第9話

文字数 8,804文字

 別の日の夕方、翔は仕事を終えて商店街のカフェに立ち寄った。近くのクリーニング屋で、今日仕上がり予定の衣類がまだ工場から店に届いておらず、もう少し待ってほしいと言われたため、時間を潰す必要があったからだ。翔はスマホを弄り、大手のSNSのサイトを開き、友人の投稿をチェックした。
 今日も様々な投稿がアップされている。三人目の子供を産んだという高校時代の同級生(おおっ、おめでとう!)、海外出張で行く先々の風景の写真を頻繁にアップしてくる元勤務先の先輩(仕事してるんすか?)、スマホを紛失して慌てふためいてコメントしている大学時代の友人(落ち着け、投稿する前にやることがあるだろ?)、忘年会の余興で奇抜なメイクでダンスをしている動画を投稿したランニングスクールの生徒(あの人、こんな一面があったんだ。)――翔はそれらの投稿を流し読みし、コメントを入れたり、リアクションのボタンを押したりして過ごした。
 そういえば……。翔はスマホを操作する手を止めた。
 紗希もこのSNSのアカウントを持っていた。会えなくなってからというもの、友人と流行りの店で飲んだとか、少し凝った料理を作ったなど、近況報告めいた投稿が翔のウォールにも時折掲載されるが、翔と付き合っていた時の紗希の姿はそこにはなかった。髪型や表情、服装などはさほど変わってはいないが、翔にはまるで別人のように見えて仕方がなかった。
 見てみたいという衝動に駆られて、紗希のタイムラインを開いた。翔と一緒に過ごしていたことがわかる投稿は、ばっさりと削除されていた。悪天候の中テーマパークに遊びに行ったこと、旅行で思いがけず美味しいご当地料理に巡り合ったこと、付き合って何年目かの記念日に互いにプレゼント交換をしたこと――何もかもがなかったことになっていた。
 ショックだった。
 決して短い交際ではなかったのに、まるで自分との思い出が最初からなかったかのような、はなから自分と付き合っていなかったかのような、そんな仕打ちを目の当たりにし、さすがの翔も落ち込んだ。
 翔はスマホをテーブルの上に置き、コーヒーを飲んだ。
 あいつ、アカウント持ってんのかな?
 ふと、翔はそんなことを思った。ああいうキャラクターだから、きっと、まとめサイトで定期的に取り上げられるような痛々しい投稿しかしてないだろう。
 翔は再びスマホを手に取った。そこで昔、高校の担任が言っていたのを思い出した。人間は自分が不幸だと感じると、それを払拭するために、自分よりも不幸な人を探して安心しようとする。自分が無能だと感じると、それを否定するために、自分よりも無能な人を探して安心しようとする。どのようなシチュエーションで言ったのかは全く思い出せないが、不思議なことに担任のその言葉だけは今でも覚えていた。
 まさに今の俺がそうだ。なんて卑しいんだろう。そう思いつつも、スマホのスクリーンをなぞっている指は、着々と広瀬信之の名前を入力していた。検索ボタンを押すと、数人の同姓同名のアカウントが検索結果の画面に表示された。
 プロフィールの顔写真と勤務先で、磯島の部下の広瀬はすぐに特定できた。タイムラインを開き、翔は唖然とした。ほぼ毎日深夜に投稿していたからだ。

今日も同じ部署のあいつは、仕事が遅い。なのに、上司はあいつを叱らず、俺ばかり叱ってくる。今に見てろ。あいつよりは絶対に偉くなってやる。

 上昇志向があるのは結構だが、仕事が早ければいいってもんでもないだろう。というか、会社の同僚もおそらくこの投稿を見るんじゃないだろうか。どうするんだろう。翔は首を傾げつつ、別の投稿を見た。

今日も終電まで残業をしてしまった……。これで三日連続だよ。忙しいけど、やりがいがあるし、毎日充実している。同期のみんなは早々と飲みに出かけて行った。こういうところで人間は差がつくんだと思う。

 出たよ、残業自慢。遅くまで仕事をするのが偉いとでも思ってるのか? 人の仕事を遅いと言ってるくせに、お前だって実際遅いじゃねえか。つーか、他の同期社員はちゃんと仕事を終えて飲みに行ってるのに、それをぶっちぎってやるほどの重要な仕事だったのか? 差がつくというか、逆につけられちゃうんじゃないか? そもそも、磯島さんの話だと、定時退社がデフォルトじゃなかったっけ? ということは、こいつ、また何かやらかしたな?
で、翌日の投稿が……?

