第12話

文字数 10,818文字

 理容師としての今日の仕事も無事に終わり、俺は習慣めいた緊張感から解放されて店内で一息ついていた。
「なかなかにハードな1日だったぜ・・・・。」
俺はダンディーに呟きながら、10数時間のこの日の出来事に意識を遡らせながら、凝り固まった首を鳴らしていた。
客の求めるサービスに己の腕を振るって最大限応えることが、理容師としての俺の矜持だ。
とはいえ、さすがに5人連続でカット&パーマの作業をこなすことには、少なからず疲労も覚えてしまう。
ロッドを巻き続けた感触が未だに残る自身の両手を眺めながら、今日は絶対に夢に出てきそうだなと、薄くニヒルに微笑んでみる。
激務による疲労感は全身を駆け巡り、空腹感を訴えて帰結してきている。
こんな日は後片付けをさっさと済ませて、腹の虫を黙らせるに限る。
そう思い至った俺が、店内を掃除するために用具室に向かいかけていると、店のドアをノックする音が耳に届いてきた。
閉店後のドアをノックする音に、何者かの気配の来襲。
いつぞやの恐怖の夜を想起させるシチュエーションに、既視感どころではないデジャブの餌食になりそうな心をしっかりと持って、両脚に力を込めて大地を踏みしめる。
「白いワンピースの女リターンズ」
脳裏には俺にとっての最悪のシナリオが上演されそうになり、強さを保とうとする心になおも揺さぶりをかけてくる。
ドアに背を向けたままの体勢で、これから起こすべき数パターンのアクションの脳内シュミレーションから、最適なものを選び出そうとしている俺だったが、訪問者は俺の応対を待たずに店内へと足を踏み入れてきた。
こうなれば取るべき行動は1つと、俺は反射的に振り向いた。
「よう、久し振りだな。」
そこにはスーツ姿に両手にありったけの手荷物を持った白髪の男性の姿があり、やや堅苦しくぎこちなさげに話しかけてきたのだった。
優雅に纏われているスーツには着古した様子などは皆無で、真っ白く染め上げられた頭髪によく映えている、言うなれば老紳士そのものの外見だ。
「・・・・お父さん・・・・。」
この老人こそ、何を隠そう俺の父親その人だった。

 それほど広くない店内に、2人の男性が相対したままお互いにしばらく動けないままでいた。
離れて暮らす父と息子の久し振りの親子対面、そう一言では言い表せないような不器用な何かが両者の間には確かにはっきりと存在している。
「元気に・・・やっているようだな。」
いきなり流暢な会話のやり取りをできる自信は両者にはないが、かといって永遠に続いてしまいそうな沈黙にも同じくらい耐えられない、そんな空気感から発せられた老人の言葉によって、ゆっくりと時間が動きを再開させられていく。
「はい・・・おかげさまで・・・。」
「そうか。」
自身の命を狙い来る襲撃者たちに張り巡らせるのとは、また性質も勝手も異なる緊張感を持って、短く他人行儀に応じることしかできなかった。
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
だがその後が思うように続かない、再び沈黙と気まずさが充満しそうな空気が濃度を濃くしそうになる中、老人は妙案を思い付いたとばかりに口を開いた。
「腹・・・減ってないか?蕎麦持って来たんだが・・・良ければ作ろう。」
老体にはいささか無理を強いる多くの抱えた手荷物を待合スペースの椅子の上に下ろした老人は、一気に身軽に快適になった手を動かしては、紙袋の1つから2人分の乾麺の蕎麦が封入されたパッケージを取り出してみせた。
「ちょっと台所借りるぞ。」
「ええ、頼みます。階段を上った奥の部屋にありますから。」
ぶっきらぼうな返答と案内にも、老人は蕎麦のパッケージを手にしたまま気にすることなく、わずかに腰をいたわる仕草を無意識に見せながら、1段ずつゆっくりとした足取りで階段を上っていくのだった。

