4.囚われの姫君-2
文字数 7,905文字
「取り乱したりして、失礼いたしました」
メイシアは、〈蝿 〉に頭を下げた。
黒絹の髪の先が、自分の膝をさらりと撫でる。体を動かすと、投げ飛ばされたときに打った背中が悲鳴を上げたが、その痛みは矜持でもって表には出さなかった。
「おやおや、急に従順になりましたね」
揶揄するような〈蝿 〉の言葉を、彼女はじっと聞き流す。彼を怒らせるのは得策ではない。たった今、文字通りに『痛いほど』理解した。
そんな彼女の屈辱など、お見通しなのだろう。〈蝿 〉が愉悦の笑みを浮かべる。
「心を入れ替えたあなたに、敬意を表して良いことを教えて差し上げましょう」
〈蝿 〉の言うことなど碌 なことではない。
身構えると、自然と肩に力が入る。その様子に、〈蝿 〉がまた嬉しそうに目を細めた。
「『契約』に抵触するため、詳しい理屈は説明できませんが、リュイセンに教えたことの半分は嘘ですよ」
「え……?」
「あなたは『鷹刀セレイエの〈影〉』であり、『今はあなた本人だけど、いずれあなたでなくなる』という話――本当は、少し違うのです」
「!?」
メイシアは不審と不安、それから、ほんの少しの期待で体を震わせた。無意識に自分の体を抱きしめれば、手枷の鎖が油断は禁物だとばかりに、じゃらりと音を立てる。
「あなたにとっては朗報ですよ」
優しげにすら見える眼差しで、彼女を囚えている〈悪魔〉は告げる。
「あなたは、あなたのまま、別人になることはありません。あなたは、ただ『鷹刀セレイエ』の記憶『も』、持っているだけ――……っ!」
突然、〈蝿 〉は、白衣の胸をぐしゃりと握りしめた。ぱりっとした布地を皺だらけにして、彼は苦痛に顔を歪める。
「〈蝿 〉!?」
「な、に……!? ……この……程度で……、駄目、なのか……! 糞……っ」
「大丈夫ですか!?」
メイシアは血相を変えた。たとえ彼が敵であっても、いきなり目の前で苦しみ出したら、さすがに落ち着いてなどいられない。思わず、ベッドから飛び降りる。
「だから……『契約』……言った……しょう……!」
脂汗を浮かべながら、憤怒の顔で〈蝿 〉は言い放った。駆け寄ろうとしたメイシアをぎろりと睨みつけ、追い返すように鋭く手を払う。
「しばらく……、収まり……す」
〈蝿 〉の荒い呼吸が、空間を占めた。
辛そうに肩を上下させる〈蝿 〉を瞳に映し、メイシアは茫然と、倒れ込むようにしてベッドに戻る。
「『契約』……、王族 の『秘密』に抵触したから……」
今、起きたことを確認するかのように、彼女は、ぽつりと言葉を落とした。
「私は、私のままでありながら、セレイエさんの記憶も持つことができる。それは、私が王族 の血を引いているから……?」
〈蝿 〉は憎々しげに眉を寄せたものの、ふいと目をそらした。聞こえなかったふりをしたのだ。
当然だろう。迂闊に肯定などしようものなら、死が訪れる。
しかし、その彼の態度が、彼女の言葉の正しさを示していた。
それは、すなわち。
メイシアの魂 は、奪われることはない――。
「あぁ……」
心の底から、安堵が広がる。
歓喜がこみ上げてきた。こんな状況にも関わらず、薄紅の唇に微笑みが浮かぶ。
ルイフォン、と心の中で呼びかけた。
必ず、あなたのもとに帰るから……。
「安心しましたか?」
憮然とした声が、彼女を現実に引き戻した。
〈蝿 〉を見やれば、彼は乱れた髪を整え、白衣の襟元を正していた。具合いが良くなったのか、声にはまだ、かすれたところがあるものの、言葉はしっかりとしている。
「あなたが、あなたの中の『鷹刀セレイエ』をあれほど激しく拒絶してしまっては、『彼女』が目覚めるのは難しいかと思いましてね。あなたを落ち着けて差し上げようとしたのですよ。……無茶をしました」
「……」
随分と恩着せがましい物言いだった。〈蝿 〉が無茶をしたのは自分の利益のためであり、メイシアを喜ばせるためではない。
だから、当然のことながら、〈蝿 〉に対して感謝の気持ちなど、微塵にも抱 く気にならない。
ただ――。
いまだ〈蝿 〉の額に張り付いている、白髪混じりの前髪を見つめながら、メイシアは思う。
彼は決して、狂人などではなく、『セレイエを見つける』という目的のためになら、手段を問わないほどに必死なだけだ。
だからこそ、手強い。
そして、リュイセンも……。
