十四 勇者みたいな何者か

文字数 15,347文字

「お姉ちゃん。お姉ちゃん」

 密は声を上げた。何が起こったのか分からない。不意に激しい眩暈のような感覚に襲われ、その後から、突然、自分の体がおかしくなった。最初に気が付いたのは自分の手を見た時だった。叶とリッサのいる玄関に行こうとして、テーブルのある部屋のドアのドアノブを掴んで回そうした時、自然に自分の手が視界に入った。その手を見て密は酷く驚いた。例えて言うならば、犬や猫の足。極端に丸みを帯びている手の指の先端部分からは、細長い爪が生えている。手の甲や指には黒色の体毛がびっしりと生えていて、掌を見れば、柔らかそうな肉球がぽこぽことあった。

「密。どうしたの?」

 叶の叫ぶ声がドアの向こう側から聞こえた。

「体が。体が」

 混乱し何をどう言っていいのかが分からず、密がただそう繰り返し言っている間にドアが開かれた。密の姿を見たリッサが苦しむように呻く。

「そんな。これって。まさか、そんな」

 叶が目を大きく見開き、密の方を見つめながら言う。

「叶。密だ。密で間違いない」

 リッサが言った。

「お姉ちゃん。お姉ちゃん」

 混乱の極致にあった密は、声を上げながら叶に抱き付いた。

「密。大丈夫。大丈夫だから。お姉ちゃんが傍にいるから」

 繰り返し繰り返し叶が言う言葉を聞いていると、少しずつ少しずつ密の心は静まり始め、混乱が収まって行った。

「密。大丈夫だ。なんの問題もない。これは当たり前の事なんだ」 

 リッサの声が叶の足元から聞こえた。

「当たり前? どうしてそんな事が分かるの?」

 密はリッサの方を見て聞いた。

「密。密はね。勇者のような何者かになったの。勇者のような何者かになると、私達が見て誰が勇者のような何者かになったのか分かるように姿形が変わる。どんな理由でどんな姿になるのかは誰にも分からないんだけどね。だから。密。大丈夫だよ。そうだ。後で鏡一緒に見てみよう。今の密、凄くかわいい。かわいいキツネの獣人さんになってる」

 叶が言って手を伸ばし、密の頭をそっと撫でる。

「正確に言うと、これはキタキツネだな。この体毛の色の特徴はキタキツネの物だ。それにしても、いい女になってるぞ密。犬の俺でも最初見た時はちょっとだけどきどきした」

 リッサがそんな事を言う。

「もうリッサ。何言ってんの。密。これでも、リッサは密を和ませようとして言ってるんだよ。でも、全然和まないよね。リッサってこういうの凄いへたなの」

 叶が言ってから優しい笑みを顔に浮かべた。

「ほんとへた」

 密も叶につられて微笑みながら言った。

「何を言ってる。叶だって俺と似たような事を言ってたぞ」

 リッサが言う。

「私のは違うよ。リッサのはなんか下品だったもん」

 叶がリッサに返す。リッサの小型犬然とした顔に笑みが浮かびかけ、それがすぐに、どこか、不自然な感じで消えた。

「密。こんな時にこんな事をお前に言って、本当に済まないと思ってる。だが、この世界を救う為だ。密。今すぐに叶を倒せ」

 リッサが密の顔を見つめながら言った。

「リッサ」

 叶が小さな声で言う。

「なんで? なんで急にそんな事言うの?」

 密は怒りを覚えながら言った。

「すぐにやった方がいい。実の妹が勇者のような何者かになるなんて、こんな事があるとは。あれこれと考えていたらできなくなる。俺も、こんな事になるとは思ってもいなかった。だが、こうなってしまった以上はやるしかないんだ。勇者みたいな何者かに選ばれた者が魔王のような者を演じる者を倒す。そういう決まりだ。それでこの世界は滅びから救われる」

「そんなの嫌だ。それより、お姉ちゃん。今の密なら、一緒に未来を助けに行けるよね? 一緒に行こう」

 密は、叶の顔を見て言った。

「密、それは」

 叶が言い、困ったような顔をする。

「駄目だ。密も叶も行くな」

 しばらく間を空けてから、リッサが深く重い溜息を吐くようにして言う。

「お姉ちゃん。行こう」

 密は叶から体を離し、叶の目に真剣な目を向けながら聞いた。

「駄目だ。行くな」

 リッサが大きな声を出す。

「リッサ」

 叶が言う。

「お姉ちゃん。リッサなんて無視すればいいよ。早く行こうよ」

 密が言うと、叶が戸惑い、悲しそうな顔をした。

「駄目だ。密。こうしている間にも戦線は拡大してる。大勢の者達が被害に遭ってる。お前達が今感じてるような辛い思いを抱いてる者達が大勢いるんだ。これ以上、自分達のような者を増やしたくはないだろう? お前ならすべて終わらせる事ができるんだ。今すぐに叶を倒せ。方法はなんでもいい。叶を殺すんだ」

