第3話 諜報活動

文字数 2,829文字

 その時、イスラエル諜報特務庁、通称モサド本部では激震がはしっていた。
 なぜに、今回のような大規模なパレスチナの反抗を未然に察知出来なかったのか? 当然のことながら、イスラエル国民からも冷たい視線を浴びることになる。
 今回のパレスチナ側からの反抗とは、数千発に及ぶロケット弾攻撃とイスラエル側へのパラグライダーでの侵入を含む越境攻撃、それと最終的に200名を超えるイスラエルの人質を拉致されたことである。
 こんな大それたことをしでかすには、長期間に及ぶ周到な準備と潤沢な資金が必要なはず。それらを察知するのが諜報機関の役目である。長官室には政府要人からの質問と外国を含むメディアからの取材要請が舞い込んでいた。
 モサドの長官室にはバラク・シフリン長官他、ドミトリー・カトラー、エラード・ガンツ監察官が渋い顔を寄せ合っていた。
「なぜに事前に察知出来なかったのか?」
 バラク長官は下手をうてば解任ものの難題に遭遇している。
「メディアの中には事前にエジプトから情報があったはずだ、とフェイクニュースを流す奴らもいる」
「潜入班がバレて殺されたとしか考えられない…」
 エラード・ガンツ監察官が重い口を開いた。
「米国のエージェントもか…」
「はい、恐らくは、、」
 長官が項垂れた。
 ドミトリー・カトラー監察官は終始無言を通した。潜入者の素性は何が在っても口には出せない。ただこのひと月間、音沙汰がなかったのは事実である。他国への潜入ならば容易くとも、実効支配している国、パレスチナへの潜入となると困難を極める。
 あまりに関係が近すぎるし検閲も強固なのだ。互いを知り尽くしている仲でもある。一朝一夕には奥深い処へは辿りつけない。逆に、向こうからの諜報活動も容易ではない。
 ただ、平穏な関係を築いてゆくには諜報活動は有効な手段である。今回の大規模反抗にしても、事前に情報が取れていれば、未然に防げていたのだ。1000人の殺害も、200~の拉致者も出さずに済んだ。
 ドミトリーはひとつ大きな溜息をついた。ここ20年間のパレスチナでの諜報活動を一心に頼った「シャーム(パレスチナの黒子)」である「S.V」の安否を気遣っている。
 すっかり白くなった頭髪と髭、深く刻み込まれた眉間の皺、もう長い年月が過ぎ去っていた。

  ―

 アリエラ・ハアムはテルアビブ大学1年生の時に兵役に就き、2年目でモサドに抜擢された。兵役での優れた技能と徹底的に調べられた素性の結果である。教育課程においても成績優秀者で特Aランクに位置付けられた諜報部員である。すでに、作戦にも2、3度参加し、実地の経験も積んでいた。
 彼女自身もユダヤ人としての誇りと持ち前の正義感から祖国のために忠誠を誓っている。

「君はこの仕事が好きか?」
 ドミトリー・カトラー監察官が彼女の経歴書を見ながら尋ねた。
「はい、やりがいはあります、監察官殿」
 アリエラは敬礼の姿勢をとった。この人物はモサドの長官のにつぐ№2の存在だ。
「リラックスしてくれたまえ、アリエラ。これからの職務は我が国の存亡にかかわる激務だ。君が抜擢されたのは、職務に忠実なことと女性だからだ。イスラエル社会ではジェンダー平等は広く行く亘っているが、中東諸国、パレスチナではまだまだ程遠い概念だ。
 女性は時として甘く、また邪魔者に観られる、そのことを承知で任務に当たってくれ」
 アリエラは後ろ手に起立したままである。
 ドミトリーは部屋の監察官室中央にある机にアリエラを誘った。各種作戦会議には重要な机である。今回はガザ市の詳細な地図が広げられていた。
「君の任務はパレスチナ、いやハマスへの潜入である。これは容易ではない。過去に幾度も試みられたが失敗し、その場で殺されるか、秘密の地下ルートで逃げ帰って来た。君も危ういと感じたら直ぐに地下ルートに直行してくれ。いいな。
 では具体的な指図を行う」
 監察官はドミトリーの今後の身分証と衣装一式を机の上に置いた。
「明日、ガザへの北の入り口から小隊が人質捜索を装って100メートルほど突入する。君はその中に紛れてパレスチナのいち市民としてガザに紛れ込む。入り込んだら、協力者が同行してくれる。その衣装を着ていれば向こうから接触してくる。
 接触して来たら、封筒の1000ドルを手渡せ。報酬だ。君の任務はガザに連れ去られた人質の所在の確認とハマスの今後の動きだ。通信設備も協力者が持って居るので、それを使うこと。ただしむやみに通信するのは探知されるので、適宜使い分けること。なにか質問はあるか?」
 アリエラはあまりに大ざっばな仕事であるため、瞬時には質問が思い浮かばない。戸惑っている顔付をしていると、
「諜報活動とはそんなものさ。敵側に入ってみなくては何も分からない。まぁ、己の運を信じて行動してみることだ。ただし、深入りはするな。危険と感じたら、地下ルートを協力者から聞いてくれ、分かったな」

 翌日、作戦の通りにアリエラはイスラエル軍服でエレス検問所から市街地に入り最初の建物でグレーのアラブ風の衣装に着替え、濃い紫色のヒジャブを身に着けて小隊と別れた。

 この検問所の模様はハマス側からも監視カメラに捉えられ、必要に応じて戦力が投入されることになっていた。今回の小隊の行動はハマスの出方を伺う陽動作戦と捉えられて、作戦は無事成功した模様だった。ところが、待てど暮らせど協力者は現れない。陽はすっかり蔭り夜の帳が降りてしまった。
 アリエラは仕方なく、最初に立てこもったビルから付近を見渡し、そこにドーム屋根のモスクを見付けそこに向った。モスクでいち夜を借りようと思ったのだった。

「わたしワディ・ガザ渓谷近くの村から親戚の家に向かおうとしたのですが、イスラエルの空爆から逃れて南方に向ってしまいました。すみませんが、ひと晩の宿を貸して貰えませんか?」
 永い白髭をたくわえた司祭は快く了解してくれた。もちろん言語はイスラエルの言語であるヘブライ語からアラブのアラビア語に替えていた。
 モスクは逃げ遅れた老人や病人、婦女子で賑わっていた。イスラエル軍はさすがにモスクは公然とは空爆しない。西側への面目を立てているのだ。アリエラは人でごった返したモスク祈祷所に居場所を確保できた。
 そこは家族を失った嘆きの声とイスラエルへの恨み節で溢れかえっていた。今夜も空爆は続いている。母を失った小さな子供の、さめざめと泣く様子には心を奪われた。泣き声はあちらこちらからアリエラを襲うようにやって来た。それでもこれは戦争なのだと何度も気を取り直した。イスラエル側にも同じような光景はきっと溢れているはず。
 それにしても、協力者には呆れ果てていた。一体何をやっているのか。それとも協力者は空爆で戦死してしまったのかもしれない。となると任務はどうなるのか。あれやこれやと想いは駆け巡る。アリエラは母を失った子供たちと同じように、とうとう熟睡は出来なかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み