第5話

文字数 8,197文字

 翔は、その翌日、ランナーズベースを訪れた。店内で近所の住民と談笑していた宮川は、翔の姿を見た途端、動きが止まった。
「翔……」
 やっとのことで、宮川の口が開いた。
「監督。すみませんでした」
 翔は宮川に向かって頭を深々と下げた。
 おそるおそる顔を上げると、宮川は、笑顔で何度も頷いていた。
「よく戻ってきたな」
 宮川は優しい声で言った。
 翔は言いにくそうに、宮川に訊いた。
「俺……、またこれから、監督のもとで働かせてもらってもいいですか?」
「何言ってるんだ。こっちはお前が戻って来るのを待ってたんだ。断る理由なんかないよ」
 そう言いながら、宮川は翔のもとに駆け寄った。
「改めてよろしく頼むぞ、翔」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 宮川に両肩を掴まれた翔は、そこでようやく笑顔になった。
 早速、次のスクールから、翔は復帰することになった。磯島の姿もそこにあった。翔は、てっきりスクール生から白い目を向けられるだろうと覚悟していた。因果応報なのだから、そうであっても仕方のないことだと思っていた。だが、予想に反し、スクール生たちは翔を温かく迎えてくれた。
 翔は、以前とは違い、アシスタントの仕事に真面目に取り組んだ。スクール生たちとも愛想良く接するようになり、時にはランニングやトレーニングにも一緒に参加した。
 後に宮川から聞いた話では、翔が復帰することが決まった時、一部のスクール生たちは、そのことを快く思っていなかったそうだ。しかし、宮川や磯島の懸命の説得で、彼らはしばらく様子を見ようという結論に至ったらしい。
 だが実際に、以前と変わった翔の姿を目の当たりにして、彼らも考えを徐々に改め、今では翔に対してすっかり好意的になった。
 翔は、スクールのアシスタントの仕事だけでなく、ランナーズベースで暁子の手伝いもするようになった。
 そして、季節は夏の真っ只中に突入した。
 ある日の午前、翔は暁子から、買い出しに行くが、荷物が多くなりそうなので同行して欲しいと頼まれ、宮川家が所有しているハイエースを運転し、市内にある大型ショッピングモールへ向かった。
 平日の昼間だったため、市内を東西に走る国道は、仕事のクルマで渋滞していた。翔は、助手席の暁子と他愛のない世間話をしながら、のろのろとハイエースを走らせていた。
「ところでさあ」
 話題が尽きて、しばらく沈黙の時間が流れた後、暁子が口を開いた。
「翔、紗希ちゃんとは、その後どうなの?」
「どうしたんですか、唐突に」
「いいから。連絡は取れたの?」
「いや、駄目ですね」
 紗希は、自身のスマホの番号やメールアドレスを変えただけでなく、SNSのアカウントも、一度削除してから新たに開設するくらいの徹底ぶりで、翔の友達申請も受け付けていない。翔は、紗希の新しい電話番号を大学時代の友人からどうにか聞き出して連絡を取ろうとしたが、誰も教えてくれなかった。
 そのような趣旨のことを話すと、暁子はため息をついた。
「そうかあ。話すら聞いてもらえないのかあ。あんなに優しい紗希ちゃんがねえ。誰か仲介してくれないの?」
「無理ですよ。誰に頼んでも、向こうが全く取り合ってくれなくて。そうだ、暁子さん。紗希に連絡を取ってみてくださいよ」
「前にしたわよ。でも、あんたと同じだった」
「同じって?」
「着信拒否」
「え? 暁子さんも?」
 翔は思わず暁子の顔を見た。暁子は一回頷いてから言った。
「あたしだけじゃない。旦那もそうみたい」
「マジですか……」
 翔は頭をかいた。
「もう諦めるしかないんですかね」
 ハンドルにしがみつく体勢になりながら、翔はため息混じりに言った。
「それはあんた次第じゃない?」
「そうですけど……」
「少し、時間を置いた方がいいかもしれない。一旦は紗希ちゃんのことを忘れて、今やるべきことに集中するのよ。そしたら、徐々に気持ちの整理もついてくるんじゃない?」
「ええ……」
 翔は生返事をした。
