第3話 過去 1

文字数 4,686文字

母は私が8歳の時に離婚した。父の記憶は朧気だが、いつもお酒を飲んで酔った姿が思い浮かぶほど、お酒を飲む人で、仕事も何をしていたかは知らない。離婚してからは、母も父の話をしなかったし、私も聞かなかった。元々、祖父が島の出身で、退職を機に島に戻る時、母も一緒に島へ渡り、父と出会って結婚したのだというのは聞いた様な気がするが、その間に私と弟が生まれ、結局、離婚をして祖母の故郷へ戻ってきた。母に引き取られた私達は本州で生活することになった。
始めは、見たことの無い高い建物や、車や人の多さ、言葉の違いに驚きや喜び、戸惑いもあったが、シングルマザーの母が1人で2人の子供を育てるのは、楽ではなく、生活もカツカツだった。私は、その頃からお小遣いをもらった記憶はない。文房具などは与えられていたが、唯一、玩具を買ってもらえるのは、誕生日だけだった。母は深夜帯の方が時給が良いからと、深夜帯で仕事をし、私と4つ下の弟は2人で夜、留守番をしていた。
母は離婚してから人が変わったように、私達に干渉し始めた。まずは言葉遣い。常に敬語で話すことを強いられた。もちろん方言などは矯正され、標準語で話すように言われた。
周りからは褒められる事も多かったが、中には子供らしくないという人もいた。
それから、学校の成績。小学校の通知表など、当時は出来る、出来ないのような単純な物ではあったが、テストなどは100点を取るのが当たり前で、それ以下の点数を取ると、まるでゴミを見るような目つきで、ため息をついた。同級生は塾へ行く中、私達は独学でそれを維持しなくてはならなかった。
一度だけ、私は52点という点数を取ったことがある。丁度、小学校5年生の時だ。
苦手な家庭科のテストだった。家庭科など、受験には関係ない科目ではあるが、母は許さなかった。
体が大人に変化していく多感な時期で、発育の良かった私を裸にして、外に放り出された。
幸い、隠れる場所があったから良かったものの、何もなければ、大変なことになっていただろう。
それからは、勿論それが恐ろしくて、必死に勉強をした。参考書や、ノート類は買ってもらえたので、何とか、成績は維持できていた。
中学になると、母がそれなりの役職に就き、ある程度生活に余裕が出来るようになると、私は塾に、習字に、マナー教室に、ピアノにと多くの習い事を押しつけられた。毎日のように何かに通い、休む暇などない。
習い事が休みでも、家で勉強するのが当たり前で、そんな私には友達を作る余裕もなかった。
どんなに良い成績を取っても、コンクールで良い賞をとっても、母は褒めることはなく、それくらい当たり前だというような顔をしていた。何故、母がこんなにも成績にこだわるのか、考えたこともあったが、聞いたことはない。怖くて聞く事が出来なかった。母は私の中では恐怖の対象でしかなかったのだ。
高校は市内でトップクラスの公立へ進学した。義務教育の時のようには行かない。成績は順位を決められ掲示される。そのトップにいつもいなくてはいけないプレッシャーは生半可な物ではない。私は元来、天才ではなく凡人なのだ。それがトップを維持するのは、毎日の勉強と、教科書の丸暗記のおかげだ。テスト範囲の教科書を丸暗記するほど、勉強していた。寝る時間も惜しんで。それでも、自我を保てていたのは、弟の存在が大きかった。私1人ではない。弟も同じように勉強を強いられていたから、2人で心を支え合いながら、当時は生きていた。それがなければ、とっくに人生を諦めていたかもしれない。
試験の日が恐怖で仕方なかった。胃は痛くなるし、頭も痛くなる。発狂しそうなほどの心持ちで毎回テストを受け、その結果が出るまで、落ち着かなかった。
