第4話 過去 2

文字数 5,080文字

意識のない間、母と弟が見舞いに来ていた。
母はこの状況を見ても、離婚には反対した。体裁が悪いからと。夫婦の喧嘩くらい、どこにでもあるし、自分もそれに耐えたのだと。自分は結局、離婚したくせにとは言えなかった。それでも、警察が介入してくると、さすがに状況が悪いと思ったのか、離婚に同意し、社会人になっていた弟と住むことにした。
それは弟からの提案でもあったし、私も弟となら気が楽だと思ったからだ。
弟はまだ結婚しておらず、私と同じく、外資系の会社に勤め、役職をもらうほどには出世しているが、結婚すれば嫁に来た人が可哀想だと、未だに独身でいる。まだ若いので、そう急ぐ必要もないだろうが。
弟は就職も急がなくて良いし、居たいだけ居て良いと言ってくれた。弟だけはいつも私の味方だった。
そしてそれが何よりも私の支えだった。だからといって、弟にいつまでも甘えるわけには行かない。
夫からそれなりの慰謝料はもらっていたし、当面の生活は何とかなりそうという事もあり、私は怪我が完治したら、ここを出ようと決めていた。
仕事や家を探しながら、弟の家の家事を申し訳程度に手伝う日々を送っていたある日、母から連絡が来た。
朝、玄関で転げて頭を打ったという内容だった。取りあえず、病院に行く様に言っておいたが、2日後、母からまた連絡があり、調子が悪く、気分が悪いという。
仕方なく、準備してそちらに行くので、病院へ行こうと言って電話を切り、支度して実家へと向かった。
電話がかかってから2時間ほどは経過していたと思う。
私が実家に帰ったとき、母はベッドに仰向けに寝ていた。いくら呼んでも返事をしないことに異変を感じ、側によって確認した。息をしていなかった。
慌てて救急車を呼び、弟に連絡を取った。なれない人工呼吸をしても、一向に息を吹き返す様子はなく、パニックになりながら、救急隊員の到着を待つ。その時間は何時間にも感じられた。
救急車で病院に運ばれてから、1時間後には死亡宣告がなされた。くも膜下出血だった。その後は、警察の現場検証や、葬儀の準備に追われ、母が亡くなった実感のないまま、数日を過ごした。
しかし、時が経つほどに、後悔が胸を締め付ける。
早く行っていれば、頭を打ったときに、病院に連れて行っていれば、私が一緒に住んでいれば・・・・
そんな思いと、もう一つの思いが心の中に澱の様に溜っていく。
それから2年、私は立ち直れず、弟の世話になりながら、派遣社員として働いた。やる気も起きなかったが、何かしていないと気が狂いそうだった。
何度も自殺を図り、失敗しては後悔する。病院では、鬱病と診断され、派遣にも行けなくなり、無職の状態で何ヶ月も過ごした。入院と退院を繰り返しながら。それを支えてくれたのは弟だった。仕事をしながら、私の薬や食事の管理まで。どれだけ負担だっただろう。それを思えば申し訳なく、死にたくなる。弟は密かにモニターを付け、仕事をしている間にも、私が自殺したりしないか、様子を見てくれていたのである。
そんな弟に助けられて、ゆっくりではあるが、快方へ向かっていった。
そんなある日、彼に再会した。本当に結婚したかった彼だ。
気分の良い日に散歩する道に、今まで気にはなっていたが、入ったことのない本屋があった。今風のカフェにも似た小さな本屋。場違いな気がすると思い、足が向かなかったが、その日は思い切って入ってみることにした。本の数は多くはないが、落ち着いた雰囲気の本屋で、店主が厳選した本が置かれており、表からでは見えなかったが、奥にはドリンクスペースがある。綺麗に並べられた本をおもむろに見ていた。そこへ声をかけてきたのが、彼だった。
何も変わらない優しい顔で・・・・
「久しぶりだね。」
と。恨まれても仕方のない別れ方をした彼が、何も変わらずに声をかけてくれたのだ。
驚くと同時に、戸惑った。返事が出来ず、固まってしまった。
「迷惑だったかな?」
「えっ・・・いや、そういう訳では・・・」
「変わらないね、その口調。」
