五 密の部屋にて
文字数 5,162文字
理者の力を使い着替えなどを急いで済ませると、密の後を追って風呂場を飛び出した叶は、自分がいた頃とそう変わっていないように見える家の中を記憶を頼りに走り抜け、密の部屋の前まで行った。
「密ちゃん。大丈夫? 開けるよ」
叶は声をかけながら部屋の中に入ろうとして、ドアノブを回す。密の返事はなかったが、ドアが開いたので叶はゆっくりとドアを開けていった。
「おい。叶。本当にここであっているのか?」
部屋の中に入ると、足元にいたリッサが言う。生地の厚いカーテンが閉まっている所為か、外が元々暗い所為か、部屋の中は真っ暗で中の様子が良く見えない。
「なんか、臭うな」
リッサがまた言葉を出した。リッサの言葉を聞いて、すんすんと鼻を鳴らした叶は、家の中には似つかわしくない臭いを嗅いで、なんの臭いなんだろうと思った。
「灯りつけるね。えっと、確かこっちに」
叶は言いながら振り向くと、ドアの横の壁を見た。電灯のスイッチを見付けて押すと、天井にある電灯が明るくなった。
「これは、なんだ? 灯油を入れておく、いや、この臭いはガソリンか? だが、どうしてこんな物が部屋の中なんかにあるんだ?」
リッサががらんとしていて何もない部屋の奥、窓の下の壁際に二つ並んで置かれている赤色の灯油タンクに近付いて行きながら言う。
「ガソリン? ガソリンなんて何に使うの?」
叶は言いながらリッサを見た。
「普通の家には、あまりおいてないと思うぞ。しかも、部屋の中とは。何か理由があるのかも知れないが、危険だな。これがなんなのか、密に聞いた方がいいかもな」
密という言葉を聞いて、叶はそうだ密ちゃんを追いかけて来たんだったと思った。
「そんな事より密ちゃんだよ。部屋、変わったのかな。昔はここだったと思うんだけどな」
叶は言いながら部屋を出ようとして、ドアに向かって歩き出した。
「長い時間が経ってるからな。変わったのかも知れない」
リッサが言った。
「うん」
叶は小さな声で返事をして部屋の外に出ると、廊下の右と左を見た。
「左右に一つずつ部屋があるな」
リッサが叶の足元まで来て言う。
「うん。どっちだろう」
叶はそう言うと、手を伸ばしガソリンのあった部屋の電灯を消してドアを閉めた。
「どっちでもいい。手当たり次第に行こう。大した部屋数じゃないんだ。いや、待て。分かったぞ。ついて来い」
リッサが言って歩き出す。
「どうして分かるの?」
叶は不思議に思って聞いた。
「床を良く見ろ。濡れてるだろ?」
リッサの言葉を聞いて床を見た叶はなるほどと思った。
「お風呂場から飛び出して行ったから。これを追って行けばいいんだ」
叶が言うとリッサが頷き、そうだと言った。濡れているフローリングの床を見ながら廊下を進んで行き、右の部屋のドアの前で行くと、叶の前を歩いていたリッサが足を止めた。
「ここみたいだな。この先は廊下の突き当りだし、ここの部屋の前の方があっちの部屋の前よりも濡れてる」
リッサが言って顔を上げた。
「密ちゃん。私。叶だよ。開けるよ」
叶は声をかけながらドアノブに手を伸ばし、ドアを開けようとした。
「鍵がかかってる」
叶は言い、リッサの方を見た。
「ここにいるようだな。だが、どうするか。どうも、密は精神状態が不安定なようだ。このままにしておくのは心配だ」
リッサが言うと、ドアをじっと見つめる。
「密ちゃん。開けて。体ちゃんと拭いたの? ねえ、密ちゃん」
叶はドアをノックしながら大きな声を出した。
「返事がないな。開けるか?」
リッサが言い、叶の顔を見た。
「鍵がかかってるのに、開けていいのかな?」
叶は言いながらドアとリッサの顔とを交互に見る。
「開けよう」
リッサが言うとすぐに、ドアの鍵が理者の力によって開いた。
「密ちゃん。入るよ」
叶は言いながら部屋のドアを開けた。
「また灯りをつけないと駄目だな」
真っ暗な部屋を見てリッサが言う。
