第8話

文字数 7,913文字

「旨いねえ。熱々のおでんにビール。最高だ」
 磯島が、まるで楽園にでもいるかのような至福の表情を浮かべながら言った。ここは、ランナーズベースの二階の畳部屋だ。
「こたつも今日用意しましたからね。ここから当分動けないですよ」
 磯島の斜め向かい側で、翔がビールを注いだ。
「まいったなあ。こんなに居心地いいんじゃ、帰りが遅くなるな」
「奥さんに怒られるんですか?」
「毎晩仕事で遅いからね。嫌み言われるかもな」
「お忙しいんですか?」
「まあね。人事関係の仕事が毎日遅くまで続くからさ」
「はあ……。管理職って大変ですね」
 真向かいに座っている宮川がため息交じりに言った。
「仕方ないですよ。水曜日はこうしてスクールに出られるように、その分、他の曜日で仕事をしてるんです」
「さすがです」
「趣味も大事にしたいですからね。そうしないと、生活にハリが出ないし、仕事もはかどらないから。他のメンバーたちも、そうした方がいいと思うなあ」
「皆、暮れで忙しいんですかね」
 翔と大輝の水難事故から約一ヶ月。今日のスクールの参加者は、いつもよりも少なく、たったの三人だった。そのうちの二人は、スクールが終わると、用事があるからと言ってさっさと帰ってしまった。
「まあまあ、今日は我々だけで、しっぽりとやりましょうよ」
 宮川が瓶ビールの栓を抜き、磯島と翔のグラスにビールを注いだ。
 それからしばらく、三人は世間話に花を咲かせた。空き瓶が増える一方で、鍋のおでんは段々と減っていった。
「結構食ったなあ。足りなかったかな?」
 宮川はそう言うと、立ち上がり、そそくさと一階に降りていった。階下で、追加のおでん種を持ってくるよう、暁子に大声で言っているのが聞こえてきた。
「宮川さん、もう十分ですよ、おでんは」
 磯島が、戻ってきた宮川に言ったが、宮川は悲しそうな表情で手を左右に振って応じた。
「もう無いんだってさ。おでん」
「明日、買ってきますよ」
 翔が宮川に言った。
「おう。多めに買っとけよ」
「勘弁してくださいよ。毎回、買い物、結構な荷物になるんですよ」
 翔が口をとがらせると、宮川はしかめ面をして言った。
「おでんが増えるくらい、どうってことないだろうよ」
「監督、人使いが荒いっすよ。また辞めようかな」
「辞めるのは俺が許さん」
 宮川はオーバーな動きで腕組みをして言うと、二人は苦笑した。
「そうそう、辞めるっていえば、高野さん」磯島が翔の方を向いた。「体育館の田中さん、今月でトレーナーを辞めるみたいですよ」
「そうなんですか。辞めて、どうされるんですか?」
「東京都内のフィットネスジムで働くみたいなことを言ってましたけどね。何かあったのかな」
「磯島さん、田中さんから詳しい話、聞かなかったんですか?」
「ああ。あまり多くは話してくれなかったね。だから私も深く訊くことができなかったよ。詮索しすぎるのも悪いし」
「そうでしたか……。磯島さんには言わなかったですけど、田中さん、ちょっとうちにも関係する事情がありましてね……」
「えっ、田中さん、まさかここのスクール生じゃないですよね?」
「いえ、スクール生ではないんですが、元奥さんが、スクール生なんですよ」
「元奥さんが? へえ。奇妙な縁ですね。でも、事情って、そのことじゃないでしょう?」
「もちろん」
 翔は、奈緒と大輝との出会いから、運動会の日の出来事までを、かいつまんで説明した。
「はあ……。そんなことがあったんですか」
 磯島は、驚きのあまりに口が半開きになったまま、翔の話を聞いていた。
 宮川が補足した。
「川での事故を聞きつけて、田中さん、心配になって飛んできたんですよ。そこでもう一度やり直せないか、家族で話し合ったみたいですよ」
「でも結局、やり直せなかった」
 磯島がそう言うと、翔が頷きつつ言った。。
