第13話

文字数 12,904文字

 新年度に入り、ランナーズベースにも別れと出会いの季節が訪れた。転勤や引越しなどの事情で図らずも退会するスクール生が何人かいて、翔たちは寂しかったが、いつの日かまた戻ってくるのを楽しみにしていると伝え、感謝と笑顔で送り出した。
 一方で、新たな仲間も何名が加わった。真奈美もその一人だった。新メンバーたちは、最初は遠慮がちだったが、慣れてくると徐々に他のスクール生とも打ち解けてきた。
 暮れの市民マラソン大会に出ることを目標に据え、スクールは毎週開催された。スクール生たちは、程度の差こそあれど、ランニングのスキルが確実に成長していて、翔はそれが何よりも嬉しかった。
 磯島はほぼ毎回スクールに参加し、日々ジョギングを行っている。時々、ハーフマラソン大会などに参加しているそうだ。大会で自分の走りぶりを確認し、練習時にフィードバックしているという。亡くなった息子、秀俊のことを思えば、多少のハードなトレーニングも頑張れると言っていた。事実、スクールの厳しめなトレーニングメニューでも、必死についてきている。この分なら、大会でサブフォーを達成できるだろうと、翔は思っていた。
 奈緒はランニング初心者であまり体力がないが、息子の大輝と一緒にトレーニングに参加することもあり、スクールを楽しんでいる様子だった。大輝は二年生になり、ランナーズベースでちょっとしたお手伝いもしてくれるようになった。華音ちゃんとの関係はこれまでとあまり変わっていないようだが、本人はそれでも構わないようだ。最近はむしろ、華音ちゃんよりも気になる子がいるらしいのだが、翔がいくら詳細を訊いても、恥ずかしがって教えてくれない。市民マラソンは、二キロから三キロ程度を家族で走るファミリーランの部門もあり、奈緒と大輝はそれに参加する予定だ。
 磯島の部下の広瀬は、スクールに入った当初は、周りとのコミュニケーションがうまく取れず、変わり者扱いされていたが、少しずつスクール生とも仲良くなっていった。翔が見る限り、同年代よりも年配のスクール生から可愛がられているようだ。磯島の話では、仕事ぶりは相変わらず手際が悪いところもあるが、謙虚な姿勢で臨むようになり、以前のような意識高い系の言動は鳴りを潜めたそうだ。ランニングでは、スマホのアプリを活用しながらトレーニングを行い、市内のあちこちを走り回っては、気に入った風景を撮影してSNSにアップしているようだ。翔は微笑ましく思いつつ、広瀬の投稿に「いいね!」ボタンを押している。
 真奈美は空手で培った体力をランニングでも発揮しており、スクールが終わった後の自主トレーニングにも積極的に参加し、ストイックに打ち込んでいる。ただ、空手と同様、序盤から飛ばし気味な傾向が強く、後半までスタミナが持たずに失速してしまいがちだ。序盤で遅く走っても終盤で失速してしまうかもしれないという不安があるようだ。翔は真奈美がその不安を口にする度に、そんなことはないと説得している。まあ、この先経験を積めば、わかってくるだろうとは思いつつ。
 今年は通常の練習の他にも、休日を利用して、市内を観光しながらのランニング、翔の練習場所にもなっている山でのトレイルラン、隣県の避暑地での夏合宿なども開催した。翔はランナーズベースのSNSにも、こうしたイベントの様子を積極的にアップしていった。
 そして、マラソンシーズンが到来し、各地でマラソン大会の便りが届く中、十二月某日、市民マラソン大会が開催された。この大会は、フルマラソンの部、ハーフマラソンの部、十キロの部、ファミリーランの部があり、ランナーズベースのメンバー有志も、実力に応じて、それぞれの部にエントリーしていた。
 スタート地点で集合場所となっている市役所前の広場で、宮川が大会参加メンバー一人一人に声をかけていた。翔も真奈美とともに、宮川のもとにやって来た。真奈美はウエストポーチの下に黒帯を締めていた。本人曰く、御守りなのだそうだ。