「リッサ。鍵を勝手に開けちゃったんだよ。いきなり灯りをつけちゃ悪いよ」
叶は小声でリッサに言った。
「密ちゃん。いるんでしょ? 返事をして。灯りつけてもいい?」
叶は声を上げる。
「叶。ここまで来て気を使っていてもしょうがない。灯りをつけろ」
リッサが部屋の中にすたすたと入って行きながら言った。
「でも」
「分かった。俺がやる」
叶の言葉にリッサがそう答えると、リッサが理者の力を使って電灯をつけた。部屋の中が明るくなり、壁際の窓の下にあるベッドの上の布団が、不自然に盛り上がっているのが叶の目に入って来た。
「ベッドの中か?」
リッサの声がする。
「うん。たぶん」
叶は言いながら、ゆっくり部屋の中に入ると、ベッドの傍に行った。
「密ちゃん。風邪引くよ。冷たいでしょ」
叶は布団が酷く濡れている事に気が付くと言葉を出した。
「体を拭かないまま入ったのか。まったく」
リッサが叶の腰くらいの高さのベッドの上に飛び乗って言う。
「寝ちゃってるのかな?」
叶は言いながらリッサの顔を見る。
「どうしたもんか。とりあえず布団は乾かそう」
リッサが言い、理者の力を使って布団を乾かした。
「おい。密。大丈夫なのか? 返事をしろ。返事をしないと布団を消すぞ」
リッサが声を上げる。
「密ちゃん。返事して。お願い」
叶はそっと優しくぽんぽんとかけ布団を叩きながら言った。
「酷いよ。勝手に鍵開けて」
布団の中から密の声がした。
「ごめんね。でも心配だったから」
叶はそう言い、ベッドの端に腰を下ろした。
「体や髪も濡れてるんだろ? とりあえず出て来い。それだけでも乾かせ」
リッサが叶の横に座りながら言った。
「ほっといて」
密の言葉を聞くと、リッサが目を細めた。
「分かった。布団を消す」
リッサが言うと、かけ布団と敷き布団カバーがタオル地の物に変わった。
「急に何?」
密が声を上げ、布団の中で丸まっていた体を更に丸めた。
「もうリッサ。普通にやればいいのに。密ちゃん。体が濡れてたら拭いて。拭き終わったら、御飯にしよっか? そろそろ晩御飯の時間だよ」
叶はタオル地の布団越しに密の体をそっと撫でながら言った。
「優しくしないで。あんな事言って突き放しといて」
密が布団の中でごそごそと動きながら言う。
「叶。ちょうどいいんじゃないか? ここらで俺達は退散しよう。密もこう言ってる」
リッサの言葉に叶はリッサの顔を見た。
「リッサ?」
叶の口から言葉がこぼれ出る。リッサが片方の前足を上げるとしーっとするように自分の口に当てた。
「密。俺達は行く。頑張って生きろ」
リッサが言うと、ベッドから下りた。叶はベッドの端に座ったままリッサの姿を目で追う。リッサが片方の前足を上げると叶に向かっておいでおいでをする。
「駄目だよ」
言葉が叶の口を突いて出た。
「俺達の時間は限られてる。いついなくなるか分からないんだぞ。いいから来い。ただの芝居だ。部屋から出た振りをすれば、密は布団の中からきっと出て来る」
リッサが聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言う。叶は布団の中にいる密に目を向けた。
「密ちゃん。ごめんね」
しばらく迷ってから叶は言うとベッドから下りた。リッサがすたすたと歩き出し、部屋の外に向かって行く。叶は後ろ髪を引かれる思いを抱きながらリッサの後に続いた。部屋のドアから出るとリッサが足を止める。叶は部屋から出る前にドアの前で足を止めた。
「出ろ。ドアを閉めるまでやるんだ」
リッサが小声で言う。叶はでも、と言い、足を動かすのを躊躇った。リッサが早く来いと言いながら、おいでおいでをする。ごそっと布団の動く音が背後から聞こえたので、叶は素早く振り向いた。
「はっ!?」
