第2話

文字数 7,098文字

 それから三十分後、商店街の裏手にある個人経営の居酒屋の座敷で、翔は、元B大駅伝部監督の宮川隆太と酒を酌み交わしていた。
 しばらく大学時代の話に花を咲かせた後、宮川がマグロの刺身を食べながら、しみじみと言った。
「それにしても、本当、久しぶりだよな」
「ええ」
 翔はビールの入ったジョッキに口をつけた。まだ少し腹が傷むが、不思議と喉が渇いており、飲まずにはいられなかった。食欲もあったため、宮川は店のおすすめメニューを多めに注文してくれた。
「でも、お前も俺も同郷だから、もっと早く再会していてもおかしくはなかったんだ。なんだかんだで結局、卒業以来だもんな。お前に会ったのは」
「卒業してから、大学にも全然顔を出してませんでしたからね」翔はジョッキをテーブルに置いた。「本当はいちOBとして後輩の指導がてら挨拶に行くべきだったんでしょうけど」
「何、気にすることはないって。お前が活躍しているのは、テレビや雑誌を見て分かってたしな」
 ほら、食え食えと、宮川は箸を動かして翔に料理を勧めた。
「活躍なんかしてないっすよ。実業団時代の俺は」
「でも、お前は、お前のやり方を最後まで貫いてたじゃないか。引退するまで、ビッグマウスぶりは変わってなかったからな」
「監督まで、そんなこと言わないでくださいよ」
 翔は口をとがらせて言った。宮川は大きな声で笑い、ウーロンハイを飲んだ。
「でも」宮川は笑うのをやめて言った。「人間、自分のポリシーやスタイルを貫き通すのは、できそうで、できないもんだからな。陸上に限らず、結果がなかなか出ない中で、周りからやいのやいの言われて、折れてしまう人もいるし。そりゃあ、折れたことで成功を掴む人もいるけど、必ずしもそうであると限らないし。難しいよな、人生って」
 翔は箸を置き、じっと宮川の話を聞いていた。
「確かにお前は、実業団ではあまり良い結果を残せなかったかもしれんが、それでも立派な陸上人生を全うしたと俺は思うよ。だって、お前らはB大駅伝部創部以来、初の箱根総合優勝を成し遂げたんだぜ。それだけでも十分な功績じゃないか」
 宮川は再びウーロンハイを飲んだ。
「あれは、俺だけの力じゃできなかったですから」
 謙遜ではなく、本気でそう思っていた。自分は人の上に立つタイプの人間ではない。それは自分自身がよく分かっていた。キャプテンになって最初の頃は、プライドが高いことと、自分より劣っている人をやや見下す傾向があったこともあり、部員と衝突することも度々あった。だが、そんな時は、翔と親しい部員や宮川監督が、後でいつもフォローしてくれた。おかげで、駅伝部はひとつにまとまることができたのだった。
「いや、お前がキャプテンとして部を引っ張ってきたから、皆が自分の力を発揮できたんだ。監督の俺がいくら気を吐いたところで、実際に走るのはお前ら部員たちだ。翔がいなかったら、俺だって最後までやり遂げていたかどうだか……。本当、お前には感謝してるんだ」
 宮川はそこで頭を下げた。
「やめてくださいよ。監督、前からそんなキャラでしたっけ?」
「変わったんだろうな。歳を取ったからだよ、きっと。監督業も引退したし」
 翔は鶏の唐揚げを一口食べた。
「あちっ」口の中で溢れ出る油が熱くて、舌を火傷した。
 それを見た宮川は笑いながら言った。
「ここの唐揚げは熱いからな。一気に食ったら絶対火傷する」
「それ、先に言ってくださいよ」
 ビールで舌を冷やした翔は、ぼやいた。
 宮川はウーロンハイを飲み干すと、そばを通った店員に空のジョッキを渡しながら、おかわりを頼んだ。
「そういや、寺本――寺本紗希は最近どうなんだ? あいつ、忙しいのか?」
 話したくないことを訊いてきやがって。
「ええ、まあ、その……」
 翔は意を決して、紗希と別れたことを宮川に話した。
「音信不通とは、よっぽどだな」
 宮川は腕組みをして呟いた。
「監督、あいつの居場所、知りませんか?」
「俺が?」宮川は目を丸くした。「知らないよ。あいつとも、卒業以来会ってないし」
「ですよねえ」
 翔は隅に追いやられたサラダに箸を伸ばした。
「陸上はできなくなり、会社はクビにされ、彼女に逃げられ、高校生のガキからは馬鹿にされ、メシを食えば火傷する。散々ですよ、こっちは」
「翔……」
