一 異世界にて

文字数 8,538文字

「おい。叶。毛を梳かしてくれ。風呂に入ったらぼさぼさだ」

 風呂場の方から野太い男の声が聞こえ、濡れた長い金色に輝く体毛を引きずりながら一匹の小型犬が廊下に姿を現した。

「もう。リッサ。お風呂の後はちゃんと拭き終わるまでお風呂場から出ないでって言ってるでしょ。廊下拭くの私なんだよ」

 ぶーぶーという擬音が付きそうな声で言いながら、叶は畳張りの居間から飛び出すと小型犬の元に駆け寄った。

「叶。悪いな。リッサを頼む」

 風呂場の方から女の声がすると、叶の元に真っ白なバスタオルが飛んで来た。

「姉御もリッサに言ってよ」

 叶は声の主に向かって言いながら、バスタオルで小型犬の体を包むと懸命に拭き始めた。

「おいおい。俺は梳かしてくれって言ったんだ。拭けとは言ってない」

 リッサが小型犬という姿にまったくに似つかわしくない野太い男の声で言ったが、叶は無視してバスタオルを動かした。

「言ってもリッサは聞きゃしないよ。あたしだって何度も言ってるんだ」

 姉御が言いながら、風呂場から出て来た。叶はバスタオル一枚の姉御の姿を思わず手を止めてじっと見つめてしまった。

「何? 何か付いてるかい?」

 姉御が怪訝な目を叶に向けながら言った。

「そりゃ見つめるだろう。俺だってイヌトリカンじゃなかったら、出るとこは出て引っ込んでる所は引っ込んでる姉御の体を見て欲情してる所だ」

 リッサの言葉を聞いた姉御が、何かに気付いたような顔をした。

「まあ、あれだよ。叶。気にすんな。あんたはかわいい。顔も体も全部かわいい。だからそのままでいいんだ」

 姉御がそう言うと、叶の傍に来て叶の体を両手で高く持ち上げた。

「ちょっと、姉御。怖いよ。落ちたらどうすんの」

 叶は姉御の顔とその遥か下にある廊下の床を見て声を上げた。姉御の身長は百二十センチほどの叶の身長よりも一メートル以上は高く、その上から見る景色は叶にとって恐怖を感じる物だった。

「そうだぞ叶。俺はお前みたいな何もかもが小さいのも嫌いじゃない。いや。すまん。やっぱり、さすがに何も感じないか」

 リッサが犬種でいうとポメラニアンに似たかわいい顔を、自身の長い頭の毛の間から覗かせて叶の方を見ながら言った。

「リッサは見る目がないね。まあ、リッサに気に入られた所でいい事なんてないから、リッサの言う事なんてあんたは気にしなくっていいんだよ」

 姉御が言いながら叶を床の上に下ろした。

「もう。二人とも勝手な事ばっかり言って。ほらリッサ。こっち来て。まだ拭くから」

 叶はそう言うとリッサに向かって手を伸ばした。

「おっと。もう拭かれるのは勘弁だ。俺は縁側に行って涼む」

 リッサが言うが早いか、駆け出して行ってしまった。

「あー。もう。廊下も畳も濡れちゃったじゃない」

 叶が声を上げると、姉御が叶の傍に来て、そっと叶の頭を撫でた。

「面倒だったら、理者の力を使えばいい」

 姉御が言うと、リッサが濡らしていった廊下や畳が、一瞬にして渇いた。

「姉御。ありがと。それと、さっきの事」

 叶はそこまで言って言葉を切った。自分が姉御の体を見つめた時、姉御は自分の思った事を理解して気を使ってくれていた。叶はその事にもお礼を言おうとしたが、なんだか急に照れ臭くなってしまったので素直にお礼が言えなくなった。

「いいんだよ。あんたの体が成長しなくなったのはあたしの所為なんだから。後、あんたは理者の力を使わなさ過ぎだ。好きに使って楽しな」

 姉御が言いながら叶から離れると、縁側の方に向かって行った。

「うん。ありがと。分かってるんだけど」

 叶はそう言いながら自分の手を見つめた。姉御が使い、叶にも使えるようにしてくれたその力の名は、理者の力といった。この世界以外にも数多に存在する様々な世界を作り司る者である理者が、その使徒である姉御やリッサに与えた、生きている者の心や体に直接変化を加える事と、死者を生き返らせる事以外はなんでもできる不思議な力。その力を使う事に、叶は抵抗があった。