微笑むその姿は、何も変わっていない。少し歳は取ったが、あの当時のままの瞳。
「なんでここに・・・」
私は別れてからの彼の事は全く知らない。少しでも知れば、決心が揺らぐ気がして、様子を見に行ったことすらなかった。そんな彼が、何故か今、私の前にいる。
「優君に。君のことは優君から聞いていたんだ。ずっと。」
優から・・・つまり、弟から私の話を聞いていたという事だろう。
「ずっとって・・・・」
「取りあえず、ここを出ないか?座って話そう。」
彼は私の手をためらわずに握って、近くのカフェまで連れて行った。
久しぶりの彼の手は温かく、その温もりだけで、涙が出そうになる。自分がいかに彼を愛していたのか、確信させられる。何年も経っているのに、私から手を離してしまったのに。
手を握ったまま、飛び込んできた私達に、カフェの店員も一瞬、戸惑った表情をしたが、すぐに笑顔で席まで案内された。
お互い向かい合った形で座り、私は今更、恥ずかしくなって、コーヒーを注文した後、うつむいていた。
「ごめん。僕がふがいないばかりに。」
突然、彼が私に謝る。私は頭を上げて、彼の顔を見る。
「なぜ、謝るのですか?私が謝るべきでは?」
逃げたのは私だ。彼を突然突き放し、消息を絶ったのだから。それなのに、何故謝られているのか、分からなかった。
「優君に全部、聞いているんだ。優君を責めないで。僕が無理を言って、聞き出した事だから。」
そこまで話したところで、コーヒーが運ばれてきたので、二人とも押し黙った。
全部聞いているとは、どういうことなのだろう。
「君が突然、いなくなって、優君なら何か知ってると思って、連絡したんだ。最初は知らないって言われてたんだけど、何度も話しているうちに、教えてくれたんだ。君がなぜ、僕の元を去ったか。なんとなく予想は付いていたけど、辛かった。」
コーヒーに口を付け、一呼吸置いて、また話始める。
「君が、お見合いで結婚したことも、その後のことも、優君から聞いて知ってる。君の知らないところで、僕達は連絡を取り合っていたんだ。だけど、君に会う勇気がなくて、会ってもまた辛い思いをさせるんじゃないかって、いやこれは言い訳だな。本当は怒っていたんだ。僕を捨てた君を。」
静かな声だが、その目は真剣で、口数の少なかった彼が、一生懸命話していることは伝わってくる。
「一緒に乗り越えようと思っていたのに、君は何の相談もせずに、僕の前から消えて、見合いして結婚して。そんな話を聞く度に、自分が嫌になったよ。腹もたった。君にも、君のお母さんにも。でも、優君から君が死ぬかもしれないと言われたとき、僕は、どんなに君に会いたかったのか悟ったよ。」
少し顔が赤いのは、自分が言った言葉が、恥ずかしかったのだろう。
「一度だけ、君の病院に行ったんだ。どうしても我慢できなくて。ベッドに横たわる君の痛々しさと、また会えなくなるかもしれない気持ちで、怖かった。でも、君が回復して、優君の家に落ち着いたって聞いて、会いに行こうと思っていたら、君のお母さんが亡くなって、君が精神的に弱ってるからって優君に止められたんだ。だから、今日出会ったのは、偶然ではなく、優君に聞いていたからなんだ。この辺りを散歩してるって。」
そういうことかと納得した。別に弟に腹は立たなかった。弟は浅はかな人間でも、私を裏切る人間でもない。
弟はきっと、よかれと思ってやったことだろう。
しかし、だからどうしたというのだろう。私のこれまでを知って、なぜ会いに来たのだろうか。恨み言でも言いに来たのかと思ったが、様子が違う。
「何故、会いに来たのですか?私はあなたに恨まれても仕方ないと分かっています。でも、話を聞いている限り、文句を言いに来たというわけではないようですが・・・私に何か他に言いたいことでもあるのでしょうか?」
「君に会いに来たのは・・・」
歯切れが悪い。罵倒して、罵ってもらった方が分かりやすい。言葉を濁されると、困ってしまう。
「僕が君に会いに来たのは、もう一度、始められないかと思って・・・」
・・・・・?????
始めるとは?何を?
