第14話

文字数 9,020文字

 年が明けて二月。
 寒い冬空の日の午後、ランナーズベースに一人の女性が訪ねてきた。
「いらっしゃいませ……あら?」
 受付に座っていた暁子が仕事の手を止め、ゆっくりと立ち上がった。
「こんにちは」女性は暁子に一礼した。
「久しぶり、紗希ちゃん。どうしたのよ、こんなとこに来て。びっくりしちゃった」
 暁子が受付のカウンターから出てくると、寺本紗希は照れ臭そうに笑った。
「近くに用事があったから、寄ってみました」
「そうだったのね。来てくれて嬉しいわ。ささ、あっちに座って。何か暖かい飲み物をご馳走してあげるから、ね」
 暁子は紗希の背中を軽く押しながら、カフェのカウンター席へ案内した。
 紗希が荷物とコートをカウンターの脇に置いていると、暁子の大きな声に気付いたのか、二階にいた宮川が下りてきた。
「おお、誰かと思えば、紗希か。いやあ、しばらくだなあ」
「監督。ご無沙汰してます」紗希は宮川に笑顔で一礼した。「こちら、少ないですが……」
 紗希は宮川に手土産を渡した。
「おお、わざわざ済まんね。ありがとう。さあ、どうぞどうぞ」
 宮川は紗希にカウンターの椅子に座るよう促し、手土産を奥にしまうと、紗希の隣の椅子に腰かけた。
「しかし、驚いたなあ。音信不通になっちゃったもんだから、今頃どうしてるんだろうって思っていたんだ」
「ごめんなさい。監督。ご連絡しなければと思っていたんですが、ついずるずるとここまで来てしまって」
「何、いいんだ。今日こうして直接、紗希の顔を見られて安心したよ。ありがとうな」
「いいえ、こちらこそ」
「今、どこに住んでるんだ?」
「東京です」
「翔と別れてから、ずっとか?」
「はい、そうです」
「そうか」
 暁子が紗希の前にホットカフェラテを、宮川にはブラックのホットコーヒーを置いた。
「東京で、何をしてるんだ?」
「フィットネスクラブで、契約社員で働いてます」
 紗希が大手フィットネスクラブの名前を言うと、宮川は「ああ、あそこか」と呟き、コーヒーを一口飲んだ。
「フィットネスも今、大変だろうな。自宅や外でトレーニングする人が増えたから」
「そうなんですよね。店の統廃合も進んでいます」
 紗希は「いただきます」と言い、カフェラテを飲んだ。
「監督はいかがですか? ランニングステーション、SNSで人気ぶりを拝見してますよ」
「いやいや。まあ、どうにかやっているよ。おかげさまでスクール生も増えているし。ただ、そろそろ何か新しい取り組みをしなければいけないかなって思ってる」
「新しい取り組み?」
「ああ。ランニング以外のスポーツでも教室やプログラムを開講したいし、カフェも軽食とかのメニューを増やしたいな。あと、地域の住民との交流も深めていきたいし、いろいろ構想はあるんだ」
「素敵ですね。まだまだやりたいことがあって」
 紗希が褒めると、宮川は照れ笑いした。
「ここを始めたころはいっぱいいっぱいだったけど、運営が軌道に乗ってきて少し他のことを考える余裕も出てきた。仲間も増えてきて、いろいろ知恵を借りれるしな」
「そうですか。今日来てよかったです。お二人とも、表情が生き生きとしていて、羨ましいです」
「そう? 生き生きとして見える?」
 暁子が両手で顔を触りながら言った。
「ええ。私もいつかはお二人のような暮らしをしたいですもん」
「まあ、隣の芝生は青いっていうし、あまり俺らに憧れてもらっても、何だか困っちゃうなあ」
 宮川は頭をかき、暁子が恥ずかしそうに俯いた。
「ところで……」紗希が店内を見渡しながら、宮川に訊ねた。「今日、翔はいないんですか?」
「おお、翔か?」宮川が真顔になって応じた。「悪い。今日あいつ、お休みなんだ」
「そうなんですか」