「これが普通、ドラマや映画の世界だったら、二人が再会してよりを戻してハッピーエンド、ってことになるんでしょうけど、実際はそんなにすんなりいくもんじゃないですよ。やっぱり」
「奥さんの方がやっぱり無理だったってことか」
「ええ。不倫をした事実は一生消えないし、一生許すことはできないって。自分たちの目の前から消えていなくなってほしいって。その方が大輝にとっても幸せだからって。奈緒さん、そう言ってました」
「また極端な話だなあ」
 磯島は理解に苦しみ、顔を歪めた。
「ある意味、奈緒さんらしいですけどね」
「大輝くんはそれでいいのか?」
「夫婦の問題だから、二人で決めたことに従うんだと」
「大人だねえ」磯島はかぶりを振った。「でも、家を知られているから、そのうちまた押しかけてくるんじゃないか?」
「一応、もう二度と会わないって約束はしたみたいですけどね。多分また引っ越すんじゃないかな」
「誓約書でも書いたのかな?」
「どうですかね。そこまで詳しく聞かなかったからな」
「それで、その元奥さん、奈緒さんでしたっけ? スクールに入ったんですよね? 俺、見たことあるのかな?」
「ええ。いつもピンク色の派手なランニングウェアを着ている人ですよ」
「ああ、わかった! あの人かあ」
 磯島は思わず手を叩いた。
「しかしまた何でスクールに? 陸上やってたの?」
「いいえ。完璧な文化系ですよ。学生時代は吹奏楽部だったそうです。当時から陸上競技には興味があったけど、親が運動部に入るのを許さなかったみたいで」
「ふーん」磯島はおでんの出汁を一口すすった。「まあ、何にせよ、仲間が増えるのは、嬉しいことですよ。その奈緒さんって人、性格は変わってたりするの?」
「いや、そんなに変な人ではないですよ。ただちょっと、思ったことをすぐ口にする傾向があるけど、悪い人じゃない」
 翔が答えると、磯島は安堵の表情を浮かべた。
「そうか。なら、今度話しかけてみようかな。いやあ、最近は人と仲良くしようにも、少し躊躇してしまいがちで」
「へえ。それはまたどうして?」
 宮川がグラスを手に取りつつ訊ねた。
「うちに今年入ってきた新人が、ちょっとクセのある奴でね……。正直、扱いに困ってるんですよ。俺は平和主義者だから、会社の人とは立場の上下を問わず、基本的に仲良く――仲良くっていうと語弊があるな。まあ、少なくとも憎んだり嫌ったりすることは極力避けつつ、適度に良好な関係を保ちながら気持ちよく日々の仕事をしたいって思ってるんですけどね」
「確かに、それが一番理想ですよね」
 翔は腕組みをしながら頷き、磯島に共感の意を示した。宮川はビールをぐびぐび飲んでいる。
「ただ、あいつを見てるとね、それも難しいなって、最近思えてきちゃって……」
「どんな奴なんですか? その新人社員って」
 宮川がグラスを置いて訊ねた。
「まあ、端的に言うと、自意識過剰ってやつですよ」
 磯島は苦笑いしながら答えた。
「口はやたら達者で」
「でも仕事はできず、使えない」
「そのくせ、もっとやりがいのある仕事がしたいとほざく」
 宮川と翔が交互に言うと、磯島は笑って、そうですねと答えた。
「以前、会議の資料のコピーをお願いしたんですよ。原本通りにステープラーも打って、十セット用意してくれって」
「そしたら?」
「ステープラー綴じの資料が三種類あったんですが、二つ目の資料の一ページ目が一つ目の資料の一番最後に閉じられていたりして、それも皆バラバラで間違えてるんですよ。全部の資料が同じように間違えているならともかく」
「バラバラで間違える方が難しいですよね」
「両面印刷のものが片面しか印刷されてなかったり、カラー指定した資料が平気で白黒印刷されていたり」
「使えねえな、そいつ」宮川が吐き捨てるように言った。
「で、会議の時間が迫ってもなかなか作業する気配を見せないし、急かしてようやく動き出したかと思ったら、一つひとつの仕事がのろいし、私がちゃんと手取り足取り指示しなければいけなかったのかと反省してしまいましたよ」