「どうだ、調子は?」
 宮川が真奈美に声をかけた。
「緊張します。空手の大会の時よりも緊張しているかも」
「そんなに?」宮川が身体をのけぞらせた。「まあ、今日は初のフルマラソンなんだから、楽しんでいきましょう。うん」
「はい。頑張ります」
 と答えつつも、真奈美の表情はまだ硬かった。
 磯島と広瀬もやって来た。かと思いきや、広瀬は青ざめた顔で「トイレに行ってきます」と言い残し、駆け足で仮設トイレへ行ってしまった。
「あいつ、めっちゃ緊張してんじゃん」
 翔が広瀬の後姿を見ながら呟くと、磯島が笑いながら言った。
「わかるよ。私もマラソン始めたころは、ああだった。今もスタート前は早めに会場に来て、すぐにトイレに行けるようにしている。スタート直前だと混むからね」
「さすが磯島さん。大会当日のマネジメントもしっかりなさってますね」
 宮川が褒めると、磯島は自信ありげに言った。
「今日はサブフォー、いけそうな気がするんですよ」
「マジですか?」翔が訊ねた。
「って、スタート前はいつも思うんだが、なかなかね」
 磯島が力なく笑った。
「でも、磯島さん、あれだけ練習されていたんだから、今度こそいけるんじゃないですか?」
 真奈美が言った。
「ありがとう。どうなることやらわからないけど、ベストを尽くすよ」
 そう答えつつも、磯島は再び自信に満ちた表情に戻っていた。
「そういえば」磯島が宮川に言った。「小川さんの元旦那の田中くんが、会場に来てましたよ」
「えっ、会ったんですか?」
 翔が驚いて磯島に言った。
「そう。ついさっき、ここへ来る途中にね。小川さんや大輝くんと、今日ファミリーランに出るそうだ」
「へえ、そうなんですね。大輝、あいつ何も言ってなかったから、知らなかった」
「大輝くんにはまだ秘密にしているみたいですよ。驚かすみたい」
「サプライズね。仲は良いんですかね」
「うん。月一回程度、家族で会っているそうだ。小川さんのわだかまりも以前より解消されているみたいで、ひょっとしたら、再婚もあり得るんじゃないか」
 磯島がやや声を潜めて言うと、宮川たちは低めの声で「おお」と反応した。
「なんにせよ、家族で共通の趣味があるって、素敵ですね」
 真奈美が微笑みながら言った。
「マラソンは、身体ひとつで気軽にできるからな」
 宮川が頷きながら応じた。
 スクール生たちが談笑していると、広瀬が戻ってきた。走る前だというのに既に汗をかいている。
「すみません」
「おう、大丈夫か」
 翔が声をかけた。
「はい。トイレがかなり混んでます」
 広瀬が答えると、スクール生の何人かが、急いでトイレに向かって駆けだした。
「広瀬くん、どうだ? 今日はいけそうか?」
 宮川が訊ねると、広瀬は渋い顔をした。
「完走できるか、自信がないです」
「おいおい、しっかりしろよ」翔が広瀬の尻を叩くと、広瀬はうわっと悲鳴を上げた。
「やめてください、ハラスメントですよ」
「うるせえ」
 翔と広瀬はそこで声を上げて笑った。
「まあ、関門に引っかからない程度に歩いてもいいから、とにかくゴールを目指そう。時間はたくさんあるから。な」
 宮川がそう言うと、広瀬は「はい」と返事した。
 スタートの時刻まで三十分との、女性のアナウンスが流れた。
「少し早いけど、もう行くわ」
 翔は真奈美に言った。「わかった。気を付けてね」
「ああ。準備運動しとけよ」
 翔は宮川やスクール生たちにも挨拶し、スタートエリアに向かった。


 スタートエリアは長さが五百メートル近くあるが、大会のエントリー時に自身のフルマラソンの最高記録を申告し、申告記録が早いランナーから順番に並ぶようになっているため、翔のスタート位置はかなり前方だった。既に多くのランナーたちが、ストレッチや準備体操をしながらスタートを今か今かと待っていた。
 翔も空いているスペースで屈伸をしたり、アキレス腱を伸ばしたりしていると、横から「高野」と男性の声が聞こえた。
