第9話

文字数 9,083文字

 大阪府某所。
自動車が行き交う往来の大通りを挟んで、辺り一面ビルが立ち並んでいるオフィス街。
その都会のジャングルの中において、一際壮大な外観を伴って佇んでいる高層ビルの最上階の一室にて、天上人が下界を見下ろすようにガラス越しに階下の流れ続ける光景に目をやっている恰幅の良い男が1人。
オーダーメイドであつらえられた仕立ての良いスーツに身を包み、庶民には手を出せそうにもない1本あたりの単価が極めて高そうな高級品の葉巻を咥えて、煙を吐き出したその男は、左腕にはめた腕時計に目をやって時間を気にしている。
純金で作られ至る所に宝石が散りばめられた世界に2つとない腕時計の針は、確実に刻一刻と時を刻んでいた。
「そろそろか・・・・・。」
 男が重々しく吐き出したのを合図にしたわけではないのだろうが、ほぼ同じタイミングで部屋のドアがノックされた。
「入りたまえ。」
男の招き入れる声に導かれて、スーツ姿にメガネをかけた女性が恭しく忠誠の態度を示しながら、室内へと足を踏み入れてきた。
「失礼いたします。会長、お客様がお見えになりました。」
「通してくれ。」
「かしこまりました。」
威厳溢れる男の指示に模範的な姿勢で一礼しながら、女性は訪問した来客を自身と入れ替わらせるようにして室内に誘った。
緊張感に満ち満ちた室内に、スーツを着こなした中年の男が一部の隙も無い足取りで入ってきたのだった。