〈蝿 〉が、リュイセンに『今はメイシア本人だけど、いずれメイシアでなくなる』と嘘をついたのは、『契約』への抵触を避けると同時に、彼の裏切りを後押しするためだ。
リュイセンが裏切らなくても、やがてメイシアは消えてしまう。そう説明されれば、リュイセンも決断しやすくなる。
何故、リュイセンが〈蝿 〉の言いなりになってしまったのかは、まったくの謎だけれど、彼もまた、『何か』に必死なのは確かだ……。
「計画では、時が来れば、あなたの中の『鷹刀セレイエ』は自然に目覚めるはずだったそうですよ」
『契約』の警告が収まったからか、前より少し軽い口調で、〈蝿 〉が世間話のように告げる。
メイシアは、問わずにはいられなかった。
「……あなたがセレイエさんを探しているのは、彼女に復讐するため、ですか?」
〈蝿 〉がメイシアの中の『セレイエ』を目覚めさせようと躍起になっているのは、行方不明のセレイエの居場所を訊くためだ。
では、セレイエに会ったなら――?
メイシアの黒曜石の瞳が陰りを帯びる。
「〈蝿 〉……、あなたは『デヴァイン・シンフォニア計画 』のために、セレイエさんに作られたと聞きました。『駒』にされるために生を享 けたなら、セレイエさんに対するあなたの恨みは、もっともなことだと思います」
けど――と、続けようとしたところで、〈蝿 〉が口を挟んだ。
「ほう? いったい何を言い出すかと思えば……」
彼は、わざとらしく驚いたように眉を上げ、鼻で笑う。
「同情を装った、ご機嫌取りですか」
「い、いえ!」
メイシアは、反射的に否定した。
しかし、否定してから気づく。
囚われの身の彼女にとって、〈蝿 〉の機嫌を取ることは必要なことだ。彼に寄り添うような姿勢を見せることで、彼の口を滑らかにし、少しでも役に立ちそうな情報を引き出す。
良いことではない。けれど、やるべきことだ。これは、彼女の戦いなのだから。
メイシアは、手枷の鎖を鳴らし、胸に手を当てた。
それは、高鳴る鼓動を鎮めるためでもあり、同時に、自分の行為は、決して卑屈な腰巾着のそれではないと、胸を張るためでもあった。
「私……、あなたのお姉様に――ユイラン様にお会いしました」
「姉さん……!?」
〈蝿 〉はあからさまに顔色を変えた。
メイシアは、やはり、と内心で思う。
目的のためには手段を選ばないような〈蝿 〉であるが、彼の心にも弱い部分がある。
――『鷹刀一族への思い』だ。
もはや関係の修復は不可能と諦めながらも、彼は今でも一族を大切に思っている。それは、これまでのやり取りから明らかで、だからメイシアは、卑劣と思いながらも『偽りの『和解』で彼を騙す』という策まで考えた。
ユイランの名前を出したのは、生前のヘイシャオにとって身近であろう人物で、かつ現在、正面から敵対しているイーレオやエルファンを避けた結果だ。
「ユイラン様は、『弟の死は、事実上の自殺だった。だから、彼が自分の意思で生き返ることはあり得ない。〈蝿 〉は、弟の最期の思いを無視して、第三者に利用されてしまった悲しい存在だ』と、やるせなさそうで……。だから、あなたがセレイエさんを恨む気持ちは当然のものだと、私は――」
「はっ!」
突然、〈蝿 〉が不快感もあらわに吐き捨てた。言葉の途中で遮られ、メイシアはびくりと肩を上げる。
「それはつまり、私は『不本意に『生』を享 けたから』、鷹刀セレイエを恨んでいる。――そういうことですか!?」
その通りだ。
意に反しての蘇りを強いられた上に、『駒』にされたのだ。さぞや恨み骨髄だろうと、メイシアは話を持っていくつもりだった。
しかし、〈蝿 〉の放つ殺気が、彼女から声を奪う。触れてはいけない話題だったのだろうか。彼の態度の理由がまるで分からない。
「あなたも――姉さんも、『私 』は自殺したと言うのですね!」
〈蝿 〉の剣幕に、メイシアはたじろいだ。
「ええ、分かっていますとも! それが真実なのでしょう! 死の間際のホンシュアも、同じことを言っていましたから!」
彼は、悪鬼の形相で吠えた。
わなわなと曲げられた指で、白髪混じりの自分の頭を掻きむしる。まるで、その中にある記憶をほじくり返し、暴 こうとでもするかのように。
「けれど、『私』は知りません……! 『私』は、『鷹刀ヘイシャオ』が死んだことすら知りません!」
「え……? ……あっ!」
