第7話

文字数 6,374文字

 翔は市民公園を探し回ったが、大輝の姿は見つからなかった。公園から探索範囲を広げてみたものの、結果は同じだった。
「どこへ行ったんだ、大輝」
 翔は小さく呟きながら、大輝と一緒に行ったことがある場所を思い出しつつ、該当する場所の周辺を走って回った。だが、大輝はどこにも見当たらなかった。トレーニングの時と違って、いつまで走り続ければ良いのか見当がつかないため、翔は徐々に疲れてきて、一旦歩き始めた。
 あとは……、あそこくらいか。
 翔は呼吸を整えると、市の西部を流れている一級河川へ向かって、再び走り出した。
「そんなに心配しなくても、すぐに帰って来るだろうよ」
 走っている最中、翔が大輝を探しにランナーズベースを出る前に発した宮川の呑気な声が、頭の中に響いてきた。暁子がすぐさま反論する。
「分からないじゃない。この間、大輝くんと同じくらいの男の子が誘拐された事件があったばかりでしょ」
「そりゃあまあ、そうだけどよ……」
「奈緒さん、何か言ってたんですか?」
「え?」
 翔の突然の質問に、暁子は一瞬戸惑った。
「いや、電話で結構長々と話していたみたいだから」
「ああ。奈緒ちゃんね……」
 暁子は次のようなことを話した。
 運動会が終わり、大輝は沈んだ表情で自宅に帰ってきた。奈緒は、最初はいろいろと優しい言葉をかけて大輝を慰めていたが、華音ちゃんのボーイフレンドになれないのがよほどショックだったらしく、なかなか立ち直れないでいた。次第に奈緒は苛立ちが募りだし、思ったことをすぐに口に出す性格が災いし、つい言ってしまった。あなたと華音ちゃんがそういう間柄になれるわけがない。華音ちゃんみたいな子は、誰に対してもそういうことを言って、男の子を振り回して弄んでいるに過ぎない。徒競走で一位になったら大輝のガールフレンドになるって、そんな約束をしたのも、こういう結果になることを見越していたからに違いないと。
「はあ? 何言ってるんだ?」
 そこまで聞いて、宮川が声を上げた。暁子は構わず話を続けた。
 大輝は奈緒に反論した。華音ちゃんはそんな子じゃない。どうして、華音ちゃんのことをそんなに悪く言うんだと。すると、奈緒は答えた。保護者会で何度か華音ちゃんの母親と会っていて、そういう性格の持ち主だということを知っているから、娘もそうに違いないと。
「そんなことないって、大輝くんは否定したらしいの。そしたら、ママはパパが他の女の人にそういうことをされたから、そんなことを言うんだって、奈緒さんに怒って言ったんだって」
「ちょっと待って。奈緒さんが離婚したのは、夫の不倫が原因だったの?」
翔が驚いて確認すると、暁子は無言で頷いた。
「大輝くんが言ったこと、図星だったんでしょうね。奈緒ちゃん、そこでつい逆上して、大輝くんの頬を叩いちゃったの」
「最低だ」翔は吐き捨てるように言った。
「大輝は何も悪くないじゃんか。両親が離婚したのも、華音ちゃんを好きになったのも、徒競走で負けたのも、あいつ自身に原因があるわけじゃない。あいつはあいつなりに一生懸命やって、それでついてきた結果じゃないか。大体、あいつが母親に言ったことは正論じゃないですか。なのに、本当のことを言われたからって、怒って殴るなんて、親のすることじゃないでしょう。違いますか?」
 翔は興奮のあまり、早口でまくし立てた。
「翔の言う通り、奈緒ちゃんがしたことは許されることじゃない。だけど、旦那の勝手な振る舞いのせいで、ひとりで大輝くんを育てていかなければならなくなった彼女の気持ちを考えるとね……」
「それとこれとは、また別問題ですよ」
「そう言い切れる? 旦那に傷つけられた上に、息子から傷口に塩を塗られるようなことを言われて、平常心を保っていられる? 私はできる自信がない」
 暁子がそんなことを言うのが、翔には意外だった。いつも元気でタフで、多少の辛いことがあってもそれを表に出さない彼女が、この時は珍しく弱気な表情を見せていた。