密が布団の隙間から顔を出していて、叶と目が合うと、息を漏らすようにそう言ってすぐに布団の中に潜った。叶はベッドの方に戻ろうとする。足を踏み出そうとすると、足にさわさわとしたリッサの毛の感触があった。叶は足元に視線を落とす。いつの間にかリッサが足元にいて、片方の前足を上げ、ドアの方を指し示していた。
「密ちゃん。じゃあ、ね」
叶はまたしばらく迷ってから言い、視線を上げるとリッサと一緒に歩き出してドアの外に出た。
「ドアを閉めるぞ」
リッサが言って、体全体で押すようにしてドアを閉める。
「リッサ。密ちゃん出て来るのかな?」
叶はしゃがむとリッサの顔に自分の顔を寄せて聞いた。
「大丈夫だ。密はもうベッドから出た。今、ドアに近付いて来てる。ドアを開けたら、そうだな。抱き締めて、捕まえてでもやればいい」
リッサが言った。叶はどうして分かるんだろう思いながらリッサの姿をしげしげと見る。リッサの頭の上にぴょこんと立っている二つの耳が、細かく頻繁に動いているの見た叶はなるほどと思った。ほどなくして、ドアノブがゆっくりと回り出した。リッサがゆっくりと頷く。叶は両手を前に出し身構えた。静かに音もなくドアが開き始める。叶は息を殺して密が姿を現す瞬間を待った。
「密ちゃん」
ドアが開き、密の姿が見えた瞬間、叶は密の名を呼びながら密の体を抱き締めた。
「何!? お姉ちゃん!?」
密が大きな声を上げた。
「リッサ。やった。捕まえた」
喜びながら叶も大きな声を上げる。
「まったく。手間のかかる奴らだ。本当は見捨てて行きたい所だが、お前に何かあると面倒事が増えそうだからな」
リッサが叶に抱き締められ、項垂れている密の顔を見上げながら言う。
「密ちゃん。リッサの言う事は気にしなくっていいよ。本当は優しいんだから。そんな事より、晩御飯何がいい? 私が作るよ」
叶は密の顔を下から覗き込むようにしながら言った。
「オムライス。昔、お姉ちゃんとお母さんが一緒に作ってくれたオムライスが食べたい」
しばらくの沈黙の後、密が小さな声を出した。
「分かった。オムライスなら、向こうでも作ってるからちゃんとできるよ」
叶はそう言うと、密を抱き締めたままキッチンと家族が揃って食事をとっていたテーブルのある、ダイニングキッチンのようになっている部屋に向かって歩き出そうとした。
「材料がない」
密が小さな声で言う。
「じゃあ、皆で買い物行こう」
叶が言うと、密が小さく頭を左右に振り、行かないと言った。
「む、うう、どうして?」
叶は昔皆で良く行った近所のスーパーに行こうよという言葉を出しそうになり、慌てて途中で言葉を変えた。
「人に会いたくない」
密の言った言葉の意味が分からず、叶は何も言わずに密の姿を見つめた。
「買い物とかはどうしてるんだ? 学校だってあるだろう?」
リッサが聞く。
「出前と通販。学校は行ってない」
「そうか。だったら、買い物はやめよう。叶、理者の力を使え」
密の言葉を聞いたリッサが叶の方を向いて言う。
「密ちゃん。学校行ってないの?」
叶はリッサの言葉には応じずに、密を抱く手に力を込めながら聞いた。
「うん」
密の声が今までよりも更に小さくなった。
「まあ、そうだろうな。今のお前には学校は合わないだろう。俺も良くサボった。俺の世界があって、まだ俺が学校に行ってた頃が懐かしい。俺はなかなかの不良でな。近所の学校の悪どもから、金色の狼なんて呼ばれて恐れられたりもしてたもんだ」
リッサが言った。
「リッサ。そんな事言ってる場合じゃないよ。密ちゃん。学校行かないと駄目だよ」
叶は俯いている密の顔をじっと見つめながら言葉を出した。
「叶。やめろ。別にいいだろう。学校なんて行かなくたって生きて行ける。密が行きたくないと思ってるんだ」
リッサが言って叶の顔を見た。
「でも」
「密。俺は学校なんてもんは行かなくてもいいと思ってる。だが、それはちゃんと前向きに生きて行くならの話だ。ただ逃げてるだけじゃ駄目だ。そこの所を勘違いするな」
リッサが叶の言葉を制するように言葉を出した。
「リッサ」