「磯島さんが反省することはないでしょう」
 翔が身を乗り出して言った。
「はい、いいですか。これとこれはカラー指定で印刷するんですよ。ステープラーはこの組み合わせで打つんですよ。これとこれは両面印刷ですよってか。あほらし」
 宮川が呆れ顔で言った。
「そういう具体的な指示がなかったからいけないんだって、後で文句を言われましたよ」
「うわあ……」
 翔は完全に引いてしまった。
「よくそこでキレなかったですね。俺だったら殴ってるかも」
 宮川が憤慨しながら言うと、磯島は頭をかきながら言った。
「心の中では完全にキレてましたけどね。まあ、このご時世、パワハラとか厳しくなってますからね、やんわりと注意するにとどめましたよ。その代わり、人事評価とかでそれなりの結果が出るんじゃないですかね」磯島はそこではっとして、両手で口を隠した。「おお、あんまり言うと、守秘義務違反になっちゃう」
「そんな奴は、最低評価ですよ。ていうかクビだ、もう」
「まあまあ、落ち着いて」興奮気味の宮川をなだめつつ、翔は磯島に尋ねた。「管理職の磯島さんにすら、そんな態度を取るんだから、他の社員も被害を被ってるんでしょうね、きっと」
「まあ、部下たちからはいろいろな報告が来ますけどね」
「いろいろ、ですか」翔は思わず苦笑した。
「新入社員の研修で居眠りをしてしまった時も、居眠りをするような講義をする講師が悪いって平気で言いますし、締切が設定された仕事を完全に忘れてしまった時も、リマインドの連絡があればちゃんとやってたと言い訳しますし、挙句の果てには、寝坊して遅刻した時、疲れが溜まっているって主張してくる始末で」
「結構、残業とかしてるんですか?」
「いいえ、ほぼ毎日、定時退社ですね。彼は決して仕事で疲れてるってわけじゃないんですよ」
「じゃあ、どうして?」
「ゲームで夜更かししちゃったって、同僚にヘラヘラしながら話しているのを、図らずも盗み聞きしてしまいまして……」
「馬鹿だねえ」
 宮川は座椅子に背中をもたれかけながら言った。
「さっきも言ったとおり、彼は自意識過剰で、自分が優秀な人間だと思い込んでいるみたいで、口ではもっともらしいことを言うんですよ。仕事に軽重大小はない、とか、苦難なくして成長なし、とか」
 翔は思わず吹き出してしまった。
「売れない自己啓発本の見出しみたいですね」
「彼のデスクには、そういう類の本が何冊か置いてありますよ」
「本人は、そういうのをあえて見えるところに置くことで、意識高いアピールを周りにしているつもりなんでしょうね。実際のところは何のアピールにもなってないけど」
「実際に、雑用に近い誰でもできるような仕事を頼むと、こんな他愛もない仕事は自分がやる仕事ではないって断るし、かといって少しばかり難しい仕事を振ったら振ったで、新人の自分には荷が重すぎるって断るんですよね」
「じゃあ、そいつは、一体どんな仕事だったらまともにできるんだよ」
 宮川がぼやくと、翔は冷めた表情で答えた。
「まともにできる仕事なんてないでしょう」
 磯島が何度か頷いた。
「彼には行きたかった部署があるようで、そこに配属されなかったのが不満だって言っているようです」
「そりゃあ、希望しているところに行ける人の方が圧倒的に少ないんだから、仕方ないわな」
 宮川に続いて、翔が言った。
「というか、希望している部署に行きたかったら、今の配属先で一生懸命仕事に取り組めば、チャンスが巡ってくると思いますけどね。そのあたりのことは、デスクに置いてある自己啓発本には書かれていないのかな? まあ、仮に希望の部署に行ったとしても、コピーすらまともにできない今の彼が、ちゃんと仕事をするようになるとは思えないんですけど」
「自分が思い描いていたのとは違っていたとかなんとか理屈をこねて、結局、満足に仕事をしない姿が目に浮かびますよ」
