第1話

文字数 8,321文字

 令和××年一月三日の午後。第一京浜道路の歩道は、大勢の観衆で埋め尽くされていた。
 B大学駅伝部のキャプテンで四年生のエース、高野翔は、羽織っていたロング丈の紺色のウインドブレーカーを脱ぎ、サポートについている後輩部員に手渡すと、歩道からおもむろに車道に出た。
 ここは横浜市内。今やすっかり正月の風物詩となった東京箱根間往復大学駅伝競走、通称・箱根駅伝の復路で、第九区の選手から最終区間である第十区の選手へと襷を繋ぐ鶴見中継所である。
 レースはクライマックスを迎えようとしていた。
 前評判で優勝候補と言われていたB大学とK大学。この二校は昨日の往路において、スタートの第一区から他大学を置き去りにし、抜きつ抜かれつの熾烈なトップ争いを繰り広げてきた。結果、B大学が箱根の峠道を走る第五区でわずかに十三秒リードしてゴールし、辛うじて往路優勝をもぎ取った。
 だが、B大駅伝部のメンバーたちに笑顔はなかった。彼らの頭の中には、往路も復路も総合タイムが一位で、かつ、大手町のゴールテープを一番目に切るという、いわゆる「完全優勝」の四文字しかなかった。
 今朝、芦ノ湖畔をスタートした復路では、再び二校が並ぶ格好となり、第九区に至っても一向に差がつかない状況だった。どちらが勝つのか全く予想がつかない中、いよいよ翔ら第十区走者への最後の襷リレーがなされようとしていた。
 翔の隣では、K大の選手、山中尚輝が膝の屈伸をしながらスタンバイしていた。山中も翔と同じ四年生で、他の大会では翔とも何度か一緒に走ったことがあるものの、箱根駅伝では、怪我や病気で出場機会を毎年逃しており、今回が初出場だった。これといった特徴のない選手で、目立った成績もなかったことから、B大部員の間では、記念出場だと皆で揶揄していた。
「全力で行くからな」
 翔は相手の顔を見ることなく言った。
「望むところだ」
 相手も翔の顔を見ずに答えた。
 負ける気がしなかった。
 翔は中学から長距離走を始めた。当時は目だった成績は残せなかったものの、高校に入り、めきめきと成長を遂げ、インターハイでは上位入賞した。B大学へは、駅伝部監督の宮川隆太のスカウトで入り、他の部員よりも走りが良かったことから、一年生で箱根の二区を任され、区間新記録を出した。二年生の時は三区を担当して一位をキープしたまま襷を繋いだ。昨年は、序盤で後輩選手の体調不良により順位を下げた中、翔が八区で見事に七人抜きを達成して総合優勝を勝ち取るという劇的なレース展開を見せ、観衆に、そして日本中のお茶の間に、大きな衝撃を与えた。これがきっかけで、容姿も他選手より相当秀でていたことも手伝って、メディアへの露出が増え、それにしたがって、若い女性を中心に翔のファンが増えていった。
 今年は大学時代の集大成として、この箱根駅伝で有終の美を飾りたい。いや、間違いなく飾る。K大の相手が山中なら、もはや負ける気がしない。これまでの大会でも、やつが自分に勝ったことは一度もなかった。区間新記録も出し、四年連続で出場しているエースと、卒業記念という温情でようやくエントリーできた凡人とでは格が違う。俺がここで一気に差をつけ、ぶっちぎりで完全優勝を手にしてみせる。
 翔が軽くジャンプして身体の緊張をほぐしていると、沿道からにわかに歓声が上がった。道の向こうに二人のランナーの姿が現れたからだ。
 紺色のユニフォームのB大選手と白色のユニフォームのK大選手が、こちらに向かって並んで走ってくる。二人ともまるで短距離走のように手を大きく振り、足を大きく上げ、必死の表情でラストスパートをかけていた。残り五十メートルほどで、両者とも同じタイミングで襷を外し、手に持った。
「OK、ラストだ、ラスト!」