「K大にいた山中って、覚えているか?」
「はい」
「去年暮れの市民マラソンに彼も出場していたんだが、走っている途中で倒れて意識をなくしちゃったんだ。翔がすぐにAEDで応急処置をして一命をとりとめて、病院で療養していたんだが、今日、無事に退院できることになって、あいつ、彼に会いに行ったんだよ」
「そっかあ」
「翔に会いたかったの?」
 表情を曇らせた紗希に、暁子が訊ねた。
「ええ」
「どうしたんだ? 急に今になって元カレに会いたいだなんて」
 宮川がコーヒーカップを手にしたまま、紗希に訊いた。
 紗希は宮川の方を向いて言った。
「実は私、四月からアメリカに行くことになったんです」
「えっ、そうなの? また何で?」
 暁子が食器を拭きながら言った。
「もっと専門的な知識を身につけたくて、アスレティックトレーナーの資格を取るために、アメリカに行くことにしたんです」
「じゃあ、しばらく日本には戻ってこられないか」
「はい。なので、出発前に皆さんに挨拶しようと思って、今日お邪魔したんです」
「そうか。じゃあちょっと、あいつ呼んでみるか」
 宮川がスマホを取り出すと、紗希が慌てて制した。
「大丈夫です。いないなら、大丈夫です。山中さんにも悪いし」
「だけど、せっかくこうして来てくれたんだしさ」
「本当、大丈夫です。お気遣いは嬉しいですが、私もこの後、東京に帰らないといけないので」
「そうか?」宮川はスマホをしまった。「済まなかったな。今日来るとわかっていれば、あいつにも伝えたんだが」
「仕方ないです。これまで彼と連絡を取らなかった私が悪いんです」
「だが、君たちが別れてしまった責任の一端は俺にもあるからな」
「あら、どういうことよ」暁子が手を止めた。
「あいつが現役を引退して、二人の関係が悪化しだした頃、外で紗希に偶然会って、相談を受けたことがあったんだ。これからどうしたらいいかって。その時、俺、お互いの今後のことを考えたら、別れた方がいいんじゃないかって、紗希に言ったんだ」
「そんなことがあったの? 知らなかった」
 暁子が目を丸くした。宮川は腕組みをして天井を見つめながら続けた。
「当時のあいつは紗希に甘えているところがあったから、一度距離を置いた方がいいという意味で言ったんだ。まさか、別れて完全に連絡を断ち切るところまでするとは、俺も思っていなかったよ」
「監督は悪くないです。監督や周りの人たちの意見を聞いて、決めたのは、私なんですから。中途半端なことをしてもお互いのためにならないから、あえて、連絡を一切とらないことにしたんです」
 紗希はやや身を乗り出して、宮川に言った。
「だけどなあ……」
「振り返ってみると、私の決断は正しかったのかもしれないって思うんです。あのまま翔と付き合っていたら、二人とも本当ダメになっていたかも」
「うーん、そうかねえ」
 暁子は訝しげに首を傾げた。
「とは言え、わからないですけどね」紗希は苦笑いした。「ダメにならない方法もあったかもしれないけど、今はこれで良かったって、素直に思えるようになったんです」
「紗希がそう思っているんならいいんだが……」
 宮川が身体を小さくして言った。
「それに」紗希は宮川の方を向いた。「彼ももう吹っ切れたみたいだし。付き合っている人とかいるんでしょう?」
「まあ、仲良くしている子はいるみたいだが。あいつはもともとモテるからな」
 宮川は真奈美の顔が脳裏をよぎったが、紗希に気遣い、曖昧な返事をした。
「そうですよね」
 紗希は寂しそうに笑った。
「紗希ちゃんは今どうなの?」
 暁子が訊ねると、紗希は首を左右に振った。「いません。翔と別れてからずっと」
「出会いとかはあるのか?」
 宮川が訊ねた。