試験後、同級生が夏休みに、海だ花火だと浮かれている時も、冬休みに、クリスマスだ正月だと騒いでいる時も私は勉強で、楽しい思い出など残ってもいない。クラスメイトに話かけられるのは、テスト前の数日、分からない事を聞いてくるぐらいで、それ以外では、空気のような存在だった。学校の先生達からは、品行方正だの、優等生だのと褒められてはいたが、何も嬉しくはなかった。
勿論、恋愛などとは無縁で、好きな人さえいなかった。
大学は、奨学金で地元の有名大学へ進学した。母の元を離れたくて、他県の大学への進学も考えたが、それはお金がかかりすぎるという理由で却下され、人が聞けば分かるぐらいには有名な大学が地元にあったが故に、私の進路はそれ一択にされた。これも母の願いだ。そこに私の選択肢はない。
大学へ無事に合格し、経済学部に進んだ。別に学びたかった訳でも、夢があったわけでもない。そこしろと母に言われたからに過ぎない。
それでも、今まで勉強していた物とは違って、新しく得る知識は少し楽しい気分もあった。
そして、そこで初めて私は恋をした。大学2年の夏。1つ上の先輩で、いつも図書室の同じ席で本を読んでいた。その席は私がいつも座る席の斜め前の席で、よく見る人だな・・・と思っていたら、ある日声をかけられた。
小さな声で。
「よく会うね。毎日来ているの?」
笑顔で、まっすぐに私を見ている瞳が印象的で、声も優しかった。
異性にそんな風に声をかけられたのが初めてで、うろたえて答えられずにいると、
「邪魔したかな?」
と、少し照れたような顔で笑ったので、
「そんなことないです!」
と、大きな声を出してしまい、一気に注目を集めてしまった。
そんな出会いから半年。いつの間にか私は彼と付き合うことになった。母には内緒で。
彼は、名前を小林拓斗といい、地元の出身で普通の会社員の長男。本を読むのが好きで、物静かではあるけれど、一緒にいて、本当に落ち着く人。
最初のうちは、私が敬語を使うのをやめてほしいと、彼に言われたが、家庭の事情を話すと、理解してくれた。
彼は、母とは違い、私に選択肢を与えてくれた。行きたい場所や食べたいもの、欲しいものや挑戦したい物、何かをする時は必ず、聞いてくれる。
それも、彼なりの心遣いだと分かっていた。
「選ぶことになれないとだめだよ。自分の人生だから」
と。そんなこと言われたのは初めてだったし、恋も初めてだったこともあって、彼に夢中になっていった。
成績が落ちてしまうほどに・・・・。
母は、喚き罵声を浴びせたが、彼のことだけは、絶対に話さなかった。
成績が落ちたからと、彼の存在を知られれば、きっと別れなさいと言われるに決まっている。
だから、彼のことは、弟以外には話していなかった。
成績さえ戻せば、母は追求してこないだろうと、必死に成績を戻した。
彼のことは、大学卒業までバレることはなく、私は主席で大学を卒業し、外資系の会社に就職が決まった。
これには、母も満足だったようだ。
就職を機に、私は一人暮らしを始めた。弟を残すことに抵抗はあったが、何かあったときの逃げ場になればとも考えた。
電車で40分ほど実家からかかる距離に、マンションを借り、少しずつ荷物を増やしていった。
彼との交際も上手くいっており、26歳になった頃、お互いが結婚を意識し始めた。彼は、地元の出版社に入社し、収入も安定してきたし、お互いに貯金もそこそこ貯まったのも、要因の一つだ。
しかし、最大の難関は母である。干渉はしなくなったものの、この結婚を許すかどうかが問題だ。
彼は、それでも母に挨拶に行こうと言ってくれた。ちゃんと許可を取ろう。許してもらえるまで2人で頑張ろうと。
だから私も勇気を持って、母に挨拶をしに行った。事前には話しておいたが、案の定、母の機嫌は悪かった。
その理由は、彼の仕事だ。確かに私よりも収入は低い。しかし、彼は夢だった出版社の仕事に誇りを持ってやっているし、そんな彼を私は好きだった。
