第7話

文字数 6,232文字

一階の公衆電話ボックスに急ぎ、学生サポートクラブとやらに電話をかけた。感じのいい日本人女性が電話に出た。あくまであてずっぽうの行動だったが、僕が部屋を探していることや、今は安いホテルに泊まっていることなどを伝えると、「もしよろしければ、これからお話を聞きに来ませんか?お待ちしております」と言われた。電話を切り、部屋に戻って地下鉄の地図をポケットに入れ、今朝吉見政二に英語学校へ連れて行ってもらったときに乗ったダウンタウン行きの1番の地下鉄で、西二十三丁目に向かった。


『地球の歩き方』によると、マンハッタンの通りは、南北を走る道がアベニュー(~街)、東西を走る道がストリート(丁目)となっており、電話で詳しい行き方も教わっていたので、二十三丁目の駅に着いてからも迷うことなくその建物まで行くことができた。その建物は、英語学校に近い七番街に面した建物の十階にあった。


エレベーターを降りて息を整え、オフィスのドアを叩いて入ると、帰り支度をしている男性スタッフが一人いて、テーブルのところで座って待つように言われた。外の寒さにさらされたあとだけに、室内の暖かさがありがたかった。僕は椅子に腰かけて待った。すると、電話で話した女性が姿を現した。


年齢はおそらく三十五歳前後だろう。彼女は優雅な微笑みを浮かべながら近づいてきた。その瞬間、僕の胸に計り知れない喜びが押し寄せ、自然と姿勢を正し、身を引き締めた。


「寒い中、わざわざお越しくださりありがとうございます。私が学生サポートクラブの社長の――」


もう名前も顔も思い出せないけれど、その綺麗な人は僕の向こう側に腰を下ろすと、優しく話し続けた。


「日本人の学生さんのために、マンハッタンに住んでいる親切なアメリカ人の方々からお部屋を提供したいとのお声を数多く寄せていただいております。私どものスタッフにもアメリカ人とシェアしながらこの会社で働いている者もおります。ですから、大野さんが気に入るスタイルのお部屋が見つかるまで、私どもとしては責任を持ってサポートすることをお約束いたしますが、いかがでしょう? 人気の地域もご紹介できますし」


スッチー(キャビンアテンダント)とかの首のスカーフに魅了されていた僕にとって、彼女の首に巻かれたエルメスのスカーフは、非常に魅力的だった。


「それから」と彼女は続けて僕に言った。「これはあくまで一般論の話として聞いていただきたいのですが、今大野さんが一時的にでも泊まっていらっしゃるそのなんとかって言うホテルなんですけど、私どもからするとぉ……、うーん、そうだなー、やっぱり危険な所と言わざるをえないのかなぁ」  


そして帰りたそうな男性スタッフの方に目を転じて意見を求める。


「違うかしら? ○○君どう思う?」


男性スタッフが言うには「早く引っ越されたほうがいいかもしれませんね。結構留学生のみなさん、ニューヨークに来て危ない目にあったりした話なんかも聞きますから」


「ほらね大野さん」彼女は僕の方に視線を戻して「私のいう意味わかってもらえたかしら? だからこの先、大野さんがこちらで生活なさるのであれば、一刻も早くそのなんとかとうホテルを出られて、安全でなおかつ気持ちのいいところに行くことをお勧めしますけども、いかがでしょう?」


壁の時計で時刻を確かめたときは5時を回っていた。


僕が拒んでいないことを知ると、彼女は大胆にも、心地よい声で僕の内面を揺さぶるような言葉を口にした。「ほら、大野さん。一緒に頑張ってみよう。みなさん行ったらすごくよかったって言うの。ほんとに素晴らしいって。きっと今まで我慢してきたからよね?違うかしら?そうでしょ?」そう言って、アッという間にいっちゃったとでも言わんばかりに、上目遣いで小首を傾げた。「欲求がたまってたのよ。だって初めてじゃない、こういう体験するの……」むろん、僕の方は恥ずかしそうにしながらテーブルに目を落とし、手のひらをももに当ててもじもじしていた。


