第14話
文字数 2,588文字
翌朝、学校に行く時間になっても寝ていたので、リディアが起こしに来た。仕方なく起きてバスルームに行き、シャワーを浴びたが、Tシャツが赤茶色に染まったせいで、シャワーを浴びるのも不安だった。髪が抜けたりしないだろうか? なんとなく錆びたような匂いもした。
「いってきます」と言って外に出たけど、学校へは行かず、リディアが出掛けた頃に戻ってきて、もう一度寝た。そして、夕方に起きてテレビを見ていたらリディアが僕を呼んだ。行ってみると、キッチンで受話器を渡されて、出てみると佐藤君だった。これから行ってもいいかと聞かれ、一応リディアに確かめた。
「どうぞ! ここはもうあなたの家よ」
リディアはそう言ってくれた。
下の玄関先まで佐藤君を迎えに降りて行くと、辺りはもう暗くなっていた。自転車に乗って来た佐藤君の手には、その辺のデリで買ったカップのコーヒーが入った紙袋を持っている。そして「さっき、電話に出たおばさんのぶん買って来なかったけど、まずいか?」そう聞いてきた。
「それ、まずいよ」と僕は言った。
「やっぱり、まずいか?」
「うん」
「じゃあ、もう一つ買ってくるよ」
だから僕はこう言った。「俺のぶんあげていいよ。俺いらないから」
「なんで? 飲まないの?」
「だって、そのコーヒーまずいからさ」
「お前、それはそれで、おばさんにあげるのまずくないか」佐藤君はそう言って笑った。
エレベーターで上がり、玄関のドアを開けて中に入ると、部屋は水を打ったように静かだった。リディアは自分の部屋にこもっていたので、僕もそのまま自分の部屋へ向かった。そして、佐藤君と二人でコーヒーを飲みながら話をした。
「いい部屋だな」と佐藤君が言った。「もしまたニューヨークに来ることがあったら、次はあんなところじゃなくて、こういう感じの部屋を見つけて住みたいな」
「いつ帰るの?」
「明後日」と佐藤君が答えた。「もう少し居ようかとも思ったけど、やっぱりオーバーステイになるのも嫌だから、予定通り帰ることにしたよ」
「少しくらいオーバーステイしても平気じゃないの?」
佐藤君は首をかしげ、「どうだろうなぁ」と重々しく言った。「次にアメリカに来たときに、入国できなくなったりしたら困るしな」
その後、二人で少しテレビを見てから、佐藤君を下まで送っていった。
その夜、遅くに一人で考えた。いや、本当はもう心の中で決めていた。翌日の夜、僕は佐藤君の部屋を訪ねた。364号室のドアをノックして、ベッドの端に腰を下ろしながら、「明日、この部屋に移ろうと思うんだ」と、少し沈んだ声で伝えた。
「やっぱりシェアだと気を使うか?」佐藤君はタバコに火をつけ、燃え尽きたマッチを灰皿に落とした。
僕は肩をすくめてみせただけで、とくに理由は話さなかった。
帰りの地下鉄の中で、リディアに何て言おうか考えた。まだ引っ越して一ヶ月も経っていないのに出て行くなんて言いだすのは気が引けた。リディアはいい人だし。
帰ると、リビングは真っ暗だった。リディアはもう寝てしまったのかもしれない。彼女の部屋の前に行くと、微かにテレビの音が聞こえてきた。僕はドアをノックした。
「はい……なぁに?」
「リディア、ちょっといいですか?」
どうしたの、オーノ?」眠たそうに目をこすりながら、頭にカーラーを巻いたリディアがドアを開けて出てきた。ここを出て行くことを伝えると、リディアは悲しそうな表情を見せた。
「ごめんなさい」と僕は申し訳なさそうに謝った。
「謝らなくてもいいのよ」と失望したような顔で僕を見つめながら、リディアが言った。「ここを出て、どこへ行くつもりなの?」
「明日、友達が日本に帰るので、そこの部屋にいこうと思います」
しばらく沈黙が続いた後、彼女はちょっと考え込んでから、ゆっくりと話し始めた。「わかったわ。出て行くのはかまわないけど、保証金は返せないわよ。だって引っ越すときは、一ヶ月前に言うことになっているんですもの」
「それでいいです」と、僕は彼女の目を見上げた。