メイシアは一瞬、混乱し、しかし聡明な彼女は、すぐに〈蝿 〉の悲痛な叫びの意味を察する。息を呑んだ彼女に、畳み掛けるようにして吐き出された彼の次の台詞が、彼女の推測の正しさを証明した。
「当然でしょう! 『私』が持つ記憶は、『ヘイシャオが生きている間』に保存されたもの。『私』が、彼の死を知るはずがありません!」
「……っ」
叩きつけられた鋭い声に、メイシアは肩を縮こませる。
「私は――いえ、オリジナルの『鷹刀ヘイシャオ』は、ミンウェイと約束を交わしました。『生を享 けた以上、生をまっとうする』――これは、『私 』にとって絶対の誓約です」
昏 い美貌に、矜持に似た何かが浮かぶ。
「鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!」
「きゃっ」
だんっ、と強く足を踏み鳴らした〈蝿 〉に、メイシアは思わず悲鳴を上げた。
激しい憤りの表情を見せながら、しかし、彼の心は明らかに追い詰められていた。それは、彼が鷹刀ヘイシャオ本人ではなく、作られた『もの』であるが故の苦しみであり、憐れであり、不幸だった。
「ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ。――私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、『彼が心変わりするような事件があった』ということでしょう」
ぞっとするほどに深く、怨嗟に満ちた笑みで、〈蝿 〉は自嘲する。
「しかし、たとえ何があったとしても、『死』はミンウェイへの裏切り行為です。私はヘイシャオを許しません」
『ミンウェイ』と口にしたときだけ、〈蝿 〉の声色が変わる。
切なげで愛しげで、辛そうでもあるのに、そのときだけ険が和らぐ……。
彼の言う『ミンウェイ』は、メイシアのよく知るミンウェイではなく、彼女の母であり、〈蝿 〉の妻であった女 を指すことは一目瞭然だった。
「小娘。あなたは、私が鷹刀セレイエを探す理由を訊きましたね。――お答えしましょう。『私が、生き残るため』ですよ」
「……!?」
唐突な発言だった。
メイシアは理解が追いつかず、黒曜石の瞳をただただ大きく見開く。そんな彼女に、〈蝿 〉が口の端を上げた。
「まず初めに確認ですが、鷹刀の子猫や、あなたの異母弟がこの館で見聞きしたことは、あなたにも伝わっていると考えて問題ありませんね?」
「――はい」
恐る恐る、答えた。
何か、とんでもない話が始まる予感がして、メイシアの体は、否が応でも緊張で固まっていく。
「ならば、私が〈神の御子〉を――『ライシェン』を作ったことはご存知でしょう?」
「はい……」
「『ライシェン』は、王家のトップシークレットです。摂政カイウォルは、完成した『ライシェン』を受け取ったあかつきには、秘密を知る私を殺そうとするでしょう」
メイシアは、そのまま頷こうとして、はたと疑問に思った。戸惑いの呼吸に、気配にさとい〈蝿 〉が、ぎろりと目玉を動かす。
この状況で何も言わないのは得策ではないだろう。彼女は遠慮がちに「すみません」と断り、慎重に言葉を選びながら、おずおずと尋ねる。
「王家に〈神の御子〉が必要になったとき、〈悪魔〉たちが〈神の御子〉を作ることは、慣例となっているはずです。なのに、役目を果たした〈悪魔〉が殺されるなんて、おかしいと思います」
彼女の弁に、〈蝿 〉は面倒臭そうに鼻を鳴らした。
「『ライシェン』には、特別な事情があるのですよ」
気になる答えだった。
しかし、〈蝿 〉は、それ以上のことを言うつもりはないらしく、「さておき」と続ける。これでは、メイシアは押し黙るしかない。
「そして、鷹刀セレイエもまた、摂政に命を狙われています。摂政にとって、彼女は私以上に目障りな人間なのですよ。彼女がすべてを〈影〉に任せて雲隠れしているのも、おそらく摂政から身を守るためでしょう」
メイシアは瞳を瞬かせた。
セレイエもまた、〈蝿 〉と同じく、王族 にとって大事な〈悪魔〉であるはずだ。なのに、この扱いはどういうことだろう。
首をかしげたメイシアの耳に、驚くべき〈蝿 〉の発言が流れてくる。
「ですから、私は、摂政に対抗するために、鷹刀セレイエと手を組みたいのです」
「……!?」
思わず、目を見開いた。
〈蝿 〉は、セレイエを恨んでいるのではなかったか……?