「変なこだわりは、捨てた方がいいとは思うんだけど」

 叶は小さな声で独り言ちた。こっちの世界に来てからもう九年も経っていたが、叶は自分のいた世界の事を忘れた事はなかった。こっちの世界に慣れれば慣れるほど自分のいた世界が遠ざかって行くように叶には思えた。叶はできるだけこっちの世界に慣れてしまわないようにと、この世界と自分のいた世界との差異の象徴のような理者の力を使わないようにしていたのだった。

「叶。こっちに来な。今日は花火でも上げよう」

 姉御の声が聞こえたので、叶はうんと言って声のした方に向かって歩き出した。

「ここに座んな」

 縁側に行くと理者の力を使い、既に着物姿になっていた姉御が、自分の右隣りを手で指し示しながら言った。

「この世界はいい。俺達三人しかいないし、草原の他にはこの家しかないが俺は大好きだ」

 姉御の左隣に陣取っていたリッサが、誰に言うともなく言葉を出す。

「あたしがこの世界に来る前に住んでた家はこんな家だったんだ。叶がいた世界と同じ世界。場所も同じ日本という所さ。まあ、叶とはいた時代が違うから、この大きな家以外は田んぼと畑しか周りにはなったんだけどね」

 姉御が言い終えると、庭の端の木製の粗い作りの柵の先に広がる、どこまでも続いている草原のあちらこちらから花火が上がり始めた。花火はたくさんの星を散りばめた夜空の中に、いくつもの美しい光の大輪の花を咲かせた。

「凄い綺麗」

 叶は溜息を吐きながら言葉を出した。

「これは飲まずにはいられないな」

 リッサが言い、縁側の上にお銚子三つとお猪口三つを出現させた。

「いいねえ。叶も付き合いな」

 姉御の言葉に叶は首を横に振りながら庭に降りた。

「駄目だよ。私はまだ未成年なんだから」

 叶はそう言うと、草原と庭とを隔てている柵に向かって数歩歩いてから、家の方に顔を向けた。

「何を言ってんだい。ここはあんたのいた世界じゃないんだ。法律なんて及びじゃないんだよ」

 姉御が笑いながら言った。叶は花火が発する色とりどりの光に照らされている家と姉御とリッサを見つめた。

「叶。あんたは確か、今の日本での言い方だと平成十二年の生まれだったっけ? この家はあんたが生まれる何百年も前にあった家を再現した物なんだ。けど、あんたがいた頃にも少しは残ってたんじゃないか? まあ、見た事がないかも知れないけどさ。あたしは、昔、裕福だった農家の娘でね。住んでる家だけは大きかった。誰も彼も貧しくって、格差なんて当たり前で、士農工商なんていう制度まであってね。酷い時代で酷い世界だったよ」

 姉御が言い終えると、お猪口をぐいっと煽った。

「出た。姉御の昔語り。でも、それがまた味があっていいんだけどな」

 リッサが言いながら器用に両方の前足を使ってお銚子を持つと、空になった姉御のお猪口に酒を注いだ。

「ここみたいに幸せな世界に、どうして他の世界はならないのかな」

 叶は言うと、大小様々な花火が上がり続ける草原の方に顔を向けた。

「ここと違って他の世界には、生き物がたくさんいるからね。それに理者の力なんて便利な物もないし、あたしらみたいに不老不死でもない。理由を上げれば切りがないさ。けど、あれかも知れないね。あたしらは他の世界が歪んでいて理不尽で不条理で残酷な事を嫌というほど知っている。だから余計にそう思うのかも知れないね。そういう事を身を持って知ってるからこそ、ここでのこういう穏やかな日々を幸せだと思えるのかも知れない」

 姉御がそう言い、花火の描く光の芸術を仰ぎ見た。

「姉御。仕事の話は今はよそうぜ。折角の酒がまずくなる。って。そんな話をするからだ。来たぞ。また仕事のネタが降って来た」

 リッサが言いながら、かわいい顔を苦い物を食べてしまった時のようにしかめた。

「私が行く」

 叶は言いながらリッサと姉御の傍に駆け寄った。姉御とリッサが顔を見合わせる。

「今回はどこなんだい?」

 姉御が真剣な表情になって聞いた。

「それが、えっと、どこだったかな?」

 リッサが要領を得ない返事をした。

「なんだいそれは。あんたにしか世界の声は聞こえないようにしてあるんだ。ちゃんと把握しときな。あたしはちょっとトイレに行って来る。戻って来るまでにちゃんとしとくんだよ」