寝坊した。全然起きられなかった。昨日飲みに行ってた同期からの電話で目が覚めた。こうも毎日残業してるんだから、一日くらい勘弁してほしいよ。

 いや、勘弁しちゃだめだろ。寝坊したら、昨夜の残業の意味がないし。また、SNSかゲームで夜更かししていたんじゃないか?

もっとやりがいのある仕事がしたい。あいつはいろいろ面白そうな仕事を任されているのに。こんな雑用ばかりじゃ、やってられないよ……。部下を見る目がない上司が上にいると厄介だなあ。

 何、泣き言を言ってるんだよ。しかも、勤務時間中じゃんか、この投稿……。そんなんだから、いつまで経っても雑用しか任されないんだよ。人のことばかり言ってないで、目の前の仕事をちゃんとやれよ。
 投稿を見れば見るほど、翔の苛立ちは増していった。そして、スマホをスクロールする速度も増していった。こんな低レベルの投稿をひとつひとつ見るのが面倒になってきたからだ。
 広瀬の投稿をしばらく流し読みし、トップページに戻ると、ちょうど新しい投稿がタイムライン上に現れた。翔は画面をタップし、その投稿を読み始めた。

会社の昇任試験に落ちた……。かなり手ごたえがあったのに、落ちるなんて……。どうして、どうして、周りは俺を認めてくれないんだろう。今日は一人で気の済むまで飲もう。

 一人で飲むと言っておきながら、投稿には現在の居場所が表示されていた。そこはなんと、翔が宮川と再会した居酒屋だった。このカフェから三分も歩けば着く距離だ。
 おいおい。あいつ、この近くで一人で飲んでいるのか……。こんな日は、誰かと一緒に飲んで憂さを晴らした方がいいんじゃないか? いや、逆に一人になりたかったのか? だとしたら、わざわざ居場所を示す必要はないよな。
 翔は居酒屋のある方角に目を向けた。クリーニング屋はまだ時間がかかりそうだし、ちょっと広瀬の様子を見に行ってみるか。
 翔はコーヒーカップを返却口に戻すと、居酒屋へ向かった。
 平日だが、居酒屋はかなり混んでいて、店員たちも忙しそうに店内を動き回っているのが店の外からでも確認できた。外の路上にもテーブル席や立飲み席があり、トイレに行くために店内に入っていく客もいるため、翔一人が出入りしてもさほど目立たない状況にあった。
 広瀬は店外の席にはいなかったので、翔は店内に入った。とても賑やかで、店内の有線放送もまともに聴こえない。
 どこにいるのか? 翔は店内をぐるりと見渡した。一人だからカウンター席か立飲み席にいるだろうと思い、そちらを重点的に探したが、広瀬はいなかった。
 じゃあ、テーブル席か。すぐ近くは一人から二人向けの席だが、そこにもいない。となると、奥の大人数向けのエリアにいるのか? 翔は店の奥へと進んだ。一体俺は何をやっているんだと思ったが、ここまで来てやめるのも中途半端なので、翔は足を止めなかった。
 四人掛けのテーブル席のエリアを回った。翔の目の動きが止まった。
 隅の席で広瀬が一人で座っていた。以前レストランで会った時のように、長めの髪を垂らしつつ、下を向いていたから顔は見えなかったが、その時に着ていたのと同じしわしわのスーツだったから間違いない。だが、今日は手にはスマホを持っていなかった。テーブルには枝豆と唐揚げが置いてあり、スマホはそれらの脇に無造作に置かれていた。
 この混雑している中、一人で四人掛け席に座るとは、度胸があるというか、空気が読めないというか……。翔は軽くため息を一つした。
 周りの席では様々なグループ客が飲み食いしながら盛り上がっているが、広瀬の席だけ空気がどんよりとしており、別世界のようだった。広瀬はうなだれているように見えた。最近の漫画だったら、彼の頭上あたりに縦線が幾つも入っているであろう。そんな雰囲気が醸し出されていた。