その疑問は、そのまま顔に出ていたのだろう。彼は忌々 しげに口元を歪め、神経質な眉間に皺を寄せた。
「あなたの言いたいことは分かります。私は、自分を『駒』にしたセレイエを憎んでいるはずだ、手を組むなど、あり得ない。――そうでしょう?」
声高な〈蝿 〉に圧倒され、メイシアの喉が張り付いた。故に、彼女はただ、ゆっくりと首肯する。
「……憎んでいますよ。こうしている今だって、はらわたが煮えくり返っています。――しかし、『生きて』と言った、ミンウェイとの最後の約束を守るためには、そうするしかないのです」
〈蝿 〉にとって、死んだ妻の言葉は何よりも重いらしい。
彼女と交わした約束は、絶対の誓約。
純粋すぎる思いが、痛々しいほどの哀愁を漂わせる。
けれど同時に、そんな彼を冷ややかな目で見つめる自分がいることに、メイシアは気づいた。
彼の言葉を、ほんの少し離れて聞いてみれば、それはただの生への執着だ。
この男は、他人の犠牲をいとわない。メイシアの父は、彼に殺されたも同然だ。そんな人間の語る生など、耳を傾ける価値はない。――そう思う。
「鷹刀セレイエへの復讐は、私の身の安全が保証されてからです。場合によっては、表に引きずり出した彼女を摂政に売って、保身を図ってもよいわけです。交渉次第ですよ」
そう言って〈蝿 〉は、ねとつく視線をメイシアに向ける。
「何しろ私の手元には、鷹刀セレイエが最大の頼みにしている『最強の〈天使〉の器』がありますからね。彼女は私を無下にはできないはずです」
「!?」
捕食者の目だった。
本能的に身の危険を感じ、メイシアの背筋が凍る。
『最強の〈天使〉の器』――あの会議のときに、リュイセンが、メイシアに対して口にした言葉だ。そして、イーレオが『契約』に苦しみ、エルファンがこう叫んだのだ――。
「――王族 の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つ……」
知らず、声に出した彼女に、〈蝿 〉が驚きの表情を見せる。
「どうしてそれを?」
失言だったのか――?
焦るメイシアに〈蝿 〉が無言の圧力を掛ける。故に、彼女は選択の余地もなく答えた。
「……エルファン様が、ルイフォンのお母様から――〈天使〉だったキリファさんから聞いたそうです」
「なるほど。『契約』に触れかねない話でしたから、あなたがご存知で助かりました」
〈蝿 〉は、ほっとしたように息を吐いた。
「そうです。あなたこそ、『最強の〈天使〉の器』です。……ひとつ付け加えるならば、あなたが最強といえる理由は、王族 の血を引くことに加えて、あなたの中に『鷹刀セレイエ』の記憶があるからですよ」
「え?」
「〈天使〉の力の使い方を熟知した『鷹刀セレイエ』の知識があるからこそ、最強たり得るのです。ただ王族 の血を引いているだけでは、力は強くとも、制御しきれずに熱暴走を起こすだろうと、ホンシュアが言っていました」
メイシアは、無意識に自分の体を抱きしめた。
血の気の引いた白蝋のような顔で、じっと〈蝿 〉の言葉を噛みしめる。室温は変わっていないはずなのに、寒くてたまらない。
「あなたは切り札です。あなたの身柄が、私を優位に立たせてくれる。――あなたは、『デヴァイン・シンフォニア計画 』を生き抜くための、最大の鍵なのです」
「『デヴァイン・シンフォニア計画 』……」
結局は、これなのだ。
がたがたと、体が震える。
その動きに合わせ、手首から伸びた鎖が、囚われの音色を響かせる。
「……『デヴァイン・シンフォニア計画 』とは、いったい、なんなのですか?」
仕組まれた運命からの解放を祈るように、メイシアの口から細い声が漏れた。
「私も全貌を把握しているわけではありません。それより、あなたの中の『鷹刀セレイエ』が目覚めれば、あなたは自然にすべてを知ることができるはずなのですが……」
〈蝿 〉は、ほんの少し思案の顔を見せ、そして続けた。
「わざわざ説明するのは面倒臭いと思っておりましたが、まぁ、よいでしょう。あなたの中の『鷹刀セレイエ』への刺激になるかもしれませんし、あなたが驚く顔を見るのも面白い余興でしょう」
閉ざされた地下の研究室に、魅惑の薄笑いが広がる。
白衣の〈悪魔〉は、まるで呪文を描くかのように、虚空に向かって指を滑らせた。