 そう簡単に忘れられるはずがない。大学時代から付き合い始め、時には優しく、時には厳しく、紗希は接してくれた。たまに疎ましく感じることもあったが、紗希といる時間は自分自身に素直になれた。紗希がいなかったら、俺の陸上人生は早々に終わっていたと、翔は本気で思っていた。
 交際が続くにつれ、紗希が傍にいることが当たり前のようになっていた。二人きりに慣れてしまったがために、いつしか紗希を大切にすることを疎かにしてしまっていたと、今になって翔は思う。近年は記念日やイベントも蔑ろにしていた。付き合いだした頃は、何かと理由をつけて無理矢理記念日を作って、ときめくひと時を二人で過ごしていたのに。
「ほら、前!」
 紗希とのいつかのクリスマスデートの時のことを思い返していると、暁子の声が脇から飛んできた。前のクルマが動き出したのだ。翔は慌てて右足をブレーキペダルからアクセルペダルに踏み換えた。
 渋滞を抜け、ハイエースはショッピングモールの屋外駐車場のゲートを通過した。開店直後ということもあってか、広大な屋外駐車場は閑散としており、アスファルトの部分が多く見える。翔はさほど時間をかけずに、建物に近い車室にクルマを停めることができた。
 店舗の面積は、市内どころか県内最大級だと言われている。さっきの国道や近くを通る高速道路を使って、休日は、県内各地から大勢の客が訪れ、店内はごった返す。ある意味で戦場と化し、とても落ち着いて店内を物色できる雰囲気ではないため、ここへは平日に来るように極力している。
 一階フロアの三分の一を占めているホームセンターのフロアに向かうと、翔は大型のショッピングカートを引きずって、暁子の指示の下、目的の品物を探しては、カートに入れていく。支払いを済ませると、今度は隣接している大手スーパーマーケットのフロアに向かい、食料品を大量に買い込んだ。
 翔と暁子はそれぞれカートを転がしながら、建物の外へ向かった。これだけ広いと、クルマまで戻るのも一苦労だ。聞いた話では、休日はこのショッピングモール内でウォーキングイベントを行っているらしく、毎回、大勢の参加者が健康増進のためにやって来るそうだ。
 フードコートの前の通路を通っていると、すぐ先の十字路に一人の男の子が見えた。見た目は、幼稚園か、もしくは小学校低学年なのかもしれない。半ベソをかいている。
「あら、あの子、迷子かしら」
 暁子がカートを押す速度を緩めて言った。周囲には保護者らしき人も見当たらない。
「でしょうね。これだけ広ければ、迷子にもなりますよ」
 翔がそう答えた直後、暁子は無言でカートを翔に託し、小走りで男の子に近づいた。
「あっ、ちょ、ちょっと!」
 翔はうんざりしつつも、二台のカートを押して、暁子の後を追った。
「ボク、どうしたの?」
 暁子は、泣いている男の子の前にしゃがみ込んで、普段は滅多に聞くことのない猫なで声で話しかけた。
「ママが、ママがぁ」
 男の子は、翔たちが近寄ってきたことで、一層不安な気持ちになったのか、声を上げて泣き出した。
「あらあら、ママとはぐれちゃったのね。よしよし……」
 暁子があやしている間に、翔は周辺を見渡した。男の子の母親らしき姿は確認できなかった。
「店内を探してみましょうか。すぐ見つかるでしょう」
「そうね」
 暁子は返事をすると、おいで、と男の子に声をかけ、フロアをさっさと歩き始めた。このご時世だから警戒されるかと思ったが、意外にも男の子は暁子の後をついていった。
「俺が持ってくのかよ……」
 置き去りにされないよう、翔は慌てて二台のカートを横に並べてくっつけ、それぞれのカートが離れないようにして押しながら、二人を追った。人が少ないから良いが、混んでいる時にこんなカートの運び方をしたら、他の客の顰蹙を買うに違いない。翔は四苦八苦しつつも、そんなことを思いながら、男の子の母親を探した。
 モールの中心部にある広場に辿り着くと、男の子が「ママ!」と声を上げた。インフォメーションカウンターのところで母親と思われる女性が、店員に何やら話しているのが見えた。おそらく、館内放送をお願いしようとしていたのだろう。