 もしかしたら、暁子は過去、宮川にそのようなことをされたのではないか。翔は一瞬そんなことを思ったが、監督業で多忙だった宮川にそんなことをする余裕はなかったはずだと、すぐに思い直した。
 しばらく無言の間が続いた後に、宮川が口を開いた。
「とにかく、大輝は母さんに引っ叩かれて、家を飛び出したってことだろう?」
「うん」
「じゃあ、早いとこ探し出して、家に連れて帰らないと。奈緒ちゃんにもそう言ったんだし。翔、探して来い」
 宮川が話し終わる前に、翔は席を立ち、走って外へ出ていった。
 そこで、翔の脳内の映像は途切れた。
気が付くと、翔の走っている道の向こうに、土手が見えてきた。翔は速度を上げ、土手の階段を勢いよく駆け登った。
 土手の頂上に立つと、黄金色に輝いた河川敷が目の前に広がっていた。だが、今の翔にその美しい光景を味わう余裕はなかった。
昨日の雨のせいで、川は水かさが増している。大輝がうっかりして流されでもしたら、命の保証はない。
 どこだ、大輝。
 翔は下流へ向かって土手を走り始めた。自転車通学の学生や、犬を連れて散歩している老人、ジョギングしている若者とすれ違いつつ、河川敷をくまなく見渡すものの、大輝と思われる姿は見当たらない。
 十五分程走ると、通勤のクルマが多く行き交っている幹線道路の橋に辿り着いた。
翔は土手を右折し、橋を渡り始めた。橋の中間地点あたりの真下を、増水して茶色くなっている本流が手前へ向かって激しく流れていた。
 翔は走るのをやめ、橋の柵に手をつき、上流方向をくまなく見渡した。
 あれは……。
 翔は目を留めた。
 コンクリートの川べりに座っている人影が見えた。思わず、柵から身体を乗り出さんばかりに、その人影を凝視した。白い服を着た子供が、何やら足をもぞもぞさせながら、川の濁流をじっと見つめていた。
 大輝か?
 翔は再び走り出した。急いで橋を渡り切り、反対側の土手から河川敷へと続く車両用の坂道を駆け下り、グラウンドを横切り、人影のいる方へ急いだ。
 草むらをかき分け、川べりまで辿り着いた。
「大輝!」
 翔は体操服を着た大輝の後ろ姿を見つけると、声をかけた。
 大輝が振り向き、翔と目が合った。
 その直後、大輝は驚くべき行動に出た。
 大輝は、座ったままの姿勢から川へ飛び込んだのだ。
 翔は、一瞬、何か起こったか理解できなかった。夢でも見ているのかと思った。だが、川の濁流の音を聞き、紛れもない現実だと認識した。
 翔は川べりから濁流を見下ろした。大輝が下流へ向かって流されていくのが確認できた。
 あの野郎!
 翔は無意識のうちにそのまま川へ飛び込んだ。身体全体が濡れて、ランニングウェアが身体にまとわりつく。そこで翔は、自分が危険なことをしたことに気が付いた。ミイラ取りがミイラになる。そんな言葉が脳裏をよぎり、溺れた人を助けようとして命を落とした人のことを報じるテレビニュースの映像が浮かんだ。
 翔は仰向けになり、顎を引いて下流方向を見た。百メートルほど先に、激しい流れで上下に揺さぶられている大輝の姿が見えた。翔は大輝の名前を叫ぼうとしたが、水を飲み込んでしまって、声が出ない。
 さっき翔が渡った橋が迫ってきた。大輝は川の真ん中にある橋脚に奇跡的にへばりついた。
 よし、そのまま堪えろ、大輝。
 翔は懸命に水をかいて、橋脚に近づいた。
「大輝!」
 橋脚に辿り着くと、翔はしがみついた状態の大輝の尻を押し上げた。大輝が振り返り、驚いて声を上げた。
「コーチ!」
「早く上れ!」
 片手で大輝の尻を支えながら、翔も橋脚を上り始めた。
 橋脚の根元から二メートルほどの高さにある、人が一人ようやく歩ける程度の足場に、大輝は上半身を預けた。翔は大輝の足を足場に乗せると、足場に指をかけて、自分もようやく濁流から脱出した。
 息も絶え絶えになりながら、翔は足場に腰かけた。