 突然の父の訪問に驚きを隠せない俺は、店内の掃除をしなている間も2階に上っていった存在が気になって仕方がなかった。
律義さを絵に描いた性格の父が、何の連絡も入れずに電撃的にやって来たことも合わせて不可解であり、らしくないなという気掛かりが輪をかけてくる。
事前に連絡の1つももらっていれば、俺の方から出迎えに行ったものを。
心はそぞろの俺がそれでも掃除を終わらせかけた頃、2階から湯気と共に鰹出汁の良い香りが漂ってきて鼻腔をくすぐった。
程なく階段を下りてくる足音に、父が蕎麦が出来上がったと俺を呼びに来た。
掃除を終えた俺は店内、つまり1階の照明を落として階段を重い足取りで上っていった。
 店の2階の最奥の部屋は、台所が備わっていて簡単な調理ができる他に、小さめのテーブルも設置してあることから飲食や来客時の応対にも使えるようになっている。
蕎麦を作り終えた父が上座に座っており、向かい合う対面の席に俺の分の蕎麦が置かれていた。
俺は父の言葉も待たずに椅子を引いて座ると、それを見届けた父は手を合わせて自分の分の蕎麦をすすり始めた。
乾麺を調理しただけとは思えない出来栄えの蕎麦に俺の腹は鳴りそうになるが、それ以外にはそばを食する音声以外何もなく、重い空気は続いていた。
とりあえず俺も手を合わせてから、まず丼ぶりに口を付けて出汁をすすった。
口に入れた瞬間の香りや味の濃度や風味は昔と変わることなく、俺が良く知る馴染み深いものだった。
「・・・・・・・・。」
そんな俺の感慨を目にしたのか、父がほんの少しだけ微笑んだような気がする。
だが俺はその様子に気付かないふりをして、構わず蕎麦を箸で掴んではすすっていく。
無言のまま噛み締める如くそばを食べ続けていく俺たち、男性諸君なら共感していただけるかもしれないが、こうして男親と面と向かって食卓を囲むことには、息子としていかんとも形容し難い気まずさと言うかむず痒さがどうしても生まれがちだ。
沈黙もまた然り、気の利いた言葉なんて浮かびやしない。
「・・・・・・・・。」
そうこうしているうちに、蕎麦を食べ切ってしまった。
俺は父の突然の訪問の理由を聞くのをどう切り出そうかと、天井を仰いでからお茶を口に含んで飲み干すタイミングを合図に、言葉足らずに言葉を絞り出した。
 「お父さん・・・・、今日は・・・どうしてここに・・・・?」
「・・・・・・・・。」
会話を成立させる糸口が開かれたことで、父も沈黙の後に重々しく口を開く。
「いや・・・まぁ・・・、別にこれと言って用があったわけじゃないんだがな・・・・。何となく、お前の顔を見たくなってな・・・・・。」
重厚な声音とは裏腹に、口調にはどこか人恋しさが滲み出ている気がして、父の昔の姿を知る俺には違和感ばかりが残った。
「・・・・・・・・。」
「・・・・年寄りの、ほんの気まぐれと言ったところか・・・。」
「それならそうと、連絡をいただければ迎えに行きましたのに。」
「いや、それには及ばんよ。お前はお前で・・・、忙しく働いているんだからな・・・・・。」
実の親子の間柄なのに天上人と平民の如き関係性で、すべてを見通す仙人のように達観して見えるのは、父がただ年を重ねただけだからなのだろうか?
「人間働けるうちは、身を粉にして働き続けるのがあるべき姿。お前が忙しい毎日を送っているのは、ゆえに何よりで実に喜ばしいことよ。」
 俺のよく知る父は、大変厳格な性格であり、国内外を飛び回って仕事に邁進していたエネルギーに満ち溢れた人物だった。
母と俺を家に残し、休みもほとんどなく仕事に明け暮れていた印象が、特に幼少期においては強く残っている。
やさしく子供に常に寄り添うマイホーム的な父親像とはおおよそ程遠い父だったからか、おかげでこの歳になっても身が引き締まる緊張感や若干の恐怖心などの苦手意識が拭えないのは事実だ。
思春期にはひどく反発していたし、俺が理容師として歩みだす過程においてもひと悶着あったりもした。
そのような若き日々を過ごした俺は、父のような大人にはなりたくないという思いを抱えていたのは間違いないが、反面心のどこかに強く我が道を突き進む生き方に、ずっと尊敬の念と憧れを抱いていたのも否定できない事実だった。