「まあ、全くないわけではないですけど、なかなかうまくいかなくて」
 紗希はそこでカフェラテを一口飲んだ。
「翔に未練があるわけではないんです。ただ、学生時代から付き合いも長かったですし、遠くに行ってしばらく会えなくなるだろうから、今日は一言挨拶だけでもと思ったんです。向こうは怒るでしょうけど、私の顔なんか見たくもないでしょうけど、それも覚悟の上で」
「紗希……」
「翔に伝えてください。元気でねって。そして、ごめんねって」
 紗希は二人に向かって微笑みながら言った。
 紗希はカフェラテを飲み終えたところで、ランナーズベースを後にした。宮川と暁子は玄関で、何も言えず黙ったまま、紗希の後姿を見つめていた。


 一か月後の早朝、宮川はハイエースで高速道路を飛ばしていた。助手席には暁子、後部座席には翔が座っていた。
 車内は特に会話もなく、AMラジオのBGMが雑音交じりで響いていた。まだラッシュ前の時間帯のため、クルマもスムーズに流れている。
 翔は一か月前のことを思い返していた。
 紗希がランナーズベースにやって来た日の翌日、休憩時間に入った翔は、宮川から話があると声をかけられ、二階の座敷へ連れていかれた。
「何ですか、監督」
 座敷に座った宮川に、翔が訊ねた。
「実は昨日、寺本紗希が来たんだ」
「紗希が、ここにですか?」
 翔は思わず目を見開いて訊ねた。
「ああ」宮川は神妙な面持ちで頷いた。
「何しに来たんですか?」
「来月、アメリカに行くことになったから、その前に俺やお前に挨拶しに来たんだと」
 宮川は昨日紗希から聞いた話をかいつまんで翔に説明した。
「あいつ、アメリカに行くんですか……」
「お前に直接会って話がしたかったみたいだ。用事があって今日はいないって俺が言ったら、あの子、残念そうな顔をしていたよ。呼び出そうかって訊いたら、いいですって止められた。で、翔に元気でね、そして、ごめんねって伝えてくれって言われたよ」
「そうですか……」翔は黙り込んだ。
「実は、お前に謝らなければならないことがあって」
「謝る? 監督が俺にですか?」
 宮川は頷くと、紗希が音信不通になる直前に、宮川が紗希に偶然会い、翔との別れの相談に応じたことを説明した。
翔は何も言わず、宮川の話をじっと聞いていた。
「ずっと黙っているつもりはなかったんだ。そのうち仲直りするだろうと思って様子を見ていたんだが、全然動きがなくて、そのうちにお前ももう吹っ切れたみたいだったから、話すタイミングを逸して、ずるずるとここまで来てしまった。申し訳ない」
 宮川はそこで翔に頭を下げた。
「監督が謝ることないですよ」翔は穏やかな口調で言った。「仮に監督が俺にその話をしていたところで、俺は紗希と連絡が取れなかったんだから、結果はどのみち同じですよ」
「いや、別れのきっかけを作った原因は俺にもあるだろうし」
「別れるのを決めたのは紗希でしょう? 監督はアドバイスをしただけなんだから、そんな責任を感じることはないっすよ」
「紗希にも同じようなことを言われたよ」
 宮川は苦笑いした。
「でも、ちょっとほっとしましたよ」
「ほっとした?」
「あいつが元気でやっているのがわかったから。安心しました」
「そうか」宮川は伸ばしていた背筋を緩めた。
「翔」
「何ですか?」
「昨日、紗希の連絡先を教えてもらったんだ」
「そうですか」
「会いに行かなくていいのか?」
「うーん」翔は少し逡巡して答えた。「今更会ったところで、何かが変わるわけでもないし、時間の無駄になるだけですね」
「だけど、アメリカに行っちゃうんだぜ」
「あいつがどこへ行こうが、今の俺には関係のないことですよ。これまで音信不通だったくせに、アメリカ行きを控えて寂しくなったもんだから、ここに来たんでしょう。勝手な女ですよ」
