第5話  亡くし者 1

文字数 3,923文字

つまらない過去を思い出しながら、静佳は大きくため息をついた。
久々に、気持ちが重くなった。自分の愚かさや、空しさが心を一杯にしていく。
ふっと母を見ると、何をするでもなく、じっと水平線を眺めている。
「お母さん、逆に、私に言うことはないですか?」
ちょっと口調がきつくなっているのは今し方思い出していた過去のせいだろう。
「そうね。静佳に言いたいことは沢山あるけど。静佳が聞きたい事を聞いてくれたら答えるわ。どんな質問でも。」
(なんだ、それ・・・)
結局、静佳が話さないことには、何も進まないのか。
「私の人生、返せますか?」
「うん。返したいけど、それは出来ない。時間は戻せないから・・・」
「では、なぜ私の人生を決めてきたのですか?全てお母さんの言う通りにしてきたことが、私を不幸にしました。」
「私にとって、静佳や優は自慢であって欲しかった。」
自慢・・・とは?
「母さんの自慢にするためだけに、私達はあんな思いをさせられたという事ですか?」
「そうね、極論、私のエゴだったのよね。」
腹の底から、怒りがこみ上げる。静佳は冷静さを保とうと必死になるが、気持ちを抑えられない。
「私達はお母さんのエゴの為だけに、あの年月を過ごしたって言うの!?」
「静佳が敬語を使わないのは、子供の頃以来ね・・・。」
母の言葉にハッとして口を押さえる。また怒られる。
「いいのよ。もう。私は存在しないのだから。静佳の喋りたいように喋れば。」
母のその落ち着いた態度にも、口調にもイライラしてくる。
なぜ怒らない、なぜ罵らないのか静佳にはそれが不快で堪らなかった。
「私は、学歴もお金も何もなかった。家族からも見下されて、何にもない自分が嫌だったのよ。それでも離婚するまでは、それに不便はなかったのだけれど。離婚して、あなたたち2人を私だけで育てる事になった時、静佳のお婆ちゃんに言われたの。どうせ、あんたにはまともな子育ては出来ない。だから孫は置いていけってね。」
遠くを見ながら、母が話す事は、初めて聞いた話だった。確かに、静佳は親戚に会った記憶は数少なく、しかも子供の頃のものだ。
「私の価値はなくても、静佳達には価値を与えたかった。そのためには小さい頃からの教育が大事だと必死になっていたのよね。敬語が使えれば、人に良い印象を与えられる。成績が良ければ、将来、どんなことだって出来る。そう思って始めたことなのに、どこからか、道を間違えた。」
そう思おうとしたことがある。母は私達のために、厳しくしているのだと。しかし、静佳はそれが苦痛でしかなく、それを母の愛だとは思えなかった。思いたくなかった。
「私は中卒で、手に職もなくて、嫁いだ男は酒乱で・・・ただ、静佳達を授かった事だけは、幸せだった。私が唯一、手にした幸せを手放したくなかった。でもやり方が、分からなかった。」
どんな理由であっても、静佳達を虐げたことに変わりはない。母がどんな境遇であったとしても。
そんなことを話されても、母の愛に実感は湧かなかった。
「私は、静佳達の幸せを考えていたつもりが、いつの間にか、欲深くなってしまったのよね。」
「私達の幸せ?違うでしょ?お母さんの幸せでしょ?自分が満足したいだけだったじゃない!」
こちらがいくら感情を露わにしても、母は変わらず微笑んだままで、何を考えているのか読み取れない。
それでも、声に出さなくてはならないほど、静佳は怒っていた。握りしめた拳に砂がめり込んでくる。
「そう。私の幸せに変わっていたのよ。静佳達が私の言うことを聞いて、良い成績を取る度、私の教育のおかげだと。静佳達が悪い成績を取れば、私は否定された気がして、腹が立った。良い学校に入れば、私の周りの人の目も変わった。それがいつの間にか快感になっていたのね。」
「私達は、母さんのエゴのために、どれだけ苦しんだか理解してる?その頭でしっかり考えた?母さんがしたことは、私達の人生を自分の理想に仕上げただけ。私達の理想じゃなくて、母さんの理想に、よ!」
「うん。そうね。ここにきて、よく分かったの。人生なんていつ終わるか分からない。死んでから気づいたって遅いけど。それでも、私はあなた達に自分の価値観を押しつけただけで、静佳の幸せも優の幸せも、私が作れるって思い込んでいただけで、死んだ後、私には何もなかった。自分の価値も理想も、そんな物、ここでは何の意味もない。私という物があるだけで、何にも意味はない。」
「何が言いたいの?」
「つまりね、肩書きや価値は生きている時に必要な物で、死んでしまったら、何にもならないの。そんな中で自分の事を思い出していたら、私がしたことの意味が何だったのか分からなくなった。人間の寿命なんて短い物なのに、私は静佳達にその人生を楽しむことを教えるべきだったと。静佳達がやりたいことを、やらしてあげるべきだったと思ったの。静佳達は私ではないのだから」
「そりゃそうでしょ。なんで生きている時に気づかないの?なんで私達の声に耳を傾けなかったの?」
「私は正しいと思っていたからよ。」
正しい・・・正しいとは何なのか。母の正しいは、私にとっては正しくない。ではなぜ母は正しいのか?