 翔が声のした方を向くと、翔と同年代の男性が立っており、思わず大きな声を上げた。
「おおっ、もしかして、山中?」
「覚えていてくれたか。久しぶり」
「久しぶりだな。まさか、お前もこの大会に出ているとはなあ。びっくりしたよ」
 翔に声をかけたこの男性は、K大の陸上部にいた山中尚輝だった。彼も大学を卒業後、自動車メーカーに就職してマラソン選手となった。去年引退したと友人が言っていたのを、翔は思い出した。
 翔は立ち上がった。山中は翔と背丈がほぼ同じで、自分の正面に山中の顔が現れた。
「しかしお前、大学の頃からそんなに変わってないな。今、何してるんだ?」
「地元のアスリートクラブで指導者をしているんだ」
「なんでまた、今日この大会に参加するんだ? お前、ここが地元じゃないだろう」
「実は……」山中は説明した。
 山中は大学時代、密かに翔をライバル視していたが、自身の怪我や病気でまともに勝負することができなかった。四年生の時に出た箱根駅伝で、ようやく同じ区間を走る機会を得たものの、当時エースだった翔には到底かなわなかった。圧倒的な実力差を見せつけられ、悔しかった。実業団時代も山中は翔に勝つことを目標に練習を重ね、日本代表の候補にも選ばれるほどの実力にまでなった。
 だが、山中の成長に反比例するように、翔の成績は悪くなっていった。山中は堕ちていく翔の姿を見るのが何より辛かった。翔にはいつまでも自分のライバルでいてほしい。いつぞやの大会で翔にそんなことを言ったが、翔は勝手にライバル視されても困ると、聞く耳を持たなかった。
 結局、遅咲きの山中はそこから伸び悩み、日本代表に一度も選ばれることもないまま、怪我を機に去年引退したのだった。
 そして引退後、山中が何気なくSNSを見ていると、偶然、ランナーズベースで働いている翔の姿を見つけたそうだ。
「お互い現役を退いた今、もう一度、高野と勝負したいと思ったんだ。このままもやもやした気持ちを残すのは、何だか嫌でさ。サブ2.5、目指してるんだろ? 投稿見たぞ」
「ああ」
「俺もサブ2.5目指して、練習してきた。サブ2.5を達成して、お前にも勝つつもりだ。今日は、お互い頑張ろうぜ」
 正直なところ、翔は現役時代、山中のことを格下に見ていた。もっと言えば、眼中になかった。だから、山中が自分のことをライバル視しているのを知った時は少し驚いた。当時は自分のことで精一杯で、誰かをライバル視することなんてほとんどなかったし、自身もライバル視されるような器の人間ではないと思っていたからだ。
 翔は引退後に見た夢を思い出した。箱根駅伝で失速し、山中たちに抜かされてしまうという忌まわしい夢だ。あんな夢はもう見たくなかった。そして、現実でもそれを味わうのはもっと嫌だった。
 せっかく山中が勝負を挑んできたのだ。それに競争相手がいた方が、かけっこはもっと楽しい。受けて立ってやろうじゃないか。翔はそう思った。
「お前の気持ちはよくわかった。凄く光栄だよ。今日は全力で行くからな」
「嬉しいよ」山中は微笑んだ。「箱根の時もそう言ってくれたよな。胸を借りさせてもらうよ」
 間もなく、開会式が始まり、主催者たちの挨拶が長々と続いた。その後、全員でラジオ体操をし、市長がスタート台に立った。
 市長がピストルを鳴らすと、ランナーたちが待ってましたとばかりに走り出し、スタートラインを通過していった。


 翔は黙々とコースを走った。
 今日は風もほとんど吹いておらず、雲が多めで日差しも多くないため、マラソンには最適な天候だった。そのせいか、沿道の見物人も大勢いて、ランナーたちに思い思いの声援をかけてくれる。翔を知っている見物人もいて、翔の名前を呼ぶ声もあちこちで聞こえた。翔はできる限り声援に手を振って応えた。
 現役を退いてから初のフルマラソン。これほどまでに走るのが楽しく感じることは、選手時代にはなかった。子供の頃から走るのが好きで陸上の道を選んだが、いつしかノルマやプレッシャーが重くのしかかってきて、一時は走るのが嫌いになったこともあった。今日はサブ2.5という目標はあるものの、そうしたしがらみがないせいか、走っていて気持ちいい。
