第14話 家出少女・沙耶 その2

文字数 5,872文字

 話が弾む二人。沙耶は上機嫌だった。

 言葉にこそしなかったが、沙耶はずっと、悠人のことを兄のように思い、慕ってきた。
 そして実際に会い、話していくうちに、自分が思い描いていた通りの人物だったことに、喜びを隠し切れずにいた。

 何より悠人は自分を認めてくれる。ネットでもそうだった。意見が違い激論を交わすこともあったが、最終的にはそれがまた新たな信頼を生む結果になっていった。今もまた、悠人は自分のネットにおける存在同様に、北條沙耶を認めてくれている。受け入れてくれている。それが何より嬉しかった。




 沙耶の生まれた北條家は、旧華族の流れを引く名家だった。外務次官の父と、父が大使時代に出会ったノルウェー人を母に持つ。

 子供の頃から優秀で、中学卒業と同時に特例で大学に通うことになった。頭脳明晰な上に美貌の持ち主である一人娘に、両親は期待した。沙耶自身、自分が頑張ることで両親が喜ぶ、そのことが嬉しくて頑張った。

 しかし交友関係はよくなかった。子供の頃からずば抜けて頭のよかった彼女を、同世代の子供たちは畏敬の念で見ていた。女子からは嫉妬の対象として、そして男子からも近寄りがたい存在として見られ続けてきた。大学に入り、自分のこれまでを振り返った時、同世代の友人が一人もいなかったことに改めて気付いた。

 それはいつしか、勉学だけに勤しんできた彼女にとっての最大の弱点となった。
 コミュニケーション能力の欠如だった。言いたいことを素直に伝えることも出来ず、周囲の視線を恐れる余り、自分をいくつもの仮面で覆い隠していくようになっていった。

 他人の自分を見る目に対する恐怖。もし自分が優秀でなかったら、もし自分が北條の人間でなかったら、自分には何が残るのだろうか。自身の喪失感にさいなまされていくうちに彼女のストレスは大きくなっていき、16歳になる頃には外出も出来なくなっていた。

 一人部屋の中に閉じこもるようになった彼女にとって、ネットだけが唯一、世界との接点になっていった。他者との関わりを拒絶はしたものの、やはり何かしらの形でつながっていたいという自然な思いからだった。初めは見るだけだった。書き込むことなど出来なかった。情報の海を漂っていく中、彼女は生まれて初めて、自分から学んでいきたいと思えるものに出会った。それが「ゲーム」や「アニメ」だった。

 これまで彼女が学んできた世界の摂理、常識、方程式にとらわれることなく、自由な発想で開拓していける世界に彼女は感動した。

 特に彼女が感銘を受けたのが、恋愛系のものだった。これまで他者とのコミュニケーションがままならず、恋愛などしたことも憧れたこともなかった彼女にとって、何気ない日常から始まる出会い、ときめきは新鮮だった。彼女が恋愛シミュレーションゲームにたどり着くのに、そう時間はかからなかった。
 やっていく内にこれもまた奥が深く、一つのフラグミスが大きく道を変えていくそのルールに彼女は没頭し、のめりこんでいった。そしてそんな中、ゲームのレビュー等に書き込むようになっていった。

 自分が書き込むレビューに対し、他人が反応してくれることが何よりの喜びへとなっていった。一つ間違えると叩かれることもあったが、それ自体が彼女にとって新鮮な人間関係であった。

 見る側から書き込む側へ。ついに彼女はブログを立ち上げた。

 ブログ名は「カーネルの(ささや)き」。それは沙耶が一番好きな映画「地獄の黙示録」からとったものだった。彼女のハンドルネームは「カーネル」。主役のカーツ大佐の生き方、人生の無常観、欲望、絶望、そして生きることを選択する上での葛藤。何もかもが彼女は好きだった。だからあえて、ゲームとは全く無縁ではあるがその名を用いることにした。そうなれば当然、性別は男になった。

 ネットの世界では、リアルの肩書きも経歴も、年齢も性別も何もかも必要なかった。ただ自分が信じることを書き連ねていく。賛同されれば受け入れられ、否定されれば容赦なく叩かれる。

 この世界で沙耶は生まれて初めて、自分の力だけで生きていることを実感した。北條家の力もここでは何の役にもたたない。それが嬉しかった。沙耶はあらゆるゲームを攻略し、その攻略ルートをUPした。そしてレビューを書き続けた。
 沙耶のレビューは辛口なコメントが多く、そして救いようのないほどの上から目線だった。それが話題になっていき、沙耶のブログはいつも盛況だった。悠人もその住人の一人になっていた。

 そんなある時、あるアニメで、ヒロインが主人公の思いを知りながら告白を断ったシーンを取り上げ、沙耶がヒロインを徹底的にぶった斬った。そのコメントに異議を唱えたのが遊兎(ゆうと)――悠人だった。今の関係が壊れることを恐れて放ったヒロインの詭弁だ、そう沙耶が言った言葉に悠人は反発した。