「コーチ……、どうして……」
 やっとのことで上半身を起こした大輝が、翔に声をかけた。
「どうしてはこっちの台詞だ。なんで川に飛び込んだりしたんだ? お前、死ぬかもしれなかったんだぞ!」
 翔は大輝を睨み付けて叱りつけた。
「死んでもいいかなって思ったから」
 大輝がそう答えると、翔はカッとなり、大輝の頬を叩いてしまった。
 これじゃあ、奈緒さんと同じじゃないか。翔は少しだけ後悔した。
「お前、二度と人のいる前でそんなことを言うんじゃねえぞ」
 濁流の音にかき消されないよう、翔はひときわ大きな声で大輝に言った。大輝は頬を押さえたまま、翔の顔をじっと見ている。
「そりゃあ、誰だって死にたいと思うことは、一度くらいはあるさ。だがな、死にたいって思っている人のことを、死んでほしくないって思っている人がいるってことを忘れるなよ」
大輝は黙って翔の話を聞いている。
「少なくとも、お前のお母さんは、死んでほしくないって思っているぞ。あと、俺もだ」
 翔はそこで照れ臭そうに笑った。
「お前にはかけっこの素質があるから、勝手な話かもしれないけど、期待してるんだ。この先、練習次第でお前はもっと速く走れるようになると思う。そうすれば今度こそ、華音ちゃんのボーイフレンドになれるだろうよ。なのに、死んじまったら、それも永遠に叶わなくなるじゃないか。違うか?」
 大輝は、翔の言うことが正しいと言わんばかりに、こくりと頷いた。
 翔は前を向いて、話を続けた。
「まあさ、お前のお母さんも、思ったことをすぐ言っちゃう人だから、今回もそれで喧嘩になっちゃったんだろうけどさ、親だろうが何だろうが、言いたい奴には言わせておけばいいんだよ。お前が、親父さんと同じようなことになるなんて、そんな保証はどこにもないんだし。本当に華音ちゃんのことが好きなんだろう? 諦められないんだろう?」
 翔が問いかけると、大輝の表情がみるみるうちに崩れ、目から大粒の涙が流れ落ちた。
「だったら、もう二度と、こんな馬鹿な真似はしないことだ。いいな?」
 大輝は再びこくりと頷き、「ごめんなさい」と翔に言った。
「俺に謝ることはない。帰ったら、お母さんに謝れ。な」
 翔は立ち上がった。いつの間にか、河原の通行人たちが、川べりから心配そうに二人の様子を見つめているのが分かったからだ。そのうちの一人で、翔たちに最も近い位置にいる、通勤帰りのサラリーマンと思われるスーツ姿の男性が、何やら大きな声でこちらに叫んでいるが、濁流の音が邪魔してよく聞き取れなかった。すると男性は、携帯電話を持った右手を大きく振りつつ、左手でその携帯電話を指差した。
「どうやら、救急車を呼んでくれたみたいだな。大輝、もう少し我慢しろよ」
 翔は大輝に声をかけつつ、男性に向かって大きく手を振って応じた。


 翔と大輝は、通報を受けて駆け付けた消防隊員たちに無事救助された。二人とも、幸い擦り傷程度の怪我しか負っておらず、自力で歩くこともできたが、大事をとって、救急車で病院まで行くことになった。
 市立病院に到着し、医師の診察と簡単な治療を受け、警察の事情聴取を済ませると、二人はそこで解放された。待合室へ行くと、宮川と暁子、そして、奈緒が待っていた。救急車で移動中、翔がスマホで宮川に連絡して、来てもらったのだ。
 奈緒は、大輝の姿を見つけると、人目を憚らずに涙を流しながら、大輝のもとに駆け寄り、強く抱き締めた。
「大輝、ごめんね。ごめんなさい」
「ママ、僕も、ママを悲しませるようなことをして、ごめんなさい」
 二人は泣きながら互いに謝り合った。
「翔、大丈夫か?」宮川が声をかけた。
「はい。大したことないっすよ」
「ああ、二人とも本当、無事で良かったあ」
 暁子が安堵の笑みを浮かべて、しみじみと言った。
 河原での騒ぎを聞きつけてやって来たマスコミの記者たちが、翔たちの周りを取り囲み、矢継ぎ早に質問してきた。宮川と翔が適当に彼らをあしらい、五人は病院の駐車場に停めてある宮川のハイエースに乗り込んだ。