 スタートで会った山中は、早い段階で、お先にと翔に声をかけて行ってしまった。翔は焦って山中を追うこともせず、淡々と自分のペースを維持した。どうせ後で追いつくのだから、そこで勝負すればいい。翔はそう思っていた。
 市街地を巡り、市のランドマークのひとつである神社や市民公園を通り抜け、水田地帯や線路脇を走り、三十キロ地点を過ぎたあたりで、コースは大輝が入水した河川敷の土手に上がった。ここからしばらくは土手と河川敷を交互に行き来しつつ、河口に向かって走ることになる。
 ランナーズベースの皆は無事に走っているのだろうか。真奈美や広瀬は今、どのあたりにいるのだろうか。皆、事故やトラブルに遭うことなく最後まで楽しんでほしい。翔はあまり変わり映えのしない河川敷の景色を眺めながら、そう思った。
 水色のJRの鉄橋をくぐり、間もなく三十五キロ地点に差し掛かろうというところで、翔はおや? と前方に目を凝らした。五百メートルほど前方を走っているランナーの集団の一人が、ふらふらとした足取りで歩き始めたからだ。翔の位置からだと姿はまだ小さいが、明らかに様子がおかしい。
 徐々にランナーの姿が大きくなっていく。今にも倒れてしまいそうで、沿道の観客も遠巻きで心配そうにランナーを見つめている。見たことのある服装だ。
 まさか……!
 翔はスピードを上げ、そのランナーに近づいた。思ったとおり、そのランナーは山中だった。
「おい、山中!」
 翔は山中の前に回り込んで、声をかけた。
「た、高野……」
 翔に気付いた山中は、その場で急に翔に寄り掛かるようにして倒れこんだ。身体が痙攣を起こしていて、表情が辛そうだ。
「大丈夫か? しっかりしろ!」
 翔はコース脇の芝生に山中を寝かせた。山中の呼吸が弱々しくなっていくのがわかった。
「山中、聞こえるか? 山中!」
 翔が大声で呼ぶが、反応がない。
 これはやばいぞ。
 翔が周辺を見渡すと、異変に気付いたのか、観客の何人かが翔たちの様子を見ていた。翔が彼らに「すみません」と両手を振ると、年配の男性と若い男性が駆け寄ってきた。
「救急車を呼んでくれますか」翔は年配の男性に言った。「それからあなたは、あそこからAEDを持ってきてください」
 翔は前方を指差しながら、若い男性に頼んだ。指差した先には、エイドステーションのテントが見えた。ここまでのエイドステーションにもAED(自動体外式除細動器)の案内看板があったから、あそこにもあるはずだ。若い男性は駆け足でエイドステーションに向かった。
 翔は現役時代に受けた救命講習の内容を思い出しながら、山中の身体にまたがり、人工呼吸と胸骨圧迫を交互に行った。年配の男性は、すぐそばで山中の様子を見ながら、消防に電話で状況を伝えていた。
 若い男性がAEDを持ってきた。翔は男性に礼を言うと、AEDの音声案内に従いながら、山中の上半身にパッドを取り付け、スイッチを押して電気ショックを起こした。そしてまた、人工呼吸と胸骨圧迫を行った。
 数回これを繰り返していると、救急車のサイレンが聴こえてきた。大会の医療ボランティアのスタッフも駆けつけてきた。
 救急車が土手から通路を下りてきて、翔たちのすぐ脇まで来てくれた。救急隊員がストレッチャーを運びながら翔たちの前にやって来て、山中の状態を確認し、手早く山中をストレッチャーに乗せて救急車に運んでいった。
 翔と年配男性は、別の救急隊員に改めて状況を説明し、ボランティアの女性スタッフに引き継いだ。救急車はサイレンを鳴らしながら、河川敷を出発した。
 どうか、助かってくれ。
 翔は土手を上っていく救急車の後姿を見つめながら、山中の無事を祈った。


 その後、翔はレースに復帰した。山中の分まで頑張らねばと思ったが、自分ももしかしたら彼のような事態に陥るかもしれないと思い直し、無理のないペースで走ることにした。