 「15時ジャスト。時間ぴったりだな。」
いつ見てもあまり趣味が良いとは思えない腕時計を見やりながら、俺の到着を確認して男はわずかばかり表情を緩めて見せた。
「当然だ。」
不愛想に俺は答えたが、男はそんな俺の態度に対して特に気にするそぶりも見せない。
「オレンジにするか、それともアップルか?」
来客者の俺に対してドリンクの希望を尋ねてもてなそうとする男だったが、どちらを選択してもジュース一択じゃねぇか。
そこはせめて、コーヒーか紅茶くらいにしてほしいものだぜ。
「いや、いい。」
「相変わらずつれない奴だ。」
「それよりも、俺を今日ここに呼び出した理由を聞こう。」
「・・・・・・・。」
オッサンと同室で長時間過ごすことは、俺にとってあまり好ましいことではないため、ストレートに本題へと入り説明を求めた。
「では、とりあえず座ってくれ。」
男はそう言って、室内の中央に対面式に設置された革張りのソファーへの着席を促してきた。
言われるまま、俺は窓を視界に捉えて壁側の方のソファーに腰を下ろした。
黒を基調とした革張りのソファーは、100万円はくだらないであろう代物だろうが、座り心地に関して言えば俺にはそこまでの快適さを得ることはできなかった。
そんなソファーの間には小さめのテーブルが置かれていて、男はその上にアタッシュケースを運んできては、大事そうに乗せて語りかけてきた。
「斗毛元よ、お前を呼び出したのはこれだ。」
「・・・・・・・。」
「このアタッシュケースを指定した場所に運んでほしいんだ。」
「中身は何だ?」
「それについては・・・・、知らない方がお互いのためになる。」
「どこへ運べと?」
「堺市の南区、片蔵の某所に住むとある人物に届けてもらいたい。」
「・・・そんなものは、宅配業者にでも頼めばいいだろう。」
「それがな、そうもいかんのだ。」
「何故だ?」
俺の問いかけを受けた男は立ち上がって、室内の自分のデスクの引き出しから封筒を取りでしてきて、同封の紙切れを俺の方に差し出して見せた。
そこには「ブツの運搬を中止せよ。従わない場合、我々はいかなる手段を用いてでも断固阻止する」という趣旨の、脅迫めいた文字が綴られていた。
「・・・・・・・・。」
物騒な文面を目にした俺がしばらく逡巡していると、男が沈黙を破り説明を始めた。
「このように、通常の配送ルートを使用した運搬は困難を極めるだろう。そこでだ・・・」
一旦言葉を区切った男が、覗き込むように俺に顔を近付けて来る。
近い近い近い近い近いよ!!
「斗毛元、君の出番というわけだ。」
凛々しく蓄えられた眉を吊り上げて力を込めて断言する男に、俺は反論を試みてみる。
「だがな・・・・・。」
「頼む!!世界広しと言えど、この仕事を頼めるのは斗毛元、君以外にはありえないのだ!!」
「・・・・・・・・。」
確かにこの手の仕事も、報酬などの条件次第では引き受けなくもない俺だが、断っておくが俺は理容師である。
今日も店を臨時休業にしてまで、はるばる呼び出しに応じてここにいるのだ。
だが男は生い茂る体毛を袖口から覗かせて、力強く俺の腕を掴みにかかってきた。
「ねぇ、頼むよ~うんと言ってよ!!俺とお前の仲だろう~!?ね、会長のお願い!!ここは俺の顔に免じて、頼まれてくれよ~!!」
先ほどまでの重厚な威厳はどこへ行ったのか、全身をくねくねさせながら懇願してくる男、否会長。
会長たるこの人物とはそれなりの付き合いがあり少なからず返すべき恩もあった俺は、直々の依頼を受けることもままあるといった間柄だった。
俺に対して全幅の信頼を置いているらしいこの会長。
だが自身や周囲の人間から会長と祭り上げられ敬われているこの会長が、一体何の会長なのかを俺は未だに知らなかった。
そういう意味では謎多き人物なのだが、会長自身の口から語られることは今日までないこともあり、またこの疑問をこれ以上追及・解明してはいけない得も言われぬ絶対的なタブー感が存在していることもあってか、俺も会長の最深部には触れないままでいる。
「ねぇ~お願いだよ~斗・毛・元~!!」
会長とのこれまでのいきさつについて少しばかり思いを巡らせていると、会長は高級スーツをしわくちゃにしてしまう勢いで、俺の右腕を木の枝に見立てたとでも言うのか、コアラのように器用によじ登りだして懇願を続けてきた。
えーい、鬱陶しい!!
俺の右手に、会長のおてぃんてぃんの感触がーー!!
 アイロンをかけたばかりの俺のスーツにまでシワができてしまうことを恐れ、振りほどこうとしている時、脅迫文が書かれている手紙に違和感を覚えた。
手に取って念入りに紙の質感を確かめた俺は、これがただの便箋ではないことに気付き、懐からライターを取り出して火を着けた。
便箋に着けられた火は瞬く間に燃え広がり、灰になるのかと思いきや、禍々しい文字を浮かび上がらせていった。
「せいぜい阻止してみろ 未来久留巣より殺意を込めて」
その便箋に施されたあぶり出しの仕掛けよりも、溢れんばかりの殺意がありありと伝わってくる短い言葉に添えられた因縁たる宿敵の名前。
仕事を引き受けるべきか渋っていた俺の心は掻き立てられ、闘志と共に湧き上がってくる感情が決断をさせた。
「わかった、引き受けよう。」
「ホンマに!?」
未だ俺の右腕にコアラのようによじ登ったままの会長、おかげで俺の右半身は左半身に比べてダラリと大きく垂れ下がっていて、身体の片側だけがテナガザルみたいになっている。
ていうか重いんだけど、早く降りてくれない!?
これから重要な仕事を頼もうという相手の身体を、取り掛かる前に壊すつもりでっか!?
俺の返答を受け取り、上り棒からするすると降下していく要領で、会長は床の上に降り立った。
「やったーやったー!!うれしいなーー!!」
小躍りしている会長はさておき、俺としては仕事を引き受けると決めた以上、この案件はすでにビジネスであるから報酬に関して話を詰めておく必要があった。
「報酬なんだが・・・・」
「わかってるわかってる、皆まで言うな!!」
プロとして仕事に徹する俺の流儀は十分に理解していると言いたげに、会長は小切手を手にこの依頼に対する報酬の額を書き記しているようだ。
「ほい!これでどうや!!」
得意げに差し出された小切手には、「時給1500円」と書かれていた。
安っ!!何、コンビニの深夜バイト!?
最低賃金も各都市で値上がりを見せているという昨今、これから命を懸けるかもしれない危険な仕事の報酬としては、物足りないどころの騒ぎではなかった。
「ふざけているのか!!今日日学生のバイトでも、もっと稼げるものがあるぞ!!」
怒りに任せて小切手を握りしめていた俺は、会長の眼前でビリビリに破り捨てて紙吹雪を舞わせて詰め寄っていく。
「冗談冗談!!怒った!?」
「・・・・降りるぞ・・・・。」
「ウソやって!!ちゃんと払うよってに!!」
俺の反応を楽しむかの如く、会長はすぐに新たな報酬金額を提示してきた。
電卓の画面上に表示された、「12000」の数字の羅列。
「時給12000円でどうや!!さっきの金額のほぼ10倍の大盤振る舞いよ!!」
「やっぱり時給制かよ!!何なのその頑なまでの時給制死守主義は!?俺はアルバイト雇用ってか!!」
「まあまあ、無事に仕事を完遂した暁にはボーナスも付けるさかいに!!」
「・・・・・・・・。」
「それにな、運搬に関して発生する経費諸々は後始末も含めてすべて俺が負担するから。」
「・・・・・・・・。」
まあただ物を指定の場所に運搬するだけなら、時給12000円というのは仕事としては悪くはない。
だがしかし、その裏では俺がこの運搬任務に駆り出されることを始めから見越していたとでも言うべき、未来久留巣のあからさまな俺に対する挑戦心が込められているとなると、まったく事情が異なる。
「安心・安全・楽しいお仕事!!頼んだぞ、斗毛元!!」
何その、「明るく・楽しく・笑顔が絶えない」みたいなブラック企業の求人広告ばりの口説き文句は!!
と突っ込んで断ろうとも思ったのだが、1度でも自分自身の口でこの仕事を引き受けるといった以上、ましてやそこに未来久留巣が絡んでいると知ってしまった以上、報酬面には必ずしも満足とは言えないが、やるしかないだろう。
「・・・わかった、その条件で引き受けよう・・・。」
「よく言った、感動した!!じゃあこれ、指定場所までの地図ね。」
今どき携帯の端末を使わずに、メモ帳に手書きの地図とはな。
でも俺の携帯はガラケーだし、アプリだ何だの機能を駆使されてもそれはそれで困るから、この会長は何だかんだ心得ているものだ。
俺は無言のまま強い意志を込めた表情を崩さず、問題のアタッシュケースを左手に掴み立ち上がった。
「いいか、斗毛元。くれぐれも、アタッシュケースの中身を開けてはならんぞ!!」
会長の念押しに俺は首肯して、足早に部屋を後にしたのだった。

