第7話 生きる

文字数 1,488文字

気がつくと、目の前には木々の間から、木漏れ日の差す風景が飛び込んできた。
何だか、頭の中に靄がかかったかのように、ぼーっとする。
少し湿った感触のする地面に手をついて、その場に立ち上がる。
長い間、夢を見ていたような気がするが、確かに沙織を抱きしめたときの温もりが、まだ残っている。
だが、その前後があやふやで、沙織以外の誰かに会ったような気はするが、記憶を探しても、見つからない。
随分と森の中を歩き回り、そして建物を見つけたことまでは思い出せる。
ただ、そこで何があったのかだけは、ぽっかりと抜けていた。
しかし、沙織に会い、話したことだけはちゃんと記憶にある。
何か落ち着かない気分になりながらも、辺りを見回した。
ここは・・・・
奥の方に、小道らしき物が見える。舗装はされていないが、獣道でもなく、人が歩ける道のようだ。
取りあえず、ここにいても仕方がないので、その道へ出てみることにした。
草があるだけで、足下も安定しているせいか、随分と歩きやすい広場?らしき場所から、その道へ出ると、そこは、森の入り口だった。
あんなに歩き回ったのに・・・
同じ所をグルグル回っていただけなのか、そこは洋一が森に入った時に通った道だった。
ここをまた、通るなんて考えてなかったな・・・
本来なら、洋一はこの森のどこかで、人知れず死んでいるはずだった。
車に置いた遺書が見つかれば、死んだ後に発見されていたかもしれないが、自分の足で、この場所に戻ってきたことが、少し照れくさかった。
きっと今日洋一の身に起きたことを、誰かに話したとしても、誰も本気では受け取らないだろう。
それでもいい。
誰かに話して、理解してもらおうとは思わない。
洋一だけが知っていれば良いことだと思う。
小道をゆっくりと上がりながら、これからのことを考えていた。
沙織は生きて欲しいと言った。洋一の寿命がどれくらいあるかは分からない。でも、洋一が生きている限り、沙織は心の中で生き続ける。
よく聞く励ましの台詞ではあっても、それが今は本当にそうだと言い切れる自分がいる。
まだ、全てを吹っ切れたわけではない。
沙織に対しての後悔や、申し訳なさは、まだ心の中に留まっている。
それは、簡単に吹き飛ぶようなものでもないし、きっとこれからも、思う事だろう。
ただ、ここに来たときと違うのは、沙織自身の言葉を、嘘偽りなく聞けたことと、沙織が洋一を死ぬ寸前まで愛していてくれたことが分かった事だ。
愛されることは、愛する事と違い、自分では気がつけない。きっと愛してくれているのだろうと、予想や自信があったとしても、それが本当にそうなのかと、深く考えることはない。
沙織が死んで、いなくなって初めて、そういうことを深く考えた。
時間が経てば、全てが当たり前になっていく。しかも、自分の都合の良い当たり前に。
隣にいて当たり前、ご飯を食べるのも、寝るのも、清潔な衣服に着替えるのも、全てが普通で、ありがたいとか、そこに誰かの手が加わっていることすら、忘れてしまう。
沙織の死は、洋一に、普通が普通になる為に沙織の手が加わっていることを教えてくれた。
そして、それがどんなに大切で難しい事かも。
これから先、きっと事あるごとに、沙織を思い出すだろう。
嫌なことも、楽しいことも。
それでも、思い出す度に、沙織は洋一の心の中で動き、笑い、生き続ける。
だからこそ、洋一は生きなければならない。
本当の意味で、沙織をなくしてしまう事をしないために。
車まで戻った洋一は、遺書を破りゴミ箱へ捨てた。
暗かったあの家へ戻ろう、そして、掃除をして、沙織の写真を沢山飾ろう。
そう決心すると、洋一は車のエンジンをかけた。
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