もちろん今日に至るまで父に対して、そんな俺の繊細で複雑な本心を伝えることなど1度たりともしたことはない。
感謝の思いは持っているがそれ以上に照れが、尊敬や憧れ以上に頭が上がらないという苦手意識が押さえつけてきて実行に移せない。
俺が独立しこの店を経営するようになってからはなおのこと、隠居して母と共に父が暮らしている実家に足は遠のいていくばかりだった。
結婚してからならば、妻の方が俺の実家と顔を繋いでいるくらいだ。
これじゃあまるで、かつての父の姿を再現しているみたいじゃないかと、頭ではわかっているのだが。
「せっかく出て来たんだし、しばらくはこっちにいるんでしょう?」
「いいや・・・、明日にはもう帰ろうと思っている。」
「どうして?家に泊まっていってくださればいいのに・・・」
「よいよい、本当にお前の顔を一目見に来ただけなのだから。その要件は、もう果たすことができた・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「本当に、ただ・・・それだけさ・・・・・。」
その父の言葉には偽りなど微塵も感じられず、達成感に満ちた穏やかな笑顔を俺に向けている。
「そうですか・・・・。」
だから俺もその導き出された答えに、抗う術も言葉も何一つ見出すことができない。
「あ、そうそう。」
歯噛みを繰り返し思うように口を動かせない俺に、父は思い出したように語りかけてきた。
「下に置いてきた荷物な、あれ全部土産だから。お前の好物や衣服に、あとはお前の奥さんの分まで色々持ってきてあるから。」
「それは・・・何か気を遣わせてしまったようで・・・・。」
「なーに気にするな。ほとんど母さんに持たされたものだから。」
「そうですか・・・・、それは妻もきっと喜んでくれるでしょう・・・・・。」
俺はまたしても最小限の感謝しか告げられないまま、立ち上がって2人分の食器の後片付けを始めた。
残り少なくなっている食器洗剤をスポンジに絞り出しながら、明日の空いた時間にでもコンビニに買いに行かないとななどと考えることで、気恥ずかしさを打ち消そうとしていた。
すぐに食器も洗い終えてしまった俺は、手持無沙汰な時間をわずかでも減らそうと、これまで生きてきた中で最も丹念にお茶を入れていくのだった。
急須に茶葉を投入して、時間をかけて蒸らしお茶の風味と味わいを最大限に引き出しにかかる。
湯呑もまた同様、2人分の湯呑にお茶を注ぐ前に1度お湯を注いで温めてからお湯を捨てて、神経を研ぎ澄ませて急須の中身を注いでいく。
おいしいお茶を飲むことに目覚めたわけでは決してない、あくまで不自然で居心地の悪い空間を少しでも和らげるためだ。
そうして俺入魂のお茶を、自分の分と合わせてテーブルまで運び、父の前にも差し出した。
差し出された湯呑からほうじ茶の香ばしい香りが空気中を彷徨い、父は何かを思案しているみたいに目を閉じていた。
ふと物思いにふけっていた父だったが、お茶の存在に気付いて意識を覚醒させたようになり、湯呑を手に取り礼を言ってきた。
「すまんな。」
俺は目の動きだけで父の感謝に応え、再び対面に着席するとただお互いにお茶をちびちびとすするだけ。
本当は俺の方から色々と話さなければならない。
近況の報告はもちろんのこととして、離れて暮らす両親の現状や、これから先の将来に父が何を願い望んでいるのかなどなど。
が、俺にはそう簡単にはできそうにない。
今この時ばかりは、俺の持つ天性のハードボイルドさが裏目に出ていると言わざるを得ないだろう。
自虐に満ちた自己分析の傍ら、部屋の中には食後のまったりとした穏やかさがあった。
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・今晩は・・・どうするつもりですか・・・?」
「近くにホテルを取ってあるから、そこに泊まる。」
「・・・そうですか・・・・。」
時刻にしてみればもう夜も遅い、別に帰りを急かす意味合いはまったくなかったけれど、俺のその言葉に父は腕時計に目をやっている。
「・・・帰る前に、1つ頼みたいことがあるんだが・・・・、聞いてくれるか・・・・?」
「何ですか?」
「・・・お前に私の髪を切ってもらいたいんだ・・・・。」

