第6話 和平への道筋

文字数 2,738文字

 シャワーを浴びて両手を拭っていた時に、あちこちにこびり付いた血だまりを見つけた。これは首を撃たれたアフマドのものだ。シャワーで洗い落とす時に、再びトリガーを引いた時の感触が蘇って来て、思わず戦慄を覚えた。
 新調されたアラブ風の衣服に身を通したアリエラは再びサーラの部屋に向った。家長の居ない屋敷の中は静かだった。
 サーラは部屋の片隅にあるホワイトボードに何やら文字を記している最中だった。
「本当に感謝します。おまけに衣服まで戴いてなんとお礼を申し上げていいのやら…」
「それは空爆で死んだ姉の衣服。私より身長が高かったから、あなたにはちょうどよいと思いました」
 空爆で亡くなった。それはイスラエルに殺されたも同然のことだった。
「姉は政府機関の職員だったから、ミサイルで撃たれた。戦争なんだから仕方がないことですよ」
 アリエラはなんともいたたまれない。
「そんなことよりもこれを見て貰えませんか?」
 ホワイトボートを見るように促された。そこにはエレサレムの地図が描かれていて、所々に地名とそこにある建造物の名が記されていた。
「あなたにはすべて分かりますか?」
 全部で4カ所。図書館、博物館の名前だった。
「行ったことはありませんが、名の在る文化施設ばかりてす」
 サーラはここで居ずまいを正して、
「あなたはパレスチナとイスラエルの戦争を不毛だと思っていませんか? あなたは諜報機関の職員だから難しいかもしれませんが、これからお話しすることを訊いて下さい。
 これはアフマド・サイードほか数名と永らく議論した事柄でもあります。但し、イスラエル人にはちょっと納得のゆかない事柄かもです。

 先の大戦の直後に、パレスチナの地にイスラエルが建国されてしまった。この横暴とも見られる所業を国連も認めています。
 その根拠は?
 それは、ユダヤ教の聖典『旧約聖書』に、
 『神がイスラエルに与えた約束の地』と記されていたからです。
 米国でも、ユダヤ人国家イスラエルは神の意志で建国された、と認知されてもいます。
  だからすべて『旧約聖書』が元凶なのです。
 もし、この『旧約聖書』にカナンの民、イスラエルの民とは、ユダヤ人+古(いにしえ)よりこの地に暮らすパレスチナ人のことである、との記述があれば、戦争の火種は解消されるのではないですか?」
 イスラエル建国とは神話の時代に取り決められたこと。
 大抵のユダ人社会ではこう認知されている。イエス・キリストが生れる500年も前に、絶対神・ヤハウェ(Yahweh)によって決められたこと。誰がなんと言おうが逆らえない事実なのだ。

「両者共存を説くような、そんな記述が『旧約聖書』の何処かにあるのですか?」
 アリエラは戸惑っていた。
 確かにそんな記述が見つかりさえすれば、ユダヤ人とパレスチナ人はこのイスラエルの地で現在より真っ当に併存出来るかもしれない。
「だから、これから探すのです。この5カ所を、そしてなんとしてでも見付け出す。それがアフマドへの手向けにもなる」
 サーラは毅然として述べた。
 確かにアフマドは、何も分知らない子供たちが空爆の犠牲になるのは耐えられない、と語っていた。彼が死してなお、サーラの元に導いたのは偶然とは言い難い気もする。
「あなたは『旧約聖書』のことを言っているのですね? でも原本やら写本を含めて、今までにすべて解読されているのではないですか? 今更、何処かに埋もれているとは思えない」
 アリエラは疑義をさしはさんだ。
「ええ、おっしゃっていることは分かります。ただ、『旧約聖書』には付記(ふき)が多いのです。また、原本では途中で終わっている記述も数か所見られます。
 また、探し物とはその気にならないとなかなか見つからないものですよね。道端に落としたコンタクトレンズのように。それがないと困るから必死に捜すのです。
捜す箇所の目星はつけてあります。
 『列王記』ソロモン王の時代にイスラエルは南北に分裂していた。
 やがてバビロニアによって南王国は滅ぼされペルシャによって解放されるまで、憂き目を見ることになるが北王国については記述が何もない。
 さらに、ヘロトドスの『歴史』で有名なペルシャ戦争については、ユダヤ地方は遠征の通行路にあたっていたにもかからず、何も記載がない。
 まだまだ不審な点は山ほどあります。
 あなたは、イエス・キリストの時代にイスラエルの地が、ガリラヤ、サマリア、ユダヤ、イドマヤと呼ばれていたことを知っていますか? 私はこの北部ガリラヤの地がパレスチナだと考えています。分裂はしていたものの敵対ではないのです」

 アリエラはユダヤ教徒ではあるものの宗教家ではないので、詳細なことは判らない。ただ。サーラの主張が正しくてその証拠となる神世の御書(みしょ)が発見されれば、イスラエル×パレスチナ紛争は解決するかもしれない。もう国を分かった戦いをする必要もなくなる。
 何より何も知らない子供たちが無残な屍を晒すことがなくなるのだ。それはアリエラにとっても希望の事柄だった。
「わたしをそこに記されている場所に連れて行って欲しいのです。あなたはイスラエル人、しかもモサド、秘密裏に私を案内出来るはずです。必要ならばお礼も差し上げます」
「礼なんて、私だって好きで武器を持っているのではない」
 アリエラはざっとシナリオを作ってみた。
 定期連絡が滞っているために、自分はもう殺されているとモサド本部は思っているはず。ハマスに知られたために、あの通信所には2度とゆけない。最後に残された手段は秘密の地下道を通ってイスラエル側に抜け出すことだ。その折に、サーラも一緒に連れ出せばよい。
 今は戒厳令が敷かれている。イスラエル側にも多くの検問所がある。ただ、自分は諜報職員だ。身分を証した上で、サーラは重要な人質だと偽ればよい。何とか自宅に辿れつけば車もある。地図上の図書館には容易に案内出来る。
 但し、戒厳令の非常事態に開館しているとは思えない。ここは不法侵入するしかないか…。訳を話せば見せてくれるような品ではないので、どのみち強制的に閲覧するしかない。職員が出所していなければ好都合だった。
「分かったわ、案内する。
 ただし、身分が発覚した時にはそれなりの覚悟はいる。わたしはそんなに位の高い諜報機関員ではないのよ。あなたの身を護れないかもしれない」
「覚悟の上よ。こうして急にあなたが訪れて来たのもアッラーのお告げかもしれない。急に、モサドさんが現れた。(笑) パレスチナ側での行動は安全よ。ハッカニと言えば何でも出来るわ」
 ふたりは合意に達した。
 翌朝を待ってふたりは、ハッカニ邸の自家用トラックを走らせる。まずは秘密の抜け道を捜すことだ。
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