彼女が愛想よく僕に微笑みかけると、僕の反応を窺うように改めて聞いた。「どうかな?大野さん、私たちに協力させていただけるかしら?」その言葉に僕の心の扉が開きつつあった。なんでって、つまり、こういうことなのだ。彼女がついて来てくれると思たのだ。で、そのあと運よく二人で食事なんかするのではないだろうか、なんてスケベ心が働いた。だいたい、なんだかんだ言って、もうここに頼むしかないんだから、もう少し綺麗な格好してくればよかったなと後悔したが、彼女と一瞬にいくのを想像しただけで、全身がゾクゾクするような興奮に包まれーーとうしょの部屋を紹介してもらう目的から彼女と仲良くなりたいとう目論見に変わりーー断ったら、かわいそうだとも思いーー少し勇気がいったが、思い切って彼女の顔に向けていっぱい出したら、彼女はあっと小さな声をあげた。そんなこと知るわけもない彼女は驚き、年上の女性らしく僕をいさめるように、目の縁を染め、恥ずかしそうに「やだ大野さん何やってんのこんなにいっぱい出して、誰が出しなさいって言った?ちょっと、もう、びっくりするじゃないの」と言った。


僕は言った。「来る途中でATMでおろしてきたんですけど、ダメなんですか……」ちなみに、20ドル札の束は分厚いから財布には入れずにそのままポケットに折りたたんでいれていた。


「あのね、いい大野さん」彼女は熱心な眼差しになって「ニューヨークでは、現金はあまり持ち歩かないほうがいいのよ。ここは日本じゃないんだから、来るときにそう教わらなかったのかしら?」そんなことを言い、なんだかコソばゆい気分で僕がいると、顔を僕に向けて「じゃあいいのかしら?」と言った。そして二十ドル札の束が三百ドルあることを確かめてから切なげに鼻息とともに席を立ち、そのままいったん奥の部屋に入って行く。


くそッ、いいケツしてんなあ……。四つん這いにさせて両手で鷲掴みしてやりたかった。


しかし、そんなことなど、一切おくびにも出さず僕は礼儀正しくしていずまいをただしていた。というのがことの真相である。


そして、ほどなくして戻ってくると、「今ちょうど連絡が取れた方が三人おりまして、これからお部屋を見に来てもいいとおっしゃっているんだけど……」と、そばに寄ってきた彼女は、座っている僕の目線に合わせるように膝を曲げ、半分かがみながら首をかしげて、笑みを浮かべて言った。


「どうかな大野さん、イケそうかな?」


久しぶりにボルテージが上がり「イカせてください」とまるで絶頂に達してしまったかのように言ったら、彼女はチラリと腕時計を見て「じゃあ大野さんに今住所を書いて渡しますから一人でいって来てください。で、もし気に入ったお部屋があれば、お電話くだされば、私帰らないで待っていますから」


僕は一瞬あっ気にとられ、言葉もなく彼女を見つめた。胃がしめつけられるみたいな感じがした。だって昨日ニューヨークに来たばっかりで、右も左もわからないわけだから、一人でなんか怖くて行けないよ。ここに来たことを後悔し始めていた。でもなんって言ったらいいか、もし、ここでくじけたら、とんでもない大バカ者になってしまうような気がした。


さっきまで漂っていたひめやかな雰囲気も消え、普通に戻って、窓には、高層ビル群のぎざぎざしたシルエットが浮かび上がっていた。


彼女はきびすを返し、男性スタッフにこう言って「じゃあ、○○君、大野さんをエレベーターのところまでお連れして」で、また奥のドアへと入って行く。


男性スタッフは僕をエレベーターのところまでうながし、その後からにっこりと微笑んだ女社長もこっちに来て、折りたたんだ紙を僕に手渡すと、間もなくエレベーターのドアが開いて、男性スタッフがドアを僕のために押さえてくれていた。僕は意を決してエレベーターに乗り込んだ。もうそうせざるを得なかった。