 翔は吐き捨てるように言った。
「翔……」
「そろそろ休憩終わるんで、いいっすか?」
 翔は席を立つと、一階へ下りて行った。
 もう紗希のことなんて、知ったことではない。今の俺には、監督や暁子さん、ランナーズベースの皆、そして真奈美がいる。俺は生まれ変わったんだ。監督から聞いた話は忘れてしまおう。
 翔はそう思いながら、日々を過ごした。だが、紗希のことを忘れるどころか、むしろ日を重ねるごとに気になってきた。
 あいつは、アメリカで一人でやっていけるんだろうか。資格の勉強もあるが、語学の勉強だってしなければならないだろう。どれくらいの間、向こうにいるつもりなんだろうか――いやいやいや。どうして終わった人のことを気にしてるんだ。
 もやもやした気持ちをランニングやトレーニングで紛らわそうとしたが、状況は変わらなかった。
「明日の早朝に、紗希、日本を出発するぞ」
 三月に入り、仕事を終えて帰ろうとしている翔に宮川が声をかけた。
「本当に会わなくていいのか?」
「はい」
 翔は帰り支度の手を止めずに答えた。
「明日、俺と暁子は、空港へ見送りに行ってくる」
「そうですか」
 翔はランナーズベースを出て自転車に乗ると、真奈美の住んでいるマンションに向かった。真奈美の実家から国産牛のステーキ肉が送られてきたらしく、今日、ご馳走してくれることになっていたからだ。
 真奈美の自宅に入ると、ステーキソースの美味しい香りが部屋中に漂っていた。
「もうすぐできるから、座って待ってて」
 エプロン姿の真奈美がキッチンから出てきて、翔にソファをすすめた。翔は「ああ」と生返事をして、ソファに深く腰掛けた。
 部屋の天井を見つめたまま、翔はぼんやりと考えていた。
 このまま紗希に会わないままで良いのだろうか。過去の人かもしれないが、学生時代から苦楽をともにしてきて、長いこと彼女に支えてもらってきた。紗希がいなかったら、俺はランニングをとっくにやめていたかもしれない。俺はどうしたら――
「お待たせー」
 真奈美が嬉しそうに、分厚いステーキが乗った皿をテーブルに置いた。
「さあ、食べよ。喉が渇いちゃった」
 真奈美は翔の隣に座ると、缶ビールの栓を開け、二つのお揃いのグラスに注いだ。
「あら、翔、どうしたの?」
 微動だにしない翔を見て、真奈美が声をかけた。
「どうしちゃったのよ。元気ないじゃない。早くステーキ食べて、元気出そうよ」
 真奈美はステーキ肉をナイフで切って食べ始めたが、翔は手を付けようとしなかった。真奈美はナイフとフォークを置いた。
「本当、どうしたの? 何かあったの? 相談なら私、何でも聞くよ。話すだけでもすっきりするから」
 真奈美が優しく微笑みながら、翔に話しかけた。
 翔は意を決して口を開いた。
「こんなこと、真奈美に相談することじゃないかもしれないけど……」
「どんなこと?」
 真奈美の穏やかな表情を見て、真奈美になら素直に自分の気持ちをさらけ出せると、翔は改めて実感した。
 翔は紗希の件について、真奈美に説明した。真奈美は何も言わずに、翔の話を最後まで聞いてくれた。
「そうか、そういうことがあったんだね。あまり、翔、過去のこととか話してくれなかったから」
「そりゃあ、元カノのことなんて話せないし、俺の中でも、なかったことにしたいって気持ちがあったからさ」
「なるほどね」
 真奈美はビールを一口飲んだ。
「こんなこと、真奈美に話して、何だか申し訳ない」
「えっ、別に謝ることじゃなくない?」
 真奈美は笑いながら言った。
「とにかくさ、明日、四の五の言わずに会ってきなよ」
「え……?」
 翔は真奈美の顔をまじまじと見つめた。
「このまま、紗希さん?――がアメリカに行っちゃったら、多分、翔はずっと後悔することになるんじゃない?」
