十五 心

文字数 9,888文字

 叔父さんの所に飛べ。いや。ちょっとストップ。叔父さんのいる場所の近くだけど、叔父さんにすぐに見つからない場所に飛べ。密がそう思うと、ぐにゃりと周囲の景色が歪んだ。地面に足が着くと同時に、密はいつの間にか俯けていた顔を上げる。密の目の前には藤堂病院という名前の書かれている大きな建物があった。場所はどこなのかは分からない。ミサイルの着弾地点のような喧騒はなく、ここも先ほどまでいた佐藤総合病院と同じくらい平和そうな様子だった。病院の規模も佐藤総合病院と同じくらいで、大勢の人達が来院していた。

「どこにいるんだろ?」

 密は呟きながら周囲を見回したが、どこにも叔父らしき人物の姿はない。建物の中にいるのかな? と密は思う。密は周りに視線を向けながら、病院に向かって歩き出した。叔父さんの仕事は確か医療機器の販売のはずだから、その関係で来てるのかな? と思いつつ、密は病院内に入ると受付所に近付いて行く。

「あの」

 密は受付所内にいた女性に声をかけた。

「は、はい。なんでしょうか?」

 女性が密の姿を見て、怪訝そうな表情をしながら言う。密は自分の容姿の事には一切触れずに叔父の名前を告げ、叔父がこの病院に来ているかどうか聞いた。女性が戸惑った様子を見せながらも、少し待っていて下さいと言うと、内線電話を操作し通話を始める。しばらくして、女性が電話を切ると、密の方を見た。

「つい先ほど緊急搬送されて来た方のお名前が、その方と同じお名前のようですが」

「緊急搬送?」

 女性の言葉を聞いた密は反射的に聞き返した。

「例のミサイルの被害にあった方らしいです」

「ミサイルの被害? 叔父は今はどうしてるの?」

 女性の言葉を聞いた密が言うと、女性が今は手術中です。手術室の場所ならすぐにご案内できますがと言った。

「教えて」

 密が言うと、女性が手術室の場所を教えてくれた。教えてもらった通りに病院内をしばらく進んで行くと、行く手の先の行き止まりに両開きの大きな扉がある場所に着いた。扉の上には点灯している手術中という文字の書かれた表示灯があり、今現在、この部屋の中で手術が行われているという事を示していた。密は足を止めて、じっと、表示灯を見つめた。

「あの」

 女性の小さな声が聞こえた。密は声の聞こえた方に顔を向ける。廊下の右側の壁際に置いてある長椅子に義理の叔母が座っていた。密の方を見つめている義理の叔母は酷く疲れ切った顔をしていた。密はこんな所に椅子があったんだ。それに、叔母さんが座ってたなんて全然気が付かなかったと思った。

「あなたは、どなたですか? そんな格好をして、何かここに用ですか?」

 密と目が合うと、義理の叔母が言う。この人にも殴られた事がある。この人は密が叔父さんに殴れてるのを止めもしないで見て見ぬ振りをしてた。密は義理の叔母の黒色の瞳を見つめながら思った。

「あなたはここで何を?」

 密は何も知らない振りをして聞いた。

「主人が酷い怪我をしたと連絡をもらって来たんです。今、この中で主人が手術を受けているんです」

 義理の叔母が言い、顔を俯ける。こんな元気のない叔母さんを見るのは初めてだと密は思った。

「それは、大変だね」

「ミサイルが落ちて来た場所の近くにいたらしいんです。それで」

 密の言葉を受けて、義理の叔母が顔を俯けたまま言う。

「お母さん。お父さんは大丈夫なの?」

 背後から女の子の声が聞こえた。義理の叔母が立ち上がり、声の聞こえた方を見る。この声は、叔父達の娘で同級生だった智子だ。智子にも恨みがある。智子は密の事を友達と一緒になっていじめてたと密は思った。