 男の子が、繋いでいた暁子の手を離し、女性に駆け寄っていくと、女性がこちらを向いた。その瞬間、女性の表情がぱっと明るくなった。
「大輝!」
 女性はその場で軽くしゃがんで男の子を迎え入れた。
 ようやく暁子と翔は、再会を喜んでいる親子のもとに辿り着いた。
「お母さんですか?」
 暁子が女性に声をかけ、迷子になっていたのを自分たちが見つけて、一緒にあなたを探していた旨を、やや大げさな身振り手振りを交えながら説明した。
「どうもすみません。ありがとうございます」
 母親は事務的に礼を言い、二人に頭を下げた。そして、今度はきちんとしゃがみこみ、息子と同じ目線になり、厳しい声で言った。
「駄目でしょ。知らない人に勝手について行っちゃ」
 大輝は下を向いて「ごめんなさい」と言った。母親はさらにヒートアップし、より厳しい口調になった。
「この人たちが誘拐犯だったら、どうするのよ。クルマに乗せられて知らない場所へつれていかれちゃうのよ。それで、犯人たちはあなたに乱暴して、助けてほしければお金や物を持ってこいって、ママに要求してくるの。こんな人相の悪い人たちが、平気でそういう酷いことをしてくるのよ。分かってるの?」
 短気な翔は、少しむっとして、つい口を開いた。
「あの、それって、今ここで言うことですか?」
 母親が翔の方を見た。翔は母親に近づきつつ、続けた。
「俺ら、誘拐犯に見えますか? こんな大きな荷物を抱えている誘拐犯がいますか? 失礼じゃないですか? 俺たちがいる前でそういうこと言うの」
「まあまあ、翔。いいじゃない、そんなこと。無事にこうして見つかったんだから」
 暁子が二人の間に割って入り、翔をなだめた。
 女性ははっとして、翔に再び頭を下げた。
「ごめんなさい。私、思っていることをすぐ口にする悪い癖があって……」
 翔は、これ以上苛立っても仕方がないと思いつつ、かける言葉が見つからなかったため、そっぽを向いた。
「お詫びとお礼……、と言っては何ですが、お昼、ご一緒にいかがですか?」
 母親はインフォメーションカウンターの壁に架かっている時計をちらと見て、二人に申し出た。時計の針は、間もなく正午を指すところだった。
「そうね。じゃあ、お言葉に甘えて」
「その前に、この荷物を一旦クルマにしまってきてからにしませんか?」
 翔はすかさず暁子に提案した。これ以上、カート二台分の荷物と一緒に移動するのはしんどかった。暁子は翔の提案を受け入れた。
 親子とは、フードコートのテーブル席で待ち合わせすることにし、二人はカートを押して、駐車場のハイエースへ向かった。


「暁子さん、よく怒らなかったですね」
 翔は空になった二台のカートを、店舗入口脇のカート置き場に戻しながら言った。
「えっ、何が?」
「さっきの母親の発言ですよ。誘拐犯の件。俺、暁子さんが先に怒り出して何か言うんじゃないかって思ったんですけど」
 暁子も、翔に負けず劣らず短気で気性が激しいキャラクターであることは、大学時代の付き合いでよく知っていた。
 暁子は歩きながら答えた。
「いやあ、私も思ったことをすぐ口に出して言っちゃうタイプで、それで周りの人を傷つけちゃうことがあるから、あのお母さんのことを悪く言えなくてね。いるのよ、ああいう人。言ってる本人に悪気はないんだけと、気付かずに相手のハートをぐさりと刺しちゃうの」
「確かに。俺も昔、暁子さんの一言で傷ついたことあるな。すげえ、ハートをナイフでえぐられてさ」
 翔は大真面目な顔で言った後、悪戯っぽく笑った。途端に暁子の顔が膨れた。
「一体いつ、あたしがあんたを傷つけたよ。え?」
「ごめんごめん。冗談だって」
 翔は詰め寄る暁子に向かって、両手を前に出しつつ笑いながら謝ると、暁子の顔と声色が元に戻った。そして二人は、再び前を向いた。
暁子が続ける。
「それに、あんたも私も決して人相が良い方じゃないから、誘拐犯に見られても仕方ないかなって思ってたし」
「俺、そんな人相悪いっすか?」
 翔は驚いて暁子の方を向いた。暁子がそんなことを言うのが、意外だったからだ。
