次々放り投げて、隊列後半の5人の銃口にすっぽりとはめ込むことに成功。
この状態で引き金を引けば、銃は暴発して自分たちが致命的なダメージを負ってしまう。
これに慌てた隊列前半の5人が、自ら攻撃のリズムを崩して俺に反撃のチャンスを与えてしまった。
俺はスーツのジャケットのポケットをまさぐっては、診察室から持ち運んできたハサミやらカッターナイフなどの、殺傷能力があり鋭利な医療器具や文房具をサウスポーから投げ込んでは、殺し屋たちの身体に次々と命中させて、致命傷を負った連中は意識を失って戦闘不能となっていくのだった。
 残る殺し屋は8名、受付のカウンターの中やレントゲン室、トイレの中という3か所に分散してこちらを警戒しているようだ。
俺はまずカウンター内の女性看護師軍団を相手取ることにした。
何か良い物はないかと思案していた俺の脳裏に、妙案が思い付きさっそく実行に移す。
ジャケットのポケットの中に、この前縁日で大量購入したやけにリアルなゴキブリを模したおもちゃが入れっぱなしになっていたのだ。
そこで両手の中から零れ落ちそうなほど大量にゴキブリを掴んだ俺は、受付カウンターの中に放り投げた。
次の瞬間、女たちの阿鼻叫喚といった具合の悲鳴が院内に木霊した。
殺し屋と言えど女性、大量にゴキブリが出没すれば正気は保てまいと睨んでいた通り、実にきゃわいいリアクションを取りながら、女たちが我先にと全員でエスケープしてきた。
すかさず先ほど撃破した銃撃隊からちゃっかり奪っていた戦利品の銃で、的確に急所を狙い撃ちして、4名の女たちが床の上に倒れ伏していった。
 残り4名、長期戦にもつれ込むより一気に決着をつけたい俺は、制覇した院内の陣地を後にしてレントゲン室の前に移動した。
今度はやはり先日の縁日で入手していた爆竹を取り出して、ライターで着火すると室内に放り込んだ。
「バチバチバチバチ!!」と盛大に騒音を奏でながら暴れまわる爆竹に驚いた連中が、室内から飛び出してきた。
レントゲン技師に扮した男性2名の扉から突き出してきた肛門目掛けて、俺は引き金を引いて銃弾を撃ち込み瞬殺した。
崩れ落ちた2名の男は、共に肛門から大量出血しており、これから先痔よりも苦しい痛みに襲われることだろう、下手をすれば2度と座って用を足せないかもよ。
尻を押さえて呻き苦しむ男たちを見やりながら、「縁日に行っておいて良かった。」と、しみじみ思うのだった。
 それはさておき、残る殺し屋は2名のみ。
直角に区画された柱を分岐点として、トイレから銃を構える殺し屋と俺の戦闘を残すのみとなった。
男性トイレから1名、女性トイレからも1名、律儀と言うべきかちゃんと男女に分かれて俺を待ち受けていやがる。
個室に仕切られた男女それぞれのトイレの扉を盾にして、こちらの動きを注視しながら男女の殺し屋たちが銃を構えている。
これでは一方に攻め入れば、残るもう一方の殺し屋に餌食になってしまう。
俺はいったん後退して、受付のカウンター内に潜んでは体勢を立て直しているところだ。
そんな俺の視界に、正規の職員の私物であろうスマートフォンが充電中のまま、コンセントに差されているのが留まった。
これは使えるなとニヒルに笑った俺は、コードごとスマホを抜き取り携えたまま、トイレの近くに戻って行った。
狙うべきは殺し屋たちではなく、2つのトイレの中間地点の壁にあるコンセントだ。
右手にスマホを握る俺は革靴で床を叩いてリズムを刻むと、精神の集中が完了したと同時に勢いよく飛び出していった。
廊下をジグザグに走りながら移動する俺を、殺し屋たちが交互にしかし空白を作ることなく撃ち続けてくる。
俺は飛び前転をするようにその雨の中をすり抜けて、目的のコンセントの前に滑り込むと、右手に握っていたスマホのコードを差し込み、充電が開始されたことを知らせるライトの点灯を確認して、すぐにその場から撤退してみせた。
そのまま柱の陰に身を収めたまま、今度は天井に設置されている火災対策のための火災探知機に照準を定めて、引き金を引いた。
一直線に火災探知機に向かって飛んでいく弾丸が、見事に貫通して非常ベルが鳴り響いていった。
そして間髪入れずに天井に設置されたスプリンクラーから、院内に向かって水が大量に放出されていく。
複数のスプリンクラーから放たれた水によって、トイレの前を中心とした院内の床に水が撒かれていき水位が増した結果、水浸しに変わり果てていったのだった。
これには殺し屋たちも降り注ぐ水流を無視することはできずに、少しでも流水の被害から逃れようとトイレから飛び出してきた。
が、俺はこの瞬間を待っていたのだ。
トイレの外の廊下に出た瞬間、男女の殺し屋の足先から頭のてっぺんに向かって、激しい電流が流れ込んでいき自由を奪い去っていった。
そう、先刻俺がコンセントに差し込んだ充電中のスマホに流れていた電流が、眼下の床に溜まった水たまりの影響を受けて殺し屋たちの身体へと流れ込んで、激しく感電したのだった。
男も女も殺し屋たちは一瞬のうちに全身を駆け抜ける電流には対抗できず、顔面から床に倒れ込んでいった。
それは致死レベルの感電によって、最後の殺し屋2名までも撃退することに成功したことを意味していた。