不安そうな表情の僕に向かって「では、大野さん、気をつけて行ってきてくださいね」二人が並びながら、深々と頭を下げてると、ドアの合わせ目がぴたっと閉まって、エレベーターの中の数字がつぎつぎに変わってゆく。


僕は深く息を吸って、吐きだした。エレベーターを降りて、ビルから歩道に出ると、浮浪者じみた男が、怒鳴りちらし、気が狂ったように独り言をわめいていた。見れば道ゆくひとたちは男をよけて通っていく。どう考えても一人じゃ無理だよ。怖いよ。ここニューヨークだもん。ちょっとでも油断したら殺されちゃうよ。そう胸の中で愚痴をこぼし、やっぱりダメだ。あきらめそうになったが、ボロホテルの暮らしにあと一か月耐えねばならないことを考えると、行くっきゃねーかと思い直して、走り書きされていたメモを見つめた。


東二十九丁目 201号室 シェリル 女性。


それをズボンのポケットに突っ込むと、なるべく賑やかな通りを住所を頼りに東に向かって歩きだした。


すると、けっこう簡単にその番地を探してあてたから、拍子抜けした。この時、マンハッタンの歩き方がなんとなくわかったような気がした。陽はかなり落ちていたが、まだ完全に沈んではいなかった。


こじんまりした佇まいのアパートの一階にはデリカテッセンが入っていた。201号室 シェリルさんのアパートはネオンの上にあった。少なくとも、僕の見るところでは、いい感じのアパートだった。


建物の閉ざされた門扉の前でシェリルさんの部屋のインターフォンを見つめ、それから思いきったように押すと、スピーカーから女性の声がして、ビーという音とともに鍵が開いた。エレベーターがなかったので階段で上り、ひとつしかないドアをノックしようとしたら、三十代くらいの女性が前かがみになりながらドアを片手で押さえて開けて出てきた。


挨拶をして、中に入れてもらい、僕はちょっとの間立ったまま、その部屋を見渡した。目の前にバスルーム、その左がキッチンとブレックファースト・カウンター。その左側のリビング中央を見ると革張りのソファーが置いてある。 


あがってもいいか尋ねると、もち、遠慮なく入って、みたいな軽いノリの女で、靴を履いたままテレビのそばまで来ると、革張りのソファーの後ろには間仕切りのない部屋があって、そこにはベッドが一つ置かれていた。けっして広くはないが、落ち着いた雰囲気で居心地はよさそうだが……、どう考えてもおかしかったので、彼女に尋ねた。すると、彼女はムースのついた尖がった髪を指でつまんでこう言った。「私がボーイフレンドのとこに泊まりに行った時は、あのベッドを使ってもかまわないわ、でもそれ以外の時はこのソファーで寝てよね」


僕はしばらく黙っていた。


次は東二十五丁目 E棟 611号室 リディア 女性。


今度も今みたいな感じの部屋だったらあの女社長絶対にぶっ殺してやる!そう思いながらふたたび歩き始め、それでいて、これがニューヨークなのか、そう思うと、一人で笑ってしまった。そして歩いていると、隙間なく並んでいた建物が消え、急に視界がひらけ、切りはなされ離ればなれになった大きな建物ばかりが見える吹きっさらしの大通りに出た。


そのころには、完全に陽が落ちて真っ暗になっていた。


夜の黒い海のようにも見える道路をヘッドライトを光らせた車が通り過ぎて行く。どこか不気味でもあり、寂しい感じさえ漂う。紙に書いてある住所に向かって大通りを歩いていき、大きな交差点に近づくにつれ、煉瓦張りのマンション団地らしきものが視野に入ってくる。あれかぁ、と、思いながら横断歩道を渡って行くと、そこの一画に案内板が掲げられていて、アルファベットで表記された棟の並びが簡単な図で表されていた。