 結果、完走はできたものの、サブ2.5は達成できなかった。だがそれよりも翔は、山中のことが気になって仕方がなかった。
 手荷物を受け取り、着替えを済ませて帰り支度をしていると、スマホが鳴った。さっきの医療ボランティアの女性スタッフだった。山中が意識を取り戻し、現在、搬送先の病院で療養中であるとのことだった。翔は病院名を教えてもらい、会場の市役所からタクシーで病院へ急行した。
 病院に到着し、早歩きで山中の病室に向かった。病室に入ると、奥の窓際のベッドに山中の姿が見えた。腕に点滴の管が付けられていた。そばにはさっき連絡をくれたボランティアスタッフがいた。
「山中……」
 翔は安堵と疲れで少し足がふらつきつつも、山中のベッドに歩み寄った。山中は翔に笑顔を見せた。
「よかったよ。すぐに意識が戻って」
「高野のおかげだよ。本当にありがとう」
「お礼は、病院や大会のスタッフに言ってくれ。俺は何もしていない」
 そう言うと翔は、女性スタッフのほうを向き、改めてお礼を言った。女性スタッフも安堵の表情を浮かべていた。
 女性スタッフは翔たちに気を遣ってか、「ちょっと外しますね」と言い残し、病室を出ていった。
 翔は女性スタッフが座っていた丸椅子に腰を下ろした。
「お前がまさか、こんなことになるなんて、思ってもいなかったよ」
「ああ。俺も驚いてる」
「持病とかもなかったんだろう?」
「うん。少しレース運びが悪かったかな。いつまでも現役のつもりでいるから、無理が祟っちゃったんだと思う」
「まあ、お互い、年取ったしな」
 二人はそこで苦笑した。
「高野みたいにペースを抑えてもサブ2.5はいけたんだろうけど」
「ああ。やけに飛ばすなって、俺、思ったもん」
「大会の雰囲気に飲まれたんだろうな。さすがだよな、高野は。今もちゃんとレースマネジメントができてるんだから」
「他のスクール生に教えてる手前があるからさ、あまり迂闊なことはできないよ」
「スクール生たちもこの大会に出てるのか?」
「もちろん。そろそろ皆、ゴールするんじゃないか? いや、まだ走っている人もいるかな」
 翔は部屋の壁掛け時計を見ながら言った。フルマラソンのスタートから五時間を経過していた。
「そういや」山中が思い出したように言った。「走っている時、あの子を見かけたよ」
「あの子って?」
「ほら、おたくの大学でマネージャーをしてた子。名前がわからないけど、かわいらしくて、いつも君のそばにいる印象があったから、顔は覚えてたんだ」
「ああ……」
 紗希のことかと翔は思った。だが、一体何のために?
「人違いなんじゃないか?」翔はわざとそっけなく言った。「どこで見たんだ?」
「河川敷だったよ」
「お前、倒れる直前だったのに、よく気付いたな」
「何故かそれだけは覚えてるんだ」
山中は苦笑いしながら答えた。「君たち、付き合ってたんだろ? 今、連絡とか取ってないのか?」
「とっくに別れて、音信不通さ」
「そうだったのか……。まあ、しばらく顔見てなかったから、人違いだったのかもな」
 そうだろうな。翔は思った。いたとしても、俺に用があったわけではないだろう。おおかた、知り合いが走っているのを応援しに来たとか、そんなところだろう。
 紗希の話題はそこで終わった。
 翔は少し雑談した後、山中と連絡先を交換し、帰ることにした。ゆっくりと椅子から立ち上がると、山中が翔の顔をじっと見つめていた。
「なんだよ。そんなに見つめられたら怖いって」
「いや、高野、変わったなって思ってさ」
「そんなことないって。俺は何も変わってないよ」
「いや、変わったと思う。昔はとげとげしくて近寄りがたい雰囲気だったけど、今は丸くなった感じがするよ。顔も何だか優しくなったし」
「そうか?」
翔は気恥ずかしくなり、山中から目をそらした。
「身体、大事にしろよ。元気になったら、また走ろうぜ」