 試験に落ちたのが相当ショックだったのか……。
 翔は何だか広瀬のことが可哀想になってきた。
 せっかくここまで来たんだ。声をかけてみるか。
 翔は広瀬の席に歩み寄った。
「広瀬くん」
 翔が声をかけると、広瀬はゆっくりと顔を上げた。目のあたりが赤く腫れており、少し潤んでいるように見えた。
「高野……さん?」広瀬が口を開いた。
「この間はどうも」
「どうして、ここに?」
 高野が不思議そうな表情で翔に訊ねた。
「ああ。これを見て来たんだ」
 翔は自分のスマホを広瀬に見せた。画面には例の広瀬の投稿ページが表示されていた。
 広瀬は画面を見た瞬間、顔を歪ませ、突如泣き始めた。
「ど、どうしたんだ?」
 予想外の広瀬の反応に、翔は戸惑いながらも訊ねた。広瀬は泣いていて、なかなか答えてくれない。周囲の客が何事なのかといった表情で翔たちをチラチラ見ているのが、翔にも分かった。翔はとりあえず、広瀬の向かいの椅子に座った。
 しばらくして広瀬の号泣が収まってきたところで、翔は再び訊ねた。
「なあ、どうしたんだ?」
「自分が惨めで仕方なくて……」
 広瀬はべそをかいたまま、答えた。
「昇任試験に落ちたからだろう?」
「はい……」
「それで、誰かに慰めてほしくて、SNSでわざと自分の居場所を知らせて、わざわざ四人掛けのテーブルをとって待っていたのに誰も来ず、結局来たのは俺だけだったもんだから、惨めになったんだろう?」
 広瀬は黙っていた。翔は続けて言った。
「君のSNSって、友達登録している人も含めて、あまり興味を持っている奴がいないよね? そりゃあそうだよ。投稿している内容がいつもいつもこんな自意識過剰じゃあ、誰だって見もしなくなるよ。実際、君の投稿って『いいね』も少ないし、ほとんどコメントもついてないじゃないか」
「でも、高野さんだって、現役時代は結構ビッグマウスだったじゃないですか」
「てめえと一緒にすんじゃねえよ」
 翔はにこやかに答えた後、広瀬を思い切り睨みつけた。広瀬は蛇を前にした蛙の如く、小さくなった。
「お前が試験に落ちた理由は、そのあたりにあるんじゃないか? 自己啓発本ばかり読んで分かったつもりになって、ろくに自己研鑽もせず、謙虚さのかけらもなく、何か悪いことがあったら、自分の不手際は棚に上げて、全部他人のせい、周りのせい、環境のせいにして、挙句の果てに勘違いして自分より実力のある人間を妬んだり、見下したりするというね。そんな奴を会社が昇任させたいと思うか?」
「……」
「ったく、ちゃんと自己分析しろよ。己の実力を分かっていないから、痛々しいくらいに勘違いして、周りが離れていくんだよ。現実を見ろよ」
 そこで翔は内心はっとした。
 これって、俺にも当てはまるんじゃ……。だとしたらまさにブーメランじゃないか。あまり偉そうに説教垂れるのもまずいな……。
 改めて広瀬を見ると、広瀬はまた涙目になっていた。
「悪い。ちょっと厳しく言い過ぎたな」
 翔が優しく声をかけると、広瀬はまた声を上げて泣き始めたので、翔は焦った。周りの客の視線が痛くて耐えられない。どうしたものか――
 そうだ。
「ちょっとごめん。すぐ戻る」
 翔は泣いている広瀬に声をかけると、席を立ち、トイレの前のスペースでスマホを取り出して電話をかけた。五分後、電話を済ませて席に戻ると、広瀬はまだ泣いていた。
「広瀬くん、ここは俺が奢るよ。その代わり、ちょっとだけ付き合ってくれないか?」
 翔はテーブルの伝票を手に取り、レジに向かった。広瀬は顔を拭くこともせず、のっそりと立ち上がり、翔の後に続いた。


