二 暗い色の世界にて 

文字数 8,760文字

 玄関のドアを開けると、そこはどんよりと曇った空の色の所為で暗い色の世界に見えた。家の外に出て、施錠をしようとした所で、密は小さく舌打ちをした。

「傘、忘れた」

 ぶつぶつと言ってから、密は家の中に戻ると、傘立ての中から黒色の男物の傘を一つ取り出した。八月に入ってから、六日が経っていたが毎日こんな空模様だった。雨もほとんど毎日のように降っている。梅雨は七月の初めには明けていて、七月の半ばくらいまでは毎日太陽がこれでもかというくらいに日差しを送って来ていた。七月の半ばを過ぎた頃から天候が変わり、それからは、ずっとこんな天候が続いていた。密は玄関のドアの施錠を終えると、空を見上げる。雨粒が密の額に落ちて来た。

「最悪」

 ぼそっと言い顔を俯けると、密は傘を広げて歩き出した。自宅がある住宅街の迷路のようになっている路地を通り抜け、自宅のちょうど裏の辺りに位置する「創造寺」という寺に着くと、密は開かれている寺の門の前で足を止めた。そのままそこにとどまって密は門とその先に続く境内を見つめる。雨の滴る音だけが、密の耳に入って来て、それ以外の音が密の周囲にはないかのようだった。密は雨の滴る音をかき消すように小さく舌打ちをすると、顔を俯けて歩き出した。境内を通り過ぎ、本堂と墓地の間を抜け、鬱蒼と木々の茂る森に囲まれた小さな公園の前に辿り着くと密は再び歩みを止める。小さな公園内には滑り台とブランコとベンチが二つだけあった。密は公園の中を人の姿を探すように見た。誰もいないと分かると歩き出し、公園の中央部分を真っ直ぐに突っ切るようにして、公園と森の木々との境の場所まで行った。鬱蒼と木々の茂る森は、そのまま寺の裏にある山へと続いていてかなり深い。密はしばしの間その場にとどまり森の奥を見つめてから、森の中に足を踏み入れた。森の中に入ると、雨音が消えた。密は傘を閉じ、木々の間を縫うようにして進んで行く。しばらく進んで行くと、周りにある木々よりも幹が一回りくらい太い、一つの木が密の視界の中に入って来た。密はその木の前まで行った。

「今年も」

 木の前に立った密はそれだけを言って口を噤んだ。密は周囲に縋るような目を向ける。密の目には木々以外には何も映らない。密はその場にしゃがみ込んだ。涙が目から溢れ出て来て、嗚咽が始まった。悔しさ、虚しさ、切なさ、悲しさ、愛しさといった感情が密の心を激しく苛んだ。

「お姉ちゃん。叶お姉ちゃん」 

 密は嗚咽しながら小さな声を漏らした。この世界に、自分は一人きりだ。お姉ちゃんは小さい頃に行方不明になり、父さんと母さんは四年前に交通事故で死んだ。妹の未来は、その事故の所為で未だに昏睡状態で目を覚ます気配もない。密は今まで必死に押し殺していた感情を爆発させ、ひとしきり泣いて泣き止むと、顔を上に向けた。木々の葉の隙間から微かに見える空に密は虚ろな目を向ける。

「父さん。母さん。未来。今年で九年。お姉ちゃんは今年も帰って来ない」

 虚ろな密の目の奥底に、昔見た光景が映り始める。密は叶がいなくなった時の事を思い出し始めた。

 その日は、今日のような暗い日ではなかった。九年前の今日、平成二十一年の八月六日には、眩しい太陽と、夏独特の暑い空気と、青いどこまでも広がるような空があった。叶と密と未来は、三人でこの森のすぐ傍にある公園に遊びに来ていた。一番上の姉の叶は九歳で、密は八歳、一番下の妹の未来はまだ五歳だった。叶と未来が二つ並んでいるブランコに座り、密は滑り台の上に立っていた。