 医師に扮した殺し屋の川中を筆頭に、20名以上の俺の命を狙ってきた連中を撃退することに成功はしたが、まだ気を抜くには早いぜ。
返り討ちにしてやった連中を待合スペースに集めて、ロープを使って動けないように拘束した。
壮観とも言うべき、どいつもこいつも伸びてぐったりしている意識なき縛られ拘束されている連中の前に佇んでいる俺。
見ようによってはこの図は拘束された一般人たちを人質にクリニックに立てこもっている、俺がテロリストに見えてしまいそうで、あまりいい気はしなかった。
油断を見せない俺は銃を構えたまま、院内の隅から隅まで見落とすことなく順に回り、他に殺し屋が潜んでいないか、細心の注意を払って調べることにした。
その道中2階にある更衣室に踏み込んだ際に、口をガムテープで閉じられ全身をロープで縛られている十数名の男女を発見した。
俺はその中の1人のガムテープを外し、銃口を向けたまま話を聞いてみた。
「ひいいいぃぃぃーー!!どうか撃たないで!!」
「・・・・・・・・・。」
俺の鋭い眼光と銃口を向けられた中年男性は、パニック気味に取り乱して言葉を何とかつないで口に出していった。
「私たちは・・・・このクリニックに勤める・・・医療スタッフです!!」
その言葉を信用するべきか、俺は銃の構えを解かないまま、他の拘束されている面々に目を配り観察してみた。
うん、確かに男の言う通り、看護師を含めてこのうちの何名かの顔には見覚えがあった。
なので俺は警戒を完全に解きはしないものの、1名ずつ拘束を解いて解放していった。
数時間振りに体が自由になり、ようやく自由になれた実感を噛み締めるように、連中は各々に凝り固まってしまった全身をほぐしている。
どうやら、連中には殺意も敵意もないようであり、俺はホッと胸を撫で下ろした。
その後まだ確認できていなかった箇所もすべてチェックしたのだが、新たな敵影を発見することはなかった。
院内の変わり果てた姿を目にして動揺している医療チームたちとは対照的に、俺はひとまず危機を脱したことを実感していた。

 院内の1階部分に関係者が集まった中、クリニックの外には点滅するサイレンも鮮やかに、続々とパトカーが到着してきて、警察の事件への介入が始まるところだ。
上松瀬警部を先頭に所轄の刑事や鑑識たち警察官が大勢押し寄せてくる。
「おう、斗毛ちゃん!!災難だったな。」
「まあな。」
俺の姿を見付けて上松瀬警部が声を掛けてきた。
俺とは小谷同様に長年の公私に渡る付き合いで、何かしらの事件やトラブルに遭遇した際には何かと世話になっている男だ。
今回も人質を解放した直後に俺が直々に上松瀬警部に連絡を入れ、事件の大まかな概要といきさつを伝えられ陣頭指揮を執って駆けつけてきたのだった。
「悪いけど、また後始末の方頼めるかい?」
「おう、任せておけ!!いつものようにこちらで上手く処理しておくから。」
「すまねぇな。」
「いや、気にするな。それよりさ~斗毛ちゃん、この前紹介してもらった熟女パブ、ものすご~くよかったぜ!!」
「それは何よりだ。」
大阪府警内において敏腕警部として鳴らす上松瀬警部は、その噂に違わず切れ者で頼りになる人物だ。
俺の店で「永久無料パス」を発行している間柄でもあり、その代わりに俺の身に降り注ぐ事件に際しては、いつも何かと上手いこと手を回してくれ、言い方は悪いが痕跡を誤魔化してくれたり。
ハードボイルドに生きる男にとって、頼りになる刑事の相棒は欠かせない。
まあ民間人との癒着と突っ込まれれば、身も蓋もないのだが、「熟女に目がない独身中年」という点を除けば、これ以上ないくらい頼りになる相棒と言えるだろう。
「じゃあ、俺はこれから後始末にかかるから。」
「ああ。」
積み上げてきた数々のキャリア・貫禄を感じさせないそぶりでそう言い残した上松瀬警部が院内に入っていったのを見送った俺は、早く引き上げるべきだなと思っていた。
思っていたのだけれど・・・、警察官によって封鎖されていた入り口から、慌てた様子で1人の男が入って来ては、俺の元に一目散にやって来る。
「ちょっと~斗毛元さ~ん!!これは一体どういうことよ~!?」
「小谷さんか・・・。」
現れたのはこのクリニックの院長であり、今日は学会のために不在となっていた小谷だった。
クリニックに勤務する医療スタッフから連絡を受けて飛んで来たのだろう、息も絶え絶えに取り乱している。
「見ての通りだ。」
「ほわーーーーーーーー!!」
自分の分身とも言うべきクリニックは、至る所に戦闘によってできたダメージの爪痕が痛々しく生々しく具現化している。
キャディー顔負けに発狂した小谷は、この世の終わりみたいな表情をしていた。
「と・・とりあえず、奥で詳しい話を聞かせてもらえるか?」
「ああ。」
正直もう帰りたい気分だったが、こうなった一因は俺にもあるので応じるしかないだろう。
小谷に連れられて、俺は院長室に入っていくのだった。