 会長室を後にした俺がビルから出て来ると、執事服を着込んだ初老の紳士が笑顔で出迎えてきた。
「斗毛元さんでいらっしゃいますね?」
「そうだが。」
「会長から仰せつかっております。ここからは私が運転して、目的地までお運びさせていただきます。」
英国風な執事然とした仕草を端々に見せながら、物腰柔らかく後部座席のドアを開いて俺に勧めてきた。
俺は周囲の状況並びに車内の状態を念入りに確かめながら、後部座席へと乗り込んでいく。
「うん?ガラスに亀裂が入っているようだが?」
座席に腰かけて首だけ振り返った体勢で、俺は運転手に尋ねてみる。
「ほっほっほっ、その傷ですかな?それは先日、停車中にヤンキーに絡まれてカツアゲされた際に、少々叩き割られましてな。」
仙人のような笑みをたたえながら俺の問いかけに応える運転手は、のどかな雰囲気を纏わせて回顧している。
え~・・・・・・、大丈夫なのこの人?
そのなりでその年齢で、ヤンキーにカツアゲされたって・・・・・。
ていうか、割られたガラスくらい直そうよ!!
あの会長に言えば、それくらいの金なんて出してくれるだろうし、逆によく直さないまま今日までを過ごしてきたな!!
思わず、「この車チェーンジ!!」と叫びたい衝動が芽生えそうになったが、強引に運転手に後部座席のドアを締められてしまった。
座席に監禁された形となった俺の背後からは、まだ走り出してもいないのに、すきま風がぴゅーぴゅー吹き込んできていた。
対して左ハンドルの運転席に乗り込んだ運転手との座席の間には、プラスチック製の頑丈な透明な仕切りが存在を主張していて、すきま風の影響は皆無でたいそう快適そうなところが腹立たしく思えた。
俺は乗せられてしまったこの車に、出発前からトラブルに巻き込まれるフラグが立っている気がしてならなかった。
 「では、しゅっぱーつ!!」
車内に搭載されたスピーカーから運転手の掛け声が聞こえ、くぐもった鼻にかかったその声からして、さながらバスの運転手さんか電車の車掌さん気分なのだろうか?
ビルが乱立しているオフィス街を走り出した自動車は、片側3車線ある1番左側から、しかしなかなか本線に合流できないでいた。
隣の車線を走っている自動車と自動車の間にたまにできる間隔に、初老の運転手はまったく入り込むことができずにいて、タイミングを逸し続けているのだった。
タイミングを逃す度に、「シット!!」とか「ファッ〇!!」と運転手は歯噛みしながら悔しがっている。
あんた、教主所に通い始めたばかりで初めて路上に出た生徒かよ!!
一向に隣の車線に入れる気配がない運転手の技量に、俺は本来抱かなくていいはずの不安とストレスを感じて、内心はらはらしっぱなしだった。
まずい、まずいよ!!このまま行くともうすぐ強制的に左折するしかなくなって、出発間もなく目的地を大きく逸脱することになっちゃうよ!!
都会の大通りの交通事情にまるで対処できていない運転手に向けて、後部座席からの俺のネガティブな焦りが突き刺さっていく。
するとそんな俺の念が通じたとでも言うのか、運転手は俺に振り向いて心配ないと伝えたかったのだろう。
だが俺に向けられた表情は、「どうしよう!!」という半泣き状態の切ない運転手のものだった。
早くも暗礁に乗り上げてしまいそうな危機に、俺は立ち上がるしかなかった。
余計におろおろし始めた運転手に向けて、俺は車内に響き渡る大声を張り上げて、「GO!!GO!!今今今ーーーー!!!!」と、隣の車線へ入り込むタイミングを指示した。
「はひいいいぃぃぃーーーーーー!!」
返事なのか悲鳴なのかわからぬ奇声を上げた運転手は力一杯ハンドルを切って、何とか目的の車線への侵入を果たせた。
ちょっとーー!!今明らかに後輪浮きましたけどーーー!!
大きく傾いた車内の後部座席には、ジェットコースター並みの激しいGがかかり、俺の心拍数の著しい上昇を促していた。
 