「『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』と綴るのだそうですよ」
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓 』。
つまり、『ふたつの蔓 』。
――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は語呂合わせ。
これらの意味を繋ぎ合わせて、『命に対する冒涜』。
「鷹刀セレイエは、自分の『願い』が冒涜であると理解していながら、それでもなお、望まずにはいられなかったんですよ」
「セレイエさんの『願い』……?」
メイシアが問うと、〈蝿 〉の喉の奥から低い嗤いが返ってきた。
「彼女は私と同類です。――死んだ人間を諦めきれず、それが『命に対する冒涜』と知りながらも、蘇らせようと希 う……」
「セレイエさんは、どなたか大切な方を亡くした。……そういうことですか?」
顔色を変えたメイシアに、〈蝿 〉は大仰なほどに深々と頷いた。
「ええ。鷹刀セレイエは子供を亡くしました。……殺されたんですよ」
「!?」
メイシアは息を呑んだ。
ルイフォンが言っていた。――異父姉のセレイエは貴族 と駆け落ちをしたと。
そして、子供が生まれていたのだ。
「どうして……、殺されるなんて……」
メイシアのその言葉を待っていたのだろう。〈蝿 〉がにやりと嗤う。
「生まれた子供が、『白金の髪、青灰色の瞳の男子』――すなわち、〈神の御子〉の男子だったからですよ」
「――!」
それがもし本当ならば、その子供は現女王を退け、王位に就く資格を持つ。
しかし、王族 にしてみれば、どこの馬の骨とも知れぬ女が産んだ子供を王と認めるだろうか。
――否だ。
だから、殺されたのだ。
「もう、お分かりでしょう? 〈神の御子〉の『ライシェン』。――彼は、鷹刀セレイエの子供のクローンです」
「……!」
悲鳴が、漏れそうになった。
声を押さえようと口元に手を当てると、それに連なる手枷の鎖が、代わりの音を高く響かせる。
〈悪魔〉は蕩 けるような微笑を浮かべ、甘やかさすら漂う優しい低音で、そっと囁いた。
「鷹刀セレイエは、殺された息子を『次代の王』として誕生させようとしているのですよ」
それが――。
『デヴァイン・シンフォニア計画 』。
メイシアは、〈
黒絹の髪の先が、自分の膝をさらりと撫でる。体を動かすと、投げ飛ばされたときに打った背中が悲鳴を上げたが、その痛みは矜持でもって表には出さなかった。
「おやおや、急に従順になりましたね」
揶揄するような〈
そんな彼女の屈辱など、お見通しなのだろう。〈
「心を入れ替えたあなたに、敬意を表して良いことを教えて差し上げましょう」
〈
身構えると、自然と肩に力が入る。その様子に、〈
「『契約』に抵触するため、詳しい理屈は説明できませんが、リュイセンに教えたことの半分は嘘ですよ」
「え……?」
「あなたは『鷹刀セレイエの〈影〉』であり、『今はあなた本人だけど、いずれあなたでなくなる』という話――本当は、少し違うのです」
「!?」
メイシアは不審と不安、それから、ほんの少しの期待で体を震わせた。無意識に自分の体を抱きしめれば、手枷の鎖が油断は禁物だとばかりに、じゃらりと音を立てる。
「あなたにとっては朗報ですよ」
優しげにすら見える眼差しで、彼女を囚えている〈悪魔〉は告げる。
「あなたは、あなたのまま、別人になることはありません。あなたは、ただ『鷹刀セレイエ』の記憶『も』、持っているだけ――……っ!」
突然、〈
「〈
「な、に……!? ……この……程度で……、駄目、なのか……! 糞……っ」
「大丈夫ですか!?」
メイシアは血相を変えた。たとえ彼が敵であっても、いきなり目の前で苦しみ出したら、さすがに落ち着いてなどいられない。思わず、ベッドから飛び降りる。
「だから……『契約』……言った……しょう……!」
脂汗を浮かべながら、憤怒の顔で〈
「しばらく……、収まり……す」
〈
辛そうに肩を上下させる〈
「『契約』……、
今、起きたことを確認するかのように、彼女は、ぽつりと言葉を落とした。
「私は、私のままでありながら、セレイエさんの記憶も持つことができる。それは、私が
〈
当然だろう。迂闊に肯定などしようものなら、死が訪れる。
しかし、その彼の態度が、彼女の言葉の正しさを示していた。