 1階に降りてきた俺と父を、薄暗い店内が迎えていた。
照明のスイッチをいじり営業時と変わらぬ明るさに照明を灯らせた俺は、数席ある椅子の中のちょうど真ん中の席に父を誘って着席させた。
「少し・・・準備をしますので・・・・。」
「ああ。」
閉店したことでオフになっていた気持ちの緩みを締め直して、俺はスーツの上から愛用のネコちゃんの顔がプリントされたエプロンを装着し、腰にはホルスターを装備してハサミの砥ぎ具合を確認していた。
突然の来訪時から時折見せていた記憶の中の父の姿とのギャップに、戸惑いを覚えながら身支度を整えていく。
鏡を前に椅子に座らせられている父の首元にタオルを巻き、その上にケープを巻いていく。
「では、まずシャンプーして1度頭を流しますね。」
「ああ。」
椅子を反転させてから備え付けられているシャワー台に頭を乗せるように、絶妙な角度に椅子を倒していく。
栓を捻ってお湯を出しながら、自身の手に当てて温度を確認する。
長年の経験から熱くもなく冷たくもない快適な温度になるまでしばし待ち、適温になった瞬間を見逃すことなく父の頭にシャワーを当てて流していった。
厳格で律儀な性格を物語っているきっちりとセットされている父の頭髪が、あてがわれるお湯の流れによってどんどん崩れていった。
整髪料や大まかな皮脂を流し終えたところで、俺はシャンプーをポンプから適量手に取って、静かな手つきできめ細かく泡立てていく。
充分泡立ったところで父の頭髪に触れ、なお泡を立てつつ汚れをからめとっていく。
「痒いところはないですか?」
「ああ、いい気持ちだ。」
理容師としての決まり文句に偽りのない感想で答えた父、こと仕事に取り掛かりさえすれば、ぎくしゃくとしたぎこちなさや遠慮は俺の中から次第に消えていった。
父の髪を洗い終えた俺は、タオルで水分をしっかりと拭き取ってから、ハサミを構えて問う。
「お父さん、どのようにしますか?」
「軽く整える感じで構わない。」
「わかりました。」
折り目正しい普段の身なりに比例して、父の頭髪はこまめに手入れされていることは一見しただけでわかっていたし、それは昔から変わらないことでもあった。
ゆえに、髪を切ることを頼まれたはいいが、たいして伸びてもいなければ手入れするべき箇所もほとんど見当たらなかった。
それでも頼まれたからには、最高の仕事をもってヘアスタイルを完成させる俺のポリシーに二言はない。
左手に手にしたハサミを扱い、父の髪に潜らせるようにして華麗に切っていった。
そんな息子である俺の手さばきを、鏡越しに目に焼き付けるように見ている父がいる。
その視線・表情は感慨深そうでもあり、喜怒哀楽のすべての感情を凝縮させているようでもあって、単純に一言では言い表せないように俺の横目には映った。
「・・・・・・・・。」
ハサミの1対の刃が交錯する度、洗練された刃物から発せられる音色と切られ落ちていく髪の流れが、店内に残響音を奏でさせていく。
「・・・立派になったなぁ・・・・。」
リズミカルな調べの中、唐突に父が俺にこぼした。
その零れ落ちた言葉には一切の飾り気はないものの、我が子の成長を目にしたことからくる純粋な称賛と確かな喜びが込められていた。
俺はそれがどうにも照れ臭く、仕事に没頭することで相殺しようと試みるのだが。
「思い返せば・・・お前が昔、理容師になりたいと言い出した時・・・、私はずいぶんと反対してしまったなぁ・・・・。」
「・・・そうでしたね・・・・。」
