第15話

文字数 4,088文字

12月初旬、晴れた日だったが、雪が降りそうな寒さの中、ロックフェラーセンターには多くの家族連れやカップルが集まり、巨大なクリスマスツリーが飾られ、そのライトが点灯するのを幸せそうに見上げていた。たまたま紀伊国屋書店でOCSニュースの新聞を買うために立ち寄った僕は、ぼんやりとそのツリーを眺めた後、人混みをかいくぐってその場を去った。


部屋に戻り、明かりを点けて、買ってきた新聞を広げた。


求人欄には毎回たくさんの募集が掲載されていて、その中でも最も多いのは日本食レストランのウェイターやウェイトレスの募集だ。次に多いのはクラブのホステス募集(男性のボーイも同時募集中)、そして寿司職人募集(経験不要。その日から握らせます)。他には、日系企業での事務職、日本語教師募集、ビデオの配達員(キャリーバッグを使って歩いて配達)、メッセンジャー(徒歩で届ける)、そして女性限定で高収入のマッサージ師募集がある。ただし、これはデリヘルだ。


歩いてメッセージを届けるだけでお金がもらえるなら、観光がてらにやってみようと思った。それに、英語学校に通いながらできるかもしれないし、何よりニューヨークでアルバイトができるなんて、自分の好奇心を刺激することができそうだと思い、軽い気持ちでメッセンジャーの募集に電話してみた。


すぐに日本人の男が電話に出た。


新聞を見たことを伝えると、ニューヨークに来てどれくらいか尋ねられ、まだ一ヶ月ちょっとです、と答えた。


「年齢は?」


「二十歳です」


電話口の男が言った。「お、若いね、明日の午後三時半に事務所に来れる? どう?」


「大丈夫ですけど」僕は少しためらいながら言った。「まだやるかどうかは……」


「いいよ。とりあえず来てみて、それから相談しよう」


あくる日、エンパイア・ステート・ビルのすぐ近くにあったその事務所に行った。高層建築群に囲まれた小さな建物の三階にあった。エレベーターを降りて、狭い廊下に立ってドアをノックすると、日本人の女の子がドアを開けてくれた。中に入ると、昨日、電話で話した男は向こうの帳面が山積みになってる事務机の脇で、電話をかけているところだった。黒電話を手に持ち、声をはりあげて仁王立ちしてしゃべっている。長髪でジンーズ姿のその男が僕に目を向け、ドアのそばに立てかけてあった折りたたみ式のパイプ椅子を指さしたので、それをとって広げ、背中をあずけた。 


こちらには、折りたたみ式の長テーブルがコの字型に配置されていて、封筒や筒型の箱が整然と積み重ねられている。向かい側の長テーブルの椅子の一つに、ドアを開けてくれた女の子は座り、届けに行った場所や交通費なんかをノートに記入しているようだった。


長髪の男が電話を終えて、こちらにやってくると、前置きもなく、僕に話しかけた。


「学生? 地下鉄は大丈夫だよね? バスは?」


「バスは、まだちょっと……」


「大丈夫、大丈夫。地下鉄に乗れるんなら。今から行ける?」


「えっ、これからですか?」


僕が即答できずにいると、長髪の男は「心配いらないよ。女の子だってやってるから」と言いながら彼女を見た。


その女の子は頭を上げ、重々しくうなずいた。それが長髪の男に対してなのか、それとも僕に対してなのかはわからなかったが、彼女のうなずきには気配りが漂っていた。


この時点で、僕の耳には二つの言葉がこびりついている。一つは「充分、充分、地下鉄に乗れるんなら」、もう一つは「大丈夫だよ。女の子だってやってるんだから」


話しているうちに、「簡単なところだから、行ってみなよ。若いんだろ?」と言われ、住所が書かれた紙と封筒、そしてポケベルを渡されて、断ることができなかったと記憶している。


もうここまできたら、理屈であれこれ思い悩んでいるよりも、まずはやってみるしかない。初めはそんなふうに考えていた。もしかすると、自分に何かきっかけを与えてくれるチャンスになるかもしれない、と考えたからだ。たいていの人は、何かを始めるときはそんなものだろう。なので、不安な気持ちを抑えつつ、長髪の男と女の子に見送られて、来たエレベーターに乗り込んだ。


ま、大丈夫だろ、少なくともそのときはそう思ったが、下に降りて建物の外に出ると、すぐにそれが間違いだったと気づいた。信号機のある角に立ち、青になるのを待っている間ですら、バカみたいに寒いんだから。気温は恐ろしく低く、底冷えする空気が容赦なく吹きつけてきた。無理だろ、できないよ。あの野郎、騙したな!と腹立たしくなった。顔に吹きつける風は、冷たいを通り越して痛かった。


心が辞める方向に傾き、どうしたらいいのか考えながら歩いた。


時給はたったの五ドル。とりあえず、この封筒をできるだけ時間をかけて運び、事務所に遅く帰って十ドル貰おう。どうせこれで辞めるのだから。そんなふうに考えて、目的地のオフィスに急ごうという気はまったくなかった。だが、この寒さでは外にばかりいるわけにもいかず、自分の金で店に入ってコーヒーを飲むのも意味がないから、紀伊國屋書店に向かった。