結局、ボロホテルで一ヶ月分の家賃を無駄にし、学生サポートクラブに手数料を払い、リディアに渡していた保証金も戻らず、一ヶ月も経たないうちに、家賃を払っていたこの部屋からも引っ越すことになった。
翌朝、ボロホテルに行くと、朝の眩しい光がロビーの窓から斜めに差し込んでいた。その朝日を浴びながら、三階の佐藤君の部屋に上がり、二人で下に降りてきた。そして、佐藤君がチェックアウトした364号室に、今度は僕がチェックインした。
フロントの黒人の男が僕を見た。「お前の名前なんだっけ?」
僕は笑いながら「マイネーム?オーノ」
バカだからさ、またやるんだよ、「Oh No!」てね。やりたくてやりたくて仕方ないんだ。
そして「何泊にするんだ?」と聞いた。
今度は一ヶ月分ではなくて、一週間分の家賃(百十ドルほど)を最初に支払い、364号室の鍵を受けとり、佐藤君をジョン・F・ケネディ国際空港まで見送るために一緒に地下鉄に乗って行った。
別れ際、佐藤君が吸っていたマルボロのメンソールを二つ買って渡した。
「悪いな、ありがとう」
「いいよ、コーヒーご馳走になっていたし」
「じゃあ、元気でな」佐藤君が手を差し出して握手し、彼の姿が見えなくなるまで、僕はその場に立っていた。けど、頭の中では、一人でマンハッタンまで帰れるだろうかと不安だった(来た時の逆に帰ればいいだけなんだけどさ)。
そんな気持ちのまま出口に向かい、空港の建物を出た。そしてまず最初に空港内を回る無料のバスに乗って地下鉄の駅まで行き、寒い吹きっさらしのプラットフォームで列車を待ち、入ってきたAのエクスプレスに乗り、途中でCのローカルに乗り換え、なんなくマンハッタンの『50 STREET 8 AVENUE』に戻ってくることができた。
だから、吉見政二に会った時に聞いちゃったよ。
「JFKから、地下鉄だけで帰ってこれたんですけど、なんで、迎えに来た夜、わざわざバスなんか乗ったりしたんですか?」
吉見政二はにんまり笑って、「大野君にスリルを味わせてあげようと思ってさ」と言った。
そう言われたら、ただ「そうですか」とうなずくほかはなかった。
一、二日で引っ越しを終え、364号室に移ってからは、少しずつ落ち着いて暮らせるようになった。この部屋に佐藤君が三ヶ月間住んでいたことが、僕に安心感を与えた。
「いってきます」と言って外に出たけど、学校へは行かず、リディアが出掛けた頃に戻ってきて、もう一度寝た。そして、夕方に起きてテレビを見ていたらリディアが僕を呼んだ。行ってみると、キッチンで受話器を渡されて、出てみると佐藤君だった。これから行ってもいいかと聞かれ、一応リディアに確かめた。
「どうぞ! ここはもうあなたの家よ」
リディアはそう言ってくれた。
下の玄関先まで佐藤君を迎えに降りて行くと、辺りはもう暗くなっていた。自転車に乗って来た佐藤君の手には、その辺のデリで買ったカップのコーヒーが入った紙袋を持っている。そして「さっき、電話に出たおばさんのぶん買って来なかったけど、まずいか?」そう聞いてきた。
「それ、まずいよ」と僕は言った。
「やっぱり、まずいか?」
「うん」
「じゃあ、もう一つ買ってくるよ」
だから僕はこう言った。「俺のぶんあげていいよ。俺いらないから」
「なんで? 飲まないの?」
「だって、そのコーヒーまずいからさ」
「お前、それはそれで、おばさんにあげるのまずくないか」佐藤君はそう言って笑った。
エレベーターで上がり、玄関のドアを開けて中に入ると、部屋は水を打ったように静かだった。リディアは自分の部屋にこもっていたので、僕もそのまま自分の部屋へ向かった。そして、佐藤君と二人でコーヒーを飲みながら話をした。
「いい部屋だな」と佐藤君が言った。「もしまたニューヨークに来ることがあったら、次はあんなところじゃなくて、こういう感じの部屋を見つけて住みたいな」
「いつ帰るの?」
「明後日」と佐藤君が答えた。「もう少し居ようかとも思ったけど、やっぱりオーバーステイになるのも嫌だから、予定通り帰ることにしたよ」
「少しくらいオーバーステイしても平気じゃないの?」
佐藤君は首をかしげ、「どうだろうなぁ」と重々しく言った。「次にアメリカに来たときに、入国できなくなったりしたら困るしな」