「ははっ混乱するよね、さすがに。急すぎるか。というか怖いかな。自分でもこんな男、怖いと思うよ。」
今までの話の内容からすると、やり直そうと言っている事は理解出来ている。
ただ、なぜそんなことを私に言えるのか、分からない。私には彼に愛される資格なんてないし、彼とはとっくに終わっている。気持ちはどうあれ、彼の気持ちが分からない事に混乱していた。
「君と別れて、他の人とも付き合った。でも、いつも君が頭をちらついて、忘れられなかった。優君に連絡することも、何度も辞めようと思った。君が結婚したと知ってから。でもそれも出来なかった。ちゃんと別れなかったからかな。さよならも言わずに、消えてしまったから、僕の中から、君が消えてくれなかった。」
私がけじめを付けずに別れたせいで、彼は私から解放されなかったのか。
私が離れれば、彼を解放できると思っていたのに、それが、彼を苦しめていた?
とにかく、あの時のことは、ちゃんと謝らなくては。
「ごめんなさい。私の行動であなたを過去につなぎ止めているのだとしたら、謝ります。本当に申し訳ありませんでした。」
「いや、謝って欲しいわけじゃないよ。僕は、もう一度君と恋愛を始めてみたいんだ。友達からでも良い。君を縛るつもりはない。僕も、君のことをまだ本当に愛しているのか、執着なのか分からない。それでも、君ともう一度、始めたかった。出会いから。」
「それの意味が分からないのです。どうして私なんかとまた付き合いたいのですか?また捨てられるかもとか、自殺するかもとか考えないのですか?それとも、私に復讐がしたいのですか?」
それなら納得も行く。私に復讐するなら、今度は彼が私を捨てれば良い。
「違うよ。復讐したいなら、君が結婚すると知った時にやってる。君にまだ少しでも僕の入れる隙があるなら、考えてみてくれないかな。」
私はすっかり冷め切ったコーヒーを口にした。もしこれが復讐なのだとしても、それは私のせいだ。勿論、傷つくのは怖い。だが、彼に会ったときの自分の気持ちは、自分がよく分かっている。
きっと私は彼がまだ好きなのだ。けれど、ここで返事をするのは、はばかられた。
「少し、考えさせて頂いても良いでしょうか。」
「勿論。時間はかかってもかまわない。無理を言っているのは僕だから。もし、無理ならそれでもいい。だから、今度は逃げずに、話して欲しい。」
コーヒーを飲み干すと、二人で席をたった。外はすっかり、暗くなっている。
少し離れがたい気持ちを抑えながら、彼と別れる。
彼の後ろ姿を見ながら、私はこれからどうしたら良いのかを考え始めていた。

それから3日、弟からも話を聞いた。実際、二人は頻繁に連絡を取り合っていたらしく、彼がどれほど、私を心配していたかを聞いた。私が入院した理由を聞いたときは、今にも夫を殴りに行きそうな勢いで憤っていたという。そんな話を聞けて、少し嬉しかった。弟は、決して復讐なんかじゃないと思うよ、姉さんのことを本当に大切に思ってるように感じるから、もう一度信じてみたら、お母さんはもういないんだからと、私の背中を押してくれた。
それでも、自分が彼に対してしてしまったことや、今の精神状態を考えると、また彼を傷つけるのではないかと不安にもなる。迷った。どうするべきか、答えが出ない。数学の様に正しい答えがあれば、どんなに楽か。人の意見だけ聞いて、それにしたがっている事に慣れすぎて、自分で答えを出す癖がない。
それでも、考えた。考えて考えて、出した答えは、始めてみようだった。
間違いでもいいから、彼の側でもう一度、始めて見たいと思った。
私は彼の連絡先を聞いていなかったことに、後から気がついたが、弟に聞いたらすぐに連絡してくれた。
私は、もう一度始めてみたいですと話、彼はそれを喜んでくれた。
そして5年後、籍を入れた。二度目の結婚だ。誰に反対される事もなく、豪華ではないが、小さな結婚式も挙げられた。子供はいなかったが、彼は変わらず、私に優しく尽くしてくれる。私もそんな彼を心から愛している。
母が死んでから手にした幸せ。それでも、時々、私の記憶に母が現れては、苦しめる。私の中に刻み込まれた母への思いが、私を話してはくれなかった。
幸せを感じれば感じるほどに、母への罪悪感は増す。それに気がつかない振りをして、毎日を送る。
それが今の私の人生だった。
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