第5話 アラブの盟主・ハッカニ家

文字数 2,395文字

 アリエラ・ハアムのモサドとしての任務は順調だった。イスラエルは、国際世論と影響力のある米国、また国連から要請のある人道回廊設置のためにガザ侵攻を思い留まっているかに見えたが、その実はガザの情報を収集していたのだった。
 ハマス殲滅すべしとの国内世論は衰えをしらない。何も成さない政権では今後の政治の舵取りは難しいとまで言われていた。現政権は必ず軍事侵攻をする。
 ハマスはイスラエルの侵攻を念頭に置いて作戦を練っていた。制空権は握られても、地下空間での優位性を保っている。おまけに人質を盾に出来る。イスラエルは同胞を重要視する国家。200名を超える人質をないがしろには出来ない。
 アリエラの活動にも限界はあった。人質のいる地下空間の所在は明らかになっても、その人数までは分からない。ただ、最初の軍事侵攻が可能な敵の在処は調べ終えていた。あとは、果たして人質の身の安全を担保できる作戦がとれるのか。軍の力量が試される時が迫っている。

 この日はエレス検問所から3キロ先の小学校の偵察任務中だった。子供たちは居ないのに、ハマスと思われる戦闘員が校門脇に配置されていた。
 いつものように離れた民家からM21狙撃銃用のテレスコープで確認作業中に近くのビル屋上から狙撃された。銃弾はアリエラのヒジャブの上部を貫通し、アフマド・サイードの首の背後を襲った。アリエラは即座に煙幕弾を使用し、蹲るアフマドに肩を貸して車まで辿り着き、後部座席に横たえてから急ぎ車を発進させた。

 一体誰が?
 いつものように周囲の監視活動は終えたはずだった。それなのに。しかもかなり後方からの銃撃だった。最初から私たちを狙ったとしか思えない。
 いまはアフマドの手当てが先とアリエラは行き先を考えた。病院はハマスの支配下にあるとも限らない。南に親族があると訊いていたが詳しくは分からない。
 と、後部座席から声が掛かった。
「いつもの通信部屋に向え、あそこが一番安心できる」
 到着した時刻には、辺りは漆黒の闇に包まれていた。後部座席のアフマドには夥しい出血が見られた。幸い車内には負傷時用緊急キッドが在ったのでモサド流の緊急措置を施した。ただ、傷の具合がただ事ではないことはアリエラにも理解出来た。

 民家に入ってアフマドを横たえると、
「椎骨動脈をやられちまった。もう長くはない。
 モサドで訓練は受けているよな、人の殺し方。急所を狙えばいい」
 その声は消え入る様にか細い。今にも出血性ショックで気を失いそうだ。
「拳銃は車の助手席のクッションの下に隠してある。顔を見ながらはイヤだろうからアンタのヒジャブを被せてひと思いに撃ってくれ。いつまでも苦しむよりもいい。それから今後のことは、サーラ・ハッカニを頼ってくれ。オレの大学の同級生で、必ず分かってくれる。名家だから場所はすぐに分かる」
 アリエラは何度も逡巡した。これは殺人に他ならない。
 しかし、やり遂げるほかに途はない。

 バーン!

 銃に消音装置は付いてなかった。バスタオルなどを銃に巻いて消音を心がければよかった。静かな住宅街にかなり派手な音が轟いた。巡回中のハマスに気付かれたかもしれない。
 遺体の埋葬法を考えていた時に、やはりそれは起こった。

 パシッ!

 これはさきほど狙われた狙撃銃の空気を切り裂く音だった。ヤバい気付かれた。アリエラは急ぎ、車に戻りエンジンを始動させた。
 車は分断の壁沿いに南下してゆく。彼女は未熟さ故に、大切なふたつのことが出来なかった。大切な協力者アフマド・サイードの埋葬とモサドへの報告。
 泪が膝の上に音を立てるように落ちた。

 ―

 ハッカニ家はほどなく見つかった。米国が退いたアフガニスタン・イスラム首長国を主導する名家だからだ。ガザの住民ならば誰もが知っている。

 ガザ市中心部にある大きな家だった。しかも高さ2メートルほどもある白い分厚い壁に囲まれていた。入口付近には監視カメラが3台、訪問者を捉えている。
 アリエラは正攻法の途をとった。侵入するための装備は持ち合わせていないし、コソコソする必要もないと考えた。自分は名誉の殉職を遂げたアフマド・サイードの紹介でここに居るのだ。
「わたはアリエラ・ハアム、アフマド・サイードの紹介でやって来た。サーラ・ハッカニさんに面会したい」
 車を3メートルはある観音開きの門扉正面に停めて、監視カメラに向かって叫んだ。予想通りに門扉は内側に向って開いた。門を潜るとヤシの大木が三本植えられた庭を中心に円が描かれて、門の反対側に玄関があった。
 玄関には白っぽいドレスに同色のヒジャブを被った女性が立って居た。
「父は留守です。あなたは運がいい、父が居ればどこかのパルチザンと勘違いされて拘束されていた」
 嫋やかで気品のある女子だった。粗削りな自分とは正反対だ。アリエラは身分と、アフマドとの関係、今までして来たことを、もれなく説明した。但し、最後の銃弾の処は隠したままだった。
「そうですか、アフマドはそんなことをしてたんですね。パレスチナとイスラエルとの不毛な戦争のことはいつも嘆いていましたが、そうですか、ハマスに撃たれて死んだのですか…」
 サーラの顔付が一瞬沈んだ。が、気を取り直したように、アリエラを自分の部屋に招いて、侍女に簡単な食事を用意させた。アリエラはそんな気遣いがとても嬉しかった。
「わたしとアフマドはアル・アズハル大学で理論物理学を学んでいました。具体的にはブラックホールの成り立ちについて。簡単に正解に導ける事象ではありませんが…。
 そうそう、じっくりお話しを聞く前に、あなたには温かなシャワーが必要なようです」
 確かに潜入してから一度もシャワーを浴びていなかった。ヒジャブのない髪にはあちこちに埃がまとわりついていた。衣服も同様で、数か所で擦り切れてもいた。
 予想外のもてなしにアリエラは深く感謝した。
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