それは、すなわち。
メイシアの
「あぁ……」
心の底から、安堵が広がる。
歓喜がこみ上げてきた。こんな状況にも関わらず、薄紅の唇に微笑みが浮かぶ。
ルイフォン、と心の中で呼びかけた。
必ず、あなたのもとに帰るから……。
「安心しましたか?」
憮然とした声が、彼女を現実に引き戻した。
〈
「あなたが、あなたの中の『鷹刀セレイエ』をあれほど激しく拒絶してしまっては、『彼女』が目覚めるのは難しいかと思いましてね。あなたを落ち着けて差し上げようとしたのですよ。……無茶をしました」
「……」
随分と恩着せがましい物言いだった。〈
だから、当然のことながら、〈
ただ――。
いまだ〈
彼は決して、狂人などではなく、『セレイエを見つける』という目的のためになら、手段を問わないほどに必死なだけだ。
だからこそ、手強い。
そして、リュイセンも……。
〈
リュイセンが裏切らなくても、やがてメイシアは消えてしまう。そう説明されれば、リュイセンも決断しやすくなる。
何故、リュイセンが〈
「計画では、時が来れば、あなたの中の『鷹刀セレイエ』は自然に目覚めるはずだったそうですよ」
『契約』の警告が収まったからか、前より少し軽い口調で、〈
メイシアは、問わずにはいられなかった。
「……あなたがセレイエさんを探しているのは、彼女に復讐するため、ですか?」
〈
では、セレイエに会ったなら――?
メイシアの黒曜石の瞳が陰りを帯びる。
「〈
けど――と、続けようとしたところで、〈
「ほう? いったい何を言い出すかと思えば……」
彼は、わざとらしく驚いたように眉を上げ、鼻で笑う。
「同情を装った、ご機嫌取りですか」
「い、いえ!」
メイシアは、反射的に否定した。
しかし、否定してから気づく。
囚われの身の彼女にとって、〈
良いことではない。けれど、やるべきことだ。これは、彼女の戦いなのだから。
メイシアは、手枷の鎖を鳴らし、胸に手を当てた。
それは、高鳴る鼓動を鎮めるためでもあり、同時に、自分の行為は、決して卑屈な腰巾着のそれではないと、胸を張るためでもあった。
「私……、あなたのお姉様に――ユイラン様にお会いしました」
「姉さん……!?」
〈
メイシアは、やはり、と内心で思う。
目的のためには手段を選ばないような〈
――『鷹刀一族への思い』だ。
もはや関係の修復は不可能と諦めながらも、彼は今でも一族を大切に思っている。それは、これまでのやり取りから明らかで、だからメイシアは、卑劣と思いながらも『偽りの『和解』で彼を騙す』という策まで考えた。
ユイランの名前を出したのは、生前のヘイシャオにとって身近であろう人物で、かつ現在、正面から敵対しているイーレオやエルファンを避けた結果だ。
「ユイラン様は、『弟の死は、事実上の自殺だった。だから、彼が自分の意思で生き返ることはあり得ない。〈
「はっ!」
突然、〈
「それはつまり、私は『不本意に『生』を
その通りだ。
意に反しての蘇りを強いられた上に、『駒』にされたのだ。さぞや恨み骨髄だろうと、メイシアは話を持っていくつもりだった。
しかし、〈
「あなたも――姉さんも、『
〈
「ええ、分かっていますとも! それが真実なのでしょう! 死の間際のホンシュアも、同じことを言っていましたから!」
彼は、悪鬼の形相で吠えた。
わなわなと曲げられた指で、白髪混じりの自分の頭を掻きむしる。まるで、その中にある記憶をほじくり返し、
「けれど、『私』は知りません……! 『私』は、『鷹刀ヘイシャオ』が死んだことすら知りません!」
「え……? ……あっ!」
メイシアは一瞬、混乱し、しかし聡明な彼女は、すぐに〈
「当然でしょう! 『私』が持つ記憶は、『ヘイシャオが生きている間』に保存されたもの。『私』が、彼の死を知るはずがありません!」
「……っ」
叩きつけられた鋭い声に、メイシアは肩を縮こませる。
「私は――いえ、オリジナルの『鷹刀ヘイシャオ』は、ミンウェイと約束を交わしました。『生を
「鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!」
「きゃっ」
だんっ、と強く足を踏み鳴らした〈
激しい憤りの表情を見せながら、しかし、彼の心は明らかに追い詰められていた。それは、彼が鷹刀ヘイシャオ本人ではなく、作られた『もの』であるが故の苦しみであり、憐れであり、不幸だった。
「ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ。――私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、『彼が心変わりするような事件があった』ということでしょう」
ぞっとするほどに深く、怨嗟に満ちた笑みで、〈
「しかし、たとえ何があったとしても、『死』はミンウェイへの裏切り行為です。私はヘイシャオを許しません」
『ミンウェイ』と口にしたときだけ、〈
切なげで愛しげで、辛そうでもあるのに、そのときだけ険が和らぐ……。
彼の言う『ミンウェイ』は、メイシアのよく知るミンウェイではなく、彼女の母であり、〈
「小娘。あなたは、私が鷹刀セレイエを探す理由を訊きましたね。――お答えしましょう。『私が、生き残るため』ですよ」
「……!?」
唐突な発言だった。
メイシアは理解が追いつかず、黒曜石の瞳をただただ大きく見開く。そんな彼女に、〈
「まず初めに確認ですが、鷹刀の子猫や、あなたの異母弟がこの館で見聞きしたことは、あなたにも伝わっていると考えて問題ありませんね?」
「――はい」
恐る恐る、答えた。
何か、とんでもない話が始まる予感がして、メイシアの体は、否が応でも緊張で固まっていく。
「ならば、私が〈神の御子〉を――『ライシェン』を作ったことはご存知でしょう?」
「はい……」
「『ライシェン』は、王家のトップシークレットです。摂政カイウォルは、完成した『ライシェン』を受け取ったあかつきには、秘密を知る私を殺そうとするでしょう」
メイシアは、そのまま頷こうとして、はたと疑問に思った。戸惑いの呼吸に、気配にさとい〈
この状況で何も言わないのは得策ではないだろう。彼女は遠慮がちに「すみません」と断り、慎重に言葉を選びながら、おずおずと尋ねる。
「王家に〈神の御子〉が必要になったとき、〈悪魔〉たちが〈神の御子〉を作ることは、慣例となっているはずです。なのに、役目を果たした〈悪魔〉が殺されるなんて、おかしいと思います」
彼女の弁に、〈
「『ライシェン』には、特別な事情があるのですよ」
気になる答えだった。
しかし、〈
「そして、鷹刀セレイエもまた、摂政に命を狙われています。摂政にとって、彼女は私以上に目障りな人間なのですよ。彼女がすべてを〈影〉に任せて雲隠れしているのも、おそらく摂政から身を守るためでしょう」
メイシアは瞳を瞬かせた。
セレイエもまた、〈
首をかしげたメイシアの耳に、驚くべき〈
「ですから、私は、摂政に対抗するために、鷹刀セレイエと手を組みたいのです」
「……!?」
思わず、目を見開いた。
〈
その疑問は、そのまま顔に出ていたのだろう。彼は
「あなたの言いたいことは分かります。私は、自分を『駒』にしたセレイエを憎んでいるはずだ、手を組むなど、あり得ない。――そうでしょう?」
声高な〈
「……憎んでいますよ。こうしている今だって、はらわたが煮えくり返っています。――しかし、『生きて』と言った、ミンウェイとの最後の約束を守るためには、そうするしかないのです」
〈
彼女と交わした約束は、絶対の誓約。
純粋すぎる思いが、痛々しいほどの哀愁を漂わせる。
けれど同時に、そんな彼を冷ややかな目で見つめる自分がいることに、メイシアは気づいた。
彼の言葉を、ほんの少し離れて聞いてみれば、それはただの生への執着だ。
この男は、他人の犠牲をいとわない。メイシアの父は、彼に殺されたも同然だ。そんな人間の語る生など、耳を傾ける価値はない。――そう思う。
「鷹刀セレイエへの復讐は、私の身の安全が保証されてからです。場合によっては、表に引きずり出した彼女を摂政に売って、保身を図ってもよいわけです。交渉次第ですよ」
そう言って〈
「何しろ私の手元には、鷹刀セレイエが最大の頼みにしている『最強の〈天使〉の器』がありますからね。彼女は私を無下にはできないはずです」
「!?」
捕食者の目だった。
本能的に身の危険を感じ、メイシアの背筋が凍る。
『最強の〈天使〉の器』――あの会議のときに、リュイセンが、メイシアに対して口にした言葉だ。そして、イーレオが『契約』に苦しみ、エルファンがこう叫んだのだ――。
「――
知らず、声に出した彼女に、〈
「どうしてそれを?」
失言だったのか――?
