第3話 夫婦

文字数 3,853文字

沙織との出会いは、何の特別感もなく、普通に出会った。
職場の部下で、それほど美人ではなかったが、明るく元気で少し抜けてる感じの印象だった。
いわゆる職場恋愛だ。アプローチは沙織の方からだった。
洋一は、口下手であまり女性とプライベートで話す事はなかったが、沙織はそんな洋一によく話しかけてきた。
こちらが聞いたわけでもないのに、沙織の家族関係や友人の話などを聞かされているうちに、洋一も話をするようになり、自分でもよく分からないうちに付き合うことになった。
正直、すごく好きだったかと言えば、嫌いではない程度で、逆に煩わしいと思うところもあったが、別に、断る大きな理由になるわけでもなかったので、そのまま付き合った。
沙織は一途ではあったが、世の中で言えば、少し重い女であった。
連絡しなければ怒るし、嫉妬心も強い。
会社には付き合っていることは言っていなかったが、沙織の態度で気づいた同僚もいた。
そもそも、洋一は執着心もあまりなく、独占欲もない人間で、なぜ沙織が怒っているのか理解出来ない部分も多かった。
「私の事、本当に好きなの?」
と、事あるごとに詰め寄られ、いい加減、そういう所が鬱陶しいと思いながらも、別れたらそれこそ面倒だなという思いもあった。
けれど、嫌いと言うわけではなく、洋一なりに好きだったし、親に付き合っている人がいることがしれたときも、迷わず紹介した。
嫌いではなかった。愛情の温度差はあるが、結婚を考えるほどには真剣に接していたし、事実、同居から2年後には結婚した。
そこからは、沙織の嫉妬心や独占欲はなりを潜め、穏やかになった。
沙織曰く、紙切れ1枚の話であっても、洋一が自分の夫になったことで、不安がなくなったと言うことらしい。
その頃には、沙織は転職し、違う会社で働き始めた。
元々、やってみたい仕事だったらしく、家に帰っても仕事をしている様だったが、それも楽しそうだった。
家事も分担した。
食事とお金の管理は洋一が、その他を沙織がする。
お互いが無理なく仕事が出来るように、話し合って決めたことだ。
そのうち、沙織は役職に就き、中間管理職になった。
洋一もその頃に転職した。今で言えば、ブラック企業さながらの残業時間や仕事量に心配した沙織が、洋一の転職を希望したからだ。
給料は下がったが、その分休みも取れ、残業がなくなったことで、二人で過ごす時間もとれるようになった。
子供はいなかったが、2人での生活も悪くはなかった。
沙織は子供を欲しがったが、こればかりは、運を天に任せるのみだ。
そんな生活が何年も続いた。
だが、今から2年前、突然、沙織の様子がおかしくなった。
出勤時間になると、過呼吸を起こすようになっていた。
頭痛や目眩、動悸や神経痛など、毎日のように体調不良を訴えた。
その度に病院に行くが、結局、原因が分からず、ストレスせいの物だろうと言われていた。
しかし洋一は、それほどの事とは考えていなかった。ストレスは誰にでもあるし、体調が悪いときだってある。
そういう時期なのだと思ってあまり気にもしていなかった。
それが大きな間違いだった。
段々と生気を失っていく沙織にも気づかず、仕事に行きたくないと訴える度に、厳しい言葉をかけた。
それは、沙織を鼓舞する意味もあったが、何よりも沙織の立場を考えたからだ。
責任ある立場の者が、気が進まないというだけで、仕事を休んでいては、部下に示しが付かない。そうなれば、沙織は余計に気に病むだろうと思った。
何度か急に休みを取ったときも、やはり、腹立たしかった。後からの結果に泣きを見るのは沙織なのだ。
しかし、一向によくならない沙織は、自分から精神病院へ行きたいと言い出した。
その時は、病院へ行ったところで、沙織自身が変わらなければ、仕方がないのにと思いながらも、病院へ連れて行った。
そこで下された診断は、鬱病だった。
近年、良く聞くようにはなったが、まさか自分の近くで聞く事になろうとは。
医者からは2ヶ月の休養を取るように言われ、沙織は2ヶ月、休職することとなり、それが原因で、役職も下ろされた。
沙織にとっては、痛恨の極みだろう。何年も会社に尽くし、病気になった途端に役職を下ろされたのだ。
しかし、その原因を作ったのは本人であり、洋一が何とかしてやれる物ではない。
休職中の2ヶ月は、殆ど家にこもったまま、何日も家事をしない日が続いた。
誰とも会おうとせず、1日中家の中で動画を見て過ごしていた。
洋一が仕事に行った後も、何度か過呼吸が起き、電話をしてきた日もあったが、仕事を抜けられる訳もなく、家でじっとしているように言うしかなかった。
少し気分の良い日は、近所のスーパーへ出かけたり、散歩に出ることもあったようだ。
その間も、死にたいだとか、苦しいだとか訴えていたが、洋一には何も出来ない。医者ではないのだから。
