第11話

文字数 15,881文字

 だが翌朝、翔の期待に反し、体調はさらに悪化していた。
 家の中なのに悪寒がする。その上、身体がだるくて何をする気にもなれない。
 翔は布団からはい出て、体温計で熱を測った。三十九.二という数字が表示されていた。思っていたより高熱だ。
 まずいな……。今日の仕事は無理だ。
 翔はランナーズベースに電話をかけた。暁子に事情を話すと、深刻そうな声が返ってきた。
「もしかしたら、翔。あんた、インフルエンザかもしれない」
「えっ。ということは監督……」
「そう。あの人、医者へ行ったらインフルって診断されたもんだから、五日間自宅で休むことになっちゃって……。あんたまでそんな状況じゃあ、店の方は当分臨時休業だね」
「すみません。俺までこんなことになっちゃって」
「気にしないで。今はとにかく身体を休めることを考えなさい。店のことやスクール生への連絡などは、私がやっとくから」
「暁子さんは大丈夫なんですか?」
「あたしはいつもと変わらないわ。潜伏中で症状がまだ出ていないだけかもしれないけど」
「監督からうつされないよう、気を付けてくださいね」
 翔は電話を切ると、厚着をしてマスクを着用し、かかりつけの内科に向かった。自宅から内科までは大した距離ではないのだが、今日はずいぶん遠くに感じた。
 診断の結果、やはりインフルエンザだった。注射を打ってもらい、帰宅してすぐに暁子に電話し、五日間自宅療養する旨を告げ、その後すぐ眠りについた。
 夕方、一度目が覚めたが、まだ身体はだるいままだった。昨日の夕飯が嘘かと思えるほど食欲がない。多少の栄養補給にはなるだろうと、翔は牛乳を電子レンジで温めて飲んだ。そして再び眠りについた。
 日曜日の午前、翔は目を覚ました。昨日よりはだいぶ身体が楽になった。だが、体温はまだ三十八度台だった。翔は起き上がり、薬を飲んだ。冷蔵庫を開けたが、食べ物は何も入っていなかった。
 さすがに昨日一日何も口にしていないため、若干の空腹感があった。みだりに外に出ることもできないから、昼になったら出前でも取ろうかと翔は考えた。こんな病人のいる家に出前してもらうのも気が引けるが、食べるものがないのだから仕方がない。ネット注文だったら、宅配便のように玄関に置いていってもらうことも、多分できるだろう。
 翔はインターネットで出前注文サービスを調べようと、スマホを手に取ったが、いくら画面をタップしても真っ暗なままだった。寝ている間に電池が切れてしまったようだ。充電用のケーブルを繋ぎ、電源が入るようになるまで待った。
 ようやく電源が入り、翔はホーム画面を開いた。
 LINEにメッセージが何件か届いていた。その中に真奈美からのメッセージもあったので、真っ先に確認した。二通届いており、一通目は一昨日の夕飯をごちそうしてくれたことのお礼、二通目は、昨日から身体の調子が悪く、空手の練習があまりできなかったという内容だった。
 翔がメッセージを見たことで、既読通知が真奈美に届いたのだろう。真奈美から新しいメッセージが届いた。翔は急いで画面をスクロールした。

未読のままだったから、ちょっと心配しちゃった。読んでくれてありがとう。
 
 さらにメッセージが届いた。
 
やっぱり具合が悪くて、今、医者に行って診察待ち。日曜日だからか結構混んでる……(泣)

 翔はすぐに返信した。

連絡できなくてゴメン。実は俺、インフルエンザにかかっちゃって、昨日から自宅療養中なんだ。注射のおかげでだいぶ良くなってから心配しないで。お大事に。

 すると、すぐに真奈美から既読通知が届いた。だが、特に返事はなかった。メッセージを待ちつつ出前注文サービスのサイトを見ていると、約十五分後にLINEの通知音が鳴った。

今、お医者さんに診てもらった。私もインフルエンザだった……。

 翔は思わず布団に倒れこんでしまった。
 俺のせいだ。俺がうつしてしまったんだ。大事な昇段審査の直前にやらかしてしまった。今日から五日間療養するとして、元の生活ができるようになるのは、最短でも金曜日だ。金曜日と土曜日でコンディションを戻して日曜日の本番に間に合わせることができるだろうか。俺はなんてことをしてしまったんだ……。
 翔は横になったまま髪の毛をかきむしった。すると、真奈美からまたメッセージが届いた。