真っ直ぐ行った五つ目の建物がE棟だとわかって、街路灯が一定の間隔をおいて白く照らしている歩道を歩いて行き、E棟の正面玄関で611のインターフォンを押したら、ブザーの音がして建物の扉が開いて中に入った。エレベーターに乗り、六階で降りると、ヒスパニック系のおばさんが廊下に出て待っていてくれた。「リディアですか?」「オーノ?」「はい」「さあ、入って」挨拶を交わして、中に入れてもらったら、正直さっきの部屋とはまるで大違いだった。


スタイリッシュな壁は白く、床には真っ赤な薔薇のような絨毯が敷かれていた。「日本みたく靴を脱いで上がってね」とリディアに言われ、靴を脱いで上がると、まず玄関を入ってすぐ左にあるキッチンスペースに案内された。そして「もしあなたが住むようになったら、戸棚や冷蔵庫の段を振り分けて使いましょう」と言ってくれた。


静かに絨毯の感触を感じながら、玄関から真っ直ぐ進んで黒いダイニングテーブルが置いてあるリビングに来た。左のソファがある方には、大きな窓があり、近づいてガラスにおでこをつけるようにして、下の通りをちらっと眺めると、さきほどの街路灯が一定の間隔をおいて白く照らしている歩道が見える。


リディアが僕のことを呼んで、玄関から真っ直ぐリビングを抜けた一つ目の部屋を見せてくれた。十畳程の部屋で、勉強机、折りたたみ式ソファーベッド、クロゼット、それに、街路灯が一定の間隔をおいて白く照らしている歩道が見える大きな窓がある。僕の頬がひとりでにゆるんだ。この部屋は、結婚してニュージャージーで暮らしている息子さんが使っていた部屋だと教えてくれた。隣はここと同じくらいの広さの部屋で、リディアの部屋。突き当たりがバスルームになっていた。


いくらで貸してもらえるのか聞くと、家賃が四百ドル。それと、入居する前に保証金(一ヶ月分の家賃)が必要だと言われた。リディアにもう一軒見てから決めたいと話し三軒目を目指すことにした。


アッパー・ウエスト・サイド 809号室 ポール 男性。


持ってきた地下鉄の地図をポケットから出して開き、乗り換えに自信がないので、今いるところから七番街二十三丁目か二十八丁目まで歩き、そこからアップタウン行き1番の地下鉄に乗って六十六丁目まで行くことにした。


気がつくともうすぐ七時になろうとしていた。だから急いで歩いていたら、突然、闇の中から出てきた何かにぶつかって、ガラスが割れる音がした。あっ、と思って足を止めて振り返ると、ぶつかったのは黒人の男で、ヘイだとかビールだとかベリーエクスペンシブなどの単語を早口でまくしたてながら僕の方に向かってきた。いったい何が起こったのかよくわからなかったが、そいつが地面を指差してわめいている。


見ると、白い街灯の光の中に、袋に入った瓶が割れ、中のものが流れ出しているのがわかる。


相手はとてもおさまりそうにない。


急いで歩いていてぶっかったわけだから、こっちが悪いと思い1ドル札を渡した。するとまた、ビールやベリーエクスペンシブなどの単語を威嚇するようにまくし立ててくる。このままじゃどうにもならないから、五ドル札を渡したら、現れたのと同じくらいの素早さでいなくなってくれて胸をなでおろした。


ふと、あたりを見回せば、誰もいないことに気づいた。その辺りは店じまいが早くて、車も走っていなかった。人けのない静まり返った通りを紙切れやぐずぐずになった新聞紙が風にあおられて舞っていった。


そこからは、地下鉄の駅、もしくは人がいるところまで、もう心臓が飛び出るかというくらい思いっきり走った。


暗くなった建物の間を走り抜けながら、怖すぎて笑ったのを覚えている。
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