「でしょうね。そういう奴って、どこに配属されてもやることは変わらないでしょうから」
「というか、磯島さん、相当ストレス溜まってますね」
 宮川が茶化すように言うと、磯島は、笑いながら頭をかき、分かりますか? と訊いた。
「分かりますよ。いつになく饒舌だもん」
 そう言うと、宮川は磯島のグラスにビールを注いだ。
 しんしんと冷えた静かな夜が更けていった。


 数日後、翔は買い出しや雑務で、市内をハイエースで走り回っていた。
 遅めの昼食を摂ろうと、幹線道路沿いのファミリーレストランに立ち寄った。ここは席数が多いため、比較的待たずにテーブルにつくことができることから、翔は以前からよく利用していた。
 曇天で陽の光がすっかり隠れてしまっており、いかにも冬の空の様相を呈していた。普段より強めの風が、レストランの広い駐車場を容赦なく駆け抜けていく。翔はダウンジャケットを羽織り、首をすくめながら、小走りで店内へ入った。
 店内は幸いにも空席があり、翔は店員の案内で、隅の二人掛けのテーブル席についた。日替わりランチを注文し、スマホをいじっていると、「高野さん」と呼ぶ声が聞こえた。
 顔を上げると、見慣れた男と、その後ろに若い男性が立っていた。
「磯島さん」
 翔は驚いて思わず声を上げた。その様子がおかしかったのか、磯島は笑った。
「昼休みですか?」
 隣の四人掛けの席に座りながら、磯島は翔に尋ねてきた。
「ええ、ようやく一段落して。磯島さんも?」
「はい。うちらも外回りの最中で」磯島は、向かいの椅子に座った男性の方を見た。「こちらが、以前話した高野さんだ」
「こんにちは」
 翔は男性に声をかけたが、男性はぶすっとした表情で翔に軽く会釈をすると、テーブルに置いてあるメニューを見始めた。
「私の部下の広瀬です。広瀬信之」
 二人の様子を見ていた磯島が、本人の代わりに紹介した。
 広瀬にぞんざいな態度を取られ、一種の違和感を抱いていた翔だったが、努めて平静を装いつつ、磯島にメニューを選ぶよう促した。
 二人はドリンクバー付きのランチセットを頼んだ。注文に応じた店員が立ち去ると、広瀬はぶっきらぼうな口調で、「ドリンクバー、行ってきます」と言い残し、ドリングバーのカウンターへ向かった。
「あの広瀬さんが例の?」
 翔は、広瀬が声の届かない程度まで離れたのを確認し、磯崎に尋ねた。
「そうなんです。すみませんね。うちのが不躾で」
 磯島は翔に頭を下げた。
「いえ、いいんです。何かご機嫌斜めですね」
「私がさっき、少しだけ説教したからだと思います」
「今日もやらかしたんですか?」
「あいつ、別の取引先の見積書を間違えて持ってきたんですよ。今朝、朝イチで会社を出る時に慌てて準備したもんだから……」磯島は頭をやや乱暴に掻いた。「何日か前から、今日は早く出るから準備しておけよって何度も言ってて、本人はその度に大丈夫ですって答えていたから安心していたんですが、結局ろくに準備してなくて……。おかげでアポの時間には間に合わず、その上、この有様ですから、先方にも怒りを通り越して呆れられてしまいまして、もう平謝りでしたよ」
 磯島は忌々しく話した。唖然としつつも、翔は尋ねた。
「重要な取引先だったら、やばくないですか? まあ、重要じゃなくてもやっちゃいけないミスだけど……」
「今回の相手先は小口の案件で、長い付き合いのところだから、まあ大目に見てくれましたけど、しょっちゅうこういうことがあるから、仕事を任せるにも安心して任せられないんですよ」
「本当に手取り足取りやってあげないと、できないんですね」
「他の新入社員は普通にできていますし、今まで見てきた新人でも、ここまでできないやつはいなかったですよ。俺の監督指導がまだまだってことなのかなあ」
 磯島はそこでがっくりとうなだれた。
「大変ですよね……、最近の新人の扱いって」
 ドリンクバーで飲み物を物色している広瀬の後ろ姿を見ながら、翔はため息混じりに言った。