ねえ。あとで電話していい? 声が聞きたくて。具合が悪かったら無理しなくていいよ。

 翔はすぐにスマホの通話ボタンを押した。
「もしもし」
 真奈美の声がスピーカーから聞こえた。思ったより声が明るかった。
「もしもし。今大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ちょうど家に戻ってきたところ。翔こそ、大丈夫?」
「ああ。俺は大丈夫だ。それより、申し訳ない。大事な審査を控えている時に、こんなことになっちゃって――」
「ううん」真奈美は翔の話を遮って言った。「翔のせいじゃないよ。悪いのは私。しっかり体調管理していなかったんだから。薄着で長時間山の中にいたのがいけなかったのよ。体調管理も審査のうちなんだと思う。迂闊だった」
「監督からウイルスをもらっちゃったと思う。予防接種をしていたから油断していたよ。最後の審査なのに……。本当ゴメン」
「謝らないで。私はまだ審査を諦めていないから」真奈美の声は力強かった。「家でも筋トレとか型の練習とか、できることはあるし」
「無理するなよ。ここで下手に動いたら本番に響く。しっかり休んだ方がいい。俺の身体がそう言ってる」
 翔が現役時代の経験を思い出しながら強く言うと、真奈美は「ふふっ」と笑った。
「わかってる。もちろん、今は身体を休めるのが最優先。食欲は普段とそんなに変わらないから、ちゃんと栄養も摂るし。翔もゆっくり休んで」
「ああ。くれぐれも無理はするなよ」
「翔って、心配性なのね」
「責任を感じているし、真奈美に合格してもらいたいからさ」
 翔がそう言うと、真奈美はまた笑った。
「何かおかしなこと言ったか?」
「ううん。そんな風に思ってくれて嬉しかったの。絶対昇段するから、応援してね」
「もちろん」
「翔の声が聞けて、少し元気が出たみたい。ありがとう」
「俺もだよ。早いとこ回復して、審査前に真奈美に会いたいよ」
 翔がそう言うと、少しの間があり、真奈美がやや小さな声で答えた。
「うん。私も翔に会いたい」
 熱があって寒気がするはずなのに、翔は胸のあたりが仄かに暖かくなるのを感じた。
「それじゃあ、会えるのを楽しみにして、お互い頑張って治そう」
「うん。またLINEする。お大事にね」
 真奈美が再び明るい声に戻った。翔は通話終了ボタンを押し、ベッドの上でしばらく、真奈美とのやり取りの余韻に浸った。