「後悔……」
 真奈美が頷いた。
「その子もきっと、喜ぶんじゃないかな。最後、ちゃんと会って後腐れのないようにした方が、お互いのためだと思う」
 翔は腕組みをしたまま、考え込んだ。
「行ってきなって。ほら、私が背中を押してあげる」
 そう言うと、真奈美は翔の背中を思い切り叩いた。
「相変わらず加減してくれないんだな……」
 翔は顔をしかめつつ、立ち上がった。
「でも、今ので決心がついたよ。ありがとう」
 翔はカバンからスマホを取り出し、電話をかけた。
 AMラジオが七時の時報を鳴らしたため、翔はそこで我に返った。
 ハイエースはいつの間にか、高速道路から直結している空港連絡道路に入っていた。
 料金所を通過すると、目の前の風景が開け、空港の滑走路が現れた。飛行機が轟音を立てながら離着陸しているのが見えた。
 空港敷地内に入り、ハイエースを駐車場に停め、三人は空港の国際線ターミナルの建物に足を踏み入れた。平日の朝で、人出はそう多くなかった。
「この辺にいれば、じきに来るだろう。この会社の飛行機だそうだ」
 宮川は、日本の大手航空会社のロゴが掲げられたカウンターを指差しながら言った。
 宮川の話では、紗希は昨晩、空港近くのホテルで一泊し、今日の九時二十分発の飛行機に乗るとのことだ。そばにある時計は七時四十分を過ぎていた。出発時刻の一時間前までには搭乗手続きをしなければならないため、紗希がいてもおかしくはないのだが、姿は見当たらなかった。
「俺、ちょっと、トイレに行ってきてもいいですか?」
 翔は宮川に訊ねた。
「ああ、行って来い。俺は紗希に連絡してみる」
 宮川がスマホを持っている手を振りながら、応じた。
 翔は建物の隅にあるトイレに入った。
 もうすぐ、紗希と会える。だけど最初、何て声をかければいいんだろうか。普通に「久しぶり」と言えばいいか。いや、それだけじゃあ冷たく思われるかな。でも、それなりの仕打ちを受けたわけだし、少し冷たいくらいがいいんじゃないか。だけど、アメリカへ行くのに不安だろうから、優しい言葉をかけた方がいいのかも。しかし、もう別れた間柄なんだから、そこまで気を遣う必要もないか……。
 あれこれ考えながら手を洗い、翔はトイレを出た。すると、すぐ近くにある出入口の自動ドアから、女性がスーツケースを転がしながら入って来たのが見えた。
「紗希!」
 翔は紗希に向かって声をかけた。
 カウンターの方へ向かっていた紗希が、振り返った。
 翔の姿に気付いた紗希は、その場にスーツケースを置き、両手で口元を覆った。
 翔は紗希のもとへ駆け寄った。
「翔、どうして……?」
「監督に連れてってもらったんだ。今日出発だって聞いたから、最後、会いたくて」
 翔が答えると、紗希の顔が歪み、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「私……、翔に酷いことをしたのに……、それなのに、来てくれるなんて……」
「もう、いいんだ」翔は紗希の肩を優しく叩いた。「悪いのは俺の方だったんだから。お前にいろいろ迷惑かけたんだし、因果応報だよ」
「でも、もっと違う方法があったかもしれない。本当にごめんなさい」
「いや、お互い、これで良かったんだ」
 翔は紗希の目を見て言った。「紗希のおかげで、俺は監督のもとで働くようになって、いろいろな人と関わりながら、生き方を改めることができたんだ」
「生き方……?」
「俺は、自分さえ良ければそれでいいと思っていた。他人のことなんか大して興味がなかったし、どうでもいいとさえ思っていた。だが、そんな姿勢じゃ、周りはついてくるわけないよな。引退して当然だったんだよ」