 会長の計らいのよって手配された自動車は、ようやく都心の込み入った大通りを抜けて、ひとまず順調に走ってはいた。
まあ厳密に言えば、途中2度のエンストで車が止まるハプニングはあったが、運転手を咎めるのも気の毒に思えて沈黙を貫いてみせた。
目的地は大都会の中にあるわけではないから、これからの道中はそこまで心配することはないだろう。
距離を考えると数時間で仕事は果たせるだろう、だが、それはあくまで何事もなかった場合の話だ、俺はこれから先襲いかかって来るであろう未来久留巣による策略の限りを思い、ダンディーな表情の中に自嘲的な笑みをたたえていた。
「あー、あー、大丈夫ですか?おしっこ漏らしちゃいましたか?」
漏らしてねぇよ!!俺の膀胱はまだそこまで衰えちゃあいねぇよ!!
まったく、俺のハードボイルに溢れた表情が、この運転手には座席で尿意を我慢できず失禁してしまった恥ずかしんでいるものに映ったのだろう、やれやれなかなかに疲れやがるぜ・・・。
心が少しセンチメンタルになりそうだった俺は、気を取り直して車窓から流れる風景に目を向けることにした。
出発地点のビルが立ち並ぶ風景とは異なり、高い建造物の数は減少した街並みに変わっていた。
さらに車を走らせれば、緑も増えて自然を感じることもできるだろう。
 そんな時だった、車が狭いT字路に差し掛かった瞬間、キキキキキキキキーーーーというけたたましいブレーキ音を奏でさせて、運転手が急ブレーキをかけて停車させた。
腕を伸ばして身体を車内に這いつくばらせるような体勢で衝撃に耐えた俺は、運転手に問いただした。
「何だ、どうした?」
「あれを・・・・・・」
運転手は前方に広がった路面の状態を指し示し、それが答えだと主張する。
「ちっ!!」
短く舌打ちした俺はすぐに車を降りて、駆け出していった。
差し掛かったT字路の路面には、進行方向の直進・左右の3本の道すべてに油が撒かれており、自動車の侵入を拒んでいた。
何者かによって人為的に行われたことは一目瞭然だった。
冷静に路面の状況を確認している俺の元へ、運転手が駆け寄り盛大に取り乱しだす。
「どどどどど・・・どうしましょう!!」
落ち着け、まあ落ち着きたまえよ。
俺は厳重に取り扱っているアタッシュケースを握っている左手に力を込め、想定の範囲内だと言わんばかりに無機質に運転手に告げる。
「運転はここまででいい。あとは、俺が自分で運ぶ。」
「ししししししし・・・しかし!!」
だから落ち着こうか、舌噛んじゃうよ。
「あんたはもう引き返してくれて構わん。」
なおも縋りついてくる運転手に、俺は決め顔で語る。
「男は危険の中でしか生きていけない生き物さ。」
「そうですか、わかりました。ご利用ありがとうございましたーー!!」
あれ、おかしいな?何でそんなにウキウキしてやがる。
まるで仕事が予定外に早く終わって超ラッキーと飛び跳ねる勢いで、運転手は足早に車に戻っていく、そこには名残惜しさの欠片もなかった。
「お疲れさまでしたーー!!」
アルバイトが終わって早く友達と遊びに行きたくてたまらない学生のノリで、初老の運転手は俺を乗せていた時には決して見せなかった軽やかなハンドルさばきで、あっという間にUターンしてはこの場を離脱して帰っていった。
「・・・・・・・・。」