それでも母からしてみれば、私の会社には、家柄も収入もいい男性が多くいるのだ。その中から選ばず、彼を選んだことが気にくわない。
母は彼に、年収から、家族構成まで聞き出し、その度に嫌みめいた言葉を口にする。聞いている私の方が泣きそうになるほど、ひどい言葉を浴びせる。
「私は、この人と結婚したいです。今まで母さんの言うことを全部聞いてきました。これだけは私のわがままを許してはもらえないでしょうか?」
そう言っても母は首を縦には振らなかった。
それから、何度も母を訪ねたが、無駄だった。それどころか、母は勝手に、彼の実家へ話をしに行き、彼の両親まで怒らせてしまい、二人とも神経をすり減らし、彼はどんどん衰弱していった。
私は、そんな彼の姿に、別れを切り出した。彼は反対したが、これ以上彼を傷つけたくない、彼と彼の家族を不仲にさせたくないという思いから、彼との縁を切った。
会社も転職し、家も引っ越し、電話番号も変えた。
それから2年後、私は母が選んだ見合い相手と結婚をした。好きでも嫌いでもないその人と。
気持ちもないのに、結婚するのは申し訳ないとは思ったが、もう自分から恋愛をして結婚することを諦めていた。夫になったのは、それなりに大きな会社の社長の次男で、母の眼鏡にかなうほどの収入と、見栄えを持っていた。しかし、考えれば分かることだが、そんな高スペックな男性が、損得なしで、見合い結婚するのには理由がある場合が多い。そう、夫には女性と長続きしない理由があったのだ。それは暴力。機嫌が悪いと、すぐに手が出る。
今までも付き合ってきた女性はいたようだが、夫の暴力に耐えきれず、皆離れていった。訴えられなかったのは、夫の両親がお金で解決していたからだと、後から知った。
私の家柄は底辺であっても、それなりの学歴と職業があり、母が知人から持ってきたお見合いだった。
つまり、良いとこのお嬢様では、夫に嫁がせられないというか、嫁いで問題になる方が確率的に大きかったのだ。
けれど、いい年の男が独り身でいるにも、世間体が悪い。そこに私が見合いを受けたのだ。
良い鴨だと思ったことだろう。夫は結婚するまでは優しかったし、暴力を振るうことはなかった
結婚式を挙げて、新居に引っ越してから、豹変したのだ。
夫の希望で仕事を辞め、専業主婦になって、家のことは全て私の仕事となったが、生活費は月に5万しかもらえず、自由なお金はなかった。言うことを聞く事にはなれていたが、さすがに、友人などを招いて、頻繁に家でパーティのようなことをされては、5万では食費が持たない。最初はお金をもう少し入れて欲しいと訴えもしたが、殴られるばかりで、一向に増えない。仕方なく、自分の貯金を切り崩しながら、やりくりしてはいたが、それでも、料理の内容や、私の受け答えが気に入らないと、友人達が帰った後に暴れ出す始末。
次の日には冷静になるのか、謝ってお土産やプレゼントを買ってきたりはするが、結局、また殴る。典型的なDVだ。それでも、3年耐えた。どこにいても、自由がないのは同じだから。
しかし、3年目にして、私は入院するほどの大けがを負った。多くの打撲と、夫が蹴った肋骨が折れて、肺に刺さり、一時は意識不明の状態だった。目が覚めたのは3日後。普段は見えないところしか殴らないし、人前では良い夫を演じていたのに。
夫の友人のホームパーティーで、飲み過ぎて酔った夫を連れて帰ろうとしたことがきっかけだった。まだ飲みたいといった夫を止めたのだ。他の友人に迷惑がかかると思い抑制した事が、夫の逆鱗に触れた。その後は、周りが制止するのも聞かず、殴って倒した私を蹴り続けた。血を吐いて意識を失った私を見て、友人の一人が救急車を呼んだらしい。だが、状況が状況なだけに事は大事になった。
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