「理容師という高い技術が求められる世界は、お前に務まるとはどうしても思えなくてなぁ・・・。しっかりと向き合ってろくに話し合うこともせずに、頭ごなしに猛反対をしてしまった・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「お前は家を飛び出してしまい、自分自身の力で歩んでいくことを選択した。私がお前に求めていた将来とかけ離れた選択をされたこともあり、長い間勘当同然の状態だった・・・・。」
「・・・・・・・・。」
根拠のない自信と底が見えない情熱を持っていた当時だったからこそ、歩み出せた選択だったとは俺も思う。
10代だった若かりし頃の俺の選択が正しいものだったのかどうか、苦労を重ねた時代の中では答えを見付けられない日々を長らく送ってもいた。
父はそんな俺の苦しかった時代をどこまで知っているのか、懐かしみながら語りを続けていった。
「・・・だがな、あの時の私の判断も、お前に取ってしまった態度も・・・間違っていたのだとやがて気付かされた・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「今・・・こうして私の髪を切っているお前の技術や佇まいを実際に体感してみて、・・・・改めて自分の過ちに気付かされた思いだ・・・・・・。」
「・・・そんな・・・・」
「男は人生の中で、大きな決断を迫られる瞬間というものが何度かある。・・・その時にどのような選択をするかによって、後の自分の人生を輝かせも曇らせもするものだ・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「まだ10代だったお前だが、あの時すでに・・・・正しい選択をできていたんだなぁ・・・・。」
ハサミを動かしていた俺の手の動きが、一瞬鈍りそうになってしまう。
俺自身、父の言っているあの時、家を飛び出してまで選んだ選択が正しかったものなのかどうかは、未だはっきりとわからないまま今日まで生きてきていた。
もちろん辛い修行時代を経て独立し自分の店を経営するようになり、確固たる信念を持って数多の客にサービスを提供してきたという実績も自負もある。
だが仕事に成功することと、人生における正しい選択をしたかどうかということは、必ずしも結びつかないことも身に染みてわかっているつもりだ。
だからこそ、40年以上生きてきてなお、あの時の選択が正しかったものなのかの結論がわかる気がしないのだった。
「・・・・・・・・。」
髪をカットしながら無言を貫く俺の鏡越しの姿から、父はすべてを察したように語り続ける。
「・・・だがな、自分の選択が正しかったかどうかなんてものは、なかなかわからないものだ。周囲がお前に向ける評価と、お前自身による自己の評価とは・・・・下手をすれば永遠に一致しないものだからな・・・・。働き続けているうちはその答えがわからぬまま・・・もがくことになる。・・・しかし、それでいいのだ・・・・。高みを目指せる間は精一杯もがいてあがき続けるのが、人間のかくある姿というもの・・・。苦しいかもしれぬが、なまじ自分の地位にあぐらをかいてふんぞり返って安息を得るよりも・・・、よっぽど尊く正しいのだから・・・。」
それは父が自身の力でたどり着いた人生の結論なのかもしれない、世間一般の基準と照らし合わせてみた時、果たして正しいものなのかどうか判断がつきようもない言葉だった。
だがそれでも、目の前の父によって俺に向けられた言葉は、おそらく今後の人生において何かしらの大きな意味を持つものになるに違いない、そんな予感めいた直感と共に心の中に確かに刻まれずにはいられなかった。
 一通りカットを終えた俺は、三面鏡を手にして髪の切り具合を父に確認させた。
「うむ、ちょうどいい。」