「関係が壊れることを恐れるなら、告白を拒否したことで壊れることは容易に予想出来る。しかし彼女はそれさえも恐れなかった。心から彼を愛するがゆえに、彼の思いを拒絶したとしか考えられない。自分の思いすらも殺し、彼の幸せのために全てを犠牲にする彼女の思いは利己的でもなんでもない」

 しばらくブログ上で激論が交わされることとなった。沙耶も自分の分析を是とし、悠人に対して徹底的に戦った。悠人もなぜか引くことをせず、それは数日間続いた。

 そんな中、沙耶の中に悠人に対してある種の「敬意」が芽生えてきた。悠人の洞察力、他者に対する思い、他者の気持ちを感じようとする大きな心。それらはこれまで、沙耶のリアルの人生において出会ったことのないものだった。悠人もいつしか、激論の本質よりも、カーネルという一人の人間への興味が強くなっていった。カーネルが信じる生き方、他者との関わり方には、悠人も共感するものが少なからずあった。

 いつの間にか悠人も沙耶も、激論を交わしている本題の事よりも、ブログ上で互いに語り合うこと自体に楽しみを感じるようになっていった。

 数日後、沙耶は一方的に悠人に対して「休戦」を申し入れた。そしてこの話題はともかくとして、今後互いにここで共存していかないかと提案した。悠人もそれを受け入れ、互いにアドレスを交換した。こうして二人はブログを通じて出会い、友情を深め合うことになっていった。

 メールでは主に、沙耶が悠人に対して相談事を持ちかけることが多くなった。それは沙耶が悠人を「兄」のように思い、慕う気持ちが芽生えたからなのかもしれなかった。悠人もそれを受け入れ、日に一度程度のメール交換が2年ほど続いていた。



 そんなある日、沙耶は父から、復学するようにと諭された。

 もっと北條の家を大切に考えて欲しい、外務次官という父の立場も分かって欲しい、そう告げられた。その瞬間、沙耶の中にあった何かがはじけ、壊れていった。父にとって自分は北條家の長女、それだけでしかないのかと嘆いた。やるせなさ、憤り、悲しみが交差した。

 そして沙耶は決意した。ネットの世界と同じく、自分の力で生きていきたいと。全てのしがらみを捨て、新しい人生を歩みたいと強烈に思った。

 沙耶は悠人に事情は一切話さず、ただ会いに行くとだけ伝えた。一人で生きていくとはいえ、これまで社会との関わりを拒絶してきた沙耶にとって、頼れる唯一の存在が悠人だった。悠人の返事は「歓迎する」だった。沙耶は狂喜した。

 沙耶の母は、一人娘の動きをそれとなく感じていた。だが彼女は、沙耶の人生は沙耶に選ばせたい、そう思っていた。だから彼女は沙耶の不穏な動きにも一切関知せず、ただ沙耶が家を出る日に、

「サーヤ、私はどこまでもあなたの味方ですよ。お父様もあなたのことを、心から愛しています。だからあなたが、見たこともない世界で生きることに本当に心配していました。でもあなたは行ってしまう。なら私たちは、あなたの船出を応援しようと心に決めたのです。バッグの中に僅かですが、あなた名義で貯めてきた通帳が入っています。大切に使ってください」

 そう言って沙耶を抱きしめた。沙耶はその時、生まれて初めて母の胸で泣いたのだった。




「で」

 沙耶が口を開いた。

「メールにも書いてあった通り、私はしばらくこの家にやっかいになる。問題はないな、遊兎」

「あ……ああ、そのことだが沙耶、お前に先に話しておかなくちゃいけないことがあるんだ」

「なんだ、問題があるのか」

「いや……まず俺はお前を男だと思ってたから、ここに泊まることを了承してたんだ。だけど会ってみればお前はその……女でしかも未成年で……幼女ではないがその……」

 沙耶が顔を真っ赤にしながら、両手で胸を隠した。

「き、貴様、今私の胸を、胸を見たな!私の胸を見て幼女という単語を連想したな!な……なんと無礼な……」

「いやすまん、幼女という単語は消去してくれ」

「かあああっ!」

 沙耶の蹴りが悠人の腹に直撃した。

「……ったく……どいつもこいつも、何かと言えばすぐに女の価値を乳で判断しおって……まだ私の乳は発育中なのだ。見ていろよ遊兎、あと数年後には、お前も目をみはるほどの重量感でもって悩殺してやろうぞ、あっはっはっはっ」