 リッサが言った。

「そんな事」

 密はそう言いながら、リッサを睨んだ。リッサが密の視線を受け止めるように密の目を見返す。

「そんな事できるはずない。いい加減にして」

 密は絶対に嫌だという気持ちをありったけの声に込めて言った。

「密」

 叶が声を上げる。

「密。落ち着け」

 リッサが言う。

「何? なんなのこれ?」

 そんな言葉が密の口を突いて出る。いつの間にか、密を中心にして叶やリッサの周りを囲むように紅蓮の炎が出現していて、炎の壁のような物を形作っていた。

「密。大丈夫。落ち着いて。これは密が理者の力を使って出した炎。炎よ消えろって思って。そうすればすぐに消えるから」

 叶が言った。密が炎よ消えろと思うと叶が言った通り、すぐに炎は消え去った。凄い。今の、密がやったんだ。無意識のうちに炎を出してたんだ。こんなに簡単なんだ。こんなに簡単にお姉ちゃんみたいに力が使えるんだと密は思った。密は腕を前に向かって真っ直ぐに伸ばし、掌を天井に向けた。小さな火の玉よ出ろと思う。愛らしい肉球のある掌の上に、忽然と小さな火の玉が出現した。

「凄い。凄いねお姉ちゃん。これが、勇者の、いや、理者の力なの?」

 密は火を消すと、言いながら叶の方を見た。

「密。火なんて出しちゃ駄目だよ。理者の力は、生きている者の心や体に直接変化を加える事と死者を生き返らせる事以外はなんでもできる不思議な力なの。ちゃんと使わないと大変な事になる」

 叶の言葉を凄まじいほどの高揚感と喜びに包まれながら密は聞いた。なんでもできる。今の密にはそういう力があるんだと思うと、なぜだか不意に笑いが込み上げて来た。体の奥底から笑い声が溢れ出す。密は自分でも信じられないような大きな声で笑った。

「密?」

 叶が戸惑いながら言う。

「密」 

 リッサが言い、リッサの小型犬然とした顔に緊張の色が浮かんだ。

「凄いいい気分だよ。こんな気持ちはお姉ちゃんが帰って来てくれた時以来だ。もう最高」

 密は笑い終えると叶の顔を見つめながら言った。

「それは、良かったけど」

 叶が心配そうな顔をしながら言う。

「お姉ちゃん。密が行くよ。密が一人で行って、未来を助けて来る」

 お姉ちゃんはリッサと密と未来の間に挟まって苦しんでるんだ。さっきから辛そうな顔してるもん。だから、密が一人で行く。そうだ。未来を助けたら、復讐してやろう。未来のいる病院にミサイルを落とした奴らの国にある物すべてを燃やしてやろう。あ。でも。行く前に一つ聞かなきゃ。大丈夫だと思うけど、一応、念の為だ。復讐なんて言って出掛けて行って死んじゃった困るもんね。密はそうと思うと、密は今でも死んだりするの? と叶に向かって聞いた。

「どうしてそんな事を聞く?」

 リッサが叶の代わり言った。

「お姉ちゃんは不老不死なんでしょ? だったら、こうなってる密も死なないのかなって思って」

 密は言った。

「密。危ない事しようとなんて、思ってないよね?」

 お姉ちゃん。そんな顔しないで。復讐の事は黙っておこう。密が復讐したいって思ってるって言ったらお姉ちゃん絶対に悲しむ。叶の言葉を聞き、その顔を見て密は思う。

「未来を助けに行って危ない事があるかも知れないでしょ。その時に、死なないって分かってたら、少しは無理ができるかなって」

 密は言った。

「密。ごめんね。お姉ちゃん、実は、さっきリッサと話をしてから、未来を助けに行く事が本当に正しい事がどうか分からなくなってる。未来を助けに行っていいかどうか迷ってる。密と未来の事もリッサの事もこの世界の事も大事で、どうしていいか分からなくなってる。だから、密が行く事にも、賛成も反対もできないでいる」

 叶が言って泣き出す。

「お姉ちゃん。泣かないで。密こそ、ごめん。お姉ちゃんを苦しめてる。でも、それでも行く。今行かないと、密、ずっと後悔する。お姉ちゃんを一度失った時みたいにまたなるのは絶対に嫌なんだ」