「うーん、大学時代からしばらくまともに会ってなかったから、余計にそう見えるかも。陸上をやっていた時の方が、あんた、良い顔してたわよ」
「そうですか? 俺、そんな意識してなかったっすけど」
「特に、うちの店で働き始めたばかりの頃。あの頃が一番、人相が悪かった。最近は、少しずつ元に戻りつつあるみたい」
 やだ、気にしてるの? 神妙な顔つきになってしまった翔を見て、暁子は笑いながら言った。
 翔は別のことを考えていた。
 昔、男性用化粧品かなんかのテレビコマーシャルのキャッチコピーで、「心は顔に出る」というのがあった。陸上界からの引退。失業から延々と続いて終わりが見えない就職活動。そして、紗希との別れ。辛い出来事が続き、いつしか心が荒みだし、それが表情にも反映されてしまっていたのかもしれない。
 フードコートに辿り着くと、中央のテーブル席にさっきの親子が座って待っていた。四人は最近オープンしたラーメン店で、それぞれ好みのラーメンを注文した。手のひらに収まるサイズの呼び出しブザーを受け取り、席に戻った。
「あの、申し遅れました。私……」
 母親は座りながら、小川奈緒と名乗った。続いて、翔と暁子も自己紹介した。暁子は愛想良かったが、翔はさっきのことが尾を引いていて、まだ少し不機嫌だった。
 その様子を見た奈緒は、改まって言った。
「さっきは本当、すみませんでした。この子に良くしていただいたのに、あんな失礼なことを……」
「もういいですよ。これから気を付けてくれれば」
 もう多分会わないだろうなと思いつつも、翔はそう言った。
「すみませんねえ。ウチのもんが、へそを曲げちゃって」
 暁子はひときわ抑揚を効かせた声で言った。
「いえ、お怒りになって当然だと思います。ところで、聞いてもいいですか?」
「はい。何ですか?」
「お二人ってどういう間柄なんですか?」
「間柄ねえ」
 暁子はご丁寧にも、翔とB大時代に出会った時から現在に至るまでの経緯を、長々と奈緒に説明した。
「そうですか。陸上をなさってたんですね」
 奈緒は翔の方を向いて言った。
「陸上はテレビとかでは見ないですか?」
 翔は奈緒に尋ねた。
「ええ。あまりスポーツには詳しくなくて……」
「珍しいわね。翔はちょいちょいテレビにも出てたから、結構、皆、知っているんだけどねえ」
 暁子がそう言うと、奈緒は済まなそうに言った。
「ごめんなさい。テレビもほとんど見ないんで」
「何、もう昔の話ですし」
 翔は奈緒の顔を見ずに答えた。
 奈緒は暁子にまた尋ねた。
「さっき、お店をやってらっしゃるって、仰ってましたが、何のお店なんですか?」
「ああ、ランナーズベースっていう、市民ランナー向けの施設を経営しているんです」
 翔は補足した。
「ランナーは、店でウェアに着替えて、外へジョギングやトレーニングに行くんです。大体皆、近所の市民公園に行きますね。で、戻って来てシャワーを浴びて着替えて、お腹が空いていれば、ちょっとした食事も摂ることができるんですよ」
「うちの店は、ランニングスクールもやっていて、彼にはスクールや店の手伝いをしてもらっているんです」
 暁子が重ねて補足した。
 奈緒は、退屈そうに座っている大樹を尻目に、二人の話を興味深そうに聞いていた。
「へえ、そういう店もあるんですね。知らなかった」
「まあ、東京とか都市部ではあちこちにあるみたいですけど、県内では、うちみたいな店はあんまりないみたい」
「市民公園の近くなんですか?」
「ええ、そうですね」
「うちも市民公園の近くなんですよ」
「本当に? えっ、どの辺? もしかしたら以前すれ違っているかも」
 暁子が興奮気味に尋ねると、暁子は、自宅の住所を丁目まで言った。
「ええっ、だいぶ近いじゃない。おかしいなあ。会ってないかなあ」
「つい最近、越してきたばかりなんで……」
「あらそうなの? 一軒家?」
「いいえ、アパートです」
「以前はどちらに?」
「駅の近くです」
「まあ、良い所に住んでいたのね。にしても、また何で、あんな不便なところへ引っ越したわけ? 家を建てたわけでもないのに」