 ややオーバーに嘆き、必要以上に上を向いてビールを一気に飲み干す翔の姿を見て、宮川は悲しそうな表情を見せた。翔のその姿が、涙を堪えているように映ったからだった。
実際、翔はこのまま宮川を正視してたら、涙が流れ出てきそうで耐えられなかった。生ビールの炭酸が、それをわずかながら紛らわせてくれた。
「まあさ、その、まずはお前、一度厄払いに行った方がいいぞ。それできちんとリセットして、これからのことをきちんと考えよう。まだまだ、人生は長いんだから。な」
 宮川は努めて明るい声で言った。
「そういえば、監督って、今、何をやってるんですか?」
「俺か? 俺は今な……」
 そこで宮川は黙ってしまった。
「監督?」翔は宮川の顔を覗き込んだ。
 しばらくして宮川が口を開いた。
「お前、次の就職先の当てはあるのか?」
「全く」
「そうか。じゃあ、お前に手伝ってもらうことにしようかな」
「手伝う?」
「おう。俺な、いわゆる、ランニングステーションってのを始めたんだ」
「ランニングステーション?」
 聞いたことがある。ランニングコース――東京都内だと、皇居やお台場地区などが代表例として挙げられるが、そのような場所の周辺にある、更衣室やロッカー、シャワー室等を備えた施設のことだ。最近ではランナーのために、シューズなどのランニング用品を販売するスペースや、飲食店が併設されているところもある。
「どこでやってるんですか?」
「市立公園の近くだ」
 市立公園は市の端にあり、大きな池があることで有名である。昨今、その池の周りを走るランナーが増えてきていると、以前、何かのテレビ番組で見た記憶がある。池の外周がちょうど二キロメートル程で計測もしやすく、何より気軽に走りに行けるのが魅力的なのだと、あるランナーは番組のインタビューで語っていた。
「監督、前から疑問に思ってたんですけど」
「何だ?」
 豚キムチ炒めをほおばりながら、宮川は返事した。
「どうして、B大の監督を引退したんですか?」
 宮川がB大駅伝部の監督を辞任し、監督業から完全に退いたのは、昨年の春のことだった。その年の正月に、B大七度目の箱根駅伝総合優勝を成し遂げ、選手層も厚くなり、これからさらに飛躍が見込まれる最中での引退劇であった。
――自分の役割は果たした。選手時代、監督時代を通じて、自分の陸上人生に悔いは全くない。この辺で後進に道を譲りたい。
「……って、俺、退任時の記者会見で言ったんだが、見てなかったか?」
「それはニュースや雑誌で見ましたけど、本当ですか? まだまだできるじゃないですか、監督業。つーか、本当はそのランニングステーションをやりたかったから、あれこれ理由をつけて引退したんじゃないですか?」
「いや。正直あの時は、どうしようかなっていろいろ模索してたんだ」
これ、美味いな。そう言って、宮川は豚キムチ炒めを再び自分の取り皿によそった。
「人生五十年。かつてはゴールだったかもしれないが、今じゃ、ただの通過点、いや、人によっちゃあ、ようやく折り返し地点だ」
 宮川は豚キムチを自分の口にかき込んだ。
「俺の人生も復路に入って、これから箱根を下りて大手町を目指すことになる。復路はラストスパートがかかるから、往路よりもあっという間に走りきってしまうだろう。そう思ったら、何だか俺、このまま監督を続けていていいんだろうかって疑問が湧いてきてさ。残りの人生、もっと自分の好きなペースで走ってもいいんじゃないかって」
「そうは言っても、そういう考えに至るには、まだ早すぎるでしょう。五十代なんて、普通の会社員だったら、まだバリバリ戦力ですよ。ましてや定年がどんどん引き上げられてるというのに」
「早いかなあ。でも俺は、隠居は全く考えてなかったぞ。蓄えがそんなにあるわけでもなかったし」宮川はそこで声を上げて笑った。「あくまで、これまでとは違う人生を走ってみたいと思っただけだ」
「でも結局、陸上の世界であることには、変わりがないですよね」
「まあな」宮川は苦笑した。「監督を辞めた時は、いろいろ考えた。思い切って陸上以外の世界に足を踏み入れようかとも思った。だけど、やっぱり俺は陸上が好きなんだなって気づいたんだ」
 翔は手を止めて、宮川の話を聞いていた。
「スポーツライターとか、競技解説者とか、地域のスポーツクラブで子供たちに陸上を教えるとか。気が付くと、陸上関係の道を選ぼうとしている自分がいてな。おかしいだろ?」