焦るメイシアに〈
「……エルファン様が、ルイフォンのお母様から――〈天使〉だったキリファさんから聞いたそうです」
「なるほど。『契約』に触れかねない話でしたから、あなたがご存知で助かりました」
〈
「そうです。あなたこそ、『最強の〈天使〉の器』です。……ひとつ付け加えるならば、あなたが最強といえる理由は、
「え?」
「〈天使〉の力の使い方を熟知した『鷹刀セレイエ』の知識があるからこそ、最強たり得るのです。ただ
メイシアは、無意識に自分の体を抱きしめた。
血の気の引いた白蝋のような顔で、じっと〈
「あなたは切り札です。あなたの身柄が、私を優位に立たせてくれる。――あなたは、『デヴァイン・シンフォニア
「『デヴァイン・シンフォニア
結局は、これなのだ。
がたがたと、体が震える。
その動きに合わせ、手首から伸びた鎖が、囚われの音色を響かせる。
「……『デヴァイン・シンフォニア
仕組まれた運命からの解放を祈るように、メイシアの口から細い声が漏れた。
「私も全貌を把握しているわけではありません。それより、あなたの中の『鷹刀セレイエ』が目覚めれば、あなたは自然にすべてを知ることができるはずなのですが……」
〈
「わざわざ説明するのは面倒臭いと思っておりましたが、まぁ、よいでしょう。あなたの中の『鷹刀セレイエ』への刺激になるかもしれませんし、あなたが驚く顔を見るのも面白い余興でしょう」
閉ざされた地下の研究室に、魅惑の薄笑いが広がる。
白衣の〈悪魔〉は、まるで呪文を描くかのように、虚空に向かって指を滑らせた。
「『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』と綴るのだそうですよ」
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『
つまり、『ふたつの
――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は語呂合わせ。
これらの意味を繋ぎ合わせて、『命に対する冒涜』。
「鷹刀セレイエは、自分の『願い』が冒涜であると理解していながら、それでもなお、望まずにはいられなかったんですよ」
「セレイエさんの『願い』……?」
メイシアが問うと、〈
「彼女は私と同類です。――死んだ人間を諦めきれず、それが『命に対する冒涜』と知りながらも、蘇らせようと
「セレイエさんは、どなたか大切な方を亡くした。……そういうことですか?」
顔色を変えたメイシアに、〈
「ええ。鷹刀セレイエは子供を亡くしました。……殺されたんですよ」
「!?」
メイシアは息を呑んだ。
ルイフォンが言っていた。――異父姉のセレイエは
そして、子供が生まれていたのだ。
「どうして……、殺されるなんて……」
メイシアのその言葉を待っていたのだろう。〈
「生まれた子供が、『白金の髪、青灰色の瞳の男子』――すなわち、〈神の御子〉の男子だったからですよ」
「――!」
それがもし本当ならば、その子供は現女王を退け、王位に就く資格を持つ。
しかし、
――否だ。
だから、殺されたのだ。
「もう、お分かりでしょう? 〈神の御子〉の『ライシェン』。――彼は、鷹刀セレイエの子供のクローンです」
「……!」
悲鳴が、漏れそうになった。
声を押さえようと口元に手を当てると、それに連なる手枷の鎖が、代わりの音を高く響かせる。
〈悪魔〉は
「鷹刀セレイエは、殺された息子を『次代の王』として誕生させようとしているのですよ」
それが――。
『デヴァイン・シンフォニア