密が言いながら顔を上げて、リッサを見る。
「腹減ったな。早く飯にしよう」
リッサが言うと、お座りをして尻尾をぱたぱたと振った。
「密ちゃん。大丈夫? 開けるよ」
叶は声をかけながら部屋の中に入ろうとして、ドアノブを回す。密の返事はなかったが、ドアが開いたので叶はゆっくりとドアを開けていった。
「おい。叶。本当にここであっているのか?」
部屋の中に入ると、足元にいたリッサが言う。生地の厚いカーテンが閉まっている所為か、外が元々暗い所為か、部屋の中は真っ暗で中の様子が良く見えない。
「なんか、臭うな」
リッサがまた言葉を出した。リッサの言葉を聞いて、すんすんと鼻を鳴らした叶は、家の中には似つかわしくない臭いを嗅いで、なんの臭いなんだろうと思った。
「灯りつけるね。えっと、確かこっちに」
叶は言いながら振り向くと、ドアの横の壁を見た。電灯のスイッチを見付けて押すと、天井にある電灯が明るくなった。
「これは、なんだ? 灯油を入れておく、いや、この臭いはガソリンか? だが、どうしてこんな物が部屋の中なんかにあるんだ?」
リッサががらんとしていて何もない部屋の奥、窓の下の壁際に二つ並んで置かれている赤色の灯油タンクに近付いて行きながら言う。
「ガソリン? ガソリンなんて何に使うの?」
叶は言いながらリッサを見た。
「普通の家には、あまりおいてないと思うぞ。しかも、部屋の中とは。何か理由があるのかも知れないが、危険だな。これがなんなのか、密に聞いた方がいいかもな」
密という言葉を聞いて、叶はそうだ密ちゃんを追いかけて来たんだったと思った。
「そんな事より密ちゃんだよ。部屋、変わったのかな。昔はここだったと思うんだけどな」
叶は言いながら部屋を出ようとして、ドアに向かって歩き出した。
「長い時間が経ってるからな。変わったのかも知れない」
リッサが言った。
「うん」
叶は小さな声で返事をして部屋の外に出ると、廊下の右と左を見た。
「左右に一つずつ部屋があるな」
リッサが叶の足元まで来て言う。
「うん。どっちだろう」
叶はそう言うと、手を伸ばしガソリンのあった部屋の電灯を消してドアを閉めた。
「どっちでもいい。手当たり次第に行こう。大した部屋数じゃないんだ。いや、待て。分かったぞ。ついて来い」
リッサが言って歩き出す。
「どうして分かるの?」
叶は不思議に思って聞いた。
「床を良く見ろ。濡れてるだろ?」
リッサの言葉を聞いて床を見た叶はなるほどと思った。
「お風呂場から飛び出して行ったから。これを追って行けばいいんだ」
叶が言うとリッサが頷き、そうだと言った。濡れているフローリングの床を見ながら廊下を進んで行き、右の部屋のドアの前で行くと、叶の前を歩いていたリッサが足を止めた。
「ここみたいだな。この先は廊下の突き当りだし、ここの部屋の前の方があっちの部屋の前よりも濡れてる」
リッサが言って顔を上げた。
「密ちゃん。私。叶だよ。開けるよ」
叶は声をかけながらドアノブに手を伸ばし、ドアを開けようとした。
「鍵がかかってる」
叶は言い、リッサの方を見た。
「ここにいるようだな。だが、どうするか。どうも、密は精神状態が不安定なようだ。このままにしておくのは心配だ」
リッサが言うと、ドアをじっと見つめる。
「密ちゃん。開けて。体ちゃんと拭いたの? ねえ、密ちゃん」
叶はドアをノックしながら大きな声を出した。
「返事がないな。開けるか?」
リッサが言い、叶の顔を見た。
「鍵がかかってるのに、開けていいのかな?」
叶は言いながらドアとリッサの顔とを交互に見る。
「開けよう」
リッサが言うとすぐに、ドアの鍵が理者の力によって開いた。
「密ちゃん。入るよ」
叶は言いながら部屋のドアを開けた。
「また灯りをつけないと駄目だな」
真っ暗な部屋を見てリッサが言う。
「リッサ。鍵を勝手に開けちゃったんだよ。いきなり灯りをつけちゃ悪いよ」
叶は小声でリッサに言った。