 お姉ちゃん本当にごめん。でも、未来を見捨てる事なんてできない。密は言いながら思った。

「密。密は、死なないよ。今の密はこの世界を救う為の勇者みたいな何者かなんだから。だから大丈夫」

 叶の言葉を聞いた密は思わずやったと声を上げた。

「密?」

 叶が不思議そうな顔をしながら言った。

「なんでもない。もう、行くね」

 密は言うと、リッサの待てという言葉を無視して、どうすれば早く行けるんだろう。そうだ。そういえば、お姉ちゃん達に会ったばかりの時、体が浮かんだ事があった。飛んで行けるかも知れない。体よ浮かべと思った。密の周囲の空気が変わる。どういう理屈で体が浮かぶのかは分からかったが、密の体がゆっくりと宙に浮かび上がった。そのまま飛んで。速く、とにかく速く飛んで、未来の所へ。密がそう思うと、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。

 まるで瞬間移動でもしたようだった。気が付けば密は、色々な物が焼け焦げた臭いがし、煙や炎がまだ建物の瓦礫のあちらこちらから上がっている、倒壊した未来の入院している病院の上空にいた。何これ。凄過ぎる。家のドアとか壁とかどうやって通ったんだろう。密はそんな事を思いながら、倒壊した病院の前の道路の上に降り立った。周囲に目を向けると、その場にいた人々が密の事を遠巻きにして見つめている姿が視界に入った。

「あの。この病院に入院してる沖田未来を探してるんだけど、、どこにいるか分かる?」

 人がいっぱいいる。今すぐに帰りたい。でも、未来の為だ。我慢しなきゃ。でも、やっぱり帰りたい。そう思いながら伏し目がちに周囲を見ていた密は、一目見て救助活動に来ている自衛隊の隊員だと分かる人物を見付けると、その人物の傍に行って聞いた。

「その格好、君は? 一体、何者なんだ?」

 自衛隊員が目に困惑の色を浮かべながら言った。

「そんな事は後でいい。今は未来の安否の方が大事。早く教えて」

 密は言ってから、もう、もたもたしてると、燃やしちゃうよ。あ。駄目駄目。燃えちゃ駄目と心の中で思った。

「すまないが、安否確認はまだできない。まだまだ混乱中だし、ミサイルがまた来る可能性もある。今は、この瓦礫の中から下敷きになっている人々を助け出すので精一杯なんだ」

 自衛隊員が言い、すまなそうな顔をする。

「しょうがないな。じゃあ、手伝ってあげる」

 密は言うと、ここにある病院のすべての瓦礫なくなれと思う。一瞬にして、目の前にあったすべての瓦礫が消え去った。その場にいた人々から悲鳴や驚きの声が上がる。

「これで救助しやすくなったでしょ」

 密の言葉を聞いた自衛隊員が、瓦礫の消失を見て驚いていた顔を更に酷く驚いた顔にした。

「まさか、君が、やったのか?」

 自衛隊員が言った。この人、凄い驚いてる。そうか、今の密は、いつもの密じゃなかった。今の密はなんでもできる勇者のような何者かの密だったんだ。そうか、そうなんだ。なんか、他人と接するのが少し楽になったかも。今の密はいつもの密とは違うんだ。それは、そうとして、うーん。なんか、密がやったって思われたらやばいかも。とぼけとこう。密はそう思うと、違うよと答えた。

「だが、さっき、君が手伝ってあげると言ってからすぐに瓦礫が消えた」

 自衛隊員が訝しそうな目つきで密を見ながら言う。どうせ記憶が消えるって言ってたし、やっぱりやりましたって言ってもいいのかな。でも、もっと手伝えとか言われても面倒かな。密がそんな事を思っていると、聞いた事のある女性の声が密の耳に入って来た。密は声のした方に顔を向ける。救助された人々が怪我の治療を受けている、密のいる場所からかなりの距離のある公園のような開けた場所で、せわしなく働いている時任の姿を密は見付けた。密達の事騙しといて、良く平気でいられるなと思うと、密は怒りが心の中に広がって行くのを感じた。どうしよう。今の密なら先生に簡単に復讐する事ができる。何か、酷い事をしてやろうか。そう思いながら、密は足を一歩踏み出そうとした。

「頑張れ。足の怪我だけだ。あっちですぐに治療が受けられる」

 密と話をしていた自衛隊員と密の横を怪我人を背負った自衛隊員が、背負っている怪我人にそんな風に声をかけながら通り抜けて行く。駄目だ。今は復讐とかそんな事やってる場合じゃない。今は、未来だ。未来を助けないと。時任先生に聞けば、未来の事が分かるかも知れない。時任先生に未来の事を聞いてみよう。密は自衛隊員とその背中に背負われている怪我人とを目で追いながらそう思うと、時任のいる場所に向かって走り出した。

