第8話

文字数 1,777文字

アッパー・ウエスト・サイドにある中世ヨーロッパの城を思わせる大きなアパートの前に来ると、守衛が立っていた。部屋を見に来たことを伝えると、その守衛はエレベーターの鉄格子のドアを古びたプラスドライバーのような道具で開け、レバーを操作して、僕は上の階にあがっていった。


八階で降りると、柔らかいランプの光が等間隔に灯り、白い壁がずっと先まで続いていて、とても素敵だった。僕は809号室を探しながら廊下を歩き、ここに住みたいと感じた。


そしてポールの部屋を見つけてノックした。ドアが開くのを待っていると、施錠を外す音がして、バスローブを着た六十代くらいの、猫を脇に抱えた人の良さそうな太った白人の老人が出てきたのだがーー。


そのとき、ドア越しにテーブルの上のシルバーのキャンドルスタンドが目に入った。ローソクの火がうっすらと輪を描きながら、部屋の中を淡い光で照らしていた。キッチンの上から猫が跳び降りるのが見え、床には何匹もの猫が身をくねらせてニャアニャア鳴いているのがわかった。こんな猫だらけのところに住めるか!と僕は思い、いかにも力尽きたかっこうで、その場にへなへなと崩れそうな気がした。


その後、ブロードウェイの公衆電話からあの女社長に電話をかけた。


『どうでしたか? 気に入ったスタイルのお部屋はありましたか?』


「ふざけんな!」と思わず言いそうになった。だが、なんとかその言葉を飲み込んだ。まあ、こんなもんかとも思ったし、疲労感が全身に重くのしかかり、これ以上探すのが面倒になって、「リディアのところにしようかと思うんですけど……」と僕は、力なく言った。精も根も尽き果てた感じだった。


56丁目の八番街にあるマクドナルドで食事をして、疲れた足を引きずりながらホテルに戻った。自分の部屋に帰る前に佐藤君の部屋に寄ると、駒田さんが来ていた。黒人の男にぶつかってビールが割れ、弁償した話を二人にしたところ、『それ、詐欺だよ』と言われて笑われた。


聞くと、僕がぶつかった黒人の男は「ボトルマン」という名の愛称で親しまれているバッドマンだとか。その詐欺の手口は、わざとぶつかってきて水の入ったビンを落とすというシンプルなもので、他にも、ケチャップマンっていうのもいるから気をつけたほうがいいよ、と二人は嬉しそうに教えてくれた。


駒田さんが「噂には聞いていたけど、ボトルマンって本当にいるんだ?どこに行けば会えるの?」と言うと、佐藤君が思わず吹き出した。


「なんか暗闇から突然現れましたけど」と答えた後、僕は明日引っ越すことを話した。「めちゃくちゃいい部屋でさ、あれを見たら、こんなお化け屋敷とてもじゃないけど住めないよ。だってここ最悪だもん」と、どこか勝ち誇ったような声で言うと、佐藤君はもう一服タバコを吸って、「ひょっとして、お前、それ学生サポートクラブに頼んだだろ?」と鼻先であしらうような顔をし始め、唇にうす笑いを浮かべながら、いくら取られたのか聞いてきた。
 

「三百ドルだけど、なんで?」


「あそこも、どうなんだろうな」と佐藤君が言った。それに対して駒田さんが続けた。「三百ドルも払わなくても、日本の食料品を売っているスーパーや、日本食レストランに行けば、ルームメイト募集の張り紙が貼ってあるのを知らなかったの?」


確かに、張り紙が貼られていることぐらいは吉見政二から聞いて知っていた。「でも」と僕は言った。「すぐにでもここから引っ越したかったんですよねぇ」


「まあな」佐藤君がタバコの火をガラスの灰皿で消しながら、わかるといった顔をした。


「落ち着いたらまた遊びに来いよ」


僕はベッドから立ち上がり、リディアのアパートの住所と電話番号を佐藤君に教えた後、二人にさよならを言って、自分の部屋に戻った。


翌朝、ホテルをチェックアウトする際、僕が一番心配していたのは、お金が返ってくるかどうかだった。フロントの黒人の男にお金を返してくれと頼むと、彼は「申し訳ないが、それはできない」と言った。


「一ヶ月分払ったのに?二泊しかしてないんだよ」と僕は言った。


黒人の男は首を横に振った。「ダメだ、返すことはできない」


押し問答が続いたが、結局それ以上どうすることもできなくて、僕は降参するように両手を上げて、こんなところ二度と来るもんか!と思いながらタクシーを拾い、リディアのところへ引っ越していった。



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