 その週の金曜日、翔はランナーズベースでいつものように仕事をしていた。
 幸いにも回復が早く、自宅療養の四日目、五日目は身体を動かしたくてたまらないくらいだった。だが、真奈美にああ言った手前、おとなしくしていた方が良いと思い、自宅でネット動画を見たり、ゲームをしたりして過ごしていた。
 宮川も体調が回復し、二階でパソコンを使って仕事をしていた。暁子は感染しなかったため、宮川の看病に専念できたそうだ。今日も一階のカフェで店番をしている。
「こんにちは」
 暁子が来客者に挨拶した。受付でロッカーのキーホルダーの修理をしていた翔が、玄関の方に目を向けると、リュックサックを背負った真奈美が立っていた。
「おお。ようこそ」翔は席を立った。
「こんにちは」
 真奈美は翔と目が合うと笑顔を見せ、軽くお辞儀した。
「その様子だと、もう大丈夫そうだな」
 翔が声をかけると、真奈美は、うん、と力強く頷いた。
 真奈美も体調が回復したので、翔は約束通り会おうと連絡したところ、一緒にジョギングと筋トレがしたいと言ってきたため、今日の夕方、真奈美にランナーズベースに来てもらい、仕事が終わったら一緒に公園で走ろうということになったのだった。
「早く身体を動かしたくて」
「俺もだ」翔は苦笑した。
「あら、翔のお知り合い?」
 暁子がやって来て、翔に話しかけた。そして真奈美を見て言った。
「どこかでお会いしたことがあるような……」
「暁子さん、あのショッピングモールのスーパーで働いている、城戸真奈美さん」
 翔が真奈美を紹介すると、暁子は大きく手を叩き、「ああ、スーパーのレジ打ちなさってる。そうだ。玄関を入って来た時、見たことがあるなって。美人だから印象に残ってたのよ」と大声で言った。
「美人だなんて、そんな」
真奈美は恥ずかしそうに手を左右に振った。
「しかし、いつの間に、二人は仲良くなったわけ?」暁子が翔と真奈美の顔を交互に見ながら訊ねた。「翔、あんたがナンパしたの?」
「んなわけないでしょう。まあ、いろいろあったんすよ。さあさあ真奈美、あっちで着替えてきなよ」
 翔は暁子から真奈美を引き離すかのように、更衣室へ案内した。そして、物の置き場所やルールを説明した。
「ねえねえ、翔」
 カウンターに戻ってくると、暁子が近づき、声を潜めて話しかけてきた。
「あんたたち、付き合ってるの?」
「違いますよ。そんなんじゃないです。友達友達」
 翔はカウンターのテーブルの上を片付けながら、答えた。
「本当に? 友達同士なのね?」
「本当ですって。まだ出会ったばかりだから、そんな深い関係じゃないですよ」
「ふーん。いや、あんたのファンが結構いるからさ。皆、気になっちゃうのよ」
 暁子は目の動きだけで、後方を示した。翔が暁子の後方に目を向けると、この間のランニング教室に参加していたマダムたちが、こちらの方をそれとなく見ていた。
 なるほど、そういうことね。翔は苦笑いした。
「安心して。本当に友達なんで。恋人同士なんて言ったら怒られちゃう」
「誰に怒られちゃうの?」
 翔が振り向くと、トレーニング用のウェアに着替えを済ませた真奈美が、そこに立っていた。
「あ、いや、何でもない。こっちの話だ」翔はどぎまぎしながら答えると、暁子に言った。「じゃあ、仕事終わったんで、ちょっと走ってきます」
「ああ、もう時間ね。じゃあ、ごゆっくり」
 暁子はニヤニヤしながら、二人を送り出した。
 玄関を出て靴紐を締め直し、公園へ向かって走り出した。外から店内を横目で見ると、暁子とマダムたちが、翔たちをちらちら見ながら話をしているのが見えた。
暁子さん、頼むから変なこと言わないでくれよ。
翔がため息をつくと、後ろを走っていた真奈美が「どうしたの?」と声をかけた。
「何でもないよ」翔は速度を上げた。
 市民公園に着くと、時計の針は五時を回っており、大勢の学生や会社員が池の周りを走っていた。
「どれくらい走れる?」
 池のほとりで翔は一旦立ち止まり、真奈美に訊ねた。
「ここ、一周何キロくらいあるの?」
 真奈美は夕日に照らされた池の水面を見ながら、翔に訊いた。
「ちょうど二キロだ」
「だったら、五周くらいならいけるかな」
「十キロも走れるのか? 病み上がりだろう?」
 翔が目を丸くしたが、真奈美は意に介さず、翔の方を見て答えた。
「大丈夫。私の身体がそう言っているの」
翔は思わず噴き出してしまった。
「俺の真似すんなよ」と言うと、真奈美は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だけど、少しゆっくりめで走ってくれる?」
「もちろんだ。無理しないでくれよ」
 準備運動の後、二人は走り始めた。真奈美のペースに合わせるため、翔は真奈美の後ろについた。だが、思っていたよりも真奈美のスピードが速いため、翔はつい声をかけた。
「おい、ゆっくり走るんじゃなかったのか?」
「え? これでもゆっくり走ってるつもりだけど」
 真奈美は振り返って答えた。
 二周、三周と周っても、真奈美の速度が落ちることはなかった。
 五周走り終わったが、真奈美の表情は涼しげだった。
「これだけスタミナがあるんだったら、マラソンやった方がいいって」
「本当? マラソンやったことないからわからなくて。ハーフマラソンならいけるかな?」
「全然いけるでしょ。フルだって問題ないと思うよ」