「おい。君。まだ話は終わってない」

 自衛隊員の言葉に、瓦礫を消すなんて事できるはずないでしょ。普通に考えれば分かると思う。そんな事言ってる暇があったら、早く皆を助けた方がいいよと言葉を返しつつ、密は走り続けた。救助された人々が怪我の治療を受けている公園のような開けた場所に入ると、周囲にいる人々が密を見て、一様に不思議そうな顔をする。密は、もう、こんな姿だから目立つんだ。理者の力を使えるようになったのは嬉しいけど、この姿は最悪と思いながら、誰とも目を合わせないようにしつつ時任の傍まで行った。

「先生。時任先生」

 密が声をかけた時、時任は、地面の上に直に敷かれているブルーシートの上に寝かされている白髪の老人の怪我の治療をしていた。老人の怪我は酷いようで、体中が血に染まっていた。

「どうしたの? 今は忙しい。手短に」

 治療をしながら言葉だけを返して来た時任は、この状況下にいる所為か、雰囲気も言葉遣いも未来の病室で会ういつもの時任とは違っていた。

「未来。沖田未来は無事?」

 密が言うと、時任が顔を上げた。

「あなたは?」

 密の顔を見た時任が、至極不思議そうな、困ったような顔をする。

「この格好の事は気にしないで。沖田未来の知り合いなの」 

「そうね。今は少しでも時間が惜しい。余計な事は省いた方がいい。生きているわ。いる場所は、口で説明するのは難しい。少し待っていて。この人の治療が一段落したら案内する」

 密の言葉に時任がそう答えた。できるだけ早くお願いと言ってから密は、密が理者の力を使って何か手伝えば、早く未来の所に行けるんじゃないかと思った。密は周囲を見回した。怪我をしている人達の数に対して、治療をしている医師や看護師らしき人達の数が圧倒的に足りてはいないようだった。お医者さん達をここへ飛ばせと思えば、ここにお医者さん達を連れて来る事ができるのかな? と密は思った。

「今、うちの隊の車両で医師と看護師と治療に使う物資などを運搬していますが、この状況なので到着が予想より更に遅れています」

 密の耳にそんな言葉が入って来た。密はグットタイミングと思いながら、顔を声のした方に向ける。時任の時と同じように密からかなりの距離のある場所にいる、自衛隊員とその横に並んで立っている白衣を着た医師らしき人物の姿が密の目に映った。どうして、さっきからあんな風に遠くにいる人の声が聞こえるんだろう? 密はそう思ってから、すぐに気が付いた。あ。そうか。密は、今、キツネになってたんだ。へえー。姿形が変わるだけじゃなくって、ちゃんと、機能的な事も変わってるんだ。密は感心しながら、でも、そんな事は今はどうでも良かった。それよりお医者さんだ。ここに向かってる医師と看護師と物資を運んでる自衛隊の乗り物、今すぐにここに飛べと思った。自衛隊の運搬用の車両が数両、公園のような開けた場所の空いていたスペースの上空に現れ、ゆっくりと降下して来る。周囲からまた瓦礫を消した時のような声が上がった。着地した車両からぞろぞろと人が降りて来ると、降りて来た人達は皆一様に最初は混乱していたが、目の前にある状況を見、その場にいた人々と言葉を交わすと、すぐに危機に対応する為に動き始めた。時任の傍に、車両から降りて来た医師らしき白衣の男性が一人近付いて来た。

「時任先生。手伝おう」

 白衣の男性が時任に声をかける。

「八木先生? もっと時間がかかるって聞いていたけど」

 時任が声をかけて来た相手に目を向けて言う。

「僕も、こんなに早く到着するなんて思ってなかった。誰かが魔法のような力を使ってるって、さっき自衛隊の人が言ってたけど、そんな事あるはずないだろうに」

「魔法? でも、何か、そんなおかしな物の所為にでもしないと、確かに、説明はできないわね」

 男性の言葉を聞いた時任が言った。

「時任先生。その人に代わってもらって早く未来の所に連れてって」

 魔法? そうなると、今の密は魔法少女? それ、ちょっといいかも。子供の頃、アニメの魔法少女とかに結構憧れたしな。ああ。もう。何考えてるんだろ。そんな事考えてる場合じゃないのにと思いながら密は言う。

「そうね。八木先生。少しの間、この人をお願い。できるだけすぐに戻るから」

 時任が白衣の男性に向かって言い、怪我人の怪我の状況を説明してから、密にこっちにと言って案内を始めてくれた。

「ここよ」

 足を止めた時任がそう言って、目の前のブルーシートの上に寝かされている人物を右手で指し示した。

「これが? 未来?」

 密はその人物を見て、言葉を漏らした。包帯が、ほぼ全身を包むように未来の体を覆っていた。

「かなり酷い火傷を負っているわ。ちゃんとした医療施設に搬送したいのだけど、今はできなくて。手術がすぐに受けられれば助かるけど、このままだと、正直言って、危険だわ」

