第40話 インフルエンザ その5

文字数 4,221文字

 ドアを開け、深雪が小鳥と共に部屋を出た。小鳥の目は真っ赤になっていた。

「落ち着いたかね」

「はい…すいませんでした、いっぱい泣いちゃって……」

「気にすることはない。辛い話だったからね」

「いえ……ほんと、聞いてくれてありがとうございました。それに深雪さんのこと……深雪さんの、その……話まで聞かせてもらって、すいませんでした」

「いや、聞き苦しい話ですまなかった。他人にここまで話したのは初めてだったのだが、私も少し心が軽くなったようだよ」

「本当にありがとうございました」

「大丈夫かね?」

「はい。おかげで気持ち、軽くなりました」

「またいつでも来たまえ。歓迎するよ」

「はい」

「今日の話は二人の秘密だ。誰にも言わないから安心したまえ。じゃあ、少年のところに戻るとしよう」

 そう言って二人が階段を上ったとき、エレベーターが開いた。

「小鳥ちゃん?」

「菜々美さん」

 中から、大きなコンビニ袋を持った菜々美が現れた。

「小鳥ちゃん、悠人さんは?具合はどう?」

「お見舞いに来てくれたんですか」

「うん。迷惑だって分かってるんだけど、どうしても気になっちゃって。寝てるようなら、これだけでも置いていこうと思って」

「わざわざすいません」

「小鳥くん、こちらの女性は?」

「悠兄ちゃんの会社の方で、菜々美さんです。菜々美さん、この人は深雪さん。下の階の人で、悠兄ちゃんの看病を手伝ってくれた人なんです」

「はじめまして」

「なるほど、君が会社の……」

「その声……今朝、電話で」

「ふむふむ、君も少年病の患者の一人か。いやはや、少年は罪深い男だね」

 そう言って深雪が小さく笑った。




 中は何やら騒がしいようだった。大きな物音と悠人の声が聞こえる。

「悠人さん、起きてるみたいですね。よかった……」

 小鳥がドアを開けた。

「え」

「あ」

「これはこれは」

 目にした光景に、小鳥と菜々美が呆然とした。深雪は腹を抑えてくっくと笑う。
 玄関先で、沙耶と弥生が悠人に馬乗りになっていた。上半身をはだけた悠人が、ズボンをつかんで抵抗を続けている。

「……悠兄ちゃん?」

「こ、小鳥……助けてくれ……」

「遊兎、助けてくれとは人聞きが悪いぞ」

「そうです悠人さん、私たちはただただ、悠人さんの身を案じ看病を」

「これのどこが看病だ!ただの集団レイプだ!」

「だめえええええっ!」

 菜々美が割って入る。

「なにしてるんですか、沙耶さんも弥生さんも。悠人さんは病人なんですよ」

「だからこうして、献身的に看病しているのではないか」

「おおっ、半裸の男の前に新たな女体、これはこれでよい展開……」

「菜々美ちゃん、来てくれたのか……俺はもう……ダメだ……ここまでかもしれない……」

「ぷっ……」

 玄関先で、小鳥と深雪が同時に吹き出した。

「あはははははっ」

 その笑い声に菜々美たちも、そして悠人も思わず動きを止めた。

「悠人さん、こちらのセクシーなお姉さまは?」

 弥生の好奇心が深雪に向いた。

「あ、ああ、こちらは下の階の深雪さん。俺が昨日倒れた時、助けてくれた人なんだ」

「弥生くんと言うのか、こちらのお嬢さんは。いやはや少年、もてない世の男たちがこの光景を見たら、一体何と言うのだろうね」

「そんなこと言ってないで深雪さん、助けてください」

「いやすまない、あまりに面白い光景なもんでね。沙耶くん、弥生くん、それに……菜々美くんだったね。レイプはまた後日にして、彼を解放してあげてくれたまえ。随分元気になったようだが、まだ熱はあるからね」