「今手術中なの。まだどうなるか分からない」

「どうしてお父さんがこんな事に」

 智子が義理の叔母の傍に来ると、義理の叔母と智子がそんな言葉を皮切りにして、お互いに目から涙を流しながら会話を始める。

「この人は?」

 義理の叔母との会話が途切れると、智子が、今、気が付いたというような様子で、密の方を見ながら言った。

「分からない。さっき、ここに来て」

 義理の叔母が智子の言葉に応える。

「ん? ちょっと、待って。あなた、その、姿。今、ネットで噂になってる人? 不思議な力で、怪我した人達を助けたっていう人じゃない?」

 智子が大きな声を上げた。

「智子ちゃん。それ、どういう事?」 

 義理の叔母も大きな声を出した。智子がネット上で見聞きしたという噂を、服のポケットから取り出した携帯電話を用いながら義理の叔母に話す。密が未来を探す際に瓦礫を消した事や、怪我をした人達を別の病院に移動させた事などが、ネット上で話題になっているようだった。

「絶対そうだよ。この画像に映ってる人だもん。お父さんを助けに来てくれたの?」

 義理の叔母との会話を終えた智子が、携帯電話の画面と密の顔を交互に見つつ言った。

「お願いします。主人を助けて下さい」

 義理の叔母が密の方を向くと、深く頭を下げながら言った。

「お願いします」

 智子も義理の叔母と同じように頭を下げて言う。頭を下げる二人の姿を見て、何それ? 良くそんな事密に頼めるな。密に散々酷い事してたくせに。ああ。でも、今の密は変な格好だから密だって分からないのか。密が密だって分かったら二人はどうするんだろうと密は思った。

「無理。人の怪我を治す事はできない」

 二人に、今、目の前にいるのは密だよって言っちゃおうかな? でも、あれかな? もっと、なんか、ここだっていういい場面で言った方がいいのかな? と密は思いながら言った。

「そんな事言わないでお願いします」

 義理の叔母が頭を下げたまま言う。

「なんでもするから。だから、お父さんを助けて」 

 密の話を始めてから、泣き止んでいた智子が、頭を下げたまま再び泣き出しながら言った。

「できないんだってば。生きている者の心や体に直接変化を加える事と、死者を生き返らせる事はできないの」

 密が言うと、義理の叔母と智子がほとんど同時に顔を上げた。

「そんな」

 義理の叔母が声を上げ、酷く落胆した顔をする。

「じゃあ、もし、お父さんが他の病院に行けば助かるかも知れないってなったら、ネットに出てたみたいにして、お父さんを移動させて」

 智子が泣いて赤くなった目を両手で擦りながら、密の目を見つめて言った。

「うーん。どうしようかな。こう見えても忙しいんだよね」

 ほんのちょっとだけ復讐してやろう。少しだけいじめてやろうというような、軽い気持だった。こう言ったら二人はどんな反応をするんだろうと思い、密は言葉を作った。口から言葉を出した直後に、時任の姿が密の頭の中に浮かんで来た。そうだ。時任先生は、密に復讐なんてするなって言ってた。自分の身を密に差し出して、他の人達を許しなさいって言ってた。先生、先生の事は、憎いけど、一応、謝っとく。ごめん。密、復讐しちゃった。この二人と話をしてたら、あの頃の事を色々と思い出して。それに、今のこの二人の必死な姿を見てたら、なんか凄くむかついて来て。ここに来る前は、お姉ちゃんも密の事信じてくれたから、叔父さんの事、許してもいいかな、なんて思ってたけど。やっぱり、無理みたい。この二人の事も、叔父さんの事も許せそうにない。密はそう思うと、頭の中に浮かんでいた時任の姿をかき消した。

「そんな事言わないで。お願いします」 

 智子が言い、頭を下げる。

「そんなにお父さんが大事? 子供を平気で殴ったり、人からお金を騙し取ったりする奴なのに?」

 密は頭の中に浮かんだ言葉を、遠慮せずにそのまま口から出した。

「何それ?」

 智子が頭を上げて、言葉を漏らす。

「何それって。知ってるでしょ? 密の事だよ。酷い事たくさんしてたじゃない」

 密は智子の顔と義理の叔母の顔を交互に見ながら言う。

「なんで、あなたがそんなこと知ってるのよ」

 智子が声を上げる。

「なんでだろうね。今は、教えてあげない。でも、知ってるんだよ。あなた達一家が密に何をしてたのか全部」

「ごめんなさい」 

 密の言葉を聞いた義理の叔母が、不意に大きな声を出した。密は義理の叔母の顔を見つめる。

「あの頃は、色々あって。お金の事は、なんの話かは分からないわ。けど、あの子の、密ちゃんの事は、私も殴ったりしてしまった。ずっとずっと謝ろうと思ってた。でも、会うのが怖くなってしまって。逃げてたわ。悪いのは全部私達の方だわ」