 時任が告げる。何これ? どうして? なんで? どうして? どうして? なんで未来がこんな事に? おかしい。絶対におかしい。お姉ちゃんとか、未来とか、密とか、お父さんとか、お母さんとか。どうして、こんな事にばっかり遭うの? 理者の力を得たお陰でこんな状況の中でも明るくなっていた密の気分が、一瞬にして暗く深い闇に包まれた穴の中に落下して行った。密の全身を激しい感情のうねりと思いが埋め尽くす。

「大丈夫?」

 時任の声を聞き、密は我に返る。

「どこに行けば未来は助かるの?」

 密は叫ぶ。

「この状況だから、受け入れ先の病院を探す事もできない。仮に探す事ができたとしても、すぐには搬送ができないわ」

「どこ? どこでもいい。どこかあるでしょ? お願い。とにかく教えて。どこの病院に行けばいい?」

 時任の言葉を聞いて、密はまた叫んだ。

「そう、ね。佐藤総合病院あたりなら、規模もかなり大きくて、ここから距離もあるし、この街と違って狙われるような自衛隊関連の施設もないから、安全でベッドも空いていると思うけど」

 時任の言葉を聞き終えた密は、すぐに未来の傍に行って未来を抱きかかえた。それから、時任先生と未来と密を佐藤総合病院まで飛ばせと思う。

「何?」

 周囲の景色がぐにゃりと歪んだ瞬間、時任が声を上げた。

「先生。早く未来に手術を」

 佐藤総合病院の車寄せの前に着くと密は言った。

「これは?」

 時任が言って、周囲に目を向ける。

「先生。早く未来を」

 密は言い時任の腕を引っ張った。

「あなたが、やったの?」

 時任が密の顔を見つめて言う。

「そう。そうだから、早く未来をお願い」

 密の言葉を聞いた時任が、密の腕の中にいる未来に視線を移す。

「どういう事なの? 理解が追い付かない。こんな事が起きるなんて」

 そう言いながら時任が歩き出した。病院の中に入ると、時任が受付所に歩み寄り受付所内にいた人物と話を始める。密は未来を抱きかかえたまま時任の少し後ろで待った。病院内は、ミサイル着弾地点の戦場のような雰囲気とは打って変わって、どことなく、戦争が始まっているという危機感が漂ってはいるものの、まだまだどこにでもあるような日常的な雰囲気に包まれていた。治療の受付や薬購入の順番を待つ為に、据え付けられているソファに座っていた人々が、密と未来の異様さに気付き、視線が二人に集中し始める。

「すぐに手術が始まるわ」

 受付所内にいた人物と話を終えた時任が言った。ストレッチャーを引いた看護師達が来て、未来を搬送して行く。密は後を追おうとしたが、時任に止められた。

「しばらくは一緒にはいられないわ。ここか、手術室の前で待つしかない」

 時任が言った。

「先生。未来は大丈夫?」

 密の言葉に時任が力強く頷く。

「大丈夫。すぐにここに来られたのが大きいわ。ねえ、さっきも聞いたけど、あの不思議な出来事は、あなたがやったのよね? それなら、向こうにいる人達を皆こっちに連れて来られないかしら」

 密はそう言った時任の顔を見つめた。

「できるけど、どうしてそんな事しなきゃいけないの?」

 密は言う。

「あそこにまたミサイルが落ちるかも知れない。それに、重症の怪我人も大勢いる。あのままだと死んでしまう人達も増えるわ」

 時任がすぐに言葉を返す。

「そんな事知らない。未来さえ無事ならそれでいい」

 密が言うと、時任が目を大きく見開いた。

「どうして? あなたなら皆を助けられる」

「あんな風に包帯を巻かれて怪我をしてたのに、未来の事、誰も助けてくれてなかった。他にもたくさんある。この世界には、恨みしかないから」  

 時任の言葉を聞き、密は言う。

「そんな。そんな事言わないで。あれは、治療をした後だったの。あれ以上の治療はあっちではできなかった。お願い。まだ、未来さんのような人が向こうには大勢いるわ。私にその力があったら絶対に助ける。でも、私にはない。だから、お願い」

 時任が密の両肩を両手で掴みながら言った。

「その気持ちは少し分かるかな。でも、そうだよ。先生には力がない。それが現実。願っても祈っても何も変わらない。誰も助けてくれない。この世界はそういう事で満ちてる」

 密は時任の顔を睨みながら言う。

「確かに、確かにその通りだわ。でも、今は違う。あなたには不思議な力がある。その力は、あなたのいうその世界を変える事ができる。誰も未来さんを助けなかったんじゃない。やりたくてもできなかったの。あなたのような力があれば私はあなたと同じ事をしたわ」