 翔はB大の二年後輩であるその選手に向かって声をかけた。その瞬間、彼のペースがわずかに上がったように見えた。
 彼は襷を持った右手を上げ、翔にやっとのことで手渡すと、そのまま路上に倒れ込んでしまった。大会のスタッフや部員たちが急いで彼のもとに駆け寄った。
「後は任せろ」
 翔は襷を肩にかけ、十区を走り始めた。K大の山中も襷を受け取り、すぐ後を追ってきた。
 雲一つない快晴だ。きっと天も俺たちに味方してくれているのだろう。翔は本気でそう思った。風もほとんどなく、ランニングには絶好の日和だった。
 翔は徐々にペースを上げていった。山中の影が翔の視界から消え、足音が徐々に小さくなっていった。自分の目の前を走る中継一号車に乗っている、テレビ局の男性アナウンサーと元オリンピアンで実業団の監督を務めている解説者が、驚愕の表情で何やら話しているのが見えた。おおかた、自分の走りが予想以上に速いことについて話しているのだろう。翔は口元に一瞬笑みを浮かべた。
 実際、ハーフマラソンと同じくらいの距離を走る箱根駅伝としては、翔のペースはかなり速かった。
「翔、抑えろ。まだまだゴールは遠いぞ」
 翔の後ろを走る監督車のスピーカーから、翔を諭す宮川の声が聞こえてきた。しかし、翔は監督の宮川を無視し、ハイペースを保った。
 多摩川を渡り、東京都に入った。第一京浜の歩道は、相変わらず大勢の観衆が、スポンサーの大手新聞社のロゴが入った紙製の旗を振りながら、翔に声援を送っていた。翔はその声援が気持ち良くて仕方がなかった。
 この道に立っている全ての人が、自分に注目している。B大駅伝部創部以来初の完全優勝まで、あと少し。このペースならK大も追いつけまい。一番最初にゴールテープを切るのは、この俺だ。観衆よ、視聴者よ、その姿を目に焼き付けるんだ。
 翔のテンションは最高潮に達していた。
「いいぞB大。その調子だ」
「頑張れー」
「高野くーん、ファイトー」
「焦ってバテるなよ」
「あと少しで優勝だ」
 品川駅前では、これまで以上にたくさんの声援を受けた。残りの距離は既に全区間の半分を切っている。
 第一京浜から日比谷通りに入り、増上寺を通過したところで、翔は足に違和感を覚え始めた。足が徐々に重くなり、翔の意志に反して、動きがみるみるうちに鈍っていくのが分かった。
 気のせいだ。
 翔はそう自分に言い聞かせた。だが、日比谷公園が見えてきたところで、さらなる異変が襲った。額の部分を中心に頭が熱くなり、意識が遠のき始めた。周囲の歓声も小さくなっていった。
 くそっ。
 ちょうどそこに、給水で控えている後輩部員の姿が見えた。後輩は、用意していた特製ドリンクを持って翔に並走し、何やら声をかけてきたが、聞き取れなかった。翔は半ば無意識のうちにドリンクを受け取り、蓋を開けて頭から被った。少しだけ意識が戻った。
 ここで負けるわけにはいかないんだ。
 翔はストライドを広げ、ペースを上げようとした。だがそれも数十メートルしか持たなかった。足は言うことをきかず、再び、意識が遠のき始めた。それまで気にならなかった日差しがやけに強く感じるようになり、さらに翔の意識を遠ざけていく。目の前の視野が狭くなり、ぼやけ始めた。
 勝つんだ。絶対に勝つんだ。
 翔の思いもむなしく、足はますます重くなり、目眩を覚えるようになった。後ろで宮川がスピーカー越しに何か叫んでいるが、よく分からない。
 少しだけ。ほんの少しだけだ。
 皇居の堀のそばの馬場先門交差点の手前で、翔はとうとう歩き始めてしまった。足が痙攣を起こしていて、歩くのも覚束ない。
 翔は痙攣を収めようと、交差点内で立ち止まった。すると、翔の脇をK大の山中が悠然と走り去っていった。それまで翔に付いていた第一中継車は、山中を先導するため、目の前からいなくなった。
 翔の背中を冷汗が伝った。
 負けるのか、俺が……?