暖かい店内はマジでほっとした。ここだけは日本と変わらなかった。なんていうか、つねに注意を怠らないようにしていたからか、冬のニューヨークでは少し歩いただけでもものすごく疲労がたまった。封筒を下に置いて、週刊誌を立ち読みしようとしたらポケベルが鳴り、あたりにいた人たちが一斉に目を向けてきた。


慌てて店の外に出て、表示されている番号に公衆電話から電話をすると、先ほどの長髪の男が電話口に出た。


『渡してくれた?』


「すみません。それがまだなんです」と僕は言った。「足が痛くなってしまって……ちょっと休んでいました」


『今どこ?』


「ロックフェラー・センターです」 


長髪の男が嫌悪感をあらわにしながら、むっとした声で言った。『渡したらすぐに電話してね』

 
ひょっとしてさっきの女の子が見張っているのではないかと、後ろを振り返りながら五番街に戻った。そして、書かれていた住所に向かって、わざとペースを遅くし、もの思いにふけりながら歩いた。それでも、あっという間に着いてしまった。そこは、これほどわかりやすい場所はないだろうというくらい非常にわかりやすい場所だった。ヤバい、どうしよう、と思いながら慌てて建物の中に飛び込み、エレベーターのボタンを押して上がって行った。八階のオフィスに着くと、白人女性がウインクをしながら現れて、サインしてくれた。


エレベーターで下に降りて、五番街に出て、公衆電話から事務所に電話をかけた。これで終わったから帰れるだろうと思った。そのとき、長髪の男が、僕が言い終わるのを待たずに話し始めた。


『じゃあ、次』


「次?」


彼は勢いこんでこうつけくわえた。


『書類の入った封筒を持った女の子が、パーク街の四十五丁目に行くから、それを受け取ったら、今度はレキシントン街の五十九丁目にいる男の子に渡しあげて。早く行ってやらないと、可哀相だからね』 


僕はうつむいて足元の地面を見つめながら、言われたことを聞いていた。やがて顔を上げ、仕方なく頼まれたとおりにパーク街に向かって歩き出した。すでに何も感じなくなっていたが、ニューヨークにいる実感はあった。四十五丁目に着くと、女の人はまだ現れていなかった。寒さで凍えそうになりながらも、風をしのげる近くのビルの壁に寄りかかり、四方を見渡して待っていると、十五分ほどしてようやく日本人の女性が封筒を抱えながら現れるのが見えた。僕は彼女に近づいた。


「遅れちゃってすみません」その女の人が言った。「新人さんですか?」


「ええ」


「これです」


わりと可愛い人で、名前でも聞いてみようかというスケベ心がちらっと頭をかすめた。けど、そうはいかなかった。もはや立っていられないほど冷たいビル風が吹き荒れていて、封筒が飛ばされてしまいそうで、女どころの話じゃなく、いまはただ一刻も早くボロホテルに帰って寝たかった。しかし泣く泣く次の場所に向かった。


もう寒くてしんどかったので、急いでレキシントン街の五十九丁目まで行くと、交差点の片隅に、日本人の男性が腕を組んでガタガタと震えながら立っていた。


「遅れちゃってすみません」と僕は言った。「これです、お願いします」


遅かったからなのか、理由はよくわからないが、男性は怒りが収まらないような顔で僕に言った。


「聞いた? 事務所に戻ってこいて」


なので鍵が開いていた事務所に戻った。そして、長髪の男と二人で長テーブルについた。その頃には、すっかり日が暮れていた。窓から見える空は、深い藍色に染まり、街灯が灯り始めていた。


かかった時間は、無理やり四捨五入すれば二時間である。


なので、十ドルもらって帰ろう。望んでいたのはそれだけだった。もうくたくただよ。うつむいて座ったまま、ぎこちない様子でいると、今日の分の五ドルは、土曜日に取りに来るようにと言われた。


ちくしょう!僕は思った。五ドルかよ!


正直なところ、やめようと思っていたので、五ドルを取りに行くのも気が引けた。しかし、事務所を出てエレベーターで下に降り、建物を出た途端、お腹がペコペコになった。その夜はつい豪勢に日本食レストランでカツ丼を食べてしまい、結果的にいつもよりも食費が倍かかってしまった。


きっと、この仕事は歩いた分だけ腹が減るんだよ。つまり、やればやるほど、稼いだ金がそのまま食費に消えてしまう。五ドルを稼いでも、飯を食えばほとんど意味がない。それに、日本食レストランは高いんだよ。だから、土曜日にちゃっかり五ドルを取りに行ったわけさ。


すると、ボロホテルで見かけたことがある日本人の男性がいて、少し前までボロホテルに住んでいたと話すその人から教わりながら五ドルを受け取ったことをノートに記入していると、長髪の男がまるで恐ろしいものを見るような目付きで僕を睨みつけていた。そして、「今からできるのか」と聞かれた僕は、「ちょっと気分が悪くて」とか「今から約束があるから」と言って、逃げるようにして帰ってきた。


それ以降、メッセンジャーのバイトはやらなかった。


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