 やがて、広瀬がメロンソーダの入ったグラスとストローを持って戻ってきた。椅子に座ると、テーブルにスマートフォンを置いて操作しながら、もう片方の手でグラスに手を添えつつ、メロンソーダを飲み始めた。
 お前、上司の分も取りに行って来いよ。翔は思わず声を上げそうになった。磯島は翔のそんな思いを察したのか、笑みを浮かべて翔に軽く手を挙げつつ立ち上がると、「俺も行ってくる」と、スマホをいじっている広瀬に一言声をかけ、ドリンクバーへ向かった。
 翔は水を一口飲むと、改めて広瀬の方を見た。下を向いているため、やや長めの髪が顔にかかっている。スーツは無数にしわが入ってくたびれており、右ひじの部分がやや擦り切れていた。シャツもアイロンをまともにかけていないのか、しわが目立っていた。
「どう? 仕事、大変?」
 翔は少し身を乗り出し、広瀬に声をかけてみた。
 広瀬が顔を上げ、翔の方を見た。
「師走は何かと忙しいでしょ」
翔が再び声をかけると、広瀬は不機嫌そうに答えた。
「まあ、大変じゃない仕事なんてないですからね」
 そして、またスマホの画面に視線を戻した。
 翔は広瀬の態度にカチンときたが、踏みとどまった。
「そ、そうだよな。仕事ってもともと大変なものだからね」
 何やってるんだ、俺。こんなやつ、シカトすりゃあいいのに。翔はそう思いつつも、話を続けた。
「職場の人とかはどう? 周りにいる人によっても、仕事の大変さって変わってくるじゃん」
 実業団時代、ほぼ毎日のように感じていたことを、翔は尋ねた。
「何だか、自分の周りは皆レベルが低くて、正直、付き合う気になれません」
 どの口が言ってるんだ。翔は心の中で呟いた。
「君は、レベルが高そうだね」
 翔は愛想笑いした。
「高野さんほどじゃないですよ」
 おっ、もしかして俺を立ててくれるのか?
「でも、高野さん、ピークが大学時代と早かったから、その後の実業団時代はさっぱりでしたよね」
 この野郎。
 翔は奥歯を噛み締めた。
「僕はこれからピークに向かって、更なるレベルアップをしますから。この間、上級職への昇任試験を受けたんです」
「へえ。新人なのに、もう昇任試験?」
「ええ。僕、一般職で採用されたんで、そのままだと出世のスピードが遅いんです。僕みたいな人のために、若手社員は採用試験と同じ内容の試験を受けて合格すると上級職へ移れる制度が、うちの会社にはあるんです」
「そうなんだ。で、手ごたえは?」
「まあ、悪くはないと思います」
「そうか。いずれは社長の座につくかもな」
「はい。そう遠くない将来、僕は社長室にいますよ」
 本気で言っているのか? コピーもまともにできないお前が、違う取引先の見積書を用意するお前が、社長だと?
 広瀬が大真面目な顔で答えたので、翔は笑いを堪えるのに必死だった。
 そこへ磯島が戻ってきた。
 ふう、助かった。
「何か、うちの広瀬が失礼なことを言いましたか?」
 心配そうな表情で席についた磯島に、翔は慌てて手を振って答えた。
「いいえ、そんなことないですよ」
「そうか。なら良かった」
 磯島は安堵の表情でコーヒーを一口飲んだ。
「むしろ、上昇志向が強くて、偉いなって思いましたね。最近の新人は意識が高いって言われているけど、やっぱりその通りですね」
 本人のいる手前、翔は心にもないことを言った。磯島は腕組みをして、首を左右に振りながら言った。
「意識が高いだけなのも、考えものだがねえ」
「課長、言っておきますが、僕はいわゆる『意識高い系』ではありませんから」
 広瀬はそう言うと、ちょうど目の前に運ばれてきたセットのサラダを食べ始めた。忌々しい表情を露わにしている磯島に向かって、翔は苦笑いしつつ「まあまあ」と目で声をかけた。


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