「今から全く畑違いの道を選ぶのも、厳しいんじゃないですか? 俺が監督だったら、やはり同じように考えちゃうと思いますよ」
 翔はおしぼりで手を拭きつつ言った。
「そんな中、ちょっとしたきっかけがあってな」
 宮川は説明した。
 引退して直後のゴールデンウィーク、宮川は妻の暁子と市立公園を散策していた。宮川は就職してから地元を離れていたが、B大の監督を辞任したのを機に、地元に戻ってきていたのだった。
 穏やかな晴天の下で、大勢のランナーたちがジョギングをしている、公園の池のほとりを歩いた後、近くの住宅地を当てもなく適当に歩いていると、一軒のログハウスを見つけた。入口脇の看板をよく見てみると、そこはイタリア料理を出すレストランだった。二人はひとしきり歩いて空腹だったため、それほど迷わずに店に入った。
 建物は二階建てだったが、二階はプライベート用らしく、正面の階段には、一般客が立ち入ることができないよう、チェーンがかかっていた。一階の右側にテーブル席が十五席ほど設けられており、左側はカウンターが備え付けられていた。カウンターの奥には小さなピザ窯があり、窯の中で赤々と炎が上がっているのが見えた。
 連休だというのに、客は宮川たちの他に一組しか入っていなかった。そして、店内は飲食店にしては殺風景だった。装飾や植木の類もなく、棚はあるが食器が全くなかった。店の隅には段ボール箱が数箱置かれていた。
 メニューを見たが、ほとんどが品切れであった。宮川たちは、首を傾げつつも、店員を呼んだ。店主の妻と思われる女性が現れ、宮川はパスタとピザを注文した後、女性に質問した。
 質問に対する答えは予想通りの内容だった。このレストランは、今日限りで閉店するのだと、女性は説明してくれた。
 やがて、ピザとパスタが運ばれてきた。宮川と暁子はあまり期待せずに口に入れたが、思いのほか美味しくて、あっという間にたいらげてしまった。何故、こんなに美味しいのに閉店してしまうのか。実にもったいない。こんなことなら、もっと早く来ていれば良かったと、宮川は少し後悔した。
 食後にアイスコーヒーを注文して飲むと、宮川はさっきの女性を呼んで、もう一度尋ねた。この建物は今後どうするのかと。
 女性はやや曇った表情を浮かべながら答えた。どなたかに譲ろうかと思っているが、未だに買い手が見つからずにいる。売ったお金で今後の暮らしを立てていこうと思っているのに、困っていると。
 後にインターネットで調べて分かったことだが、このレストランは以前、出した料理で食中毒事故を連続で起こしてしまったことがあり、それ以来、客足が一気に遠のいたそうだ。
 無論、そのことを知らなかった宮川は、女性に同情の念を抱きつつ、アイスコーヒーを一口飲んだ。その瞬間、宮川はひらめいた。
 ここを、ランニングステーションにしたら、どうだろう。
 さっき、公園で走っていたランナーたちは皆、公衆トイレの個室や持ってきた簡易テントで、ランニングウェアに着替えていた。今の季節ならそれでも問題ないだろうが、この先、夏場になれば、走り終えた後にシャワーを浴びたくなるだろうし、真冬になったら、屋外で着替えるのも厳しいだろう。ここをランニングステーションとして開放すれば、皆きっと利用してもらえるに違いない。
 宮川はレストランの主人と何度か交渉した末、このログハウスを買い取った。そして、地元の友人がやっている木工所にお願いし、必要最小限の内装工事を行った。
 ランニングステーションは、一階の半分を更衣室とシャワールーム、もう半分をカフェスペースとし、二階は一部を事務スペースとし、残りはフリーとした。カウンターはそのまま残して受付として活用することにし、ピザ窯も、もしかしたらこの先使うことあるかもしれないと思い、そのままにした。
 こうして、レストランが閉店してから半年後には、宮川はランニングステーションをオープンさせていた。最初のうちは、公園の周辺でチラシを配ったりして宣伝活動をしたが、やがて口コミやインターネットで、あの元B大駅伝部監督が経営しているランステということで情報が拡散し、店は徐々に繁盛していった。
「ということは、開店してから、ちょうど一年くらい経つということですか?」
「そういうことになるな」
 翔の質問に、宮川はウーロンハイを飲んでから、返事した。