「明日は海だね」

 一番下の妹の未来が大きな声で言った。

「未来はまだ泳げないんだから気を付けるんだよ」

 一番上の姉の叶が未来に優しい目を向けながら言う。密は滑り台から滑り降りると、二人の傍まで駆けて行った。

「未来。明日は密が泳ぎを教えてあげる。きっと、すぐに泳げるようになるよ」

 密が言うと、未来が笑顔を密に向ける。

「やった。密お姉ちゃんは叶お姉ちゃんよりも泳ぐのがうまいんだよね?」

 未来の言葉を聞いて、密は大きく頷いた。

「うん。叶お姉ちゃんよりも長い距離を泳げるよ」

「今年はまだ測ってないでしょ。海じゃ測れないから、海の次にプールに行こう。今年こそは私が勝つんだから」

 密の言葉を聞いた叶がすぐに言葉を返す。

「プール? 未来も行く」

 未来が足をバタバタとさせ、ブランコを揺らしながら言った。

「じゃあ、海の次は皆でプール行こう」

 叶が頷きながら口を開いた。三人でどれくらい泳げるか競争しようと、密も言おうとしたが、森の奥の方から猫が唸っているような声が聞こえた気がして、密は何も言わずに森の方に顔を向けた。

「猫みたいな声がする」

 再び猫が唸っているような声が聞こえ、自分の気の所為ではないと分かると密は呟くようにして言った。

「叶お姉ちゃん」

 未来にも猫が唸っているような声が聞こえたらしく、未来が不安そうな顔をしながら声を上げた。

「猫かな? でも、なんか変な声だね」

 叶がそう言うと、ブランコから降りる。未来もブランコから降り、叶に抱き付いた。猫の唸っているような声は、徐々に密達の方に近付いて来ているようだった。三人はじっと森の方を見つめた。

「あそこ。何か、いる」

 密は自分が何を見ているのか分からなくなりながら言葉を出した。森の中、密達のいる所から十メートルもないくらいの場所に、三人の中で一番身長があった密よりも、明らかに背が高い猫のような姿をした生き物が二本足で立っていた。

「逃げよう」 

 叶が言うと、密の手が引っ張られた。密は手を引かれ、走り出しながら、猫のような姿をした生き物を見つめていた。密の視界の中で猫のような姿をした生き物が大きく跳躍した。猫のような姿をした生き物は一瞬にして森の中から出て、密達のすぐ傍に着地した。猫のような姿をした生き物が口を大きく開き、音の濁った不気味な唸り声を上げると、密目掛けてまた跳躍した。密は悲鳴すら上げる事ができずにその場でただ目を閉じた。

「密。密。大人の人を呼んで来て。未来を連れて行って」

 密の耳に叶の声が入って来て、密は目を開けた。

「お姉ちゃん」

 密は叶の姿を見て言葉を漏らした。密の前に叶が立っていて、その叶の右肩の辺りに猫のような姿をした生き物が噛み付いていた。

「叶お姉ちゃん。叶お姉ちゃん」

 密の背後から未来の声が聞こえて来る。未来はその場に立ち尽くし声を上げながら泣いていた。密は叶お姉ちゃんは密を守ってくれたんだ。密の代わりに噛まれたんだ。密がなんとかしなきゃと思うと、叶の肩を噛んでいる猫のような姿をした生き物の顔を思い切り叩いた。猫のような姿をした生き物が口を大きく開いて叶の肩を放すと、金色の丸い目を見開いて密を見た。猫のような姿をした生き物の口の中には鋭い犬歯があって、叶の肩からは真っ赤な血が流れ出していた。猫のような姿をした生き物が両方の前足を動かすと、叶を抱き締めるようにして持ち上げた。

「密。未来と行って。早く」

 叶が声を上げる。密は猫のような姿をした生き物の鋭い犬歯と、叶の肩から流れ出ている血とを見て恐怖に心を支配され、動く事ができなくなってしまっていた。猫のような姿をした生き物が叶を抱いたまま森に向かって跳躍した。叶の姿が密の目の前から離れて行く。密はその様子を見つめながら、ただその場に呆然と立ち尽くしていた。

「密お姉ちゃん。叶お姉ちゃんが。密お姉ちゃん」

 未来の声が聞こえ、密は我に返ると、未来の顔を見てから森の方を見た。森の方に行こうとすると、足が驚くほどにガクガクと震えてうまく歩く事ができなかった。密はまた未来の方に顔を向けた。未来は泣きながら叶と密の名を呼んでいた。密は足を震わせながら森の方に向かって歩き出した。このままじゃ叶お姉ちゃんが殺されちゃう。密がなんとかしなきゃという思いが密の体を突き動かしていた。そこからの記憶は曖昧だった。森の中に入り、どこをどう歩いたのかも覚えてはいない。周囲の木々よりも一回りくらい幹の太い木の前の所で、猫のような姿をした生き物と叶の姿が一瞬だけ見えた。近付いて行こうとしたが、何が起こったのか、忽然と猫のような姿をした生き物と叶の姿は消えてしまっていて、その後は猫のような姿をした生き物も叶の姿も二度とは見る事ができなかった。