「ああ。今度こそは高野に勝つからな。今日はありがとう」
 翔は高野と握手をし、病室を後にした。


 翔がランナーズベースの扉を開くと、中から賑やかな声が聞こえてきた。
 マラソン大会が無事に終了し、参加したスクール生たちで打ち上げが行われていた。立食形式になっており、カフェのテーブルには暁子の手料理がずらりと並んでいた。その周りでスクール生たちが談笑していた。皆、大会が終わり達成感に満ちた表情をしていた。
 翔が店内に入ると、磯島が気付き、「高野さーん」と声をかけた。既に酒を多く飲んでいるのか、磯島の顔は赤くなっていた。翔は笑顔で応じ、皆の輪の中に入った。
「遅かったじゃないか」
 立ち飲みしていた宮川が翔に声をかけた。
 翔が山中の件を説明すると、宮川は驚きの表情を浮かべた。
「そんなことがあったのか。大変だったな」
「ええ。もう意識は戻って普通に会話もできるので、多分大丈夫でしょう」
「ならよかったよ。今度、スクールでもAEDの使い方を教えた方がいいかもな」
「そうですね。俺も山中みたいになることもあり得ると思うと、怖くなりました」
 磯島の隣にいた広瀬が声をかけた。
「ということは、高野さんは、サブ2.5は……?」
 翔は首を左右に振ってから答えた。「三時間をオーバーしたよ」
「そうでしたか。事情があったとはいえ、残念でしたね」
「まあ、来年におあずけだ。ところで、広瀬くんはどうだったんだ?」
「途中でばてて歩いてしまったんで、ゴールしたのは六時間過ぎたくらいでした。高野さんの倍の時間かかってますね」
「初のフルマラソンだし、完走できただけでも、上出来だよ。よく頑張ったな」
 宮川が言うと、広瀬は照れ臭そうに頭を下げた。
「ありがとうございます。自分、マラソンを始めてから、皆さんとも仲良くなれて、こうして一緒に楽しみを共有できて、嬉しいんです。何だか、日常の景色も以前より違って見えるようになりました」
「そうか。じゃあ、社長への道も多少は近くなるんじゃないか?」
 翔がにやにやしながら言うと、広瀬は「いや、それは……」と頭をかいた。
 磯島が皆にビールを注ぎながら言った。
「ははは。でも、マラソンが仕事にも良い意味で影響が及ぶといいな。来週、昇任試験の合格発表だからな」
「えっ、そうなの?」
 宮川が驚いた。
「磯島さん、ぶっちゃけ、こいつ、合格したんですか?」
 翔が訊ねると磯島は、いやいやと手を振って応じた。「私もまだ結果は知らないんですよ」
「そうですか。受かったら、お祝いしないとな」
「受かったかどうか、正直自信がなくて……」
 広瀬が下を向いた。
「そうか。じゃあ、合格してるんじゃないか」
 翔が言うと、広瀬が「えっ?」と言って顔を上げた。
 宮川が言った。
「自信満々だって思っている奴ほど、不合格だったりすることもあるからな」
「そうそう。かつての誰かさんみたいに」
 翔が後に続いて言うと、広瀬の顔が赤くなった。
「過去に戻れるんだったら、その時の自分を叱りつけたいくらいですよ。本当、恥ずかしい」
「まあ、過去は過去として、これから明日を見て走ろうぜ」
「そうだな。人事を尽くしたんだから、後は天命を待つばかりだ」
 翔と磯島が口々に言うと、広瀬は力強く「はい」と返事した。
「ところで、磯島さんはどうだったんですか? マラソン」
 翔が訊ねると、磯島は満面の笑みを浮かべた。
「その表情だと、達成したんですね。サブフォー」
「ええ」
 磯島はスマホを取り出して、写真に収めた完走証を翔に見せてくれた。
「凄い。三時間四十六分って、だいぶ速いじゃないですか」
「天候とコースに恵まれていたんですよ」
 翔が素直に驚くと、磯島は苦笑しながら答えた。
 広瀬が完走証の記録を見ながら言った。
「これなら、次はサブ3.5、いけますよね、課長」
「どうだろうなあ。結構いっぱいいっぱいだったからな」
「いや、これならいけますよ。磯島さん」
 宮川が言うと、磯島は「そうですかね」と頭をかいて答えた。