 シェービングによる顔剃りをするために、俺はまたも準備に余念がない。
シェービングクリームを泡立てるのと並行して、タオルを父の顔にかぶせて蒸らしていた。
タオルをかぶせられ表情が隠れた状態だと、一見しただけではただの老人の客に接しているのとさほど変わらない。
だが俺にそう割り切れるだけの区別をつけることはできなかった。
それは先ほど父から聞かされた言葉の数々が多大に影響しているのは明白で、髪を切り始めた時に入れたはずのプロの理容師としてのスイッチを、私情がかき消さんとせめぎ合ってきて複雑にぐらぐらと、俺の内心で微弱な揺れを引き起こしていた。
医師が身内の人間の手術に執刀することが困難を伴うことに、似ていなくもなかった。
実家を飛び出してからずっと、俺が父の髪を切る日が来るなんてことを考えもしていなかったから、余計に戸惑っているのだろうか?
心の揺らぎは知らず知らず表情にも現れていたのか、父の顔にシェービングクリームを塗っている間も、剃刀を当ててひげや顔の産毛を剃っている間も、どこか暗くなっていたようだ。
顔剃りが終わってシャンプーをして、ドライヤーで濡れた髪を乾かしても、血のつながった自分の親に対して腕を振るう俺の胸中は複雑に思考が絡み過ぎていく一方だ。
残す行程は最後の仕上げとして、父の髪をブローしていくことのみとなった。
父は俺に向けてこれまでの行いを悔いて懺悔して、何とか独り立ちできた俺の生き方を称賛もしてくれた。
口下手ではあったが矛盾も一切の偽りもなく語られた言葉たちは、長年に渡り降り積もっていた父と子の溝を埋め氷解させるには充分だったし、あとは俺が心にため込んできた思いを真っすぐに口にすることで、俺たち親子はようやく正しく向き合えるのだ。
だが、もう間もなく父の散髪は終わってしまう。
目的を果たせたら父は店を後にして田舎に帰り、お互いに離れて暮らす日常に戻ってしまう。
きっかけは与えられ賽も投げられたのだが、俺は戸惑い繰り出すべき言葉の表現に迷うばかりで。
そのような迷いにいくら襲われてみたとて、時間の流れは待ってはくれない。
瞬く間にブローも完了してしまい、これにて父の希望を叶える散髪が終わってしまった。
その事実は同時に父とのまたしばしの別れ、気持ちに応える機会が遠ざかることを意味していた。
椅子から立ち上がった父は満足気で、俺は服に付着した髪を払っている。
父は名残惜しそうに財布を広げるのだが、俺は端から代金を受け取るつもりなどなかったので、支払いを拒否してしまわせた。
「では・・・・、私は帰るから・・・・。お前も・・・元気でやれよ・・・・・。」
「・・・はい・・・・・。」
手渡されたスーツのジャケットに袖を通しながら、父に励まされた俺はどこかやり切れない。
その間に待合スペースに置いてあった鞄を手にした父は、ドアに向けて歩を進めて行こうとするが、相変わらず俺に成す術はなかった。
せいぜい父に回り込むように先回りして、俺はドアに手をかけて開けてあげるくらいで。
開け放たれたドアを潜り、店外へと足を踏み出した父の足が、3歩ほどで立ち止まった。