「叶お姉ちゃん」

 記憶の世界から帰って来ると、密は小さな声を漏らした。自分があの時、もっとしっかりしていたら。叶お姉ちゃんを助ける事ができていたら。叶お姉ちゃんがいたら、時の流れが変わり、あの交通事故も起きなかったのではないか。今あるこの現実は、全部自分の所為でこうなっているのではないのか。密は叶の失踪の事を思う時、そう考えずにはいられなかった。

「叶お姉ちゃん」

 密はもう一度、今度はしっかりと自分の口から言葉が出ている事を確かめるように言った。言い終えるとすぐに、傘の先端の尖った部分を思い切り地面に突き刺した。そのまま、何度も何度も何度も同じ動作を繰り返し、密の足元の地面は穴だらけになった。

「こんな残酷で理不尽で不条理な世界なくなればいい。密にこの世界を滅ぼす力があればいいのに。そうしたらすぐに滅ぼしてやるのに」

 密は怨嗟を込めて言うと、ゆっくりと体の向きを変え、元来た道を戻ろうとした。

「叶。お前、なんて事をしたんだ」

 男の野太い声が密の背後から聞こえた。叶? 今、叶って言った? 密はそう思うと反射的に振り向いていた。

「だって、しょうがないでしょ。こうでもしないと行かせてくれないから」

 小学生くらいの女の子の声がそんな言葉を返す。密はその声を聞き、叶お姉ちゃんがこんな子供の声のはずがない。でも、この声、あの頃の叶お姉ちゃんの声に似てると思った。密は声のする方に向かって駆け出した。

「誰か来る」 

 男の声が告げる。

「なら早速仕事を始める」

「おい。待て。今はとりあえず隠れた方がいい。ここは、この世界はお前には駄目なんだ」

 女の子の声がして、すぐ男の声がそれに続く。

「駄目って何? もう仕事が終わるまでは戻れないんだよ。やるしかないじゃない」

「そうだが、そう、なんだが」

 女の子の言葉に、男が言葉を詰まらせながら言った。木々の間を走っていた密の目に真っ白いワンピースを着た少女の姿が入って来た。少女が顔の向きを変え、少女の顔がはっきりと見えた時、密は足を止めた。

「なんで? どうして?」

 密は声を上げた。密の声に反応するようにして、少女の瞳が密を捉える。

「人の、女の子?」

 少女が呟く。

「お前がもたもたしてるからだ。今からでもいい。叶。逃げるぞ」

 男の声が聞こえたが、少女の傍に声の主らしき男の姿はない。

「私は、もうやるって決めてるんだから。リッサはお城の用意をして」

 少女が言うと、密の方に向かって歩き出した。

「お姉ちゃん? 叶、お姉ちゃんなの?」

 密は自分でもおかしな事を言っているという自覚があったが、そう言わずにいられなかった。今、密の視界の中にいる白いワンピースを身に纏った少女の容貌は、九年前、密の前から忽然と姿を消した叶に酷似していた。いや。酷似という表現では生温いのかも知れない。密には、叶本人にしか見えなかった。

「お姉ちゃん? 叶? お姉ちゃん?」

 少女が足を止め、密の言った言葉を繰り返すように言った。

「お姉ちゃん。叶お姉ちゃん」

 密は大きな声を上げた。何が起こって、どうしてこうなっているのかは分からない。自分は悲しさと絶望のあまりに頭がおかしくなっているのかも知れない。けれど、そこにいるのは、叶お姉ちゃんだ。絶対にそうだ。密はどうしてそう確信したのかと問われれば、理由は分からないとしか答えようがないが、少女の姿を見ていて叶だと確信した。少女が何かに気が付いたように目を大きく見開いた。少女が酷く驚いた様子を見せると、何かを言おうとしたのか、少女の口が微かに動く。だが、少女は何も言葉を出さずに口を噤んだ。狼狽したように少女が周囲を見回したと思うと、数歩後退った。

「信じてた。いつか、お姉ちゃんが戻って来るって信じてた」

 密は言葉を出しながら、少女に向かって駆け出した。息を吸う間も惜しいと思った。早く叶お姉ちゃんを抱き締めたい。それだけが今の密の望みだった。少女の傍に行った密は両手を伸ばし少女を抱き締めようとした。少女がさっと横に動き、伸ばした密の両腕を避けた。密はすぐには何が起きたのか理解する事ができなかった。密はもう一度、少女を抱き締めようとした。少女がまた密の両手を避ける。密はあれ? 今避けられた? と思い、両手を伸ばしたまま体の動きを止めると、少女の顔を見つめた。