 時任が密の目を真っ向から見返しながら言った。

「しつこい。先生、しつこいよ。密、行かないといけない所があるの。未来の事お願い」

 密はそう言うと、時任の手を振り解こうとした。

「密? どういう事? あなた、まさか、あの、密さん? 沖田密さん?」

 時任が密の肩から手を放して言う。

「だったら何? そんな事はどうでもいい。とにかくもう行くから」

 密が言うと、時任が、酷く悲しそうな顔しながら顔を俯けた。

「どうしても、駄目かしら?」

 時任が顔を俯けたまま言う。

「駄目。密は誰も助けない。だって、密達の事、誰も助けてくれなかったんだもん。ずっとずっとずっと、密は助けてって思ってた。でも、誰一人密達を助けてくれる人はいなかった」

「密さん。酷な事を言うようだけど、それは、違うわ。あなた達が助けられなかったからといって、あなたが人を助けない理由にはならない。私だって、色々な事を経験しているわ。人には言えないような辛い事だってあった。助けてって思っても助けてもらえない事だって何度もあった。でも、私は人の命を助けたいと思うわ。助けようとするわ。だから、あなたもそうするべきだわ。私に医師としての力があるように、あなたには今、人を助けられる不思議な力がある。その力を人を助ける為に使わないと駄目よ」

 密の言葉を聞いた時任がゆっくりと顔を上げながら言った。

「先生。それ本気で言ってる?」

 そんな綺麗事を良く真面目な顔をして密に向かって言うなと密は思いながら言った。

「本気よ」

 そう言った時任の目には強い意志の力が宿っていた。

「先生さ。忘れてないよね? 先生、密に酷い事してるんだよ? 叔父さんに言われて密からお金取ったよね? 今は、未来の事があるから、先生には何もしないつもりだったけど、その気持ち、変わっちゃいそうだよ」

 密は言い終えてから、叔父さん。そうだ。叔父さんの事すっかり忘れてた。今だったら、叔父さんを殺す事も簡単だと思った。

「忘れてないわ。それに、私があなたにこんな事を言っていいような人間じゃない事だってちゃんと分かってる。でも、それでも、分かっていても、私は言うわ。私の事はどんな風に思われても構わない。密さんどうかお願い。向こうにいる人達を助けてあげて」

 時任が言い終えると、その場に土下座した。

「ちょっと、何してんの先生?」

 突然の事に密は驚きながら言った。

「お願い。密さん。向こうにいる人達を助けてあげて。私が憎いなら私にどんな事をしてもいい。だから、どうか、お願いします」

 時任が言いながら、額を病院のリノリウムの床に当てる。

「先生。やめてよ。皆見てる」

 密は言ったが、時任は土下座をしたまま動かない。

「もう。なんなの。先生。立って。立ってくれないと、絶対にやらない」

 密が言うと、時任が顔を上げる。

「とにかく立って」 

 密は、もう、何これ? どうすればいいの? 人助けなんてしたくないのにと思いながら言う。時任が立ち上がった。

「密さん。やってくれる?」

 時任が言った。

「そうだ。いい事思い付いた。先生。叔父さんに電話して居場所を聞いて。密ね、叔父さんに今まで殴られたり蹴られたり、いろんな酷い事されてたんだ。その復讐をしてからなら、助けてあげる」

 密は、先生の所為で今度は叔父さんが酷い事をされるんだよ。叔父さんにも協力したんだから、当然、密にも協力するよね? と思いながら言う。

「密さん」

 時任がそれだけを言って口を閉ざす。

「どうしたの? 早くしないと、向こうで誰か死んじゃうかもよ?」

 密は言い終えてから、先生をいじめるのが楽しくなって来た。こういうのって気持ちいいかも。叔父さんとか、密の事をいじめてた学校の連中とかもこんな気持ちだったのかなと思った。

「密さん。本当にそれでいいの? あなたがやろうとしている事は、あなたが復讐しようとしている叔父さんと同じ事なのよ」

 時任が言った。

「何それ? 先生。復讐の意味分かってる? 叔父さんに密はまだ何もしてない。酷い事されたからやり返したいと思ってるだけ。だから、全然違うの。同じじゃない。先生、自分がこれ以上悪者になりたくないだけなんでしょ? そんな事言ってごまかさないで」

 密は叔父さんと同じだと言われた事に激しく怒りを覚えつつ言葉を出した。

「あなたに後悔して欲しくないの。道を誤って欲しくない。今、あなたがやろうとしている事は間違っているわ。あなたより長生きして、多くの事を経験している私にはそれが分かる」