 「・・・というわけだ。」
「なるほどね~納得だわ~!!ってなると思っているのかい!!」
「・・・・・・・・・。」
「何が殺し屋だ!!何が未来久留巣の策略だ!!」
「・・・・・・・・・。」
「わしのクリニックが・・・・・わしのクリニックが・・・・・・!!」
「まあ落ち着け、きっと上松瀬警部が悪いようにはしないはずだ。」
「はい、他人事発言来ました!!丸投げ宣言が飛び出しました!!」
俺から一通りの事情といきさつを聞き終えた小谷だったが、普段の温厚で冷静な性格はどこかに置き去りにしてきたように取り乱し、年齢には釣り合わない子供のような癇癪と八つ当たりをかましてきたのだった。
「一体クリニックの修復にいくらかかって、どれくらいの期間を要すると思っているのかなー!?」
「その辺りも、上松瀬警部が間に入って保険屋に上手く話をつけてくれるだろう。」
「果たしてそうかな!?」
「あんまり細かいことを言うものじゃないぜ。いいじゃないか、儲かっているんだし。」
「そういう問題なのかなーー!?いんや、違うなーーー!!」
なかなかどうして、小谷さんずいぶんとお怒りのようであらせられる。
そんなに怒ったら、血管切れちゃうよ。
怒鳴り疲れて取り乱し過ぎたのだろう、小谷はスプレー缶を手に取って酸素を補給している。
「すー・・・すー・・・・すー・・・すー・・・・。」
「少しは息を吐いた方がいいんじゃないか?酸素の過剰摂取で倒れるぞ。」
「はぁ・・・はぁ・・・・はぁ・・・はぁ・・・・・!!」
今度は息を吐くしかしない小谷、こんなに加減のできない人物だっただろうか?
 10分が経過した頃、少しずつ冷静さを取り戻したらしい小谷。
「そう言えば、今日は予防接種を受けに来たんだったな?」
「ああ・・・そうだったな・・・・。」
激闘を繰り広げた俺にとって、クリニックに足を運んだ本来の目的はもう遠い昔のように忘れ去りかけていた。
「よし、今ここでやっちゃいましょう!!」
そう言い切るや否や、小谷はどこから取り出したのかワクチンが充填された注射器を持っていた。
そしてそのままアルコールによる消毒もなしに、無作法かつ無遠慮に俺の腕に問答無用で注射器を突き刺したのだった。
「ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!」
院内に轟く俺の悲鳴、うんやっぱりまだ怒ってたんだね、完全に根に持っていたんだね。


 暗い室内にノイズ混じりの音声が流れている。
「こちら吉郎。ターゲットの殺害に失敗しました!!・・・・繰り返します、ミッションは失敗に終わりました!!」
斗毛元殺害作戦の失敗を告げる無線機からの音声に、男は太く青筋を浮かび上がらせて全身を震えさせている。
震えの原因は恐怖によるものなどではない、自らが描いた筋書きが破綻したことによる、自身と配下の者たちへ向けられた怒りの感情に置いて他ならない。
赤いパンツ一丁の男は、軽々と室内に設置してある危機を持ち上げては、片っ端から壁に投げつけて破壊を繰り返していく。
それでも一向に興奮と怒りが収まらない様子の男は、そのままでも十分に立派な筋肉に力を込めて、さらに何倍にも膨れ上がらせ隆起させていった。
「斗毛元・・・・斗毛元・・・・コロス・・・・・!!」
肥大化した筋肉が心臓からの血流に呼応するようにドクドクと脈打っている。
まるで斗毛元最期の日への、カウントダウンを数えるように・・・・。


 
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登場人物紹介

斗毛元 40代の中年理容師

大阪府内某所にベルべレソンという理容室を営んでいる。

ハードボイルドに生きることを生業として、様々な客や困難に立ち向かっていく。

妻・・・30代後半、斗毛元の意向によりバーを経営しているが文句タラタラの恐妻。

シュウさん・・・武器や様々な器材を調達してくれる斗毛元の強い味方。

服部・・・斗毛元馴染の蕎麦屋の店主。

上松瀬警部・・・斗毛元とは旧知の間柄であり相棒の敏腕警部。極度の熟女好き。

米谷・・・ベルべレソンの常連客。常にしゃべり続けて絡んでくるウザい芸人顔負けの一般人。

未来久留巣・・・かつての斗毛元の上司であり、理容師業界に一大勢力を築いている。斗毛元抹殺を誓い、手段を選ばずに襲いかかってくる。

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