第4話 諜報活動 2

文字数 3,119文字

 その晩、イスラエルの空爆は止むことが無かった。当然のこと、パレスチナ側からのロケット弾攻撃も続いたことになる。ただ、こちら側には「アイアンドーム」がない。確実にミサイルや迫撃砲、海からの艦砲射撃にさらされる。
 モスクでは食糧飲料水の提供が一切なかった。やはりパレスチナ側住民の困窮は始まっていた。アリエラは昨夜の夕食から何も食べてはいない。食糧はなんとかなるが飲料水の不足は辛かった。
 さて、協力者不在のアリエラはどう動いてよいものか途方に暮れていた。モサドに入隊して以来、上官の指示なしで行動した試しがないのだ。ともあれ、作戦を前にしてガザ市の地図は頭に入っていたので、ガザ大学に行こうとした。身を隠すにはもってこいの場所だった。まずは身の安全を図る。

 ガザ大学にも人影はまばらだった。有事となり当然のこと授業は行われいてない。キッチンカーが出ていないかと期待はしたものの、やはり一台もなかった。アリエラは学生広場の片隅にある大きなデイゴの木の下に座り、通信手段のことを考えた。次なる作戦の指示を仰がなくてはならない。
 すると、何処からか、若い学生風の男性が現れた。アリエラはハマスを警戒している。アラビア語で、ここの学生で、授業にやって来たが休校だったことを伝えた。
「大学に来るとはさすがにモサドだけはある。協力者に会えなくては君たちは仕事にならない」
 青年はヘブライ語で微笑んだ。

「別に試した訳ではない。ただ、昨晩はハマスの監視が厳しくて動きずらかった。悪かったよ。僕は、アフマド・サイードよろしくね」
 青年に屈託はなかった。やせ型の長身、笑顔が優しい。彼はペットの飲水とオリーブの漬け物が乗ったスフィーハを差し出した。喉が渇ききっていたアリエラは素直に嬉しかった。彼女は簡単に自己紹介し、封筒のお金を差し出した。
「これはありがたい。学生を続けるには金がいるし、情報を仕入れるのにも金がかかる。
 ところで、昨夜のモスクの寝心地はどうだったかい?」
 彼はアリエラに会えないまでも行動を見守っていたことになる。