 時任の言葉を聞いた密は笑い声を上げた。

「後悔して欲しくない? 道を誤って欲しくない? それ本当? 本当にそんな事思ってる? 本当は、自分が痛い思いをしないで皆を助けたいだけじゃないの?」

 密は笑いながら言う。

「密さん。私を叔父さんだと思いなさい。私が叔父さんの代わりにあなたの復讐を受けるわ」

 時任が言った。

「え? 何それ? 本気?」

 密はそう来るんだと思いながら口を開いた。

「本気よ。私を殺しても構わない」 

 そう言った時任の目が時任の言葉が本気だという事を物語っていた。

「先生」

 密の口から言葉が漏れ出る。先生、本気だ。なんだよもう。今のちょっと、心に来た。でも、先生。そんな事を言える人なのに、どうして密の事騙したりしたの? 密はそう思った。

「さあ、密さん。好きにしていいわ。終わったら、必ず皆を助けてあげて」

 時任が言って目を閉じる。

「先生。どうして? どうして、密を騙したの? おかしいよ。皆を助けたいってそんなに強く思えるのに。そんな人がなんで密を騙すような事したの?」

 密は我知らずのうちに大きな声を出していた。

「あなたを騙した事に関しては、ごめんなさいとしか言えないわ。何を言っても言い訳にしかならない。私は間違いを犯した。密さん。本当にごめんなさい」

 時任が言い、時任の目から涙がこぼれ落ちた。

「先生」

 密は、それだけを言って口を閉ざした。私を殺しても構わないなんて言う人だから、きっと、何か理由があるんだ。でも、先生。そうだとしても、どうして? どうして先生は密の事を考えてくれなかったの? どうして密が騙されなきゃいけなかったの? 密は悪い事何もしてないのに。駄目だ。やっぱり憎い。ちょっと、心が動いたけど、駄目だ。先生。先生の事が、もっと憎くなって来た。

「またミサイルだ」

「どこ?」

「あの病院が壊された町らしい」

 ソファに座っている人々の間からそんな言葉が聞こえて来た。

「密さん。時間がない。お願い。皆を助けて」

 時任が言い、再び土下座をした。

「また土下座」

 密は声を上げながら、どうしよう? ここで皆を助けなかったら、先生はどうなるんだろう? そっちの方が面白いかな。でも、それで、先生が凄いショックを受けて、密のいじめに反応しなくなったらそれはそれでつまんないかと思った。

「もう。しょうがないな」

 密は言うと、どうしよう? ミサイルを撃ってる国ごと消す? その国に住んでいる人達を全員焼き殺す? ミサイルや兵器類だけをすべて消す? と思う。

「密さん。じゃあ、皆を助けてくれるの?」   

 時任が顔を上げ、密の方を見て言う。

「先生。どうすればいいと思う? 撃ってる国のミサイルの存在を消す? 撃ってる国を消す? それとも、ミサイルを撃ってる国の人達を全員殺す? 向こうの皆をこっちに呼ぶだけじゃ、またミサイルが飛んで来るでしょ?」

 密の言葉を聞いた時任の顔色が変わった。

「そんな事まで、できるの?」

 時任が言い、密は頷いた。

「できるよ。そんな事よりどうする? 密は、どれでもいいんだけど、先生が決めてよ。何かあった時の責任を全部先生に押し付けたいから」

 密が言い終えると、時任が目を閉じた。

「向こうにいる怪我人と治療をしている人達をこっちに全員移動させて。それから、今飛んで来ているミサイルを全部消して。どんな結果になろうと、私がこの事で起きる事の責任を全部背負うわ。だから、やって」

「どうしよっかな。それじゃ甘くない? ミサイルを撃ってる国の人達を皆殺した方がいいんじゃない?」

 密は時任の言葉を聞くと、そんな風に言葉を返した。

「そんな事をしては駄目。そんな事をしたらあなた自身が傷付くだけだわ」

 時任が言い、閉じていた目を開ける。

「何それ。密の事を心配してるみたいな事言わないで」

 密が言いながら、先生、むかつくな。向こうの国の奴らも皆殺して、こっちの皆も助けないようにしてやろうか。そんな風に思っていると、時任が早くお願いと声を上げた。

「もう。今、色々考えてるんだから黙っててよ」

 密は言い、時任を睨む。

「密さん。時間がないの。急いで」

 もう一度時任が言った。

「先生、うるさいよ。焦るから黙ってて」

 密は声を上げると、飛んで来てるミサイル全部消えろ。それと、向こうにいたすべての怪我をしてる人達と、その治療をしてる人達全員ここまで飛べと思った。空を飛んでいるミサイルが消え、密達のいる病院の前の駐車場や通りに、向こうの町の病院にいた怪我人やその治療をしていた人達が降下して来た。密達のいる病院の内外が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「密さん。ありがとう。本当にありがとう。皆を助ける為にやった事で何かあったらあったら私に言いなさい。私が全部受け止めてあげるわ。密さん。皆をこっちに連れて来てくれて、本当にありがとう」