「それにしても」翔はお通しを口に入れた。「奥さん、よく反対しなかったですね」
 宮川の妻、暁子は学生時代、ソフトボールの選手で、日本代表にも一度だけ選ばれたことがあるほどの実力の持ち主であった。引退後は高校の体育教員になり、宮川と結婚してからも教員生活を続けていた。翔は大学時代に暁子にも何度か会ったことがあるが、小柄でありながらとても元気でおしゃべりな印象を抱いていた。いつだったか、先生をやるのは大変じゃないかと翔が尋ねると、暁子は首を振って、むしろ楽しいと答えた。生徒たちからエネルギーを貰っていて良い刺激になっているのだと言う。それにしてはエネルギーを貰い過ぎなのではないかと翔は内心思ったが、口には出さなかった。
「まあ最初は、教員を辞めてこっちを手伝って欲しいってお願いしたこともあって、反対されたよ。でも、彼女は昔からポジティブシンキングというか、考え方を良い方へ切り替えるのが上手いんだよな。話を進めていくうちに徐々に乗り気になってきてさ、しまいには、もし繁盛しなかったら、私の卒業生を客として来させるから心配しないで、なんて言い出すくらいでさ。かえってこっちが心配になっちゃうくらいだったよ」
 宮川は大きな声で笑った。
「で、そのランニングステーションで、俺に何をしてほしいんですか?」
「ああ。ランステの経営もある程度軌道に乗ってきたから、これから希望者を募って、ランニングスクールを開講しようと考えていてな。お前には、そのスクールの手伝いをしてもらいたいんだ」
「監督がコーチをするんですか?」
「ああ」
「で、俺がアシスタントとして、監督をサポートすると」
「そうだ。メンバーのトレーニングを補助したり、伴走したりとか、一人じゃ全員の面倒を見きれないだろうから。まあ、どれだけ参加者が来るか分からんが」
「なるほど」
「スクールは毎日やるわけじゃないから、ない日は、店の方の手伝いもしてもらえると助かるんだが、まあ、それは可能な範囲で構わない。妻もいるしな」
「ランニングステーションですか……」
 翔は腕組みして考えた。
 人にものを教えることは不得意だった。翔は、感覚的に理解して上達していくタイプだったからだ。だから、部員にアドバイスをしようにも、翔自身のスタイルが確立されてしまっているがために、される側はあまり参考にならないことが多く、そのことをよく紗希からも指摘されていた。
 一方、宮川は、現役時代の成績は今一つだったが、指導者としては、B大やその前の実業団のチームで結果を残し、陸上界では名コーチとして知られるようになった。いつの時代もどんなスポーツでも、優れた選手が必ずしも優れた指導者になるとは限らない。
 翔は顔を上げて言った。
「俺に務まりますかね。その仕事」
「こっちが訊きたいくらいだ」宮川は苦笑した。「今まで選手だったお前が、指導する側に回るんだからな。やる前から、うまくできるかどうかなんてわからんさ。お前の心がけ次第じゃないのか」
 宮川は枝豆に手を伸ばした。
 それもそうか。翔は後頭部をかいた。
「あんまり心配すんな。とりあえずは、俺のアシスタント的な立場でやってもらえれば、十分だ」
「監督のアシスタントですか」
「ああ」
 翔はどう返答すればよいか分からず、所在なくなったため、新たに注文したハイボールを飲んだ。
 宮川は背筋を伸ばし、腕組みをしたまま言った。
「次の就職先が決まるまでの繋ぎでも構わない。無論、この先ずっと、うちで頑張ってくれるなら、それに越したことはないけどな。まあ、お前もいろいろ将来のビジョンは持っているんだろうから、無理強いはしないさ」
 将来のビジョンなんて、そんなもの、持ち合わせているわけないじゃないか。
 閉店間際まで飲み、宮川と別れた後、翔はすっかり人通りのなくなった帰り道を歩きながら、小さな声で独り言を言った。
「ゆっくり考えてくれ、と言いたいところだが、もう来週からスクールは始まるんだ。二、三日以内に、引き受けてくれるかどうか、答えを聞かせてくれないか? 頼む」
 去り際に言った宮川のその言葉が、頭の中を駆け巡っていた。
 どうする? 俺。
 自宅に辿り着いた翔は部屋に入ると、そのままベッドに倒れ込んだ。
 唐揚げで火傷した舌が、まだヒリヒリと痛んていた。


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