 姉御が言ってから立ち上がり、家の中に向かって歩き出した。

「おい。姉御。待てって。まったく。お? おお? 俺もなんだかトイレに行きたくなって来た。こういうのってのはあくびみたいにうつったりするもんなんだよな。叶はどうだ? 一緒に連れションするか?」

 リッサのデリカシーのない言葉に叶は大げさに溜息を吐いてみせた。

「早く行って来なよ。一人で留守番してて皆が帰って来た時みたいに、そこら辺にびびびって嬉ションみたいな事されたらたまんない」

 叶は叶なりの痛烈な皮肉を言葉に乗せてリッサに返した。

「俺はそう簡単には嬉ションはしないぞ。俺の嬉ションの基準はシビアなんだ。まったく。失礼な奴だ」

 リッサが言いながら四本の足で立ち上がり歩き出した。誰もいなくなった縁側に叶はゆっくりと腰を下ろす。

「もう三回続けて姉御が行ってるから、今回こそは私が行かないと」

 叶は打ち上がり続けている花火に目を向けながら、小さな声を漏らした。

「叶。背中が寂しそうだぞ」

 姉御の声がしたと思うと、叶はいきなり背後から抱き締められた。

「びっくりした」

 叶は声を上げながら、姉御の腕の中で体を回転させ姉御の方に体の正面を向ける。

「今回はあたしが行くよ。あんたは留守番だ」

 姉御が叶を抱く手を緩め、叶の顔を見ながら言った。

「駄目。私が行く。姉御ばっかりに行かせられない」

 叶は一歩も譲らないという意志を込めて声を上げた。

「いいじゃないか。これは元々あたしの仕事だ。あんたにはもう何回も代わってもらって助けてもらってる。あたしが行ける時はあたしが行くよ」

 姉御が言い終えると叶の体を抱く手にそっと力を込めた。

「なんだよ姉御。もう戻って来てたのか。人間用のトイレに向かって何度も話しかけてしまったじゃないか」

 家の中の方からリッサの声と、リッサの足が立てる小さなかわいい足音が聞こえて来た。

「そりゃ悪かったね。そんな事より飲み直しだ。明日出かけたらしばらくは帰れない。今夜は楽しくやろう」

 姉御がそう言い叶から手を放した。

 叶はここぞとばかりに理者の力を使い、酒や肴を出現させ、姉御とリッサに酒を飲ませた。理者の力を使う事に抵抗はもちろんあったが、背に腹は代えられない。姉御とリッサを酔い潰して、姉御の代わりに自分が仕事に行く。叶はそう考えると、懸命に二人を盛り上げた。

「今日は本当に良く飲んだ。叶がこんな風に理者の力を使って飲ませてくれるなんて、滅多にないからね」

 姉御が言いながら、隣に座っていた叶の頭を優しく撫でる。

「叶ももうこっちの生活が長いからな。仕事の過酷さが分かってるんだろう。姉御。叶は立派な後継ぎになりそうだな」

 リッサが言うと姉御が不愉快そうな顔をした。

「リッサ。この仕事はあたしとあんたの仕事だよ。この子は、あたしの家族なんだ。あたしがずっと面倒をみる。それだけさ。おかしな事を言うんじゃないよ」

 姉御がそう言い、叶を抱き締めた。

「姉御。いつも優しくしてくれてありがとう」

 叶は姉御を酔い潰そうとしている事に罪悪感を覚えながら言葉を出した。

「叶。あんたがいてくれるだけであたしは満足なんだ。ここはいい所だけど、孤独だ。あたしとリッサだけじゃつまらない。あんたには悪い事をしたと思ってる。けど、こうしてずっと傍にいてくれると嬉しい」

 姉御が言い終えたと思うと、不意に叶に体重のすべてを預けて来た。叶は突然の事に驚きながら、姉御が寝たと思いつつ、必死に姉御の体を支えた。

「まーた、いきなり寝たか。いい感じで飲んでるといっつもこれだ。叶、とりあえずそこに寝かせろ。あとは、こうなると、花火を止めた方がいいな」

 リッサの言葉を聞いた叶はうんと返事をしてから、理者の力で花火を止め、ふにゃふにゃになっている姉御の体を縁側の上に寝かせた。

「姉御は昔はそりゃ、冷たい女だったんだぞ。今は見る影もない。叶。お前が来てからだ。悪い事じゃない。だが、俺はたまに心配になる。お前がいなくなったらどうなるんだろうってな」