 そう言って深雪が、悠人の上に乗っている三人を一人ずつ起こしていく。

「この様子から見るに、君たちは少年の体を拭こうとしてたのかね」

「うむ」

「ならここは間を取って、私がするとしよう。この空気だと、私以外の人間がすると争いの元になりそうだ」

 最後に悠人を立たせると、

「お邪魔するよ」

 そう言って、深雪は悠人を連れて寝室に入った。

「さあ、座りたまえ」

「いや深雪さん、散々世話になっておいて、流石にそこまでは」

「なら、あの肉食女子たちに頼むかい?」

「いや、自分で出来ますから」

「そう言うな、これでも私は元看護師だからね。乙女たちはひとまず隣にいたまえ」

「私、お茶入れます。悠人さん、何か飲めますか?」

「じゃあ頼もうかな」

「こんな時は生姜湯がいい。菜々美くん、あるかね」

「勿論です」

「じゃあ折角だ、人数分用意してくれたまえ」

「菜々美さん、私も手伝います」

「ありがとう、小鳥ちゃん」

「ならば私は湯飲みを出すぞ」

「お湯を沸かすのは私めに」

「じゃあ弥生くん、45度ぐらいのお湯も頼めるかな、洗面器に」

「了解であります、ビシッ!」

 弥生が洗面器を持ってくると、深雪は襖を閉め、悠人の背中をタオルで拭き出した。

「……すいません、こんなことまでしてもらって」

「病人の特権というやつだよ。どうだ、気持ちいいかね」

「はい、これだけでも気分が楽になります」

 上半身を拭き終わると、タオルを悠人に手渡した。

「後は自分で出来るね」

「あ……はい、すいません」

「着替えを持って来てもらうよ」

 そう言って深雪は出て行った。細かい気配りに悠人はますます、不思議な魅力を深雪に感じていた。




 一騒動終わり、菜々美と弥生は帰っていった。悠人は沙耶にも戻るように言ったが、どうしても首を縦に振ろうとしなかった。

「さて……」

 深雪が口を開いた。

「私もそろそろ御暇(おいとま)するが、小鳥くんに沙耶くん、君たちは今日もここで寝るつもりなのかね」

「はい」

「無論だ。遊兎をこのまま置いてはおけぬ」

「微熱まで下がったとはいえ、彼の症状はインフルエンザだ。うつったら事だぞ」

「大丈夫です。私、予防接種は受けてます」

「同じくだ。それに例え受けていずとも、病ごときを理由に所有物を見捨てることなど、あってはならぬのだ」

「全く君たちは……」

 深雪が苦笑した。

「いいだろう。だが、しっかりうがいはするんだぞ。あと寝る前に一度、部屋を換気しておきたまえ。少し寒いが、空気を入れ替えておいた方がいい」

「色々ありがとうございました」

 小鳥が頭を下げた。

「じゃあまた明日、様子を見にこさせてもらうよ。少年、ゆっくり休むことだ。油断したらまたぶり返すからね。あと、食欲がある時にしっかり食べておきたまえ。こういうのは体力勝負だ」

「落ち着いたら、改めてお礼にうかがいます」

「楽しみにしてるよ。じゃあ」

 玄関先までついてきた小鳥の肩を叩き、小さく笑うと、深雪は部屋に戻っていった。




 その後、小鳥と沙耶は一緒に風呂に入った。湯船につかると、疲れがどっと出てくるのが分かった。

「小鳥、お前も随分と疲れているようだな」

「そういうサーヤも、自慢のお肌に荒れが見えるよ」

「なにを言う、私の美貌は、これぐらいでどうこうなる物ではない」

「ふふっ。でも悠兄ちゃん、元気になってよかった」

「そうだな、やつのあんな姿、あまり見たくはないものだ」

「私たちって、いつも元気なのが当たり前って思ってるけど、実はその当たり前には、何の根拠もないんだよね」

「うむ。病に落ちて初めて、その当たり前のありがたさを感じることが出来る。昨日遊兎があんな風になって、遊兎が遠くに行ってしまうかもしれない、そう思ったら……不安で体が震えてしまった……
 まだやつとは何もしていない。やっと出会えたのだ、まだまだこれから、やつのことを知りたいし、私のことも知ってもらいたい。もし今、ずっと続くと信じている日常が崩れてしまったら、きっと私は後悔する……そう思った」

