第1話 ハマスの正体

文字数 2,714文字

 サーラ・ハッカニは地元ガザにあるアル・アズハル大学に通っている。父は貿易商で、隣国のエジプトとの交易を主にしていた。国民総生産が年間3800ドル(53万円あまり)のパレスチナにあっては一握の富裕層と言える。
 エジプトはパレスチナとの交易を原則認めてはいない。認めてしまえば、パレスチナからハマスを始めとするキナ臭い連中が多数入り込んできて、テロ集団を形成する危険性があるからだ。また、エジプトは豊かな国だし、世界中の国と交易している。テロ集団側も武器弾薬ほか資金面でもパレスチナに居るより遥かに調達しやすいのだ。
 ただ何事にも抜け道は存在する。エジプトはアラブ系、ペルシャ系、トルコ系、ギリシャ系民族の複合国家。中でもアラブ系の住民の中には、同胞のパレスチナを支援してくれる人々も多い。父はそうした人々と交易を重ねて来た。
 また中東は広く国をまたいだ部族社会でもある。ハッカニ家はヨルダン、イラン、イラク、アフガンに同族を持ち、多くの別部族と親交を深めて来た。言わば中東の盟主といえる家柄なのだ。ハッカニと名乗れば一目も二目も置かれる。
 男尊女卑社会の中東にあって、女子でも大学に進学出来るのは、この家系であることが大きい。理論物理学を専攻しているサーラの学部には女子はサーラひとりしかいない。大学全体でもわずか1パーセントにしか過ぎない。従って、女子トイレは学内にひとつしかない。
 アル・アズハル大学はガザ地区北部、ガザ市の中心に位置する。機械工学、科(化)学、語学、社会、歴史、宗教学と6学部を有する。とは言っても、欧米や日本の大学と違って、生協や学食があるわけではなく、学内に適宜、名物料理や飲料を売るキッチンカーが入り込んで来る。
 この日、サーラは気のおけない男子の5人クループに混じって、マナイーシュ(アラブ系のピザ)にザクロのジュースを移動リヤカーで購入して来た。食事場所は唯一芝生の拡がる学内の広場。

「昨夜、またイスラエルからの空爆があった。最近、いつにも増して多いな」
 学生のひとりヤーセルがファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)を頬張りながら呟いた。
「また、ハマスが騒いでいるからな」
 アフマドが答えた。
 ハマスとはイスラーム抵抗運動のこと。アラビアの語の頭文字をとった。また、単独でも「屈強、勇猛」との意味もある。反イスラム、ユダヤ教徒の多いイスラエルに対抗する武装組織のことである。日本を始め、欧米各国はハマスを「イスラム原理主義組織」と冠をつけて、国際テロ組織と認定している。
 しかしながら、パレスチナにおいては教育・医療・福祉の分野で多大な功績を残しているため、民衆内での支持は高い。また、先祖代々の土地をイスラエルに横取りされたパレスチナの住人は、たとえテロと呼ばれてもイスラエルに対する攻撃をほくそ笑む人も多いのだ。

 ここでイスラエルとパレスチナの歴史について少し陳べる必要がある。
 カナン(現イスラエル・パレスチナ地方)とは旧約聖書で、神・ヤハウェがイスラエルに与えた約束の土地であり「乳と蜜の流れる地」と呼ばれる。この旧約聖書での言葉が大前提となり、東ローマ帝国、オスマン帝国支配でヨーロッパ各地に離散した「ユダヤ人=イスラエル人」はパレスチナに留まり続けた一団と団結し、先の大戦後、カナンに帰還するための民族復興の大事業を起こした。これを「シオニズム運動」と呼ぶ。
 国際連合(1945年設立)はユダヤ人を蔑視し、ホロコーストを引き起こした引け目もあり、1947年にパレスチナ分割決議を採択し、事実上、イスラエルの建国を許可した。ここからアラブ諸国連合(パレスチナのアラブ人)との陣取り合戦が始まり、アラブ諸国連合は東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区(ゴラン高原を含む)とガザ地区をかろうじて死守した。
 パレスチナは国連未加盟だが、2021年時点で138の国連加盟国が国として認めている。首都は東エルサレムで、共和制国家。面積はおよそ6000平方キロメートル、人口500万。うちガザ地区は365キロ平方メートル(東京都の6割ほど)で全体の6%しかないが、人口は全体の38%を占める。なお、暫定政府の中枢機関は西岸地区に置かれている。
 ただ、現時点でヨルダン川西岸地区の6割とエルサレムがイスラエルに占領されているため、首都機能は中部の都市・ラマッラーが担っている。

「でも、わたしはハマスの活動には疑問を感じるな。それはパレスチナ人には愉快な正義だけど、世界中の人々にはただのテロ活動にしか思えない。イスラエル人は人間、人殺しだよ、決して容認できない」
 サーラは何度この発言をしたことか…。
「サーラ、声がでかいよ」
 ヤーセルがここでもたしなめた。
「どこにハマスが潜んでいるかもしれないし、ハマスを支持するアラブ人には、サーラはイスラエル人寄りの人間に映ってしまう。ことは神話の時代に遡ることだよ」
 「神話の時代」とは「旧約聖書」を意味している。この発言には、サーラは反論出来ない。彼女は信仰とは別の角度から神に近づこうとしている。
 サーラは「超弦理論」にそれまでの六次元だけではなく、神の領域とされる七次元、八次元までを取り入れて宇宙誕生のメカニズム、また最小物質の原子・素粒子・クォークの成り立ちを解説し、さらに微小な物質プレオン(点粒子)との関係性、「点か弦か? 或いはそれ以外か?」 を推論する作業に没頭している。
 天文物理学を深めると、現在の科学知識を総動員しても解決出来ない事柄にたびたび遭遇する。例えば、ブラックホールもそのひとつ。光をも飲み込む漆黒の闇の実態は? 凄まじい重力によって吸い込まれる一点。すなわち物が光によって確認できる最後の「事象の地平線」。
 その先は「虚無」であると推論する学者も現れている。万物がそれを構成している最後の素粒子までに分解されてやがて消失する。残るのは「虚無」である。この「虚無」とは宇宙がはじまる前の世界。そう、「ビッグバン」前の姿に戻ると言う。
 これはもはや科学では立証できない神の世界を意味する。

「今回のハマスの攻撃は大成果だよ。何しろライララインを全てイスラエルに止められてしまった。これはただごとではない。携帯の電波も届かない。イスラエルは本気になってる」
「この大学も無事でいられるとは限らないか…」
 ヤーセルとアフマドの絶望の議論は続く。
 すると、
「社会インフラも遮断されていて、SNSが満足に使えない。これでは正確なニュースが入って来ない」
 ハマスに繋がりがあると噂される機械工学部の学生、カリーマ・アッブ―ドが話しに割り込んで来た。
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