「か、か、勘違いなんです。私は、ええっと、私は、ええーっと、魔王? なんです?」

 少女が密の目を真剣な眼差しで見つめ、そんな言葉を口から出した。

「何? 何言ってるのか分からない」

 心の底から出た言葉だった。密の頭の中には疑問符しか浮かんではいなかった。

「とにかく、とにかく、私はこの世界を滅ぼす者なんです。だから、その、ええっと、ごめんなさい。お姉ちゃん、ではない、ん、です」

 少女がとても悲しそうな顔になりながら言うと、顔を力なく俯けた。

「嘘だ。そんな事ない」

 密は反射的にそう言った。密の確信は揺るがない。

「おい。お前、もうやめろ。すぐにやめて立ち去れ」

 男の声が少女の足元から聞こえた。顔を向けると、いつの間にそこに現れたのか、金色の長い毛をした小型犬が一匹いた。

「今の何?」

 犬が喋ったように思えて、密は思わず言葉を漏らした。

「俺は、こいつの仲間だ。邪魔をするな。これ以上邪魔をするなら、お前を殺す」

 密は犬が喋っている瞬間を見た。今の言葉は間違いなくこの犬が言っていた。密はそう思と、右手に持っていた傘の尖った先端部分を犬に向けた。

「お姉ちゃんは密が守る。絶対に家に連れて帰る」 

 密は言いながら、傘の先端部分を犬目掛けて突き出した。犬が横に飛び跳ねてそれをかわす。

「こいつ。今、本気で殺そうとしただろ」

 犬がまた喋った。

「お前がお姉ちゃんに何かしてるんだ」 

 密はそう言うと、犬目掛けて傘をまた突き出した。

「お、おい。やめろ。危ないだろ」

 犬が言いながら傘を避け、少女の背後に回った。

「やめて。リッサは悪くない」

 少女が犬を抱き上げて言う。

「お姉ちゃん。そんな言葉を話す犬なんて、変だよ。お姉ちゃんが気が付かないうちに何かされてるんだよ」

 密は叶の目をじっと見つめ、言葉を出した。

「そんな事ない。リッサは悪い事なんてしてない。だからやめて」

 少女が密の目を見つめ返しながら言った。

「そんな変な犬の方が密より大事なの?」

 密は言いながら睨むように目を細めた。

「そ、そんな事ない。あ、ああ。そもそも、私はあなたのお姉ちゃんじゃない。あなたは、あなたは早く家に帰った方がいい。私はこれから、この世界に住む者達を滅ぼさなくちゃいけないの。だから、ごめんなさい」

 少女が言い終えると、犬を地面に下ろし、密の傍に来た。

「濡れちゃう。傘を開いて。傘はそんな風に使ったら駄目。壊れちゃうし危ない」

 少女がそう言うと、密が持っている傘を、密の手の上から握り、開いて密の体の上に持って行った。

「お姉ちゃん。お願い。一緒に家に帰って」

 少女の手が離れる瞬間、密はその手を握って言った。

「それは」

 少女がそれだけを言って言葉を切る。

「もういい。俺達が行こう。城はどこにだって建てられる」

 犬が言ったと思うと、密の体の周りの空気が変わり、密の体が宙に浮かび上がった。

「何? なんなのこれ?」

 密は、大きな声を上げた。

「叶。今のうちだ。行くぞ」

 犬が言い、少女が犬と密の顔を戸惑っているような様子で交互に見る。

「絶対に放さない。お姉ちゃんが家に来るまで絶対に放さない」

 密は少女の手を放すまいと、握る手に力を入れて言う。密の体は際限なく空に向かって浮かび上がって行こうとし、密は少女が苦痛に顔を歪めるの見た。密が手を握ってる事でお姉ちゃんが痛みを感じてる。密はそう思った瞬間、握る手の力を緩めてしまった。

「お姉ちゃん」 

 手が離れ、密は声を上げた。

「リッサやめて。もういい」

 少女が言うと、密の体がゆっくりと下降を始める。

「やめるのはいい。だが、どうする気なんだ?」

 犬が問う。

「どうもしない。帰ってもらう」

 少女がそう言い、犬から視線を外すと密の方に顔を向けた。

「お姉ちゃんと一緒じゃなきゃ帰らない」 

 密は声を上げた。

「良く聞いて。これからしばらくすると、必ず私を倒す為の勇者みたいな何者かが現れる。その人が私を倒せば、この世界は救われる。倒された私はいなくなるの。だから、一緒には行けないの」