 義理の叔母がそう言うと、その場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。

「全部悪くなんてない。密だって悪い。暗くって、何を言っても何をしてあげてもずっと落ち込んでて。あんなの見てたら、こっちだっておかしくなる。私なんて、密の所為でいじめにあってたじゃない。密には言わなかったけど、クラスの子に酷い事たくさんされたんだから」

 智子が義理の叔母を見つめながら言った。密の所為でいじめられていたという智子の言葉が密の心に突き刺さった。

「智子、いじめにあってたの?」

 密はそんな事初めて聞いたと思いながら言った。智子が密に智子と呼ばれた事に、釈然としない顔をしつつも、うんと言って小さく頷く。

「なんで言わなかったの?」

 密は聞いた。

「誰に?」

 智子が返す。

「密に」

「言ってどうなるの? あんな子に言ったってどうにもならない」

 密の言葉を聞いた智子が言う。密が、助けてあげたのに。いや。それは、違う。今だからそう思えるんだ。あの頃の密には何もできなかったかも知れない。でも、教えてくれてれば、何かしようとは思ったはずだ。知ってれば、何かしらはできたかも知れない。言ったってどうにもならないなんて勝手に決めて、何も言わないで、密の事をいじめる側に回るなんて。密は智子の言葉を聞いてそう思った。

「いじめにあってたなら、いじめられてる密の気持ち、分かったよね? それなのにどうして密の事何度も何度もいじめたりしたの?」

 密はそう言い、智子を睨み付けた。

「そんな事、そんな事なんて考えていられる訳ないじゃない。自分がいじめにあってるのに、どうしてその原因になった奴の事なんて考えてあげなきゃいけないの?」

 智子が、密を睨み返しながら言う。

「何それ?」

 智子の奴。どうしてやろうか。密はそう思いながら言った。

「密の気持ちの事を言うなら、私の気持ちの事だって、お母さんの気持ちの事だって考えてよ。忙しいから助けないとか、あなた、平気で言ってるじゃない。そんな、あなたに、気持ちがどうとか言われる筋合いなんてない」

 智子が大きな声を出した。 

「二人ともやめて。こんな所で喧嘩なんてしないで」

 義理の叔母が言う。

「密に逆らうと、酷い事になるよ?」

 密はそう言うと、理者の力を使って長椅子を天井近くまで浮かび上がらせた。

「何?」

 智子が声を上げる。

「何が起きてるの?」

 義理の叔母も大きな声を上げた。

「密がこうだって思えば、それだけで、こうやってなんでも簡単にできるんだ。智子を殺す事だってできるんだよ」

 密が言うと、智子が顔を恐怖で引きつらせる。

「あなた、さっきから自分の事、密、密って言ってるけど、それって、まさか」

 義理の叔母が、密の顔をじっと見つめながら言った。

「分かっちゃった? どこで言おうかって考えてたのにな。そうだよ。ちょっとあって、こんな姿になってるけど、あの密だよ。散々いじめられたあの密。密はね。ここに、復讐をしに来たの。叔父さんだけしかいないと思ってたけど、二人もいるとはね。そういえば、一家ぐるみでいじめてくれたもんね。二人にも復讐しないと。笑えるよね? そんな密にお父さんを助けて~、なんて必死になって言ってんだから」