 走り終わった後、二人は公園の芝生広場で腹筋、背筋、スクワットを交代でこなし、最後は二人で拳立て伏せを五十回やって終了した。普段拳立てをしない翔にとってはかなりきつかったが、真奈美は難なくやり遂げた。
「こんな痛いのに、よくできるな」
 翔は両手をぶらぶらさせて、痛みを紛らわせながら言った。
「慣れだと思うよ。調子いいときは連続百回はやるし」
「大したもんだよ」
「何だか物足りない気がするけど、それくらいでちょうどいいんだよね」
「ああ。今日はこの辺で止めておいた方がいいよ。本番に響いたら大変だし」
 ストレッチをした後、二人は芝生に仰向けになった。
「どう? 明後日、緊張してる?」
 翔は赤く染まった夕焼け空を見ながら、真奈美に訊ねた。
「うん。最後の十人組手がね、ちょっと不安なんだ。今までやったことないから」
「どんな風にやるんだ? 組手ってそもそも何分なんだ?」
「昇段審査の場合は、一人につき三分。間に一分間の休憩が入る。五人目が終わった時だけ、五分間休憩できるの」
 プロボクシングみたいだと、翔は思った。
「いわゆるKO勝ちみたいなのも、あるんだよな? そうなれば、必ずしも三分戦う必要はないわけだ」
「一本勝ちね。まあ、あんまりないけど。せいぜい合わせ技で一本とかかな」
「逆にKOされちゃうこともあるわけだ」
「うん。ただ、審査の時って、組手の相手役は多少手加減することもあるの。私も以前やったことがあって、その時は師範から、昇段させてあげたいからガチでやるなって言われたの」
「へえ。まあ、大会とか試合じゃないし、結果よりも過程を見るってことなのかな」
「でしょうね」真奈美は頷いた。「でも私は、それは少し違うと思ってて。いくら審査とはいえ、相手が本気じゃないとこっちも本気になれないから、今回私の相手役を引き受けてくれる人には、ガチでかかってこいってお願いしたの」
「うわ、サムライだなあ。自らハードルを上げたわけだ」
翔は上半身を起こした。
「そう。だから必死で稽古したわ」
 真奈美は少しおどけて言ったが、あながち冗談ではないだろうなと翔は思った。
「どうしてそこまでストイックになれるんだ?」
 翔が訊ねると、真奈美は「うーん……」と、少し目を閉じて考えた後に答えた。
「練習をしていくうちに、自分が強くなっていくのを実感できるのが楽しくて。最初は護身術が少し身につけばいいかな、くらいに思っていたけど、大会に出て優勝したりして、徐々に空手にはまっちゃった」
 真奈美はそこで苦笑いした。
「自分の成長がわかるのって、確かに楽しいよな。ランニングもタイムが早くなると、もっとも記録を更新したくなるし、大会にも勝ちたいって思うようになるし」
 翔は頷きながら応じた。
「あと、それから……」真奈美は続けた。「道場に、私が勝手にライバルと思っている人がいて。とてもおとなしくて、人付き合いもあまりしないタイプの子なんだけど、私と同性でほぼ同年代だから、共通の話題もそれなりにあって、稽古中はよく一緒に組手の相手をしてくれているんだけど、見た目とは裏腹にその子、とても強くて」
「へえ。そんな子もいるんだね」
「うん。大会で対戦をしたこともあったけど、ほとんど勝てなかったの。きっと向こうは、私のことなんかライバルとは思っていないかも。先に二段も取っちゃったし」
 翔はそこで何故か、いつだったか見た夢で、格下だと思っていたK大の山中に駅伝大会で抜かされてしまったことを思い出した。
「今度の審査、彼女も十人組手の相手に入っているの」
「彼女にも、ガチでやれって言ったのか?」
 翔が訊ねると、真奈美は当然だと言わんばかりに大きく頷いた。
「そうか。そんな事情もあったんだ……」
「うん。最後は彼女に勝ちたいから。それもあって、わざとハードルを上げているの」
「俺もあったな。現役時代の頃」翔は空を見上げて言った。「あえて目標を高く設定したり、ビッグマウスを叩いて退路を断ったりして、ストイックに練習に打ち込んで、結果を出そうとした。だけど、俺の場合はうまくいかなかった。退路がなくなっちゃったから、戻るにも戻れなくなっちゃって、そのまま引退さ」
 翔は力なく笑ったが、真奈美は黙っていた。
 翔は頭をかいた。そりゃそうだよな。こんな時にこんな話をしたところで、なんて返せばいいか、困っちゃうよな。
 翔は声を明るくして、真奈美に言った。
「真奈美は俺みたいなことにはならないと思う。きっと、合格するよ。その子にも勝てるといいな」
「ありがとう」真奈美も上半身を起こし、翔に笑顔を見せた。「オール一本勝ち……は、さすがに現実的じゃないけど、それを目指すくらいの気持ちで臨むつもり」
「明後日の今頃は、二段になった真奈美と祝杯を上げてるんだろうな」
「えっ、お祝いしてくれるの? 嬉しい。焼肉とか食べたいな」
「ああ。だから、頑張れよ」
 翔は真奈美に向かって右手の拳を突き出した。真奈美も鍛え上げられてごつごつしている左手の拳を出し、グータッチした。
「焼肉のために頑張るってのも、変だよね」
「いいんじゃね?」翔は軽い調子で答えた。「メンタル的にはそれもありだと思うぜ。俺もランニングの時は、走り終わった後のビールとか頭に思い浮かべるし」
「そうか。楽しみが増えて、俄然やる気が出てきた」
「なんだか、俺の方が緊張してきたよ」
 翔が身震いすると、真奈美は「どうして?」と声を上げて笑った。
「さて、身体を冷やすといけないから、そろそろ戻ろうか」
 翔は立ち上がった。真奈美も「うん」と返事して、立ち上がった。


