第7話  分断の壁を越えて 

文字数 2,823文字

 モサドは記憶力の訓練も受ける。アリエラの頭の中にはガザ市の地図が刻み込まれている。ただ連日の空爆によって通れる道が限定されてしまった。回り道を余儀なくされる。こうなると、土地勘のあるサーラの手助けも必要になる。
 昼近くなって、ようやくたどり着いた脱出ルートのあるビルは全壊していた。イスラエル軍がミサイル攻撃するとはどうしても信じたくなかった。
 ふたりは瓦礫の前に立ち尽くし、中に入れるルートを模索したがブルドーザーでもない限りは瓦礫の下に入り込むのは不可能だった。
 サーラは2つの案を提示した。
 ひとつは政治家の顔を持つ父親の力を借りること。もうひとつは、ハマスの友人を頼ることだった。どちらも難易度が高い。これがアリエラの直感だった。どのみち自分はハマスの捕虜になる。なのでサーラに選んでもらうしかなかった。
 サーラはアル・アズハル大学に行くように指示した。どうやらハマスの友人に会うことを選んだようだ。車を捨てて、大学の学生広場にあるデイゴの樹下に佇んでいると、サーラの友人でハマスの戦士であるカリーマ・アッブ―ドが姿を現した。
 どうやら近くにハマスの地下基地への入り口があるようだ。
「これはこれは、授業もないのに何をしに来たのかな。それにそちらさんはパレスチナ人ではないようだね」
 カリーマは不思議そうな顔付をした。
「実はあなたに会いに来たの」
 サーラは彼女の目的について手短に的確に伝えた。頭のよい証拠だ。専門は天文物理学だそうな。
「あなたなら分かってくれると思って。殺し合いは望まないでしょう」
「ああ、平和な世の中で、人工知能用の半導体を作りたい。それが本心だよ。よし分かった。協力しよう。但し、オレも一緒に行く。君たち2人だけを分断の壁の向こうに送るのは不可能だし、確かにそんな宝探しはワクワクもする。
 上層部には、イスラエルに住むハッカニ家親族に不幸があって、君を送り届ける、と言うことにする。サーラ・ハッカニ、君のことを知る者は多いし、別に不審には思われないだろう。君(アリエラ)は悪いけどサーラの侍女になってもらうよ」

 ハマスの地下道(通称・モグラの巣)は思いの外、清潔で広大だった。単純に泥岩・砂岩の岩を繰り抜いただけのただの穴を想像していただけに、その出来栄えには唖然とした。通路と呼ばれる穴道には、上下左右の4辺に明るくするために白いシートやボードが張られ、照明設備も完備し新鮮な空気の取り入れ口もあった。
 また各所に部屋があり、倉庫に使ったり寝室になったり、また機械の稼働音から何らかの工場施設もあることが分かる。サーラとアリエラは途中、ヒジャブで目隠しすることを求められた。ハマスは、地下施設の秘密が漏れることを嫌う。
 カリーマはまるで蜘蛛の巣を器用に手繰ってゆく。岐路になる坑道はアラビア文字と数字を組み合わせて表記してある。彼は手元のハマス専用の地図を頼りに進んでゆく。途中で物凄い音がして、天上から砂塵が舞った。恐らく地上にはイスラエルの空爆があったものと思われる。
「ここは地下20メートルになる。残念ながらご自慢のハンガー爆弾(地下道を破壊するための爆弾)でも届かないさ」
「こんなにむやみに堀進んで崩れたことはないの?」
 サーラはしごくまともな質問をした。
「しょっちゅう崩れる。埋もれてははまた掘る。その繰り返しさ」
 カリーマは笑った。
「イスラエル側にも坑道は通っているの」
「ああ、一部はね。イスラエルはそれを怖れて地下10メートルの分断壁を建造した。だからさらにその下を掘るしかないね」
「物資の補給のためね」
 アリエラが口を挟んだ。
「ご名答。イスラエルには人口の20%のアラブ人が暮らしている。頼りになる同胞もいる。必要なものは何でも揃えてくれる。イスラエル社会の成功者の中には、資金を提供してくれる支援者もいる。
 ああ、目隠しはもういいよ」
 右往左往を繰り返し、なだらかな下り坂になっていた坑道はやがて上りになった。地上に近いことを示していた。
「もう少しで、ステロットに出る。北の出口エレス検問所から2キロ東に行ったところだ。そちらのお嬢さんの家の近くで、使える車があると訊いているが…」
「地上に出てからは、私が案内するわ」
 出口の最後の数メートルには梯子が設けられていた。頭上には鉄製のハッチが見えた。
「ちょっと待て、周囲を探索する」
 カリーマはハッチを少し開けて周囲を見回している。
「よし、大丈夫だ。外に出よう」
 
 ―

 サーラとカリーマはアリエラの住居の傍らにいる。10階建て集合住宅の駐車場。彼女は車の鍵を取りに部屋に向った。
「彼女は何者なんだい?」
「ああ、こちら側に来たから教えるわ。彼女はモサド」
「びっくりさせるなよ。今頃、当局に通報されてるかもしれない」
 カリーマは動揺した。
「彼女なら大丈夫。彼女の危機を私が救った。私に恩義を感じているはず。それに『旧約聖書』の記述を探し出すことへの協力も承諾してくれた」
 サーラは彼女との出会いをカリーマに説明した。
「まったく人がいい。だからと言って、、」

 ピピッ!

 近くの車のロックが解除された。
「ふたりとも早く乗って、時間が惜しいわ」
 アリエラはそう言って運転席に乗り込んだ。
「目当てはエルサレムの街ね」
 カリーマの危惧が当たっていれば、今頃は当局のパトカーが来ているはずだった。
「イスラエル国立図書館からにしましょう。まだ平穏な時代の学生交換会で一度だけ行ったことがあるの。他の建物もみんな近くにある」
「分かった。カリーマも早く乗って、大丈夫よ、通報などしていないわ」

 イスラエルは戒厳令下にあった。夜は人の通行がない。時々、ガザ側からロケット弾が撃ち込まれて、そのつど「アイアンドーム」が作動していた。上空にはロケットの閃光がはしる。見た目には美しいが、音はド派手だし、まかり間違って瓦礫が落ちてくるかもしれない。市民は今夜もぐっすりとは眠れない夜を送っている。
 3人を乗せた車は途中、何度も検問にあったが、その都度、アリエラの身分証でなんなく通過できた。後部座席のアラブ人は協力者だとヘブライ語で伝えた。
「しかし、どうしてモサドがサーラの言葉を信じて動くんだい? 君の任務からは大いに逸脱するだろう」
「あなただって、ハマスのとる行動ではないわよね。それと一緒よ。誰も不毛な戦争はうんざり。ご先祖は代々いったい何をしてたんだって話しよね。神話の出来事に束縛されて身動きが出来ない。
 でも神話のお話しが崩れれば、すぐには撃ち方止め、にはならなくても、紛争の道理に風穴はあくわよね。わたしはそれに賭けてみたいの。
 カリーマ、あなたも同じ考えでしょう?」
「だな。
 いつまでもモグラ暮らしはイヤだし、罪もない子供が死ぬのはみたくもない。イスラエルと違ってガザは子供だらけだ。子供の数はひと家族5人が当たり前だよ」
 車は夜のイスラエル市街を疾走してゆく。
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