 沙耶が、残念無念な胸を突き出して声高らかに笑った。

「……それでな、沙耶」

「なんだ、乳以外で何か問題でもあるのか」

「いやそうじゃなくて……おまえな、年頃の女の子がこんなおっさんの家に泊まり込んで……そのなんだ、危機感とかはないのか」

「なんだ危機感とは」

「いやだから……俺も一応男なんだが」

「お前は私に何かするつもりなのか」

「そんなことはないが」

「なら問題なかろう。まぁ無理もないがな、39歳魔法使いの家に、いきなりこんな女神が降臨したのだからな。私の魅力の虜になったか」

「いやいやいやいや」

「そこは否定ではなく肯定だ、遊兎」

「肯定して欲しいのかいっ……で沙耶、泊まるにしてもいつまでなんだ」

「そうだな……少なくとも、家が見つかるまでの間は世話になるぞ」

「家……って、そりゃどういうことだ」

「そのままの意味だ。私はここを今後の活動拠点にするつもりだ。言ってなかったか」

「初耳だ、お前まさか、家出でもしてきたのか」

「かあああっ!」

 再び沙耶の蹴りが腹に入った。

「細かい詮索はなしだ。とにかく私はここで生きていくのだ。だから……なんだその……遊兎よ、出来ればお前には……力になって……欲しいのだ……
 その……私は一人でも生きてはいけるのだが、何分にも不慣れな土地でな……おまえがいてくれれば何かと心強いというか……」

 小声で話す沙耶を見て、悠人は何かしらの事情を抱えていることを感じた。

 だがそれを聞こうとはしなかった。誰にでも事情はある。それより大切なのは、彼女が自分を信じて頼ってきてくれたことだ。傲慢で、上から目線のカーネルそのままの沙耶だが、本心がありありと見てとれた。それはまさしく、ネット上でも悠人が感じていたことだった。

 本当は不安で不安で仕方がない。だが絶対にそれを口にはしない。むしろその度に逆の言葉を放ってしまう。それが俺の知っているカーネルだ。今目の前にいる小さな女の子は、まさしくカーネルだった。



「分かったよ」

「え?」

「分かったって言ったんだ。事情は分からないけど、親友がそこまで俺を頼ってくれてるんだ。放っておく訳にもいかないだろ」

 そう言って悠人が沙耶の頭を撫でた。

「あ……」

 沙耶の表情が強張ったが、次の瞬間、安堵の笑みに変わった。

「あ、またやっちまった、すまん……」

 悠人が慌てて手をどけようとした。しかしその手を沙耶がつかんだ。

「よい、遊兎よ……おまえには私の頭を撫でることを許可する。お前にはその権利があるからな」

「権利って、何だよそれは……」

 笑いながら、悠人はしばらく沙耶の頭を撫でた。撫でられながら沙耶は、その手にぬくもりを感じていた。

(遊兎の手は温かい……)



「……で、だ。お前がここで住む家を探すと言うのは分かったが、いかんせん、さっきも言った通り、俺は男だ。それでなんだが沙耶、家が見つかるまでの間、隣で住むってのはどうだ」

「どういうことだ」

「いやな、勿論オッケーをもらった訳ではないんだが、隣にはお前の一つ上の女の子が住んでるんだ。おまえがその気なら、明日にはその子……弥生ちゃんもいてるから、俺の方から頼んで」

「弥生ちゃん……だと……」

 沙耶の目が光る。

「遊兎貴様、まさかその女と……乳くり合う仲なのではあるまいな」

「って、話がいきなり飛躍してるぞ沙耶。弥生ちゃんとは何だその……そういった関係ではない。ただ親しくさせてもらってるお隣さんってだけだ。どうだ、お前も女同士の方が安心だし落ち着くだろ?」

「断る」

「秒殺かよ」

「遊兎がそう言う女だ、さぞ善良なのだろう。だが、だからこそ好かん。それに遊兎よ、この土地でお前以上に信頼出来る人間など、いる筈がないであろうが」

「いや、信頼してくれるのは嬉しいんだが……」

「四の五の言わずともよい、私は当分の間ここで過ごすことに決めているのだ。もうこの話はおしまいだ、いいな遊兎よ」

 腕を組み目を伏せ、沙耶が言い放った。観念した悠人が大きく溜息をついた。

「遊兎よ、溜息一つで幸せが一つ消えたぞ」

「あ、ああ、そんなことも言われているな」

「遊兎の残り少ない幸せが一つ無駄に消えたのだ、親友としては放っておく訳にもいくまい。私が一つ幸せを分けてやろう」

「え……」

 そう言うや否や、沙耶が悠人の頬にキスをした。

「な、な、な……」

「ふふふっ」

 少し頬を赤らめて、沙耶が笑った。

「私のお母様のおまじないだ。私はこうやって、たくさんの幸せをお母様からもらっていた。それを分けてやったのだ。これから世話になる大切な友人への感謝を込めてな。ありがたく受け取るがいいぞ」

「お、お前なぁ……」

 真っ赤になった悠人が、動揺を隠せずにうろたえた。

「なんだ遊兎、キスぐらい挨拶のようなものであろう」

「いやいやそれは外国だから」

「お母様はノルウェー人だ」

「外国のお母様かよ……」

「あまり意識されるとその……なんだ……こちらまで恥ずかしくなってしまうではないか……」

 照れだした沙耶が、指を交差させながらうつむいた。



 お茶を一杯飲み干し、少し落ち着いた悠人が改めて沙耶に言った。

「……で、だ。沙耶、この家にしばらく住むことは了解した……が、もう一つお前に言っておくことがあるんだ」

「なんだ遊兎、まだ何かあるのか」

 その時だった。

 玄関の鍵が開いて、小鳥の声が家に響いた。
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