「でも、良かったですね。きっと、天国の息子さんも喜んでるんじゃないですか」
 翔が磯島に声をかけると、磯島は大きく頷き、皆の顔を見渡しながら話した。
「このスクールの皆さんのおかげです。宮川さんや高野さんが丁寧に指導してくれて、皆さんに励まされたり、刺激を受けたから、今日まで頑張ることができました。本当に、ほんと……」
 磯島はそこで感極まり、両手で目を覆った。
「磯島さん、おめでとう!」
 宮川が大きな声で言って磯島の背中を叩くと、翔たちが拍手した。
「すみません。本当にありがとうございます。息子に胸を張って報告できます」
「何だか、今日で卒業するみたいな感じになっちゃったけど、磯島さん」宮川が言うと、皆がどっと笑った。「これからも一緒に走っていきましょうね」
「ええ、もちろん。次の大会も自己ベストを更新したいんで、今後もよろしくご指導ください」
 磯島が皆に頭を下げた。
 その後しばらく、翔は宮川やスクール生と飲み食いしながら、今日の大会について皆の話を聞いていた。時計の針が十九時を過ぎたところで、奈緒と大輝が声をかけてきた。
「すみません。私たち、そろそろこの辺で……」
「ああ、もうこんな時間か。すみません、わざわざ打ち上げにも来ていただいて」
 宮川が時計を見つつ、礼を言った。
「とんでもないです。こちらこそお邪魔してたくさんご馳走になっちゃって、すみません」
「大輝、今日は楽しかったか?」
 翔が大輝に話しかけた。
「うん。学校のマラソン大会も速く走れるかもしれない」
「そうか。パパとも走れて良かったな」
「もっと長く一緒にいたかった」
「そうか。じゃあ、今度は大輝がパパのところに遊びに行ったらどうだ?」
「そうする」
 また三人で一緒に暮らせるといいんだが……。
 宮川と話している高野の笑顔を見ながら、翔がそんなことを思っていると、奈緒が「高野さん」と呼んだ。
 翔が奈緒の方を向くと、奈緒は照れ臭そうに笑って言った。
「私、田中ともう一度、やり直そうかなって思ってるんです」
「そうか」
「今日、三人で一緒に走って、率直に楽しかったんです。確かに一時は、彼のことを一生許さない、顔も見たくないって思ったこともありましたけど、大輝の気持ちを考えると、いつまでもそうやって意地を張っているのもどうなんだろうって思うようになって」
「大輝の実の父親は、田中さんただ一人だもんね」
「ええ。田中もやり直したいってずっと言っていて、本人の思いも十分伝わってきたので、信じてみようかなって」
「田中さんも心を入れ替えたんじゃないかな。何にせよ、三人がハッピーになるのが一番だと思うよ。大変かもしれないけど、俺は応援してる。頑張れよ」
「はい。これからも、よろしくお願いします」
「ああ、それから」
 店を出ようとした奈緒に、翔が声をかけた。
「何か?」
「今まで、いろいろ偉そうなことを言って、ごめん」
「そんな……。気になさらないでください」
「こちらこそ、これからもよろしく」
 奈緒と大輝は帰っていった。
 その後、翔は残っている料理を取り分けてメンバーに勧めたり、酒を注いで回ったりしていた。
「翔、ありがとう。あんたも、もうそろそろこっちでゆっくりしたら」
 カウンターから暁子が声をかけた。翔は頷くと、暁子の向かいの椅子に腰かけた。隣には真奈美が座っていた。
「真奈美、ありがとう。疲れているのに、悪かったな」
「本当、ありがとう。真奈美ちゃんがいてくれて助かったわ」
 翔と暁子が礼を言うと、真奈美は笑顔で応じた。
「全然大丈夫です。むしろ、お二人の方が大変じゃないですか」
「この子はともかく、私は走らなかったから、それほど大変じゃないのよ」
 翔は「大丈夫大丈夫」と言って、テーブルに置いてあった缶ビールを手に取り、プルタブを開けてぐいっと飲んだ。
「しかし、初めての大会で四時間台なら、凄いと思うよ」
 翔はスマホで大会のウェブサイト内のランナー結果検索ページを開き、真奈美の結果を見ながら言った。