 密は言い終えると、口角を思い切り上げてにやりと笑ってみせた。

「そんな。殺される」

 智子がそんな言葉を漏らした。

「密ちゃん。智子も主人の事も許してあげて。復讐するなら、私だけにして」

 義理の叔母が言った。

「またそのパターン」

 密は義理の叔母の顔を見ながら言う。密の言葉を聞いた義理の叔母が目を大きく見開いた。

「前にも、そんなような事を言う人がいた。そういえば、その人も密に酷い事してたっけ。その人は、他人の為に犠牲になるって言ってたかな」

 密はそこまで言って、言葉を切った。

「その人の事、殺したんでしょ」

 完全にパニックに陥っている様子で、智子が叫んだ。

「智子ちゃん。大丈夫。お母さんが守るから」  

 義理の叔母が立ち上がって言い、智子を抱き締める。

「智子弱過ぎ。いじめがいがないよ。前の人の時も思ったんだけどさ。叔母さんの、そういう、自己犠牲? なんか立派な感じがするけど、そういうの凄いむかつくんだよね。だって、密には酷い事したのに、なんなの? 家族とか、他の、守りたい人の為なら死んでもいいとか言ってさ。密の事はどうでも良かったの? 意味分かんない」

 密は言い終えてから、長椅子をそのまま落下させるという乱暴な方法で元の位置に戻した。

「それは、違うわ。密ちゃんの事も大切に思ってた。でも、あの頃はしょうがなかった。私も、智子も、お父さんも追い込まれてたの。いじめの事や、借金の事があって、あの頃は大変だった。その事が、私達をおかしくしてたの。密ちゃんだからやったんじゃない。誰でも良かった。たまたま密ちゃんが近くにいたからやってしまったの。密ちゃん。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 義理の叔母が言い、義理の叔母の目から止まっていた涙が再び流れ出す。

「そんな風に思ってんの、叔母さんだけでしょ? 叔父さんなんて、会えば今でも殴ったりして来るんだから。泣かないでよ。泣きたいのはこっち。たまたまとか、誰でも良かったとか。ありえない。密はさ。あの事が原因で放火までするようになったんだよ。あなた達家族の所為で、放火魔だよ。その所為で、お姉ちゃんをどれだけ傷付けたか。ここに来るまでは叔父さんの事許しても良いかな、なんて思ってた。お姉ちゃんも先生も復讐なんてするな、みたいに言うから。でも、あなた達を見てたら、むかついて来るんだよね。特に、今の何? 開き直ってんじゃねえよって感じだよ」

 密は言い、義理の叔母を睨む。

「ごめんなさい。でもね。誰だって、失敗するでしょ? 今は、反省してる。もう二度としないって思ってる。密ちゃん。本当にごめんなさい。どうか、お願い。私達を許して下さい」

 義理の叔母が言い終えると、智子から離れ、頭を下げた。

「叔母さん最低。密の気持ちなんて全然考えてない。失敗で済ませないで欲しいんだけど」

 密は言いながら、本当に殺してやろうかなと思う。

 手術室の扉が開く大きな音がした。義理の叔母と密はその音に反応して、手術室の方に顔を向ける。いつの間にか、扉の上にある表示灯の灯りが消えていた。開かれた扉の中から手術着を着た医師が出て来ると、義理の叔母と密の方を見た。

「最善は尽くしましたが、御主人の命を救う事はできませんでした」

 医師が義理の叔母に歩み寄りながら言った。

「あなた」

「お父さん」

 呆然自失というような体になりながら義理の叔母と智子が言い、その場に座り込む。密は医師の顔をじっと見つめた。

「本当に死んだの?」

 密は聞いた。

「お亡くなりになりました」

 医師が告げて、目を伏せる。義理の叔母と智子の嗚咽の声が、しんとしていて、ほとんど音のない廊下を悲痛な悲しみの色に染め上げる。あの叔父さんが、死んだ? こんなに簡単に? なんだよそれ。密はまだ何もしてないのに。密はそう思いながら義理の叔母と智子の方に目を向けた。密の心の中に空虚な何かが生まれた。それは決して悲しみなどではなかったが、何かが、自分の中から欠けたような感じが密にはしていた。なんだこれ。こんな終わり方なんて。叔父さんがいないんじゃ、ここにいても、もう意味がない。密はそう思とぼんやりとしながらゆっくりと振り返り、医師や義理の叔母達に背中を向け、歩き出した。病院の廊下やエントランスを通り抜け、病院の外に出た所で、車寄せの近くにあったベンチを見ると、密はそのベンチに歩み寄り腰を下ろす。密はなんとなく空を見上げる。空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。