 時任が言って、リノリウムの床にまた額を当てた。

「お礼なんていらない。密は、えっと、こうすれば先生をもっと長くいじめていられると思ったから、やっただけ」

 駄目だ。結局、先生の言う通りにしちゃった。何が、私が全部受け止めてあげるわだよと思いながら密が言うと、時任が顔を上げる。

「それでいいわ。これからは私だけをいじめなさい。でも、その代わりに、他の人達は許してあげて」

 時任が密の顔をじっと見つめて言った。

「先生。立って。もう、土下座はやめて。そんな事されても、密は全然嬉しくないから」

 私だけをいじめて? また。良くそんな事言えるなと思いつつ、密は言った。時任が立ち上がる。

「密さん。終わったら必ずあなたの元に戻るから、こっちに来た人達の治療に行ってもいいかしら?」

 時任が病院の内外で起こっている騒ぎを見ながら言った。

「先生が行ったら、いじめる相手が」

「密。未来は? 未来は無事?」

 密の言葉が叶の声によって遮られた。

「お姉ちゃん? どうして?」

 言いながら声のした方に密が顔を向けると、叶が密に向かって走って来ている姿が見えた。

「未来は無事?」

 息を切らせながら傍に来た叶が言う。

「怪我をしてるけど、今、手術してもらってる」

 密は言い、時任の方に顔を向けた。

「密さんに運んでもらったから、未来さんは大丈夫。必ず助かるわ」

 時任が叶の方に顔を向けて言う。

「先生。皆のとこ行っていいよ。密、お姉ちゃんと話があるから」 

 密が言うと、ありがとうと言って頭を下げ、時任が歩き出す。

「密。未来の事ありがとう。私は、色んな事考えちゃって何もできなかった。それに。あっちにいる人達、密が助けたんでしょ?」

 叶が言ったので密は少し迷ってから、うん、なんというか、結果的には、そうと言葉を返した。

「偉い。密、凄いね」

 叶が言いながら密の頭を撫でる。

「お姉ちゃん。くすぐったいよ」

 密はそう言いつつも、頭の位置を下げて叶が撫でやすいようにした。

「ねえ、密。今から、二人で海行こっか?」

 叶が密の頭を撫でながら言った。

「なんで? 急にどうしたの?」

 密は言ってから、叶の顔をじっと見つめる。

「ほら、ちょっと前に、密が行きたいって言ってたから。昔の、皆で行こうって言ってた事もあるでしょ。お姉ちゃんも行きたいなって」

 叶が密の頭を撫でる手を止め、手を自分の方に戻して言った。

「そっか。うん。そうだね。密も行きたい。行こう」

 言ってから叔父さんとミサイルを撃ってる国の事どうしよう? と密は思った。

「密、どうしたの? 今、何か考えてるような顔してた。何かあるの?」

 叶が言い、心配そうな顔をする。

「うん。ごめん。少しだけ、やりたい事があるんだ。お姉ちゃんは、未来の事看てて。すぐに終わらせて戻って来るから。そしたら海行こう」

 密が言うと、叶が密の手を掴んだ。

「危ない事は、やっちゃ駄目だよ」

 叶の言葉を聞いて、密は何をどう言おうとかと思う。

「大丈夫。危ない事はしないから」

 密は余計な事は言わなくていいやと思うと、自分の手を掴んでいる、叶の手をそっと握りながら言う。

「叔父さんの所行くの?」

 叶が小さな声を出す。お姉ちゃんにはなんでも分かっちゃうんだなと思い、少し迷ってから、密はうんと言って頷いた。密も叶も何も言わなくなり、二人の間に沈黙が訪れる。

「すぐ戻るから」

 沈黙を先に破り、密は言うと、叶の手を握っている手を開いた。

「時任先生、密にありがとうって言ってたね。密、あんな事があったのに時任先生の事許してあげたんだね」

 叶が言うと、密の手から自分の手を放す。

「許してないよ。酷い事言ったし、酷い事もした。でも、未来の事があるから、今はまだ殺したり、怪我をさせたりはしてないだけ」

 密は言い、叶の目を見つめた。

「密は殺すとか、怪我をさせるとか、そんな事絶対にしないよ。だから、そんな酷い事言っちゃ駄目。お姉ちゃん、待ってるね。すぐに戻って来て」 

 叶が微笑んでから言った。

「お姉ちゃん」

 密の口から言葉が漏れる。お姉ちゃん、密の事、信じてくれてる。密はそう思った。

「密。気を付けて行って来てね」

 叶が言った。

「うん」 

 密は言いながら、目を伏せて叶の目から視線を外した。

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