第9話

文字数 1,794文字

スーツケースを部屋に運び入れたあと、リディアが建物内を案内してくれた。


ゴミはわざわざ一階まで捨てに行かなくても、六階のダスト・シュートから下に落とすことができた。それから、地下のランドリーを見に行くと、十台ほどの洗濯機と乾燥機が置いてあった。こちらでは、男性も女性もコインランドリーを使い、時間のない人はお金を支払って洗濯屋に頼むこともある。


建物の外に出て、近所のスーパーを案内してもらうために歩道を歩いていると、リディアが話しかけてきた。日本のどこに住んでいたかとか、これから通う英語学校がどのへんにあるのかといったことを。それに答えながら歩いているうちに、近所のスーパーに着いた。リディアは棚に陳列された商品の中から「ベストフーズ」と書かれた瓶のマヨネーズを手に取り、サンドイッチを作る時はこれを使えと、瓶にキスをした。その後、隣のドラッグストアに向かった。


リディアがじっと僕を見つめ、尋ねる。


「アー ユー バージン?」


「ノー」


この物語はフィックションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり……


リディアが重ねて尋ねる。「ほんとに?」


きまりの悪い思いでリディアに目をむけ、僕が口ごもっていると、リディアが言った。「オーノ、ニューヨークでセックスする時は必ずコンドームを使いなさい。わかったわね!」すると、周りで買い物しているおばさんたちが一斉に僕に向かって大きく頷いた。


つまり、当時はエイズがはやっていて、ニューヨークはその最たるところだった。


部屋に帰り、リディアがいなくなると、部屋の静けさがひどく退屈だった。テレビはリディアの部屋にしかなく、退屈し始めた僕は、キッチンの壁にかかっていた電話の受話器を手に取り、財布からロドニーの電話番号が書かれた紙片を取り出して、電話をかけることにした。ロドニーというのは、ニューヨークに来る前(カリフォルニア州にある大学付属の英語コースを退学になった後、日本に帰ってきて)、西荻窪の小さな旅行代理店兼留学センターでアルバイトをしていた時に一緒に働いていたアメリカ人で、彼がニューヨークに帰るときに電話番号を教えてもらったんだけど、ブルックリンの友達夫婦のところに転がり込むって言ってた。だから、僕に教えてくれたのはその夫婦の家の番号なんだよ。なので、彼がいるかどうかはわからないけど、とりあえずかけてみた。


呼び出し音のコールの後、留守番電話の声が流れてきた。『ただ今留守にしています。ピーという発信音のあとに御用件をお願いします』僕は英語でなんてメッセージを残せばいいのかわからなかったから、ロドニーの名前を連呼した。


「おーい、ロドニー いないの?」


すると、アメリカ人女性が電話口に出てきた。


『ハロー?』


「あ、ロドニーいますか?」


彼女は『ロドニーは今ここにはいないわ。彼の仕事場の電話番号を教えるから、そちらにかけてみて』と言った。


電話を切り、彼女から教えてもらった番号にかける。呼び出し音が鳴り、『会社名を名乗るアメリカ人女性が電話に出る』


「ロドニーいますか?」


『ごめんなさ、あなたは?』


「オーノです」


受話器の奥で、女性がロドニーに向かって言っているのが聞こえる。『オーノですって、誰なの?』そんなやり取りの後、ガタッと受話器を置く音がする。そして、受話器を拾い上げる音がして、ロドニーが電話に出る。僕だとわかって、笑えるくらい嫌そうな口調で、


「Oh~ no~」


と言った。


二年近く日本にいたにも関わらず、くだらない日本語しか話せないロドニーとは英語で話した。と言ってもくだらない英語だけどね。


「元気? 俺今ニューヨークにいるんだけど」


『ワット?』ロドニーが言った。『ホワイ?』


それを聞いて受話器を落としそうになった。「ホワイ?」と僕はオウムがえしに言った。


『ああ、オーノ、何しに来たんだ』


何しに来たのか、自分でもぜんぜんわかんなかったから、


「アイ ドント ノー」


『ユー ドント ノー?』と、ロドニーが言って『電話口の向こうで、ロドニーが歌を口ずさんでいた♪』


それを聞きながら僕は、「ねえ、ロドニー」


『ワット?』


「テレビが欲しいんだけど」


『テレビが欲しい?』


「うん」と僕は言った。「買うのに付き合ってよ。どこか安いところ知らない?」


『チャイナタウンだ。あそこが一番安い』


明日の午後三時、キャナル通りとモット通りの交差点で落ち合うことにした。



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