第3話

文字数 4,548文字

 翌週、翔は宮川の経営しているランニングステーション「ランナーズベース」にいた。
「おお、着替えたか。もうみんな、準備が済んで、外で待ってるぞ」
 ランニングウェアに着替えて更衣室から出ると、宮川が手招きした。
 急いでシューズを履き、翔は宮川の後について、ログハウスを出た。
 ログハウスの外には、レストラン時代に駐車場として使われていた、舗装されているスペースがある。現在は、パラソルと木製のテーブルと椅子を置いて、待合エリアとしている。その脇には、準備運動やストレッチなどができるよう、広いスペースが確保されている。
 そのスペースに、同じくランニングウェアを来た男女が十名ほどいて、思い思いにストレッチなどをしていたが、宮川の姿が現れると、皆、動きを止めた。
「すみません。お待たせしました。こいつがもたもたしてるもんで」
 宮川が翔の頭を軽く叩きながら、フランクな調子で言った。
「あれ、もしかして」スクール生の男性の一人が、翔を指差して言った。「高野翔さんですよね?」
 翔は返事をする代わりに、仏頂面で軽く会釈した。
「皆さん、この度は、ランナーズベースのスクールにご参加いただきまして、ありがとうございます。改めて、店長で、スクールの講師を務めさせていただく、宮川隆太です。よろしくお願いします」
 宮川がお辞儀をすると、スクール生たちもお辞儀をしつつ、お願いしますと口々に言った。
「それから、こちらは私のアシスタントで、ご存知の方も今いらっしゃいましたが、B大時代の私の教え子だった高野翔です」
 翔は再び仏頂面のまま頭を下げた。スクール生たちの反応は、宮川の時とほぼ同じだった。
「では、当スクールについて、簡単に説明します」
 宮川は両手を前に組み、事務的な口調になった。
「このスクールは、毎週水曜日の夜と日曜日の午前に、定例の練習を行います。そこの市民公園で」宮川は公園の方を指差した。「筋トレやジョギングなどのトレーニングをするのがメインとなります。時間は大体二時間が目安となります。それから、それとは別に、月に一回程度、走行会をやろうと思ってます。毎週の練習よりも長い距離――三十キロやハーフマラソンくらいの距離を市民公園や他の場所で行います」
 この後も、宮川の説明は続いた。スクール生たちは、黙って話を聞いていた。
「……ということで、あと、細かいことは、申込みの時にお渡ししたペーパーをご確認いただければと思います。まあ、このスクールは、走りを上達させることも目的のひとつですが、基本的には仲間で楽しく走って交流することが最大の目的だと考えておりますので、肩肘張らずに気楽に参加していただければと思います。これからどうぞ、よろしくお願いします」
 説明が終わり、スクール生たちは、宮川の指示に従って準備体操をし、ゆっくりめのジョギングで市民公園へ向かった。
トレーニングは、まず、広大な広場で百メートルの距離を行きは全速力で走り、帰りはゆっくり走ってクールダウンしながら戻って来るインターバル走を何本か行った。現役を退いたとはいえ、翔はスクール生たちよりは速く走り、最後まで軽々とこなすことができた。
「さすが、元陸上選手は速いよねえ」
 中年の主婦と思われる女性三人組が、翔の走りを見て感嘆した。彼女たちはすっかりばててしまっている。いや、彼女たちばかりでない。他のスクール生たちもこの練習だけで疲労の色が見え始めていた。中には立つこともままならず、手を膝についたまま、息も絶え絶えになっているランナーもいた。
 たったこれだけの練習でばてるなんて、だらしねえな。
 彼らを軽蔑の眼差しで見つつ、翔は黙々とトレーニングを続けた。
「どうです、きついでしょう? でもね、この練習をずっと続けているうちに、本番は楽に走れるようになりますから」
 疲れ切っているスクール生たちに、宮川が優しい言葉をかけているのが、翔は癪に障った。
 次に、レクリエーションも兼ねて、二チームに分かれて馬跳びを繰り返して広場の端からもう一方の端まで競走した。翔も片方のチームに加わった。
 さっきのインターバル走の疲れが抜けていないのか、翔が同じチームの二十代と見られる痩身の眼鏡をかけた男性の背中に手をついて体重をかけた途端、男性は膝から崩れ落ちたため、翔もバランスを失い、その先で馬の体勢になって待っている中年男性に倒れ込んでしまった。
「おっと」
 その中年男性はすかさず身体を起こし、翔を支えた。
 足腰が弱すぎるんだよ、ガリ勉野郎が。
翔は舌打ちをして、うずくまっている痩身の男性を睨み付けると、支えてくれた中年男性に礼も言わず、再び馬の体勢になった中年男性の背中を飛び越えていった。
「ほらほら、頑張れ頑張れ。まだゴールは先ですよ」
 宮川は、そんな翔たちの様子を見て、声を上げて笑いながら、檄を飛ばした。
 その後も、もも、腹筋、背筋といった部位の筋力トレーニングをレクリエーションの要素を取り入れながら行い、最後に池の周りを二周走り、全体の練習は終わった。
毎週の練習は、メニューは多少異なることがあるものの、概ねこのような流れで行われた。練習が終わると、スクール生たちは一旦公園で解散し、余力のある人は、宮川と一緒に引き続き公園で自主的にトレーニングを行い、そうでない人は、ランナーズベースに戻って着替えやシャワーを済ませ、その後、一階のカフェスペースで、暁子が振る舞う料理を食べながら、自主トレから戻ってきた宮川たちと合流して懇談をするのが基本であった。だが、翔は毎回、シャワーを浴びて着替えを済ませると、さっさと帰宅していた。