「なんだろう」

 密は呟いた。なんだろう? この気持ち。なんかすっきりしない。あんなのが死んだんだから、もっとやったってなってもいいはずなのに。なんだか、変な感じ。密はそんな事を思ってから、顔を前に向ける。なんか、急に何もしたくなくなって来た。密はそう思うと、今度は顔を俯けた。

「お姉ちゃん。どうしてそんな格好なの?」

 不意に少女の声が密の傍からする。密は顔を声のする方に向けた。いつの間にか密のすぐ横に手編みだと一目見て分かる赤色のニットの帽子を被っていて、かわいらしい花柄のパジャマを着ている、七、八歳くらいの少女が立っていた。なんだこの子? 相手にするの面倒臭いな。無視しよう。そう思うと密は顔の向きを元に戻した。

「ねえ。お姉ちゃん。聞こえてないの?」

 少女が言いながら密の手を引っ張る。

「ちょっと、いきなり手を引っ張るとかやめてよ」 

 もう、なんなのこの子。そんな事を思いながら密は口だけを動かして言った。

「ごめんなさい」

 少女が密の手を放し、泣きそうな声を出す。うげ。この子泣きそうになってる。泣かしたりしたらもっと面倒臭い事になりそう。もう、しょうがないなと思うと、密は、お姉ちゃんこそ、なんか、ごめん。聞こえてるよ。お姉ちゃんの事より、あなたは、ここで何をしてるのと言った。

「錫はね。もうずっと長い事ここに入院してるの。お薬ばっかり飲んで寝てばっかりなの」

 錫という少女の返事を聞いて、密が顔を上げると、錫という少女がはにかんだ。

「なんの病気なの?」

 密は叔父の死の事も、すっきりしない気持ちの事も、面倒臭いと思っていた事も忘れ、思わず聞いた。錫のはにかんだ顔を見て、錫の言葉から伝わって来る重苦しい予感に、密は胸が締め付けられるような思いを抱いていた。

「分かんない。でもね。これ、秘密だよ」

 そう言って錫がニットの帽子をずらす。錫の頭がニットの帽子の端から覗いたが、そこには当然のようにあるはずの髪の毛がまったく生えていなかった。

「全部抜けちゃった。お薬の所為なんだって。病気が良くなればまた生えるんだって」

 錫が言い、ニットの帽子をさっと元に戻して頭を隠す。

「そっか。なんだろう。なんて言えばいいのかな。錫ちゃんは、病気と一生懸命戦ってるんだ。凄いね。そうだ。ねえ。何か欲しい物ある? 本当は病気を治してあげられたらいいんだけど、それはできないんだ。だから、その代わりに欲しい物なんでも出してあげる。頑張ってるご褒美」

 密が言うと、錫の顔が本当に輝いてでもいるかのような笑顔になった。

「なんでも? 本当にそんな事できるの?」

「うん。できる。だから、なんでも言って」

 錫の言葉を聞き、言葉を返してから、生き物は駄目か? こっちに飛んで来させてもこの子じゃ世話ができない。なんでもは言い過ぎたかもと密は思った。

「でも、知らない人に物とかもらったらいけないって、お母さんが」

 錫が思い出しように言い、表情を曇らせる。

「そうなんだ。でもさ。きっと、大丈夫。お姉ちゃんは、有名人のはずだから。だから、平気。もしも、お母さんにお姉ちゃんがあげた物の事で怒られそうになったら、ネットで有名なキツネの人にもらったって言えばいいよ」