「さあ、着いたぞ」
 翔は立ち止まると、広瀬に声をかけた。
「ここは……?」
 広瀬が涙で汚れた顔のまま、翔に訊ねた。
「俺の今の職場だ」
 翔はランナーズベースのドアを開けて中に入った。広瀬もついてきた。既に店は閉店しており、玄関の照明も消えているが、一階の奥は照明がまだ点いており、暁子が片づけをしている最中だった。
「暁子さん、急にすみません」
 翔は暁子に頭を下げた。
「本当よ。もう帰ろうかと思ってたところだったから」
「ごめんなさい」
 翔は合掌して再度謝った。
「もう始まってるわよ」
 暁子は苦笑いしながら、天井を指さして言った。
「ありがとうございます」
 翔と広瀬は階段を上って行った。仄かに出汁の香りがした。
 和室に行くと、宮川がいた。そして、こたつを挟んだ向かいに男性が座っていた。翔たちに背中を向けている格好なので、男性の顔はこちらから見えない。
「おお、待ってたぞ」
 宮川が翔たちに向かって右手を上げた。
「監督、すみません。閉店間際に無理なお願いしてしまって」
「何、構わないよ。もともと一人で飲んでいたところだからな」
 翔は広瀬の方を向いて言った。
「俺の大学時代の監督だった宮川さん。今はここの店のオーナーだ」
「広瀬くんだね。初めまして」
 宮川が広瀬に一礼すると、広瀬もそれにつられる形でお辞儀した。そして広瀬が顔を上げると、広瀬の表情が一変した。
「よう、お疲れ」
 宮川の向かいに座っていた男性がこちらを振り向いていた。磯島だった。
「か、課長。どうしてここに……?」
 広瀬が状況を飲み込めない様子でうろたえた。そんな広瀬の横で、翔は磯島に挨拶した。
「磯島さん、ありがとうございます」
「いやあ、高野さん、うちの広瀬と一緒にいるって宮川さんから聞いた時は、びっくりしましたよ。いつからお二人はそんなに仲が良くなったのかなって」
 磯島が笑いながら言うと、翔は「あははっ、仲良く見えますか?」と訊ねつつ、広瀬に説明した。
「君が試験に落ちて、人が多い中で号泣するもんだから恥ずかしくなっちゃって、場所を変えようと思って、監督に電話して、磯島さんにも急遽来てもらったんだ」
「さあ、とりあえず座って乾杯しようぜ。ここはあったかいぞ」
 宮川が促すと、翔と広瀬はこたつの空いている席に座った。その間に、磯島が四人分のコップに瓶ビールを注ぎ、宮川がおでんを取り分けた。
「それじゃあ、残念会ということで、乾杯」
 四人は乾杯し、ビールを口にした。
 翔はおでんをかじりつくように食べ始めた。
「お前、飯食ってなかったのか?」
 宮川が訊ねると、翔はおでんを食べながら「はい」と答えた。「どこかで食べようか、買って帰ろうか、迷っていた矢先だったもんで」
「さあ、お前も食べて、元気出せよ」
 磯島が広瀬に優しく声をかけたが、広瀬は箸に手を伸ばさず俯いていた。
「今日も牛すじがよく煮えてて、うまいっすね。さすが暁子さんだ」
 翔はおでんのおかわりをしながら言った。
「課長、どうしてここにいらっしゃるんですか?」
 広瀬がさっきと同じ質問をした。
「私はここのランニングスクールに通っているんだ」
「ランニングスクール? 課長、走られるんですか?」
「ああ」
「知りませんでした。でもどうして……?」
「まあ、いろいろあってな……。というか、私の話はまた今度だ。今日はお前のための酒席だからな。さあ、飲もう」
 磯島は空になりかけた広瀬のグラスにビールを注いだ。広瀬は軽く会釈し、ビールを飲んだ。
「試験に落ちたのが、悔しかったのか?」
 磯島が訊ねると、広瀬は俯き加減で頷いた。
「手ごたえはあったのか?」
「はい」
「そうか。それだと確かに悔しいだろうな」
 磯島は腕組みをした。
「何故落ちたのかがわからなくて、悩んでいたんですけど、さっき、高野さんにいろいろ言われて、自分は確かに昇任に値しないんだろうなって、気が付きました。というか、社会人として不適格なんじゃないかって思い、この仕事を続けていくべきなのかどうかも、わからなくなってきました」
「広瀬くん、それってまさか、会社辞めるってこと?」
 宮川が少し慌て気味で訊ねた。広瀬は無言だった。
 それまでおでんをほおばっていた翔は、たまらず口を開いた
「お前さあ、試験に一回落ちただけで、何なんだよ。ここで辞めて再就職したところで、今のお前じゃあ、また同じようなことを繰り返すのがオチだぜ」
 広瀬は顔を上げて、翔をじっと見た。
「試験って、ペーパーテストに加えて、普段の勤務態度とか実績などを評価して合否を判定するんだろう? 俺が前に勤めていた会社もそうだったから分かるよ。さっきも言ったかもしれないけど、いくらペーパーテストの成績が良くても、日頃、自分のことを棚に上げて、他人のせいにしたり妬んだりしているようじゃ、そりゃあ良い評価はつけられないって。そうですよね? 磯島さん」