 リッサが言うと理者の力を使い、居間の畳の上に布団を出現させ、姉御を移動させてその上に寝かせる。

「何言ってんの。私はいなくなったりなんてしないよ。姉御が寝ちゃったし、私も寝よっかな」

 叶は言いながら、縁側の自分から少し離れた所にちょこんと座っているリッサの様子を探るように見た。

「俺はまだ一人で飲む」

 リッサの言葉を聞いた叶は少し唇を尖らせて、じゃあ私もまだ起きてると言い、花火の彩りのなくなった星空を見上げた。

「姉御が心配か?」

 リッサが聞いた。

「うん。仕事は大変だから。体は平気だけど、心が。あんな事何度もやってたら絶対に辛いと思う」

 叶は、自分が前に姉御の代わりに、仕事に行った時の事を思い出しながら言った。

「それはお前が行った先の世界の者達の事を考え過ぎるからだ。何も考えなければいい。仕事だからと割り切って、悪者然として振る舞えばいいんだ。さっきはああ言ったが、仕事の時の姉御はその辺はちゃんとやっているぞ。こっちにいる時とは違う。まあ、だからこそ、心配にもなるんだがな。お前があの姿を見たらなんて言うか。お前と姉御が一緒に異世界へ行く事はないだろうから、見る事もないだろうけどな」

 リッサが言ってから、お猪口に中に入っている酒をぴちゃぴちゃと音をたてて舐めた。

「一緒に行ければいいのに。そうすれば手伝える。リッサは一緒に行けるのに。理者に言ってよ。私と姉御を一緒に行けるようにして下さいって」

 叶は切実な思いを込めて言った。リッサが長い金色の毛を揺らしながら叶の顔を見て、それから居間の方に顔を向ける。

「何度も言ってるが、駄目だとしか言わない。理由は、分からないけどな」

 リッサが言い終えると、顔の向きを叶の方に戻し酒を舐める。

「姉御は私がここに来て本当に幸せなのかな」

 叶は言葉を漏らした。姉御が自分を大切にしてくれ、自分の事をいつも気にかけてくれている事には感謝をしている。けれど、それは、決してこの事だけが理由ではないのだろうが、姉御が自分に対して負い目を感じているからでもあると思う。自分がいなければ姉御は負い目を感じる必要がなくなる。そんな思いが叶の中にいつの間にか芽生えていて、その思いが姉御の手伝いをしたい、姉御の代わりに仕事をしたいという考えに繋がっていた。

「さっき姉御が言ってたじゃないか。お前はここにいるだけでいいんだ。それだけで姉御は救われてる。俺だって、おっと、俺の事はどうでもいい。どうせ、お前の事だ。姉御がお前に対して負い目を感じてるとか思ってるんだろ」

 リッサに思っていた事を言い当てられた叶は、目を大きくしてリッサの黒い円らな瞳を見つめた。

「うん。思ってる。だって、私の姿を毎日見る度に姉御は私をここに連れて来た事を後悔してるはずだもん。せめて、私が普通に成長してれば良かったのに」

 叶はそう言うと、リッサの瞳から視線を外し、九年前からまったく成長していない自分の体に目を向けた。

「体だけじゃなく、心の方もまったく成長してないみたいだな。この、九年間か。お前は何を見てたんだ? 俺と姉御の事をちゃんと見てたのか? ちゃんと見てたらそんな事は言えないはずだ。今、お前の年齢は十八歳だったな。まあ。あれか。十八なんてまだまだお子様だ。そんなもんかも知れないけどな」

 リッサが言葉を切り、お猪口の中の酒を舐める。

「リッサの言ってる事、良く分かんない」

 叶は言いながら、リッサの方を見た。

「まあ、そう言うな。そのうちに分かるようになるさ。なんだか湿っぽくなったな。そろそろ寝るか。叶。何度も言ってるが、一人で転送装置には近付くなよ。俺がいないと動かせないが、念の為だ。じゃあ、おやすみな」