「翔……」
「辛いこと、苦しいことがあれば、強がらずにSOSを出す。そして、そんな人がいたら、手を差し伸べてあげる。そうしてお互いに支えあっていけば、皆、ハッピーに日々を過ごせるし、明日に希望を持ちながら走っていくことができる。ランナーズベースの皆から、俺はそのことを教わったよ。今更感がすごいけど」
 翔はそこで苦笑した。「もっと早くそれを学べって話だよな」
「そんなことないよ。翔、変わったと思う。ランナーズベースのSNSを見てて、素敵だな、頑張ってるんだなって」
紗希はそこで俯いた。「会いたいと思ったこともあったけど、こっちが連絡を断っておいて、それは虫が良すぎるし、会ってくれないだろうと思って……」
「去年の暮れ、市民マラソンを見に来ていたんだろう?」
「えっ、なんで知ってるの?」
 紗希は顔を上げた。
「山中が、走っている最中に紗希の姿を見かけたんだって」
「山中くんが……。そうだったんだ。もう、具合は大丈夫なの?」
「ああ。退院して、これまでと変わらず、元気にやっているようだ」
「そうなんだ。監督からあの日、山中くんが倒れたのを翔が助けたって聞いて、凄いなって」
「凄くはないよ。俺もあんなことが目の前で起こって、びっくりしたんだ。うろ覚えの知識で応急処置をして、いっぱいいっぱいだったよ」
 翔はかぶりを振りながら答えた。
「マラソン、見に来てくれたんなら、声をかけてくれれば良かったのに」
「翔は私と会うのが嫌なんじゃないかって、顔も見たくないんじゃないかって思ったから……」
 紗希はしゃくりあげながら言った。
「許してくれないとは思うけど、最後に謝らせて。ごめんなさい」
 紗希は深く頭を下げた。
「やめてくれ。顔を上げてくれよ」
 翔は紗希の肩を掴み、強引に上半身を起こした。
「もういいって、言っただろう? 今更、許すも許さないもないって。俺の方こそ紗希に謝らないと。済まなかった」
 今度は翔が深々と頭を下げた。
「翔……」
「それから、ありがとう」
「え?」
「さっきも言ったけど、紗希のおかげで、俺は変わることができたし、大事なことを教わることができた。本当に感謝してる」
「感謝だなんて、そんな……」
「さあさあ、もう搭乗手続しないと、飛行機に乗り遅れるぜ」
 翔は紗希のスーツケースを引き、宮川たちがいる搭乗手続カウンターに向かった。紗希が慌てて翔の後を追ってきた。
 宮川たちと合流し、搭乗手続を終えると、四人は雑談をしながら、ゆっくりと手荷物検査場の入口に向かった。
「ここで、お別れだな」
 宮川が紗希の方を向いて言った。
「いよいよね。大変だろうけど、頑張ってね。紗希ちゃんなら、きっと上手くいく」
 暁子が力強く言い、紗希の両手を握った。
「ありがとうございます。行ってきます」
 紗希は三人に一礼して、手荷物検査場へ向かって歩き始めた。
「紗希」
 翔が紗希の背中に声をかけた。紗希は立ち止まり、振り返った。
「さよなら。元気でな!」
 翔が笑顔を見せると、紗希も嬉しそうに微笑んで手を振った。
「さようなら。翔も元気でね」
 翔たちは紗希の姿が見えなくなるまで、その場で見送った。
「飛行機、見送ろうぜ」
 宮川が屋上の展望デッキへ続くエスカレータを指差しながら、歩き出した。いいね、と言って暁子も後を追った。
 俺も頑張って走り続けよう。
 翔は紗希のいなくなった手荷物検査場を見つめながら、思いを新たにした。
「おい、翔、何やってんだ。早く来いよ!」
 三十メートル先から、宮川が翔に向かって叫んだ。
「今、行きます!」
 翔は慌てて、宮川たちのいる方へ駆けて行った。
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