「で、情報屋さん、これからどうするの?」
 ほとんど寝むれなかったモスクの話しをするのは癪だった。
「これはこれは、、どうやら、昨晩は一睡も出来なかったようだな。避難場所のモスクでは仕方がないさ。
 ハマスの地下トンネルの話しは知ってるな。ガザの全域に500キロに及ぶ地下通路を作っている」
 アリエラは頷いた。言語はいつしかヘブライ語に替わっていた。
「イスラエルは北部から進攻を始めると宣言している。と言うことは、ハマスは北の地下通路に人質を配す作戦をとることになる。地下通路への入り口はそこら中の民家にもあるが、みんな規模が小さい。人ひとり入るのがやっとだ。ところが、モスク、病院、学校など空爆されにくい施設には、食糧やその他資材搬入用の大規模な通路を設置している。
 従って、僕の任務は君をそうして施設に案内し、敵情を探ることにある。まずは、この大学内と君が昨晩世話になったモスクを手始めにする」
 灯台下暗し。アリエラは自分の考えの浅い事を呪った。優秀な潜入捜査官なら昨晩中にモスク内部を探っていたことだろう。自分は、そこかしこから忍び寄る子供のすすり泣きに動揺して、何も成さなかった。ただ大学に脚を運んだことは、結果的に溜飲を下げたことにはなったが…。
 学内の図書館にハマスの兵士が複数人見張りをしていた。どうやら地下通路への入り口があることと思われる。
「しばらく見張る。今に食糧・弾薬を運び込むとか、人が出て来るとか、なんらかの動きがあるはずだ」
 アフマド・サイードは付近の建物の屋上にも目を凝らした。やはり狙撃者が張り付いていた。ふたりはすこし離れた物陰に潜み監視を続けた。
 こ一時間経った処で、図書館から多数の兵士が出て来た。どうやら、地下へのゲートが存在することに間違いはなさそうだ。アリエラは脳内の地図にしっかりと情報を埋め込んだ。
 次は、昨晩のモスクだ。
 ふたりはアフマド所有のライトバンに乗り込んだ。半世紀前の日本車、ハイエースだった。彼は普段ここに寝泊まりしていると言う。
「君はまだ若そうだけど、モサドに志願したのかい?」
「いえ、2年の兵役の途中で誘われたの。わたしご覧のように身体はしっかりしてるし、小さい頃からテコンドーを習っていたから」
「連中はそんなことでは誘わないさ。忠誠心を真ん中に置く。君には祖国を護る強固な意志があったんだろうな。顔に描いてある」
 アリエラは確かに500問近くのマークシート方式の試験を受けた。祖国への忠誠心を試すものと言われればそうかもしれない。両親・祖父母も敬虔なユダヤ人だった。食事の前には家族全員で、旧約聖書の一節を読み上げるのが習わしとなっていた。
 モスクは相変らず、人でごった返していた。これでは内情がよく分からない。するとアフマドが車から下りて、モスクの中から出て来たひとりの老婆に接触し、金を渡して何かを訊いていた。アフマドは10分あまりで車に戻って来た。
「婆さんの話しでは、司祭の部屋からハマスの兵士が出入りしているそうだ。やはりここも黒だな。司祭の部屋はモスクの南西の端にある。よく記憶しろよ」
 アフマド・サイードはクルマを発進させた。日没が迫っていた。
「今日はこれで終わりにする。今からイスラエル携帯の通話が可能な場所に案内する。モサド本部に通信しろ。イスラエル軍はモサドが収集するハマスの情報を待ってから軍事侵攻して来る。攻撃の足掛かりには、ちょっとした情報も利用する。さっさと攻撃を開始しないと国民に面目が立たないからな」
 車はセキュリティーディフェンスと呼ばれる分離壁沿いの民家に到着した。民家と言っても誰も住んでおらず、中には家具も何もなかった。アフマドが素早く床の羽目板を外し、地下への通路を示し、ここに入るようにアリエラに指図した。
 地下は三坪ほどの部屋で、机がひとつ置いてあり、上には携帯電話が載っていた。
「ここはイスラエルが作った通信施設だ。オレはクルマで待っている」

 羽目板も元に戻し、アリエラが戻ると、アフマドはラジオをつけてリラックスしていた。ラジオ局はガザ南部にあり未だに放送をし続けていた。西側のロックミュージックが流れている。
「今夜の寝場所はここだ。当分シャワーはない。もう少し南下すれば、親族の家があり、ベッドとシャワーを提供してくれる。それまでは我慢してもらうよ」
「監察官からは、エレス検問所付近から5キロ以内の施設を洗えだってさ。あんたによろしくと言ってた」
「ふん、いい気なもんだね。ガザ市北部には100万人近く住んでる。5キロ以内には30以上の学校・病院・モスクがあるぞ。
 それはそうと、お嬢さん、今夜はモゴラビーエ(クスクス)でいいな。知り合いが料理店を経営している」
 アリエラのお腹はクスクスと訊いてグーとなった。任務も軌道に乗ったし気分的にもラクになった証拠だ。
「ねぇ、アフマドさん、わたしで何人目のエージェント?」
「オレはまだ年若いし、そんな多くはないよ。アンタで3人目かな」
「前のふたりはどんな任務?」
「ガザの住人になることさ。市民に溶け込んで情報を収集する」
「そのふたりはどうして今回の任務に就かないの?」
「そんなこと、想像しろよ。オレだって気分はよくないさ。いいかい、充分に注意しろ。ハマスの眼はキビシイ。ヘンテコな訛りのアラビア語でも気付かれる。生きて帰りたきゃ、オレの言う通りに動け、いいな」

 電力が止められているガザ市の夜は暗い。
 アリエラはふと、光に満ち溢れたテルアビブの繁華街の夜景を思い浮かべた。
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