 翔は再び歩き始めた。次々と後続の選手が翔を追い抜いていく。足の痙攣は収まらず、とうとう翔はバランスを失い、転倒してしまった。
「翔!」
 監督車を降りた宮川の肉声が聞こえた。
 嘘だろ……。
 膝が路面のアスファルトに当たり、激痛が全身を駆け巡った。身体全体が路上に横たわったことで、冬の空気に晒された路上のひんやりとした感触が伝わってきた。観客の驚嘆の声の数々が聞こえたかと思うと、目の前が真っ暗になり、その後、何も聞こえなくなった――


「嘘か……?」
 目を開けると、翔はベッドのすぐ脇のフローリングの床でうつ伏せになっていた。自宅で寝ている最中にベッドから落ちて膝を打ったらしい。じんじんと痛む。
 翔はよろよろと起き上がると、本棚に向かった。本棚には、箱根駅伝の復路ゴール前で、翔が他の部員たちから胴上げをされている写真が飾られていた。
「嘘か……」
 翔はそう呟き、ほっとしてため息をひとつついた。
 この夢を見るのは一体何度目だろう。あまりにもリアル過ぎて、全身が汗でじっとりと濡れている。
 実際の翔は、箱根駅伝の第十区を、前代未聞ともいえるハイペースを保ったまま、後続を寄せ付けることなく最後まで走りきり、B大駅伝部初の完全優勝を成し遂げたのだった。
 それからというもの、翔の注目度はさらに高まった。様々なスポーツ関連のイベントに呼ばれ、メディアからの取材やインタビューの数も格段に増えた。最初は当たり障りのない謙虚な受け答えをしていたが、徐々に慣れてくると、気の利いたコメントをするようにもなり、時には、生意気なことも言ったり大口を叩いたりすることもあった。それがかえってメディア側には受けたため、次第にエスカレートしていった。
 大学内はもちろんのこと、街中を歩いていても、多くの通行人から声をかけられ、サインや写真撮影を求められた。最初は、気前良く応じていたが、だんだんと疎ましく思えるようになり、急いでいる時は、無視したり聞こえないふりをしてやり過ごしたこともあった。
 そして、翔はB大を卒業して、大手電機メーカーのI電機に陸上選手枠で就職し、名門の競走部で毎日練習を重ねていた。最初のうちはマラソンや駅伝の大会に出場する度に、メディアも過剰なまでに翔を取り上げ、観客も大勢応援に駆けつけた。だが、そうした注目に反して、翔の成績は伸びていくどころか、悪化する一方であった。ビッグマウスぶりやプライドの高さも仇となり、やがて、翔は口だけ達者で実力が伴っていない痛々しい選手という評価がついてしまい、ファンも徐々に離れていった。
 焦った翔は、それまで以上に過酷な練習に打ち込んできたが、それが祟って、膝を故障してしまい、手術で長期休養することになってしまった。その後も、治しては故障、治しては故障を繰り返し、大会にもろくに出場できずにいたところ、会社側から戦力外通告を受けてしまった。通常業務も回してもらえず、出勤しては一日中ほぼ何もしないで過ごして退社するだけの日々が続いた。やがて、社員たちからの視線にも耐えられなくなり、ついに翔は自ら退職届を提出した。事実上のクビであると同時に、陸上界からの引退でもあった。
 新たな就職先を探すものの、I電機のような手厚い待遇の企業が見つかるはずもなく、就職活動は難航した。以前に出演やインタビューのオファーを受けたメディアの人間にも掛け合ってみたものの、既に過去の人となっていた翔に、誰も見向きすらしなかった。
 仕事がなくなった以上にこたえたのが、恋人との別れだった。
 翔は、B大学の同級生で、駅伝部でマネージャーをしていた寺本紗希と、一年目の箱根駅伝出場後に交際を始めた。小柄ではあるものの、スタイルが良く、エキゾチックな雰囲気の顔立ちの紗希との2ショットは、周りからもお似合いだと羨ましがられた。翔は大学時代も実業団時代も都内の寮生活で、二人きりで過ごす時間に制約があったものの、休みの日は極力紗希と一緒に過ごすようにしていた。
 I電機を辞めてから、翔は地元の賃貸マンションを借り、紗希と同棲生活を始めた。これまでの何かと制約が多かった陸上人生の分を取り返すかの如く、毎日のように翔は紗希を抱いた。