「あ、ああ。私の立場上、あまり多くは言えないけど、高野さんの言うとおり、日常の勤務態度とかも勘案して合否を判定するのは、事実だ」
 急に話を振られたせいか、磯島は一瞬たじろぎつつも答えた。
 翔はビールを二口、三口飲んて、再び口を開いた。
「さっき俺、君と一緒にするなって言ったけど、俺も、昔は君に似ているところもあったかもしれない」
「似ている?」
 広瀬が訊ねると、翔は首を縦に振った。
「俺、学生時代はなまじ走るのが速かったから、天狗になっていたというか、調子に乗っていたんだ。大したことないくせに実際よりも実力があるんだって勘違いして、生意気なことばかり言ってて。その報いなんだろうな。足を故障して引退して、周りの人間も離れていって。そんな中、監督が俺を救ってくれたんだけど」
「俺はお前を救ったつもりはないんだがな。お前がここで働いてくれて、むしろ俺の方が救われたくらいなんだが」
 宮川はそう言うと、ビールをぐびぐび飲んだ。
「でも、高野さんの場合は、箱根で活躍するほどの実力があったわけで、努力もなさってたんですから、広瀬とは次元が違うんじゃないかな。こいつはまだ新人で実力があるわけではないですからね」
 磯島が言うと、翔は首を左右に振った。
「いや、似ていると思いますよ。何だか、こいつ見てると、昔の自分を見ているような感覚になるんですよ」
「へえ、そうなんだ」磯島が意外そうな表情で言った。
「だからなのかなあ。こいつのこと、何か放っておけないんですよね」
 すると、宮川がしみじみと言った。
「お前も変わったなあ。現役時代だったら、そんな風に思わなかっただろうに」
「確かに。変わりましたね。」
翔は苦笑しながら答えた。そして広瀬を見て言った。
「だから、お前だって、これから先、変わることはできるはずだぜ。まだ若いんだから、多少失敗したって許されるんだし、今諦めるのは早すぎるんじゃないか?」
 翔に続き、宮川が頷きながら言った。
「そうだな。謙虚になる必要はあるだろうが、決して卑屈にはならないことだ。そして、ポジティブシンキングでいれば、それだけで物事が良い方へ動いていったりするもんだ。まずはそこから始めてみればいいんじゃないか? 人は人、自分は自分だ」
「広瀬、これだけありがたい言葉をかけてくれる人がいるなんて、お前、幸せ者じゃないか」
 磯島が広瀬の背中を軽く叩いた。広瀬は涙を流していた。
「おいおい、また泣き出したよ」
「まあ、いいじゃないか。今日ぐらいは気の済むまで泣かせてやれよ」
 翔がぼやくと、宮川が優しくたしなめた。
 広瀬は涙をハンカチで拭くと、ぽつりぽつりと話した。
「自分はこれまで友達がいなくて、せっかくできても、すぐに避けられたり疎遠になったりしていたんです。だから、自分のことを気にかけて、こういう風に言ってくれること自体が初めてで……、嬉しいんです」
「そうか……」翔が応じた。
 宮川が広瀬の目を見て言った。
「君の本音や本性が垣間見えたから、俺たちも率直な思いを君に話すことができたんだ。 SNSで自分を偽って取り繕って飾り立てて、周りに対して見栄や虚勢を張っているだけじゃ、人はついてこないと俺は思っている。たまには、自分をさらけ出してみるのも、いいんじゃないかな」
「広瀬、今回は残念だったけど、まだチャンスはある。次に合格できるよう、これから頑張ればいいんだ。焦ることはない。私が君をサポートしていくから、これからもよろしく」
 磯島が右手を差し出した。広瀬もおずおずと右手を出し、二人は握手した。
「よろしく、お願いします」
 宮川がビールを広瀬のグラスに注いだ。
「さあ、もう泣くのはこれで止めにして、飲もう。おでんも食べてくれよ」
「はい。ありがとうございます」
 広瀬はそこでようやく、おでんを食べ始めた。
 翔は広瀬に声をかけた。
「なあ、広瀬くん。君もランニングスクールに参加してみないか?」
「ランニングスクールに?」
 広瀬は戸惑いの眼差しを翔に向けた。
「うん。最近は君と同年代のスクール生も増えてきているし、ここなら、同年代以外の人とも友達になれると思うよ。リアルなコミュニティでいろいろ刺激を受けた方が、これからの君にとっても、いいんじゃないかな」
「おお。ぜひ参加してくれよ。歓迎するよ」宮川が嬉しそうに言った。「広瀬くん、ランニングの経験は?」
「ないです」
「そうか。まあ未経験の人も多いから、気にすることはないよ。これから磯島課長と一緒に練習しよう」
 翔が言うと、磯島が「いや」と手で制し、広瀬に向かって言った。
「スクールの時は、私は君の上司ではなく、ライバルで同志だ。一緒に楽しく走ろう」
「はい。よろしくお願いします」
 初めて広瀬に笑顔が見られた。
 宮川は「おでんを補充してくる」と言い、一階へ降りて行った。「まだ食べるの?」と、暁子の呆れた声が二階にも聞こえてきて、翔は気まずくなった。
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