「密ちゃん。いるんでしょ? 返事をして。灯りつけてもいい?」
叶は声を上げる。
「叶。ここまで来て気を使っていてもしょうがない。灯りをつけろ」
リッサが部屋の中にすたすたと入って行きながら言った。
「でも」
「分かった。俺がやる」
叶の言葉にリッサがそう答えると、リッサが理者の力を使って電灯をつけた。部屋の中が明るくなり、壁際の窓の下にあるベッドの上の布団が、不自然に盛り上がっているのが叶の目に入って来た。
「ベッドの中か?」
リッサの声がする。
「うん。たぶん」
叶は言いながら、ゆっくり部屋の中に入ると、ベッドの傍に行った。
「密ちゃん。風邪引くよ。冷たいでしょ」
叶は布団が酷く濡れている事に気が付くと言葉を出した。
「体を拭かないまま入ったのか。まったく」
リッサが叶の腰くらいの高さのベッドの上に飛び乗って言う。
「寝ちゃってるのかな?」
叶は言いながらリッサの顔を見る。
「どうしたもんか。とりあえず布団は乾かそう」
リッサが言い、理者の力を使って布団を乾かした。
「おい。密。大丈夫なのか? 返事をしろ。返事をしないと布団を消すぞ」
リッサが声を上げる。
「密ちゃん。返事して。お願い」
叶はそっと優しくぽんぽんとかけ布団を叩きながら言った。
「酷いよ。勝手に鍵開けて」
布団の中から密の声がした。
「ごめんね。でも心配だったから」
叶はそう言い、ベッドの端に腰を下ろした。
「体や髪も濡れてるんだろ? とりあえず出て来い。それだけでも乾かせ」
リッサが叶の横に座りながら言った。
「ほっといて」
密の言葉を聞くと、リッサが目を細めた。
「分かった。布団を消す」
リッサが言うと、かけ布団と敷き布団カバーがタオル地の物に変わった。
「急に何?」
密が声を上げ、布団の中で丸まっていた体を更に丸めた。
「もうリッサ。普通にやればいいのに。密ちゃん。体が濡れてたら拭いて。拭き終わったら、御飯にしよっか? そろそろ晩御飯の時間だよ」
叶はタオル地の布団越しに密の体をそっと撫でながら言った。
「優しくしないで。あんな事言って突き放しといて」
密が布団の中でごそごそと動きながら言う。
「叶。ちょうどいいんじゃないか? ここらで俺達は退散しよう。密もこう言ってる」
リッサの言葉に叶はリッサの顔を見た。
「リッサ?」
叶の口から言葉がこぼれ出る。リッサが片方の前足を上げるとしーっとするように自分の口に当てた。
「密。俺達は行く。頑張って生きろ」
リッサが言うと、ベッドから下りた。叶はベッドの端に座ったままリッサの姿を目で追う。リッサが片方の前足を上げると叶に向かっておいでおいでをする。
「駄目だよ」
言葉が叶の口を突いて出た。
「俺達の時間は限られてる。いついなくなるか分からないんだぞ。いいから来い。ただの芝居だ。部屋から出た振りをすれば、密は布団の中からきっと出て来る」
リッサが聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言う。叶は布団の中にいる密に目を向けた。
「密ちゃん。ごめんね」
しばらく迷ってから叶は言うとベッドから下りた。リッサがすたすたと歩き出し、部屋の外に向かって行く。叶は後ろ髪を引かれる思いを抱きながらリッサの後に続いた。部屋のドアから出るとリッサが足を止める。叶は部屋から出る前にドアの前で足を止めた。
「出ろ。ドアを閉めるまでやるんだ」
リッサが小声で言う。叶はでも、と言い、足を動かすのを躊躇った。リッサが早く来いと言いながら、おいでおいでをする。ごそっと布団の動く音が背後から聞こえたので、叶は素早く振り向いた。
「はっ!?」
密が布団の隙間から顔を出していて、叶と目が合うと、息を漏らすようにそう言ってすぐに布団の中に潜った。叶はベッドの方に戻ろうとする。足を踏み出そうとすると、足にさわさわとしたリッサの毛の感触があった。叶は足元に視線を落とす。いつの間にかリッサが足元にいて、片方の前足を上げ、ドアの方を指し示していた。