 しかし、就職活動はなかなか進展せず、自宅から外に出ることも減り、漫画を読んだりゲームをしたりするだけの日々が増えていった。最初のうちは翔を応援していた紗希も、翔が堕落していく姿を見ているうちに、徐々に嫌気が差してきて、夜も拒むようになった。
 そのうち、自宅で過ごすのも飽きた翔は、夜に外出し、何日も帰ってこないことが増えた。知り合いがやっているバーや友人の家に泊まったり、クラブで夜を徹して過ごしたりもした。
そんなある日の朝、翔が酒を大量に飲んで、千鳥足で自宅から帰ってくると、テーブルの上に手紙が置いてあった。その手紙には、紗希からの別れの意思表示が記されていた。
 ゴメン。私はこれ以上、翔のそばにいることはできない。
 文末に書かれていたメッセージが、酔っ払っている翔の頭の痛みをさらに増した。
 部屋の中を改めて見渡すと、紗希の衣服や本や家電といった所有物は既になくなっていた。翔はポケットからスマートフォンを取り出し、紗希に電話をかけた。既に使われていない電話番号である旨の録音メッセージが聞こえてくるばかりだった。メールもアドレスが変わっていて、送信できずに戻って来たため、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)で連絡を取ろうとしたが、なしのつぶてだった。既読にもならなかった。
 翔はスマートフォンをベッドに投げつけると、床に仰向けになった。
 それから一か月の間、翔は誰とも会わずに自宅に引きこもっていた。たまに外に出ても、近所のコンビニでインスタント食品や雑誌を購入して戻るだけだった。テレビを見て、インターネットを見て、ゲームをして、雑誌を読んで、腹がすいたら何かを口に入れ、眠くなったら寝る。それだけの生活だった。
 ベッドで眠りにつくと、大学四年生の時の箱根駅伝の夢を度々見るようになった。それも毎回毎回、復路十区でゴールできずに棄権してしまう結末ばかりであった。起きるといつも、涙が頬を伝っていた。まともに走ることもできず、仕事も恋人も陸上も失ってしまった自分が情けなくて仕方なかった。今回もそうだった。
 夕焼けの光が窓から入ってきて、部屋の中がオレンジ色に染まっている。
 ベッドに腰かけた翔は、スマートフォンでSNSのアプリを立ち上げると、翔が住んでいるS市の駅近くの繁華街でバーを経営している友人から、メッセージが届いていた。最近店に来ないから、どうしているのか気になっている。たまには店にも顔を出せといった内容だった。
 引きこもっているのも飽きて、そろそろ人恋しくなってきたところだった。翔は友人に返信すると、シャワーを浴びて、着替えを済ませ、久々に家の外へ出た。市街地へは近くの県道から、駅へ向かうバスに乗ればすぐだが、翔はあえて徒歩で向かった。
 やがてアーケードで覆われた商店街に辿り着くと、クリスマス商戦で賑わっていた。
「あれ、あの人……」
 通りすがりに、買い物中の中年女性二人組のうちの一人が、翔の方を見て声を上げた。
「高野じゃない? ほら、昔、箱根駅伝に出てた、B大の」
「えー? 人違いでしょう」
「絶対そうよ。高野よ。コウヤをカケル、高野翔」
 中年女性は、翔の現役時代にアナウンサーがこぞって口にしていたフレーズを、実況口調で言った。本人たちはひそひそ声で話しているつもりなのだろうが、実際は周囲に丸聞こえであった。翔は特に反応することなく、ペースを保ちながら歩き続けた。
「あれ、高野翔だ。マラソン選手の」
「そう言えばいたわね」
 今度は年配の夫婦が、高野の近くで会話していた。
「この間、引退したんだよね。確か」
 妻が言うと、夫も頷いて言った。
「学生時代は早かったのにね。実業団入ったら、途端に遅くなっちゃって、全然駄目だったんだよな。応援してたんだけど」
 翔は少しだけ歩みを早めた。ポーカーフェイスを装っていたが、心の中は悔しさと恥ずかしさでいっぱいだった。
 どうして、こんなことになってしまったんだ。俺は箱根で区間新記録も更新したランナーだ。練習だって一生懸命やって来た。なのに、一体どこで道を間違えてしまったのだろう。俺は何か悪いことをしたのだろうか。そして、これから先、俺はどうすればいいのか。
 翔の頭の中がぐるぐると回っていた。
惨めだった。周りに誰もいなかったら、きっと泣き出していたかもしれない。他人から見られないよう、下唇を浅く、しかし、強く噛んで、それを耐えた。