「サーヤの言葉は、いつも深いね」

「なにを言うか小鳥、お前もだぞ。もう大丈夫なのか」

「うん……ごめんねサーヤ。悠兄ちゃんのために動かなきゃいけない時に、足を引っ張っちゃって」

「他人行儀な遠慮はなしだ。小鳥、私たちは友なのだぞ」

「友……」

「そうだ。お前は私にとって、生まれて初めて対等に向き合ってくれた、大切な友なのだ。遊兎を巡ってはライバルでもあるが、私にとっては小鳥、お前も大切な仲間なのだ」

 その言葉に、小鳥が思わず沙耶を抱きしめた。

「……小鳥?」

「ごめんサーヤ。私最近、悠兄ちゃんにどんどん近くなっていくサーヤに嫉妬してた……悠兄ちゃんの恋人になるライバル、一緒に頑張ろうなんて言ってたのに、サーヤに対してすごく嫌な気持ちを持ってた……」

「小鳥……それは私とて同じだ」

「え……」

「お前は私を何だと思っているのだ。聖人君子でもあるまいし、恋敵に嫉妬しない者など、いるはずがないだろう。私は遊兎を自分のものにしたい。それは誰にも負けたくない。無論お前にも……だがな、それと同じぐらい、お前も大切なのだ」

「サーヤ……」

「そのことを教えてくれたのは他でもない、小鳥、お前なのだぞ」

 沙耶が姿勢を正した。

「だからあらためて……これからもよろしくお願いします」

 そう言って、沙耶が深々と頭を下げた。沙耶を見る小鳥の瞳から、ポロポロと大粒の涙があふれてきた。

「私こそ……サーヤ……」




 二人が風呂から上がると、部屋には既に三人分の布団が敷かれていた。

「布団敷いといたぞ。それから空気の入れ替えもしておいたから」

「遊兎、無理するでない。私たちを待っていればよいものを」

「いや、これぐらいはリハビリだよ。ずっと寝っぱなしで、あちこち固まって痛いしな」

「ならマッサージしてやるぞ」

「いやいや、今日はいいよ。まだ復活にはほど遠いから、そのまま襲われたら抵抗できそうにない」

「悠兄ちゃん、ごめんね」

「小鳥、元気戻ったみたいだな」

「え?」

「いや、どうも心配かけすぎたみたいだったから。俺はもう大丈夫だからな」

「……」

「小鳥にはいつも笑ってて欲しいんだ。小鳥の元気が、俺の元気の源だからな」

 そう言って悠人が笑った。小鳥は悠人の前にちょこんと座ると、そのまま悠人に抱きついた。

「ごめんね、悠兄ちゃん……」

「俺もごめんな。これからはもっと、体には気をつけるから」

「うん……」

「沙耶もおいで」

「遊兎……」

「お前にも迷惑かけまくったからな、ありがとう」

 小鳥の横に座った沙耶も、悠人の胸に顔を埋めた。

「バカ者が……二度と心配かけるでないぞ……」

 沙耶の瞳からも涙が溢れてきた。小鳥と沙耶の涙が悠人の胸を濡らす。



 悠人が二人の頭を優しく撫でる。その手の温もりに、二人は心から安心感を覚えた。
 一気に疲れが出たのか、三人は布団に入ると、すぐに眠りに落ちていった。

 悠人の手には小鳥と沙耶の手が、しっかりと握られていた。
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