十 再び密の部屋にて

文字数 3,784文字

 ノートを見られた。お姉ちゃんに全部知られてしまった。密はそう思いながら急いで仏間の前から自分の部屋に戻った。部屋の中に入ると、後ろ手でドアを閉め、ドアに背中を預けて顔を俯ける。

「どうしよう」

 密は小さな声で漏らすと、ドアに背中を預けたまま、その場に座り込んだ。お姉ちゃん心配してた。一生懸命、密と未来の事をどうすれば助けられるのか考えてくれてた。お姉ちゃんは苦しんでた。密の所為だ。密が駄目だから。どうして、密はこんななんだろう。どうしてあんな日記なんて書いちゃったんだろう。

「どうしよう」

 密は止めどもなく溢れ出す様々な思いに翻弄されながら、また同じ言葉を漏らした。不意に背中がぐいっと押されるような感触を感じる。密は何? と思い、ドアの方を見た。

「ん? ドアが開かない」

 ドアの向こう側から叶の声がした。

「お姉ちゃんが戻って来た」

 密は言ってしまってから、慌てて両手で口を押え、助けを求めるように誰もいない部屋の中を見回した。

「鍵は開いてるみたいなんだけどな」

 また叶の声がする。密はもう一度ドアの方を見た。どうやらさっきの声はお姉ちゃんには聞こえてはいなかったらしい。これからどうしよう? こんな所にいたら変だと思われる。お姉ちゃんに何をしてたのか聞かれたらなんて答えればいい? 密はそう思い、何をどうすればいいのか考えたがいい考えは何も思い浮かばなかった。

「密。ひょっとして、起きてたりする? そこにいる?」

 叶が言った。どうしよう。無視する? それとも返事をする? 密は迷った。

「ワ、ワンワン」

 迷った末に密は犬の鳴き声を真似た。苦肉の策、思い付きの思い付き。真似をした直後に密は猛烈に失敗したと思った。何をしてるんだろう。犬の鳴き声の真似って。密が自分の馬鹿さ加減にあきれ痛烈に自己批判をしていると、叶が、なんだワンちゃんかと言った。密は耳を疑った。お姉ちゃんそれでいいの? と思うと同時に叶の事がちょっと心配になった。

「密、犬なんて飼ってたんだ。全然気が付かなかった。ワンちゃん。ドアの前にいるのかワン? どいて欲しいんだワン」 

 叶が言った。語尾にワンって。そんな風に言ったって犬は分からないよお姉ちゃん。違う。そんな事はどうでもいい。今は、この状況をどうするかだった。密はそう思うと頭を抱え込んだ。

「やっぱり動かないや。しょうがない。ワンちゃんにも悪いし、あんまり騒いで密を起こしても悪いもんね。別の部屋で寝よ」

 また背中がぐいっと押されたと思うと、叶が言い、ドアの向こうにあった叶の気配が遠ざかり始める。

「待って、お姉ちゃん」

 お姉ちゃんが行ってしまうと思った密はいてもたってもいられなくなり、咄嗟に声を上げながらドアを開けた。

「ごめん。起こしちゃった? ワンちゃんが、ドアの前にいたみたいでドアが開かなくって」

 そう言う叶の様子はどこかぎこちなく不自然だった。密はお姉ちゃんどうしたんだろう? と思いながら叶の顔をじっと見つめた。

「あ、あのね。ちょっと、トイレにね。それで部屋を出たの。トイレ以外にはどこにも行ってないよ。本当だよ。本当にトイレ行っただけなの。それだけだから」

 叶が目を泳がせながら言う。密ははっとした。お姉ちゃんはきっと、ノートを見てた事を隠そうとしてるんだ。だからこんな態度をしてるんだ。密はそう思うと目を伏せた。お姉ちゃんがノートを見てた事知ってるって言った方がいいのかな? でも、言ったら、お姉ちゃんどうするんだろう? 怒る? 悲しむ? どうしよう? 密は必死に考えた。