「今でも私のやったこと全てが間違いだとは、正直思っていない。あなたたちの人生に少なくとも、肩書きを与えてあげられた。でも私に心があるように、あなたたちに心があることを、忘れてしまっていた。そこが間違いだったのね。例え親子でも、静佳達の気持ちは別にあることを忘れてしまった。」
気づけば、母は微笑みながら、涙を流していた。母の涙など、見たことがない静佳は少しひるんだ。
「信じてもらえなくてもいい。私は確かに間違えた。あなたたちの人生を支配してしまった。これからも、きっとその影響はあると思う。でも、それでも私はあなたたちを心から愛していたし、今も愛している。静佳はいつも私の期待に応えてくれた。それがどんなに辛いことでも。だからもっともっとって、欲張りになってしまった。それが静佳を不幸にしてしまった。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
急に感情的に話す母に戸惑う。母は謝り続けるが、どうして良いか分からない。
「今更、そんなこと言われても・・・・困る・・・」
「どんな言い訳をしても、静佳達に時間を返してあげることは出来ない。それに何の償いも出来ない。今更、後悔しても仕方がないけど、お婆ちゃんの言うとおりだったのかも。」
「私は友達を作りたかった。話したり、イベントに参加したりしたかった。彼と、結婚したかった。確かに学歴も、経歴も人よりは優れているかもしれない。でもそれだけで、何もなかった。いつも良い子でいることを求められたから、そうしただけ。でも、そこに私の意思はない。」
争うのが嫌いだった。怒られるのも怖かった。だから、ただ指示に従っている方が、楽だった。
でも、それが母を増長させたのかもしれない。
争ってでも、自分を貫き通す自信や勇気があれば、少しは違った人生になっていたかもしれない。
「私は褒められたことがないから、どこまでやっても自信もないし、後輩が出来ても、褒める箇所か分からない。だから、周りからはいつも距離を置かれる。それを指摘されても、直し方も分からない。自分の価値すら分からない。そんな思いをしていることに、母さんは気づきもしなかった。」
「そうね。気づかなかった。」
「正直、私は母さんが死んだ時・・・・」
そこで言葉が詰まる。これは誰にも話してない静佳の心の底の思いだったから。そして、今までそのことを、静佳自身が恥じていたから。
「私は・・・・」
自己嫌悪と自分への失望感が、どうしても言葉を遮る。
「良いのよ。言っても。大丈夫。ここには私達だけしかいないのだから。吐き出して仕舞いなさい。ここで全部。」
それでも心は迷う。言葉にすることで、自分の思いを肯定してしまいそうで、怖かった。
「私は、母さんが死んで悲しかった。自分でもこんなに悲しくなるとは思わないぐらい、辛かった。」
母は何も言わず、うんうんと頷いて聞いている。
「でも・・・・同時に思ったの。私・・・・私、ほっとしたの!母さんが死んで、皆が泣いてるときに、あぁもうこれで自由になれるって。楽になるんだって。心からほっとしたのよ!自分の母親が死んだのに、私は腹の底で、ほっとしてた。最低な自分を見たくなかったのに、そんな自分に気づきたくなかったのに!」
後半から言葉と一緒に涙があふれ出る。静佳は自分の心の汚い部分をその時、初めて自覚した。きっとずっと心にあったのだ。母が死ねば楽になると、どこかで思っていたことに気づいてしまった。
母の葬式の読経が鳴り響く中で、泣きながらも、ほっとした自分がずっと、許せないでいた。
「そう・・・そうだったの。静佳は間違ってない。そう思われても仕方ないことを私がしたのだから。静佳が悪いわけじゃない。ゴメンね。死んでまで静佳を苦しませて。私は静佳にそれを聞いたからって、怒ったり、悲しんだりしない。むしろ申し訳なく思ってる。だから、もう苦しまないで。」
「でも、私は・・・私は・・・」
「人として間違ってると言いたいの?静佳は間違ってない。間違ってる事に気づかなかった私の方が何倍も罪深い。ほっとしたって事は、静佳が自分を取り戻しただけのことなの。自分の気持ちを、正直な気持ちを思いだしただけ。だから、静佳は悪くない。」
そう言いながら、母は私を抱きしめる。母の腕に抱かれたのは、いつぶりだろう。こんなにも温かい物だったのか。流れの止まらない涙をそのままに、静佳は泣き続けた。今までの感情を全て吐き出すように。
母は静佳の背中をさすりながら、一緒に泣き続けた。
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