 見送るために立ち尽くす俺に振り返った父は、こう言ってきた。
「本当に・・・すまなかったなぁ・・・・。」
あれだけ強く怖かった父が、若き日の俺の姿にダブらせるようにして言ってきたのだった。
「お前は・・・お前の信じる道を・・・これからもただ真っすぐに進んでいけばいい・・・・。たとえその結果が間違っていたとしても、お前は自分に誇りを持て。・・・私は、いつまでもそんなお前の味方で、・・・いつまでも見守っているからな・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
お互いに年を取った親と子、父に力強くもやさしいまなざしで見つめられている俺。
「・・・・ありがとう、お父さん・・・・・。」
「・・・・・うむ・・・・・。」
俺の返事に頷いた父は、そのまま駅がある中心部に向かって歩いていった。
その場に動けずに見送っている俺から、父の背中が少しずつ遠ざかり小さくなっていく。
「来年のお正月には、必ず帰りますから!!一緒に酒を飲みましょう!!」
最後の最後で去り行く父に向かって声を張り上げて俺は約束を取り付けると、小さくなっていく右手が挙げられ応えていた。
切なさが込み上げてくる俺をよそに、夜の闇は更けていった。


 4日後、父は亡くなった。

 
 すでに予約を入れていた客の1人1人に、謝罪と断りの電話を入れて対応した俺は直ちに帰省したが、つい数日前に会ったばかりの父は棺桶に横たわり、すっかり冷たくなっていた。
通夜に葬儀を済ませて帰ってきた俺は、ふと物思いにふけりながらまだ鮮明な記憶を甦らせていた。
ひょっとすると、父は自分の死期が近いことを知っていたのかもしれない。
突然の閉店後の訪問にらしくない態度、極めつけは俺に向けて発せられた本音の数々。
最期に俺に伝えるべきことを伝えるため、身体に鞭を打ってはるばるやって来た、そう考えると一応すべての辻褄は合い合点もいく。
今となっては確認のしようもなく、推論の域を出ないことばかりだが。
しかし思いを果たせた父のことを思うと、俺はいくらでももう少しやりようがあったと悔いは尽きない。
感謝の思いも期待を裏切ってしまった謝罪の気持ちも言い表せず、父が氷解させてくれた分厚い氷を割り切るには至らず、溝を完全に埋められたとは言い難かった。
だが、過ぎてしまったことを悔やむのはもうよそう。
それこそ父が最期に俺に言い残した言葉に反するから、自分の信じた道をこれからも進んでいくしかないのだ。
 客が途絶えたため店の2階に上がった俺はテーブルに座り、上座に座り蕎麦をすすっていた記憶にまだ新しい父の姿を見ている。
あの時作ってくれた蕎麦、それも幼き日の俺にとっての父との数少ない思い出の1つだったことに今さらながら気付かされる。
基本的に料理は母が作ってくれていたが、年に1・2度父が仕事が休みで家にいる時は、決まって幼き俺に蕎麦を作って振る舞ってくれた。
愛想もなくぶっきらぼうだったが、夢中で蕎麦をすする俺の姿を父は黙って見ていた。
どこの蕎麦屋に行っても味わえない、出汁の風味はずっと変わることなく一緒だった。
父はこのテーブルで、どんな思いで俺と食べる最後の蕎麦をすすっていたのだろうか。
「・・・・・・・・。」
 その時、店のドアが開く音が聞こえてきた。
次の予約客の来店だ。
俺は1階に戻ろうと動き出したが立ち止まり、父の姿を確かに目にして語りかける。
「仕事に行ってきます、お父さん。」
それだけ告げると、今日もハードボイルドにプロの理容師に徹する俺は階下に向かっていったのだった。
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登場人物紹介

斗毛元 40代の中年理容師

大阪府内某所にベルべレソンという理容室を営んでいる。

ハードボイルドに生きることを生業として、様々な客や困難に立ち向かっていく。

妻・・・30代後半、斗毛元の意向によりバーを経営しているが文句タラタラの恐妻。

シュウさん・・・武器や様々な器材を調達してくれる斗毛元の強い味方。

服部・・・斗毛元馴染の蕎麦屋の店主。

上松瀬警部・・・斗毛元とは旧知の間柄であり相棒の敏腕警部。極度の熟女好き。

米谷・・・ベルべレソンの常連客。常にしゃべり続けて絡んでくるウザい芸人顔負けの一般人。

未来久留巣・・・かつての斗毛元の上司であり、理容師業界に一大勢力を築いている。斗毛元抹殺を誓い、手段を選ばずに襲いかかってくる。

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