「いやあ、良かった良かった、二人とも無事で。あの急流じゃ、下手したら命を落としていたかもしれなかったぞ」
 運転席に座った宮川が、大きな声で言った。
 クルマは、すっかり暗くなった市内の高級住宅街を走っていた。
「本当に、本当にありがとうございました」
 奈緒は涙を浮かべながら、一番後ろのシートに座っている翔に、何度も何度も頭を下げた。
「あんたさ」
 翔は背もたれに寄り掛かったまま、奈緒に言った。
「子供だから親と同じことをするっていう考え方、やめたら?」
「え……?」
 奈緒は翔の目を見つめた。
「華音ちゃんの親がどんな人か知らないけど、親がそういう性格だから子供も同じような言動をするって、偏見っていうか……、何か違わないか? もしそうだとしたら、大輝は将来不倫をするってことになるぞ。極論かもしれないけど、あんたの論理だとそういうことになるんじゃないか?」
 奈緒は黙って翔の話を聞いている。
「俺が偉そうに分かったようなことを言ってるのは、百も承知だよ。俺は未婚だ。結婚生活を送ったことなんてないよ。子供だっていない。だけど、あえて言ってるんだ。子供は子供、親は親だ。もし仮に、子供が親の良いところだけじゃなく悪いところも真似するって言うんなら、そうならないようにするのが、親の役目なんじゃないか? 親の責務なんじゃないか?」
「……そうですね」
「それに」翔は大輝の顔を見た。「親がそうしようとする前に、子供自身が親の悪いところを自ら真似しないように意識することもあるんじゃないか? 反面教師ってやつで。俺も親の嫌なところは見習わないようにしてるもん。ああはなりたくないってね」
 車内がしばらく静かになった。
 奈緒が口を開いた。
「ごめんなさい。これからは考え方を改めるようにします」
「謝ることはないよ。理屈では分かってても、感情が先行しちゃって、つい大輝にそういうこと言っちゃったんだろう? それは、少し分かる気がする」
「まあ……、そうですね」
「大輝」
 翔が俯いている大輝に声をかけると、大輝は翔の方を見た。
「お前も、自分の思ったことを声に出して言うのは良いことだと思うけど、いくら自分がそう思っていても、それを言ってはいけない場合も時としてあるんだ。人間には誰しも、触れられたくない部分がある。今はまだ分からないかもしれないけど、そのことは頭の片隅に入れておいた方がいい。な」
 大輝は素直に頷いた。
「あの子、前からあんなに説教臭かったっけ?」
 助手席の暁子が、ひそひそ声で宮川に言った。
「学生時代から、熱くなると話が長くなる傾向はあった」
 宮川もひそひそ声で応じた。
「監督、何か言いましたか?」
 翔が最前列に向かって声を投げかけた。
「何でもないよ」宮川が気怠そうに答えた。
 クルマは、奈緒たちのアパートに到着した。
「大丈夫だね? もう親子喧嘩するんじゃないよ」
 助手席の窓を開けて、暁子はクルマを降りた奈緒と大輝に、威勢よく声をかけた。
「はい。本当にご迷惑をおかけして、すみませんでした」
 奈緒が深々とお辞儀をすると、大輝もそれを真似た。
「元気になったら、また店に来いよな」
 翔がリアウインドウを開けて大輝に言うと、大輝は笑顔で大きく頷いた。
 宮川はハイエースをUターンさせた。アパートの前の道は狭いため、一度では転回しきれず、一旦バックさせてから切り返した。
 その最中、翔は、奈緒と大輝のもとに駆け寄る男性の姿を、ウインドウ越しに発見した。
 あれ? あの男……。
「誰かしらね?」
 暁子も男性の姿に気づいたらしく、ぼそりと言った。
「元旦那だろう。おおかた、テレビのニュースでも見て、駆け付けたんだろうよ」
 宮川は事も無げに言うと、ハイエースを勢いよく加速させた。
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