 奈緒が答えようとしたその時、呼び出しブザーが鳴った。四人は会話を中断し、再びラーメン店のブースへ行き、ラーメンを取ってきた。
 席に戻り、ラーメンを食べ終わると、奈緒は大輝に、フードコートの中央にある子供向けのプレイスペースで遊んでくるよう促した。
「勝手に他の所へ行っちゃだめよ」
 嬉しそうに走っていく大輝の背中に向かって、奈緒は声をかけた。
「良い子よねえ」
 暁子は大輝の姿を見ながらしみじみと言った。
「さっきの話の続きですが……」奈緒が話し始めたので、暁子と翔は奈緒の方を見た。
「実は私、主人と離婚して……、それで、大輝と一緒に前の家を出て、今の所に引っ越してきたんです」
 奈緒がそう言うと、暁子は一瞬、戸惑いと驚きが混ざった表情を見せた。おそらく自分も、そんな表情をしているに違いない。翔は慌てて自分の表情を意識し、平静を装った。
 暁子が神妙な面持ちで言った。
「ごめんなさい。立ち入ったこと聞いちゃって」
「いえ。私から話したんで、謝ることはないですよ」
 奈緒は笑顔を見せた。
「それじゃあ、大変よね。お仕事は、何なさってるの?」
「市内の会社で、事務の仕事をしてます」
「そうなんだ。大輝くんは小学生、だよね?」
 暁子は先の件で慎重になっているのか、細かく途切れながら話すようになった。
「ええ、四月に入学したばかりです」
「一年生かあ。学校終わったら、毎日どうしてるの?」
「基本的には、家で一人で過ごさせてますね。まあ、日が暮れるまでは、友達と遊んでますけど、夜は、私が定時で帰れれば問題ないんですが、どうしても残業がある時は、長い時間一人にさせちゃってますね」
 大輝に対する罪悪感に苛まれている様子が、奈緒の口調から伝わってきた。
「あの辺って、学童とかなかったっけ?」
 翔は、小学生時代に同級生が近くの学童保育施設に通っていたのを思い出し、暁子に尋ねた。
「あるんじゃないかしら。私もまだ、あの辺の地理にはそれほど詳しくないからねえ」
 暁子はそう言いながら、奈緒に回答を委ねるかのように顔を向けると、奈緒が答えた。
「あります。近くにあるんですが、料金が高めで、ちょっと……」
「そうか……。あんまり残業が多いと、大輝くんも可哀想よね」
 暁子は考え込んでしまった。
 翔は再びプレイスペースの方を見た。大輝は、いつの間にか他の子供たちと仲良くなったらしく、楽しそうに遊んでいた。
 俺にもあんな時代があったんだな。良かったよな、あの頃は。難しいこととか考える必要もなかったし。
 翔がぼんやりとそんなことを思っていると、暁子が口を開いた。
「ねえ、奈緒さんと大輝くんさえ良ければなんだけど、もし、奈緒さんの帰りが遅い時は、帰ってくるまで大輝くんをうちの店で預かるのは、どうかしら?」
 おいおい、暁子さん。
 翔は思わず暁子の方を向いて、心の中で呟いた。あんた、昔から義理人情に厚いのは結構だけど、マジでいいのか? そんな厄介ごとを簡単に引き受けちゃって。
 奈緒は、戸惑った様子で言った。
「お気持ちは、ありがたいんですが、それだと皆さんや店のお客さんに迷惑をおかけしてしまうんで……」
「大丈夫よ。二階がまだ余裕があるから、隅っこに大輝くん用のスペースを作ってあげる。で、空いてる時間は、この人が面倒見てくれるから」
 暁子は翔の背中を強めに二度叩いた。
 やっぱり、そんなことだろうと思ったよ。翔は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 すると、暁子が翔に近寄って、ねちっこい口調で言った。
「あら、あんた、そんなツラして、まさか嫌なんて言うんじゃないだろうね? 思ったことをすぐに態度に示すのは失礼なんでしょう? ということは、引き受けてくれるってことでいいわよね?」
 むちゃくちゃだ。このおばさん。
 翔は引きつった笑顔で答えた。
「ええ。喜んで」
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