その後、二人で少しテレビを見てから、佐藤君を下まで送っていった。
その夜、遅くに一人で考えた。いや、本当はもう心の中で決めていた。翌日の夜、僕は佐藤君の部屋を訪ねた。364号室のドアをノックして、ベッドの端に腰を下ろしながら、「明日、この部屋に移ろうと思うんだ」と、少し沈んだ声で伝えた。
「やっぱりシェアだと気を使うか?」佐藤君はタバコに火をつけ、燃え尽きたマッチを灰皿に落とした。
僕は肩をすくめてみせただけで、とくに理由は話さなかった。
帰りの地下鉄の中で、リディアに何て言おうか考えた。まだ引っ越して一ヶ月も経っていないのに出て行くなんて言いだすのは気が引けた。リディアはいい人だし。
帰ると、リビングは真っ暗だった。リディアはもう寝てしまったのかもしれない。彼女の部屋の前に行くと、微かにテレビの音が聞こえてきた。僕はドアをノックした。
「はい……なぁに?」
「リディア、ちょっといいですか?」
どうしたの、オーノ?」眠たそうに目をこすりながら、頭にカーラーを巻いたリディアがドアを開けて出てきた。ここを出て行くことを伝えると、リディアは悲しそうな表情を見せた。
「ごめんなさい」と僕は申し訳なさそうに謝った。
「謝らなくてもいいのよ」と失望したような顔で僕を見つめながら、リディアが言った。「ここを出て、どこへ行くつもりなの?」
「明日、友達が日本に帰るので、そこの部屋にいこうと思います」
しばらく沈黙が続いた後、彼女はちょっと考え込んでから、ゆっくりと話し始めた。「わかったわ。出て行くのはかまわないけど、保証金は返せないわよ。だって引っ越すときは、一ヶ月前に言うことになっているんですもの」
「それでいいです」と、僕は彼女の目を見上げた。
結局、ボロホテルで一ヶ月分の家賃を無駄にし、学生サポートクラブに手数料を払い、リディアに渡していた保証金も戻らず、一ヶ月も経たないうちに、家賃を払っていたこの部屋からも引っ越すことになった。
翌朝、ボロホテルに行くと、朝の眩しい光がロビーの窓から斜めに差し込んでいた。その朝日を浴びながら、三階の佐藤君の部屋に上がり、二人で下に降りてきた。そして、佐藤君がチェックアウトした364号室に、今度は僕がチェックインした。
フロントの黒人の男が僕を見た。「お前の名前なんだっけ?」
僕は笑いながら「マイネーム?オーノ」
バカだからさ、またやるんだよ、「Oh No!」てね。やりたくてやりたくて仕方ないんだ。
そして「何泊にするんだ?」と聞いた。
今度は一ヶ月分ではなくて、一週間分の家賃(百十ドルほど)を最初に支払い、364号室の鍵を受けとり、佐藤君をジョン・F・ケネディ国際空港まで見送るために一緒に地下鉄に乗って行った。
別れ際、佐藤君が吸っていたマルボロのメンソールを二つ買って渡した。
「悪いな、ありがとう」
「いいよ、コーヒーご馳走になっていたし」
「じゃあ、元気でな」佐藤君が手を差し出して握手し、彼の姿が見えなくなるまで、僕はその場に立っていた。けど、頭の中では、一人でマンハッタンまで帰れるだろうかと不安だった(来た時の逆に帰ればいいだけなんだけどさ)。
そんな気持ちのまま出口に向かい、空港の建物を出た。そしてまず最初に空港内を回る無料のバスに乗って地下鉄の駅まで行き、寒い吹きっさらしのプラットフォームで列車を待ち、入ってきたAのエクスプレスに乗り、途中でCのローカルに乗り換え、なんなくマンハッタンの『50 STREET 8 AVENUE』に戻ってくることができた。
だから、吉見政二に会った時に聞いちゃったよ。
「JFKから、地下鉄だけで帰ってこれたんですけど、なんで、迎えに来た夜、わざわざバスなんか乗ったりしたんですか?」
吉見政二はにんまり笑って、「大野君にスリルを味わせてあげようと思ってさ」と言った。
そう言われたら、ただ「そうですか」とうなずくほかはなかった。
一、二日で引っ越しを終え、364号室に移ってからは、少しずつ落ち着いて暮らせるようになった。この部屋に佐藤君が三ヶ月間住んでいたことが、僕に安心感を与えた。