「密ちゃん。じゃあ、ね」
叶はまたしばらく迷ってから言い、視線を上げるとリッサと一緒に歩き出してドアの外に出た。
「ドアを閉めるぞ」
リッサが言って、体全体で押すようにしてドアを閉める。
「リッサ。密ちゃん出て来るのかな?」
叶はしゃがむとリッサの顔に自分の顔を寄せて聞いた。
「大丈夫だ。密はもうベッドから出た。今、ドアに近付いて来てる。ドアを開けたら、そうだな。抱き締めて、捕まえてでもやればいい」
リッサが言った。叶はどうして分かるんだろう思いながらリッサの姿をしげしげと見る。リッサの頭の上にぴょこんと立っている二つの耳が、細かく頻繁に動いているの見た叶はなるほどと思った。ほどなくして、ドアノブがゆっくりと回り出した。リッサがゆっくりと頷く。叶は両手を前に出し身構えた。静かに音もなくドアが開き始める。叶は息を殺して密が姿を現す瞬間を待った。
「密ちゃん」
ドアが開き、密の姿が見えた瞬間、叶は密の名を呼びながら密の体を抱き締めた。
「何!? お姉ちゃん!?」
密が大きな声を上げた。
「リッサ。やった。捕まえた」
喜びながら叶も大きな声を上げる。
「まったく。手間のかかる奴らだ。本当は見捨てて行きたい所だが、お前に何かあると面倒事が増えそうだからな」
リッサが叶に抱き締められ、項垂れている密の顔を見上げながら言う。
「密ちゃん。リッサの言う事は気にしなくっていいよ。本当は優しいんだから。そんな事より、晩御飯何がいい? 私が作るよ」
叶は密の顔を下から覗き込むようにしながら言った。
「オムライス。昔、お姉ちゃんとお母さんが一緒に作ってくれたオムライスが食べたい」
しばらくの沈黙の後、密が小さな声を出した。
「分かった。オムライスなら、向こうでも作ってるからちゃんとできるよ」
叶はそう言うと、密を抱き締めたままキッチンと家族が揃って食事をとっていたテーブルのある、ダイニングキッチンのようになっている部屋に向かって歩き出そうとした。
「材料がない」
密が小さな声で言う。
「じゃあ、皆で買い物行こう」
叶が言うと、密が小さく頭を左右に振り、行かないと言った。
「む、うう、どうして?」
叶は昔皆で良く行った近所のスーパーに行こうよという言葉を出しそうになり、慌てて途中で言葉を変えた。
「人に会いたくない」
密の言った言葉の意味が分からず、叶は何も言わずに密の姿を見つめた。
「買い物とかはどうしてるんだ? 学校だってあるだろう?」
リッサが聞く。
「出前と通販。学校は行ってない」
「そうか。だったら、買い物はやめよう。叶、理者の力を使え」
密の言葉を聞いたリッサが叶の方を向いて言う。
「密ちゃん。学校行ってないの?」
叶はリッサの言葉には応じずに、密を抱く手に力を込めながら聞いた。
「うん」
密の声が今までよりも更に小さくなった。
「まあ、そうだろうな。今のお前には学校は合わないだろう。俺も良くサボった。俺の世界があって、まだ俺が学校に行ってた頃が懐かしい。俺はなかなかの不良でな。近所の学校の悪どもから、金色の狼なんて呼ばれて恐れられたりもしてたもんだ」
リッサが言った。
「リッサ。そんな事言ってる場合じゃないよ。密ちゃん。学校行かないと駄目だよ」
叶は俯いている密の顔をじっと見つめながら言葉を出した。
「叶。やめろ。別にいいだろう。学校なんて行かなくたって生きて行ける。密が行きたくないと思ってるんだ」
リッサが言って叶の顔を見た。
「でも」
「密。俺は学校なんてもんは行かなくてもいいと思ってる。だが、それはちゃんと前向きに生きて行くならの話だ。ただ逃げてるだけじゃ駄目だ。そこの所を勘違いするな」
リッサが叶の言葉を制するように言葉を出した。
「リッサ」
密が言いながら顔を上げて、リッサを見る。
「腹減ったな。早く飯にしよう」
リッサが言うと、お座りをして尻尾をぱたぱたと振った。