 いよいよ開始された妨害工作によって、車という移動手段を断たれた俺は、とりあえず己が足で歩みながら今後の行動に頭を捻っていた。
公共の交通機関を使用するのはダメだろう、有事の際には多くの犠牲者を生み出すだろうことは明白だからだ。
電車・バス・タクシーなどの手段を用いる可能性が早々に消えたが、さほど落胆も失望もなかった。
どのみちそれらを利用するよりは、たとえどれだけ時間がかかろうとも自らの足を使った方が、最も仕事を成功させる確率がまだ高いだろうと思えたからに他ならない。
とはいえ、さすがにここから目的の地点までを徒歩のみで移動するには、かなり骨が折れることも確かだった。
「なるべく・・・他人を頼りたくはねぇんだがな・・・・。」
そう呟きながらも背に腹は代えられず、ガラケーを取り出した俺はとある人物に電話をかけた。
「あっ、シュウさん?」
「おう斗毛元か。どうした?」
「ちょっと厄介なことになっちまってな、少しばかり力を借りたいんだが。」
俺は自分が置かれている今の状況とここまでの経緯を手短に電話越しに伝え、協力を仰いだ。
「よっしゃ、わかった。では、合流地点を決めよう。」
「すまない、恩に着る。」
合流するまでにいくばくかの時間を要することを考慮に入れた俺は、徒歩による進行状況とを照らし合わせて合流場所を指定した。
やがて通話を終えた俺はガラケーをしまい、手近なマンホールを探し程なく当たりを付けて近付いていった。
 てこの原理を用いてマンホールの蓋を外した俺は、小脇にアタッシュケースを抱えながら下水道へと降りていく。
シュウさんと交わした合流地点までは、できる限りのリスクを減らしたい。
もちろん地上を移動したところで襲撃者たちに屈する気はさらさらしていないが、危険性を最小限に抑えて仕事にかかるのもプロとしての資質の1つである。
俺は小型のペンライトを口に咥えて、コンパスと折り畳み式の地図を頼りに地下の世界を進んでいくことを選択した。
澄み切った川のせせらぎとは真逆の水が流れゆく地下道を歩いている、正直モグラに転生したような気分だぜ。
光はか細いペンライトのみ、空気は淀み通気性は最悪の閉じられた世界、だが常人なら思わず嘆きたくもなる光景に、俺の心は妙に高鳴る。
追っ手から逃れるために地下道を進んでいくなんざ、まさにハードボイルドそのものじゃあねぇか、そう考えるとヤバい、超テンション上がってきたんですけど!!
狭く逃げ場のない地下道を進むことは俺の行動を制限する、だがそれは襲撃者にとってもまた同様で、諸刃の剣とでも言うべき表裏一体さだ。
カツカツと革靴が刻む俺の足音が一定のリズムを刻み、分岐に差し掛かる度にコンパスと地図で方角を確認してまた進んでいく。
何度も繰り返してどれほど進んだのだろう、地下の世界において時間の概念が失われがちになるのは由々しき難点だ。
ガラケーを開き時刻を確認すると、地下道に入って2時間と少しが経過していた。
「そろそろ頃合いだな。」
シュウさんとの合流地点まで、あともう少し。