「密。どうしたの?」

 叶が言った。

「あ、あのね。お姉ちゃん。犬なんていないの」

 叶がノートを見た事を知っていると、叶に言おうかどうしようかと散々悩んだ密は、悩んだあげくに結局何も言い出せず、そんな言葉を作った。

「え? 嘘? だって、ドアの前に何かがあったみたいで開かなかったし、鳴き声がしたよ?」

 叶が驚きながら言う。

「ごめんなさい」

 ノートの事どうすればいいのか分かんない。なんかもう頭の中がぐちゃぐちゃだ。でも、お姉ちゃんにはとにかく謝らなきゃと思った密は、言葉を出しながら深く頭を下げた。

「な、なんで? なんで密が急に謝るの? お、お姉ちゃんは何も知らないよ」

 叶が動揺した様子で言う。

「あの、えっと、とにかくごめんなさい。密が、あ、あの、寝相が悪くって。ドアの前で寝ちゃってて。鳴き声もきっと、寝言? かな」

 何を言ってるんだろう。本当はもっと言わないといけない事があるはずなのに。密は言い終えると泣きそうになりながらそう思った。

「なんだ。そうなんだ。そんな事、謝らなくってもいいのに。でも、寝言だったんだ。本当に犬がいるのかと思ってた」 

 叶が安堵したような様子で言った。

「リッサの所為かもね。それで寝言でワンって言っちゃったんじゃないかな。リッサ、インパクト強いもん。お姉ちゃんなんて、始めて見た時は本当に驚いたんだから。だって、どこからどう見ても犬なのに言葉喋るんだよ。三日くらい信じられなくって、リッサが言葉を話す度に姉御が腹話術をしてるんじゃないかとか、本当は近くに誰かがいて声を出してるんじゃないかって思ってた」

 叶が無邪気な顔になりながら、付け足すようにして言葉を続ける。そんな叶の姿を見ていると、罪悪感に苛まれつつも心が安らいで行くのを密は感じた。

「お姉ちゃん。部屋に戻ろう」 

 密は言うと叶の傍に行き、叶の手を握って引っ張った。

「うん」

 叶が言って歩き出す。二人揃ってベッドの傍に行き、二人揃ってベッドの上に腰を下ろした。

「密。もう寝る? それとも、もう少し起きてて何か話でもする?」

 叶が密の顔を見つめると、そう言った。

「お姉ちゃんはどうしたい?」

 密は自分よりも小さい体の姉に甘えるような目を向けながら言う。

「私は」

 叶がそこまで言って言葉を切った。密は何を言わずに叶の言葉を待つ。叶が密の顔から視線を外す。

「横になりながら少し話そっか。眠くなったらすぐ寝られるし」

「うん」

 叶の言葉に頷きながら密は返事をした。叶と一緒に布団の中に入り、叶と並んで横になる。

「密。灯り消す?」

 叶が天井を見つめながら言う。

「お姉ちゃんの好きでいい」

 密が右側に寝ている叶の方に顔を向けながら言うと、叶がくすっと笑った。

「密は全部お姉ちゃん任せなんだから」

 叶が言い、電灯が不意に消える。

「お姉ちゃん。今のって、理者の力?」

 密は叶の横顔を見つめて言う。

「うん。そうだよ。向こうにいる時は使わないようにしてたんだけどね。今は、使っちゃうの」

「なんで?」

 叶の言葉を聞いた密が言うと、叶が密の方に顔を向けた。

「密と離れたくないから」

 叶が言ったと思うと、叶の小さな細い腕が密の体に回り密の体を抱き締めた。

「お姉ちゃん? どうしたの?」

 密は突然の事に困惑しながら言った。

「密。ごめんね。こんな、何もできない、お姉ちゃんで本当にごめん」

 叶が言い密の胸に顔を押し付けた。

「お姉ちゃん」

 密はそれ以上言葉を続ける事ができなかった。密の胸の中で叶は声を殺して泣いていた。

密は泣き続ける叶の小さな嗚咽の声を聞きながら、ノートを読んだからだ。お姉ちゃんが泣いてるのは密の所為だと思った。

「お姉ちゃん。密の方こそごめん」

 密は言い、叶の体を包むようにして抱き締め返した。

「密は何も悪くないよ。悪いのは私」

 か細く今にも消えてしまいそうな叶の声が返って来る。

「そんな事ない。お姉ちゃんは帰って来てくれた」

 密はそう言うと叶を抱く手に力を込めた。

「密。ありがとう。密は優しいね」

 叶がまたか細く今にも消えてしまいそうな声で言った。密はその言葉を聞いて、叶の事を自分でも驚くほどに、本当に心から愛しいと思った。それきり叶が何も言わなくなったので、密も何も言わないでいると、静かに、ゆっくりと、時間だけが流れて行った。密はお姉ちゃんがずっといてくれたらいいな。そうしたら、こんなとっても温かい時間がずっと続くのにと思った。密の体に回っていた叶の腕から不意に力が抜けた。どうしたんだろうと思い叶の顔を覗き込んだ密は、叶が眠っている事に気が付いた。

「泣き疲れて寝ちゃったんだ。もう。お姉ちゃんったら子供なんだから」 

 密は小さな声で言い、叶の小さくて幼い顔を見つめた。

「本当に見た目はあの頃のまんま」

 密の口から言葉が漏れ出る。自分もあの頃のままだったら。お父さんもお母さんも未来もあの頃のままだったら。そう思うと密の目から涙が溢れ出して来た。お姉ちゃんは希望を密が持てるようにしたいみたいな事を言ってた。ノートの事はお姉ちゃんが言って来るまでは黙っておこう。お姉ちゃんが希望を持つんだよって言って来たら、それに合わせて頑張るようにしてみよう。密は、何か、忘れていた、失ってしまっていた、何かを取り戻したような気がした。

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