 リッサが言ったと思うと、大きなあくびを一つしてから、その場で毛玉のように丸くなりすぐに寝息を立て始めた。叶はリッサの体を数回指で突いてみて起きない事を確かめると、そっと抱き上げる。叶は眠っているリッサを抱いたまま、姉御の寝ている居間を忍び足で通り抜け、転送装置のある部屋へと向かった。

 姉御の寝ている部屋の隣の部屋、家の中の配置的には庭から見て、一番奥にある部屋の中に襖を片手でそっと開けて叶は入る。襖を静かに閉めて部屋の中に目を向けると、部屋の奥の壁の前に立っている転送装置が視界の中に入って来た。

「ええーっと」

 叶は小さな声で言い、何も知らない者が見たら、ただの長方形の長くて分厚い木の塊に見える転送装置に近付いた。姉御の背丈に合わせて作られている家なので天井までは三メートルくらいはあるのだが、転送装置はその天井に届くが届かないかくらいの縦の長さがあった。横幅は一・五メートルくらいで、厚さは一メートルくらいもある。叶は黒一色の中に細い木目の筋が通っている転送装置の表面に手を当てた。冷たくてツルツルとしていて、叶はしばらくその感触を楽しむように手を動かさずにじっとしていた。

「うーん? なんら? 叶? どうして、俺を抱いてる?」

 リッサが金色の毛の下にある目を薄く開け、カブトムシのお尻のような形の、かわいい黒い小さな口をもごもごと動かした。

「ええ? それは、その、あの、ええっと、あれだよ。リッサをもふもふしたくてつい」

 慌てた叶は咄嗟に頭の中に浮かんだ言葉を出した。

「あーうー。そうらか。イヌトリカンの世界があった頃は、俺はモテモテらったからなあ。しょうがないらあ」

 中途半端な口の動きの為にはっきりとしない発音で言ってから、リッサが目を閉じ再び寝息を立て始めた。叶は安堵の息を吐きつつ、これは早くしないとリッサが起きてしまうと思うと、転送装置をためつすがめつした。転送装置は、リッサにしか操作ができないようになっていたので、リッサを連れて来たのだが、叶は肝心な操作の仕方を知らなかった。ただ、リッサが操作をしている所を見た事はあった。犬そのものという形のリッサがする操作なので、操作は至極簡単そうに見えていた。リッサが転送装置のどこかに触れるだけ、だったような気がする。しばらく転送装置をためつすがめつしていたが、転送装置にはスイッチも操作パネルもない。叶はどうしようと思いながら転送装置を見つめつつ、途方に暮れた。

「叶。転送装置を使ったら、らめらっていったらろ」

 リッサが突然大きな声を上げる。叶は小さな声で悲鳴を上げ、リッサの顔に目を向けた。

「もごもごーん」

 リッサが意味不明な言葉を続けて言った。どうやら、ただの寝言だったらしい。叶はこれはいよいよ急がないと駄目だと思ったが、何をどうすれば良いのかが分からない。

「リッサ? 叶? そっちにいるのかい?」

 居間の方から姉御の声が聞こえて来た。叶はまたもや悲鳴を上げそうになったが、今度は自分の口を片手で押さえ、ぐっと堪えて姉御に自分の存在を気付かれないようにと息を潜めた。

「気の所為か? なんかリッサの声が聞こえたような気がしたんだけどね」

 姉御が独り言ちた。叶はこっちに来ないでと祈るように思うと、リッサを抱く手に自然に力を込めてしまった。

「うーん。暑い」

 リッサがまた声を上げた。叶は慌ててリッサの口を手で押さえたが、運が悪い事に叶の人差し指がリッサの口の中に入ってしまった。リッサが口を閉じると、叶の人差し指がリッサの鋭利に尖っている犬歯にぷすりと刺さるような格好になった。

「いたっ」

 叶は思わず声を上げて、リッサを放り投げた。宙に浮かんだリッサの体が転送装置にぶつかると、ブウーンという音がして、一瞬にして転送装置が起動した。起動した転送装置の表面は銀色に光る水面のような見た目になっていた。

「ん? やっぱりそっちにいるのかい? あんた達、そこで何をしてるんだ?」

 姉御の声が聞こえ、すぐに襖の開く音がする。叶は姉御に見付かったら止められると思うと、姉御の方を見ずに銀色に光る水面のようになっている、異世界への入り口に向かって飛び込んだ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み