 友人の経営するバーに着くまで、何人かが、翔だと気付いたようだった。会話の全部は聞き取れなかったものの、どうせ良いことなんて言ってないだろうと翔は思った。
「おい、あれ、I電機にいた高野だろう」
「おっ、本当だ」
 ひときわ太い声が向こうから聞こえてきた。話していたのは、制服姿の男子高校生二人組で、高野の方に向かって歩いてきている。
 背の高い、眼鏡をかけた方の男子が言った。
「あいつ、ちょいちょいテレビに出ちゃあ、生意気なことほざいてたよな」
「オリンピックに出て世界を制すとかな。国内も制してなかったくせに、笑っちゃうよ」
 本人がいる前でも憚ることなく、もう一人の背の低い男子が応じた。
「笑っちゃうというか、イタい。普通に」
「結局、大した実績も残せずに引退して、することがないもんだから、こんなところをうろちょろしてるんだろうな。可哀想に」
 二人は半笑いで翔の右側を通り過ぎようとしていた。
 翔は二人の方を見向きもせず歩いていたが、すれ違いざまに、背の高い方が翔の方を見て、言った。
「うわ、高野、半ベソかいてんじゃん」
「マジかよ。こんなところで、恥ずかしっ」
 二人が聞こえよがしに笑いながら言った。
 翔は顔がかっと熱くなった。自分の今の気持ちは、周りには気付かれていないと思っていた。二人の男子高校生の声を聞いて、通行人の何人かが、翔の方を見た。中には笑みを浮かべる者もいた。
 耐えられなかった。ここまで露骨に馬鹿にされて、何もしないなら、完全に俺の負けだ。あいつら、ふざけやがって。
 翔は歩みを止めると、その場で振り返って、二人組を睨みつけた。
「おい、こっち見たぞ」
「顔、歪んでるぜ」
 爆笑している二人のもとに、翔は大股で歩み寄ると、何も言わずにいきなり、手前側にいた背の小さい方の左頬を拳で殴りつけた。
 周りにいた通行人の間から、小さいどよめきが起こった。そのうちの何人かは、自分が巻き込まれないようにと、翔たちから離れた。
「てめえ、何してくれてんだよ」
 顔を覆っている高校生の背後で、身長の高い方が、翔を睨みつけた。さっきまでの笑みは完全に消えていた。
 翔はそれを無視し、再び歩き始めた。
「逃げんじゃねえよ!」
 背の高い方の高校生が、翔の背中に向かって思い切り蹴り付けた。翔は蹴りの衝撃を受け止めきれず、バランスを失って、道端に並んで置いてあった自転車の方に向かって倒れ込んだ。自転車がけたたましい音を立てて、ドミノ倒しのように次々と倒れていった。
「……ってえな、この野郎」
 倒れた勢いでかちかちと音を立てて後輪が回っている自転車の前で、翔は高校生たちを睨み付けながら、よろよろと立ち上がった。高校生たちも、怒りの形相で翔の目の前に立ちはだかった。
 翔は自分に蹴りをかましてきた背の高い眼鏡の高校生に掴みかかった。すると、背の低い方の高校生が翔の腹に拳骨を叩き込んだ。
 翔は呻き声を上げたが、足を踏ん張って耐えた。そこに続いて、背の高い方が、翔の両肩を掴みながら、腹に膝蹴りをぶち込んだ。
「がはっ」
 さすがにこれは効いた。翔は思わず地面に膝をついた。
「何やってんだ!」
 年配の男性の声が聞こえた。
 この声は――
 どこかで聞いたことのある声だったが、あまりの痛みでうずくまっていたため、翔には声の主が分からなかった。
「おまえら、こんなところで何やってるんだ。やめろ!」
 男性が再び一喝すると、男子高校生たちは厄介ごとを恐れたのか、その場から走って逃げていった。
「全くあいつら……、やりすぎだろ」
 男性は逃げていく高校生たちの背中を見つめていると、騒ぎを聞きつけた警察官がやって来て、男性に声をかけた。
「何があったんですか?」
「いや、大したことじゃないんだ。何の問題もない」
男性は適当にあしらって警察官を帰すと、しゃがみこみ、翔の肩に手を添えながら声をかけた。
「大丈夫か?」
 男性の声に反応するかのように顔を上げると、翔は驚いて、思わず声を発した。
「監督!」
 男性も目を丸くして声を上げた。
「お前、もしかして、翔か?」


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