「そう? でも、後半はやっぱりスタミナ切れになっちゃった」
「だな」
 確かに五キロごとのラップタイムを見ても、中間地点以降のペースが落ちていた。
「どうしたらいいんですかね?」
 真奈美が向かいにいる暁子に訊ねた。暁子は微笑みながら首を少し傾げた。
「だから言ってるだろう」翔は少し苛立った調子で言った。「最初はペースを抑えるんだって。周りのランナーに惑わされるから、スピードが上がっちゃうんだよ」
「うーん。もっとゆっくりねえ」
「最初は多少遅くても、後で取り戻せるから。空手と違って、先手必勝や一撃必殺はマラソンには通用しないぜ」
「私、せっかちだし、空手のスタイルがその傾向だからなあ。考えを変えないとね」
「仕事や恋も、先手必勝・一撃必殺だもんな」
 翔がピザをほおばりながら言うと、真奈美はつま先で翔の脛を蹴った。
「いてっ、何すんだよ」
「ごめん、ちょっとムカついたもんで」
 真奈美は、空手をしている時の鋭い眼差しで翔を睨みつけながら言った。
「知ってる? 俺、今日フルマラソン走ったんだけど」
「だから何なのよ。私だって走ったわよ」
 脛をさすっている翔を尻目に、真奈美はフライドポテトを食べた。
「とにかくだ。月に一回くらいは、長い距離をゆっくり走るようにするといいよ。身体で感覚を掴んだ方がいい」
「筋トレとかもした方がいいの?」
「筋トレする暇があったら、走ったほうがいいと俺は思ってる。ただ、体幹は鍛えておくに越したことはない。体幹がないと、姿勢が崩れてすぐに疲れちゃうから」
「そうかあ。まだまだ修行不足だな」
 真奈美がため息をつくと、暁子がカウンターの空き皿を回収しながら言った。
「真奈美ちゃんはストイックだから、今の調子で頑張ればいいんじゃない?」
「本当ですか?」
「翔にいろいろ教わるといいよ。話が長いのは我慢してね」
「暁子さん、俺そんなに話長いっすか?」
 翔が不満げに言うと、暁子は笑いながらキッチンへ入っていった。
 店内は多くのスクール生が、飲み食いしながら楽しそうに話していた。真奈美がその様子を見ながら翔に言った。
「皆、いい人たちばかりだよね。ここにいると楽しい」
「ああ、そうだよな」
 翔も店内を見渡しながら、答えた。
「ねえ、翔。今、思いついたんだけど」
「何だ?」
「私もここで働きたいな。人手足りないんでしょ?」
「ああ。真奈美が一緒に働いてくれると嬉しいけど、お金の話があるからな……。後で監督に聞いてみるか」
 翔は、何やら大声で笑っている宮川の姿を見ながら言った。
「うん」
「そしたら、どうだ? 真奈美が空手教室を開くとか」
 真奈美は目を丸くした。
「ここのどこで稽古するのよ。それに私、教えるのなんて無理」
「いや、空手教室っていうと語弊があるけど、要するに健康体操とかエアロビクスの延長線上で、簡単な空手の型を教えて、健康や体型を維持するって感じのやつならいけるんじゃないかなって思ったんだ。女性や子供の集客にもつながるかもしれないし」
「うーん、そういうのね。でも、それにしたって、専門知識や資格が必要なんじゃないかしら。型ができるだけじゃ無理でしょう」
「まあな。でも、せっかく二段まで取ったんだから、それを何とか活かせないかなって、俺は思うんだ」
「そうか。もしここで働けるんだったら、ちょっと考えてみようかしら」
「監督が何か知恵を持ってるかもしれないから、その件も相談してみるといいんじゃない?」
「そうね。そうしてみる」
 真奈美も宮川の方を見て返事した。
 その後、宮川の一本締めで打ち上げはお開きとなり、スクール生たちはめいめいに帰っていった。翔と真奈美は最後まで残って片づけを手伝い、ランナーズベースを後にした。
翔は帰宅してシャワーを浴びると、酒が入ったこともあり、疲れてすぐ眠ってしまった。
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