 こうして、スクールが始まってから三ヶ月が経った。
 翔は就職の目途がつかず、途方に暮れていた。さっさと定職に就きたいと思っているのに、その思いに反比例するかのように、就職活動の上手くいかない日々が続いた。
 そして、宮川のアシスタントという仕事に対するモチベーションも、ますます下がっていくばかりであった。大して速いわけでも、特段運動神経が優れているわけでもない市民ランナーたちと何故一緒に練習しなければならないのか、常に疑問に感じており、スクールの時間が苦痛に感じた。
 翔は、スクール生たちとはほとんど口もきかず、時折スクール生から何か話しかけられても、無愛想な態度で応対していたため、最近はスクール生たちから避けられていた。偶然目が合っても、顔を背けられたり、嫌悪感をむき出しにした表情をされたりした。遠巻きにこちらを見ながら、スクール生同士で何やらひそひそと陰口を叩いている様子も何度か目にした。翔にはスクール生たちのそのような反応が面白くなかった。
 そんなやる気のない翔に対し、宮川は、特に叱責したり心配したりすることもなく、以前と全く変わらない態度で接してきた。スクール開始から一ヶ月が過ぎた頃、翔はアシスタントを辞めさせて欲しいと宮川に何度か打診したが、宮川からは、仕事が決まるまででいいから頼むと、逆に懇願される始末であった。結局、宮川を無下にすることができないのと、辞めたら辞めたで他にすることもないため、仕方なく翔はランナーズベースへ通い続けていた。
 だがある日、翔の我慢がとうとう限界に達した。
 いつも通り、翔とスクール生たちは、二人一組になって腹筋運動をしていた。一人が仰向けに寝て足を真上に上げ、宮川のカウントに合わせて、その足をもう一人が地面に向かって倒し、かかとが地面に着くぎりぎりのところで足を元の真上の位置に戻すことにより、腹筋を鍛えるものであった。翔は、スクール生の磯島秀幸とペアを組んでいた。
 磯島が仰向けに寝て腹筋を鍛える番となり、翔は寝ている磯島の脇に立つと、大きな欠伸をひとつして、気怠そうに磯島の足を軽く押した。翔の押し方が弱いため、磯島は自分の力でかかとを地面すれすれまで下ろし、再び元の位置に戻した。
「ちょっとすみません。もう少し強めに押してもらえますか?」
 ぼんやりと遠くを見ている翔に、磯島が寝たまま声をかけた。だが、翔は無視した。
 宮川のカウントが続く。翔は、片手でさっきよりも弱く磯島の足を押した。
 三回済んだところで、磯島がさっきよりもやや苛立った様子で、再び声をかけた。
「あの、トレーニングにならないんで、もう少し強めで」
 翔はまた無視した。
「あの、聞いてます?」
 翔は舌打ちをし、今度は両手で磯島の足を力任せに地面へ押し倒した。磯島は勢いを受け止めきれず、両足が地面に着いてしまった。
「おい」
 磯島は立ち上がると、翔を睨みつけて言った。
「人が真剣にトレーニングしているのに、何なんだ、その態度は」
 翔も負けずに睨み返し、ぼそりと呟いた。
「五月蝿えな」
「あ? 今、何て言った?」
 磯島の声がさらに険しさを増した。
 翔は磯島に歩み寄って、さっきよりも大きな声で言った。
「五月蝿えって言ったんだよ。この程度の力で足が地面に着いちゃうくらいの腹筋しかない奴に、真剣に付き合う必要がどこにあるんだよ。え?」
 翔の目の前の磯島の顔が、みるみるうちに真っ赤になった。
「き、貴様、ふざけやがって!」
 磯島は翔の胸倉を掴んで、激しく身体を揺すった。
「離せよ、この野郎!」
翔も磯島の胸倉を掴み、応戦した。
 ようやく異変に気付いた宮川が、二人の間に割って入った。
「何やってんだ、やめろ!」
 近くでトレーニングしていた、スクール初日に馬跳びで膝から崩れ落ちた痩身の青年が、宮川と一緒になって、翔を止めようとした。
「どけよ!」
 翔は青年を突き飛ばした。青年は尻餅をついた。
 その隙に、宮川は磯島を翔から引き離した。
「おい、翔。磯島さんに謝れ」
 宮川は翔に近寄り、力づくで翔の身体を磯島のいる方へ向けた。
「嫌ですよ。何でこんな奴に頭下げなきゃいけないんですか」
「いいから、謝るんだ。スクールのメンバーに失礼なことをお前はしたんだぞ。お前に何があったか知らないが、磯島さんは俺にとっての大事なお客様だ。俺のアシスタントのお前が、お客様に対して不快な思いをさせた以上、お前はスタッフとして不適切な対応をしたんだから、まずお前は、そのことについて誠実に謝罪しなければならないんだ」
 宮川は、静かに、だが厳しい声で翔を諭した。
 翔は宮川の方を向いた。
「じゃあ、俺は謝りたくないので、監督の下で働くのを辞めます。お世話になりました」
 そう宮川に言い放つと、翔は公園の出口へ向かって走り去った。
「おい待て、翔!」
 背後から宮川の声が飛んできた。翔は、それを振り切るかのように、走る速度を上げた。
 ふざけやがって。ふざけやがって。ふざけやがって!
 翔はランナーズベースに戻った。
「どうしたの、翔。スクール、終わったの?」
 店番をしていた宮川暁子が、カウンター越しに声をかけた。翔は暁子を無視し、更衣室へそのまま足早に入っていった。
 翔が着替えを済ませて、更衣室から出てくると、玄関で暁子が心配そうな表情で立っていた。
「ねえ、翔。何かあったの?」
 翔は立ち止まった。
「俺、監督のアシスタント、辞めたんで」
 低い声で暁子にそう言うと、返答する間も与えず、乱暴にドアを開けて、外へ出ていった。

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