 おそらくあと2つ出口を通過すれば、合流地点に程近いマンホールにたどり着ける。
さらに地下空間を進むことしばし、目的のマンホールへ伸びたはしごの前に到着した俺は、降りる時以上に慎重にアタッシュケースを抱えたまま、1段ずつゆっくりと上っていった。
最上部まで上り詰め、重く頑丈なマンホールを押し上げると光が目映く差し込んできた。
目的にしていた場所に相違ない、と目を細めながら映り込んでくる風景を目にして、俺は少し安堵した。
数時間振りに踏みしめる地上のアスファルトの足に伝わる感触が何とも懐かしく、容赦なく照り付ける陽光に立ちくらみしそうになる。
マンホールを掴み地下空間との道を断絶した俺は、力強い1歩を踏みしめ歩き出した。
が、次の瞬間路地裏の風景には不釣り合いな一団に取り囲まれてしまった。
全身黒の装束を身に纏ったサングラスをかけた屈強そうな男たちが8名、各々ナイフを構えて俺の前に立ちはだかったのだった。
逮捕の瞬間が・・・もとい、目的地にたどり着いた瞬間が最も危険で気を付けろ、とはよく言ったものだ。
俺はアタッシュケースを懸命に死守する姿勢を崩さぬまま、襲撃者を迎え撃つことになった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

斗毛元 40代の中年理容師

大阪府内某所にベルべレソンという理容室を営んでいる。

ハードボイルドに生きることを生業として、様々な客や困難に立ち向かっていく。

妻・・・30代後半、斗毛元の意向によりバーを経営しているが文句タラタラの恐妻。

シュウさん・・・武器や様々な器材を調達してくれる斗毛元の強い味方。

服部・・・斗毛元馴染の蕎麦屋の店主。

上松瀬警部・・・斗毛元とは旧知の間柄であり相棒の敏腕警部。極度の熟女好き。

米谷・・・ベルべレソンの常連客。常にしゃべり続けて絡んでくるウザい芸人顔負けの一般人。

未来久留巣・・・かつての斗毛元の上司であり、理容師業界に一大勢力を築いている。斗毛元抹殺を誓い、手段を選ばずに襲いかかってくる。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み