「ネット?」

 密の言葉を聞いた錫が言う。

「ええっと、それは、分からなくってもいいや。とにかくネットで有名なキツネの人にもらったって言うの。それで、きっと大丈夫だから」

 密は錫の顔を覗き込むようにして見ながら言った。

「ネットで有名なキツネのお姉ちゃんにもらったって言えばいいの?」

「うん。それでいい。良く言えたね。それで平気。で、何が欲しい?」

 錫の言葉を聞き、密は言う。

「じゃあ、じゃあ、ね。パンダさん。錫がもっとうんと小さい頃にね。お父さんとお母さんとお兄ちゃんと動物園で見た事があるんだって。でも、錫全然覚えてないの。だから本物のパンダさんが欲しい」

 錫が飛び付くような勢いで言った。密はこれはまずい。生き物来ちゃったと思った。

「うーん。えっと錫ちゃん。パンダさんは、ちょっと、無理、かな」

 密が言うと、錫が酷く驚いた顔をしてから、すぐに酷く悲しそうな顔をする。

「無理? パンダさんは駄目?」

 錫の声までもが、涙声に変わる。まずい。期待させちゃってたのに。密はそう思うと必死に考えた。

「じゃあ、パンダさんそっくりの縫いぐるみは? それじゃ駄目?」

 本物じゃないけど、これなら世話もいらないと思いながら密は言った。

「縫いぐるみ? もう、持ってる。錫、パンダさん好きだもん」

 錫がしょんぼりした様子で言う。

「どんなの?」

 好きな物の縫いぐるみならいくつあってもいいはず。何か目立った違いがあれば、錫ちゃんはきっとそれで喜ぶ。密は自身の経験からそう思って聞いた。

「小さいやつ。お部屋の中にたくさんあるの」

「じゃあ、大きいのは? うんと大きい奴」

 錫の言葉を聞いた密は、良し、これでどうだと思いながら言う。

「どれくらい?」

 錫がさっきまでのしょんぼりした様子などなかったかのように笑顔になりながら言った。

「本物と同じ、くらい?」

 密は錫の顔色を窺いながら言う。

「凄ーい。ちょうだい。早くちょうだい」

 錫がはしゃぎながら言った。

「じゃあ、出すね」

 そう言って出そうとしたが、密は待てよ。ここで出しても、錫ちゃん持てるかな? 実物大の大人のパンダの縫いぐるみ出すつもりなんだけどなと思った。

「お姉ちゃん。どうしたの? まだ?」

 錫が小首を傾げて言う。

「ここで出しても錫ちゃん持てないと思うんだよね。どうしようかって思って」

 密は言ってから、病室か。病室に出せばいいんだと閃いた。

「待つ。頑張って持って行く」

 錫が言いながら密の手を引っ張った。

「錫ちゃん。病室に置いておく。病室に戻ったら、ええっと、病室の、ベッドの上でいいかな。そこにパンダさんの大きな縫いぐるみがあるよ」

 密の言葉を聞いた錫が、満面に期待に輝く笑顔を浮かべた。

「本当に? 本当に戻ったらある?」

 錫が密の手から手を放し、大きな声で言った。

「うん。絶対にある」

 密が言うと、錫がじゃあ戻る。お姉ちゃんありがとうと声を上げながら走り出した。

「危ないよ。ゆっくり行きな。縫いぐるみ逃げないんだから」

 密は錫の後ろ姿にそう声をかけた。

「サービスしちゃうか」

 錫の姿が見えなくなると、密は顔をほころばせながら呟き、実物大のお父さんパンダとお母さんパンダと、その娘達の三人姉妹のパンダの縫いぐるみ、錫ちゃんのベッドの上に出ろと思う。

「もう出たかな」

 密は言いながら、錫が縫いぐるみを見て喜んでいる姿を頭の中に思い浮かべた。病人のわりには、結構、元気だったな。あんなにはしゃいで大丈夫なのかな。病気は治せないけど、少しはあの子の為になったかな。なんだろう。叔父さんに復讐しに来たのに、叔父さん死んじゃったから、復讐の方は、なんか変な感じになっちゃった。でも、あの子の、錫ちゃんのお陰かな。もう、叔父さんの事なんてどうでもいいやって気がして来た。密はそんな事を思うとベンチから立ち上がる。

「お姉ちゃんと未来のとこ戻ろう。なんか、凄く会いたくなった」

 密は言い、向こうの病院へ飛べと思った。
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