 密の足が地面に着くと、少女が真剣な瞳を密に向けて言った。

「なんなの? 意味が分かんない。さっきから、どうしてなの? そんなに家に帰りたくないの? 密の事嫌いになった? 密があの時、お姉ちゃんを助けなかったから?」

 密は縋るような目を少女に向けながら言葉を出した。

「嫌いになんて。違うの。ごめん。私は、私は、お姉ちゃんじゃない。だから、お願い。言う事を聞いて」

「じゃあ、なんでそんな姿をしてるの? お姉ちゃんだよ。どこからどう見ても、叶お姉ちゃんだ」

 少女の言葉に密はすぐに言葉を返した。

「叶。もういい。行くぞ」

 犬が言い、少女が犬の方に顔を向ける。少しの間があってから少女が小さく頷いた。

「あなたは気を付けて家に帰って。リッサ。どこでもいい。どこか遠くへ」

 少女が言った。

「何それ? 分かった。もう、いい。何もかもどうでもいい。疲れちゃった」

 密は言いながら傘を閉じ、縦に回すようにして動かすと、先端の尖った部分を自分の喉元に突き付けた。

「なんだ? 死ぬ気か?」

 犬が密の方をちらりと見て言った。

「そんな」 

 少女が戸惑い狼狽した様子で声を上げる。

「どうせできない。ほっとけ。行くぞ」

 犬が言った。

「最期に、会えて良かった」

 密は言葉を紡ぎ終えると、目を閉じ、思い切り傘の先端の尖った部分を自分の喉目掛けて突き出した。

「密」

 少女が声を上げた。

「本当にやったか」

 犬の声が少女の声に続いて密の耳に入って来る。密は、喉に傘の先端部分が刺さる感触も衝撃も、痛みすらもまったく感じていない事を不思議に思った。

「また? また、おかしい事が起きた。何これ?」

 目を開いた密は、手の中にある柄の部分しか残っていない傘を見ると、宙に浮いた時の事を思い出しながら呟いた。

「密の馬鹿。何やってるの」

 少女が密の傍に来て密の肩を掴みながら言った。

「叶。お前、あの瞬間に良く力を使えたな」

 犬の声が少女の足元から聞こえる。

「何? さっきから何をしてるの? このさっきから起きるおかしな事は何? なんで邪魔したの? あなたは、あなたは、もう行っちゃうんでしょ。お姉ちゃんじゃないんでしょ。関係ないじゃない」

 密は少女の手を乱暴に振り解きながら言った。

「関係なくなんてない。目の前で人が死のうとしてるんだよ。止めるに決まってるでしょ」

 少女がそう言うと、密の手を掴んだ。

「放して。そんな同情なんていらない。もう死にたいの。生きていたくないの。邪魔しないで」

 密は言いながら体を引いて少女の手から強引に逃れると、駆け出したが、すぐに木の根に足を取られて転んでしまった。

「おい。行こう。しばらくそうして泣いてれば、気も落ち着くだろ」

 うつ伏せに倒れ、そのまま泣いていた密の耳に犬の言葉が入って来た。

「リッサ。ごめん。このままになんてできない。ほっとけない。仕事の方はちゃんとするから」

 少女の声が近付いて来ると、すぐに密の肩にそっと添えられる手の感触があった。

「ほっといてよ。お姉ちゃんじゃないんでしょ。いなくなるんでしょ。もう嫌なの。疲れたの。皆いなくなった。こんな世界で一人で生きてなんていたくない」

 言葉を出している途中で泥水が口の中に入って来ていたが、密はそのまま言葉を最後まで出した。

「さあ、起きて。私はお姉ちゃんじゃないけど、傍にいる。長くはいられないし、必ずあなたの前からいなくなっちゃうけど、でも、傍にいられる限り、傍にいるから」

 少女が言葉を切ると、少女の腕が密の体の胸の方に回って来る。気が付けば、密は少女に背中側から抱き締められていた。

「ほっといてって言ってるのに。ずるいよ。こんなの、ずる過ぎるよ。叶お姉ちゃん」

 密は言い、泥と泥水に塗れている体を少女の腕の中で回し、少女の方を向くと、少女の体を抱き締め返した。

「もう。お姉ちゃんじゃないって言ってるのに」

 少女が言うと、密を抱く少女の手にそっと優しく力が加わった。
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