1月20日 向田邦子と七里香

文字数 1,235文字

 晴れ。
 誰にでも、何度も繰り返し読む本があるだろう。
 わたしの場合、それは向田邦子の短篇集『思い出トランプ』だ。今日、気がつくとまた読んでいた。

 全部で13篇。一篇の長さはそれぞれ400字詰め原稿用紙20枚ほどに過ぎない。けれど、深い。鮮やかに切り取られた人生の断面に、読者はただただ溜息をつくしかない。描かれた人生があまりに鮮やかすぎて、物語の中の人物の筈なのに、まるで現実で出会った人々のようにわたしの中に残っている。

 例えば、「男眉」という作品がある。主人公の麻は、眉が濃い。祖母はそれを「男眉」だと教え、「亭主運のよくない相」だと言う。麻の妹は逆に「地蔵眉」で、こちらは「素直で人に可愛がられる」相なのだそうな。
 少し引用してみよう。

 妹がそっと席を立って出て行った。手洗いに入ったらしい。こういう呼吸がうまい女である。麻だと、どこかでギクシャクして、誰かに声をかけられ、立ちそびれてもじもじするということになってしまう。
 水を流す音が聞えた時、入れ替りのように夫が立ち上った。これも手洗いらしい。麻は、
「あ、嫌だな」
 と思った。
 女房ならともかく、よその女のすぐあとに入らなくてもいいではないか。言葉に出してとがめるほどではないが、麻も何となく腰を浮かした。
 襖を半分開け放っているので、その気になると廊下は見通すことが出来た。向うから、手のしめり気を気にしながらもどってきた妹は、夫とすれ違いざま、ほんのすこし、すれ違ったほうの肩を落し、目だけで笑いかけた。
「お先に」
 でもあり、
「嫌ねえ、義兄(にい)さん」
 ともとれる。
「ふふふふ」
 という声にならない含み笑いにも受取れた。夫の目は、背中からはうかがえなかったが、麻には一生出来ない妹の目であった。※1

 短篇小説の――というより、わたしにとって文章のお手本である。
 昭和の名脚本家であった向田邦子は、この短篇小説集で第83回直木賞を受賞する。その翌年、取材旅行で訪れた台湾で飛行機墜落事故に巻き込まれ、(かえ)らぬ人となってしまう。
 ――1981年8月22日。享年五十一。

 今日のBGMは周杰倫の「七里香」。URL:https://youtu.be/Bbp9ZaJD_eA
 この曲の作詞は、台湾の名作詞家として知られる方文山が担当している。歌詞の中に「秋刀魚的滋味」(秋刀魚の味)という言葉が出てくるのだが、これは小津安二郎の映画「秋刀魚の味」からインスピレーションを受けているのだと言う。
 ちなみに、この曲のMVの撮影も日本で行われている。

 わたしも、小津安二郎の映画の中では、「秋刀魚の味」が好きだ。原節子主演の「麦秋」や「東京物語」の方が有名なのかもしれないが、この作品における「極妻」になる前の(笑)岩下志麻さん(当時21歳)の佇まいが本当に清楚で美しい。
 向田邦子の世界とどこか重なり合う、美しい一幅(いっぷく)の昭和の絵のような気がする。 

※1 向田邦子『思い出トランプ』、新潮文庫、1983年、P128~P129。
 
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