ましてや、それが心の病とくれば、本人の気の持ちようであって、他の誰にも救えないのだ。
洋一はただ、見守ることしか出来なかった。
正直、心の病など、甘えだと言う気持ちもあった。洋一にだって、きつい日も、落ち込む日もあるのだ。
それを全部、心の病だと言えば休めるなんて、昔では考えられないし、昔の人が耐えられていたのに、なぜ、今の時代の人間が耐えられないのかという疑問もあった。
そういう思いがあったからこそ、沙織が言うことに本気で向き合おうとは思わなかった。
そうはいっても、無視したわけではない。話を聞き、アドバイスをし、後ろ向きな事を言えば、前向きになれるように言葉をかけた。
家事が出来ないからと、責め立てるようなこともしなかったし、休みの間は好きに過ごさせた。
2ヶ月の休職の後、何とか職場には復帰したものの、やはり休む事が多く、結局仕事を辞めた。
その後4ヶ月間、失業手当をもらいながら、体調の良い日悪い日を繰り返しながら、過ごした。
正直、家計は厳しかったが、本人がやる気を出さないことには、どうしようもない。
家計を切り盛りしながら、沙織が仕事を決めるのを待った。
仕事が決まったのは、失業手当が切れる寸前であった。沙織自身も働かなくてはいけないことは理解していたし、重い腰をやっと上げた感じだったが、職場の環境が変わったせいか、休む事も殆どなくなり、笑顔も増えていった。
重要な仕事も任される様にもなったと言っていた。前ほどの仕事力がなくなったと嘆いてもいたが、沙織自身、文句を言いながらも、楽しんでいるように思えた。
その矢先、あの出来事が起こった。
いつものように家に帰ると、そこに待っていたのは・・・・
最初は寝ていると思った。部屋中の電気もついておらず、真っ暗な家に帰宅し、また調子が悪いのかと、寝室の扉を開けると、ツンとする独特な匂いにまず、吐き気を催した。
何だか、嫌な予感がして灯りを付け、吐き気を我慢しながらベッドまで近づき、沙織の体を揺すって見たが、反応がなかった。顔は青白く、意識もない。枕元には大量の薬の空とコップが投げ出されていた。
慌てて救急車を呼び、病院へと搬送したが、薬を多種大量に飲んでおり、2日後、懸命の処置にもかかわらず、息を引き取った。
沙織には妹が一人いたが、その妹にも責め立てられた。ここまでになる前に、何故、気づかなかったのかと。
それは洋一が一番知りたい。病気は安定し、仕事も普通に出勤していたし、家では笑顔でいることも多かった。それなのに、何故、自殺なんてしたのか分からない。
段々と冷たくなっていく沙織に問いかけてみても、応えてくれることはない。
葬儀が済み、家の中を色々探してみたり、スマホの中を見てみたが、遺書らしき物は、何1つ残ってなかった。日記を書くタイプではなかったので、もはや何も分からない。
モヤモヤした日々が続いた。忌引きが明け、会社に戻っても、何だか上の空で集中できない。
会社の同僚や友人からお悔やみを言われる度、何だか他人事の様に挨拶を返した。
そして納骨を済ませ、色々落ち着いてくると、やっと自分と向き合う時間が出来た。
何が間違っていたのか。沙織は何を思って自殺したのか。
そんなことばかり、考える日々になった。
おまけに、沙織の存在をいやという程、思い知らされた。
普通に恋愛して結婚し、段々と空気のような存在になり、歳を重ねて行くうちに、沙織の存在の大きさを考えてもみなかった。
口下手な自分の代わりによく喋り、いつも側にいたがった。たまには喧嘩もしたが、それでも、次の日には何もなかったかのように、また明るく話をする。
不満が溜ると、率直に、かつ冷静に洋一にぶつかってきた。
洋一の作る料理をおいしいといって、文句も言わずに食べていた。
そんな沙織が自分の元から、この世から消えてしまった。
もっと自分に出来ることがあったのではないか。もっと沙織に優しくしていれば、違ったのではないか。
もっと沙織と向き合っていれば良かったのではないか。
そんな後悔ばかりが湧いてくる。
いなくなった途端に、沙織の存在が恋しくなった。
いる時には、そんなこと考えもしなかったのに。
当たり前が幸せだなんて、気がつきもしないで、自分は取残されてしまった。
何ヶ月も悩み、考え、そのうち沙織が死んだのは、自分のせいだと思うようになった。
一番近くにいて、見ていたはずの自分に罪があると。
その思いは消えることなく、洋一を支配した。
そして、洋一はその思いに耐えきれず、死に場所を探すことにした。
沙織もこんな思いだったのかもしれないと思いながら。
そして、今日、この場所にたどり着いたのである。

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