 翌々日の日曜日の昼。翔は県立武道館前の広場にいた。
 県立武道館は十年ほど前、国民スポーツ大会開催のために竣工された武道専用の体育施設で、大小の武道場や近的・遠的の弓道場をはじめ、トレーニング室やカフェ、武道関係の資料室まで併設されている。翔は初めて武道館に来たため、荘厳な外観を目の当たりにし、思わず息をのんだ。
 真奈美の道場の審査会は、第一小武道場で実施されていた。ここは板敷きの道場で、剣道やなぎなた、空手などの武道を中心に利用されているそうだ。翔は武道館の案内パンフレットの館内図と案内看板を頼りに、第一小武道場へ向かった。
 真奈美の話では、今日は午前が筆記試験で、午後が型と組手の実技試験というスケジュールとのことだった。日曜日の午前はランナーズベースでスクールがあるため、終わった後、午後の実技試験から見に行くと、翔は真奈美に伝えてあった。
 第一小武道場に入り、脇の階段を上って観客席に辿り着くと、翔は最前列の隅の椅子に腰を下ろした。道場の競技面の中央には白い空手マットが敷かれており、その周りには道着を来た人たちが大勢いた。準備作業や打ち合わせをしている人もいれば、ストレッチやイメージトレーニングに勤しんでいる人もいた。ややぶかぶかの道着を纏った小さな道場生たちもおり、時間をもてあましているのか、追いかけっこをして遊んでいる子もいた。
 翔は目をこらしながら真奈美の姿を探した。
 真奈美はすぐに見つかった。道場の隅で、何やらゆっくりと型の動作をしていた。ウォーミングアップがてら、動きの最終確認をしているようだった。翔は道着姿の真奈美を見るのは初めてだったため、新鮮に映った。髪をポニーテールでまとめ、やや緊張した面持ちで動きをひとつひとつ確かめながら、身体を動かしていた。
 真奈美の動きが一段落した。そして、すぐ近くに置いてあったペットボトル入りのスポーツドリンクとタオルを手に取った。
 ドリンクを飲みつつ、真奈美は道場内を見渡していた。視線は観客席の方にも向けられ、翔と目が合ったところで、真奈美の動きが一瞬止まった。翔が真奈美に向かって軽く手を振ると、真奈美も恥ずかしそうに小さく手を振って応じた。
 頑張れよ。翔が声を出さずに真奈美に向かって言うと、口の動きだけでわかったようで、真奈美は大きく頷いた。
 準備が完了し、型の審査が始まった。低い級の人から順番に審査が進んでいく。真奈美は競技面の外に座り、時折ストレッチをしながら、審査の様子をじっと見つめていた。いつもよりも表情が硬いように見えた。
 やがて、真奈美の番となった。翔は身体を前に乗り出して、真奈美に注目した。
 真奈美は競技面の中央に立ち、型の名前か何かを大声で言い、演武を始めた。山で見た時よりも一層、動きが素早く正確で、止まる時もぶれがほとんどなかった。つい三日前まで病気で寝込んでいた人の動きには、とても見えなかった。翔は微動だにせず、真奈美の演武をじっと見守った。
 途中で動きを間違えることもなく、真奈美は最後まで演武をやり遂げ、胸の前で十字を切って一礼すると、小走りで競技面から退場した。
 武道場の正面には、テーブルが置かれていて、審査員と思われるスーツ姿の人たちが、紙に何やら書いているのが見えた。おそらく、今の真奈美の型を採点しているのだろう。今のは満点だ。満点をつけてくれ。翔は審査員たちを見ながら、そんなことを思った。
 型の審査が一通り終わり、一旦休憩となった。真奈美が他の道場生たちと何やら雑談をしているのが見えた。型が終わったからか、少し笑顔も見られたものの、まだ緊張の面持ちは消えていなかった。
 そしていよいよ、組手の審査が始まった。組手も段位の低い人から順番に行われていったが、拳士たちの闘いは、翔が想像していたよりも激しく、つい握る手に力が入ってしまうくらいだった。これを十試合やらなければいけないのかと思うと、翔はため息が出た。
 早く真奈美の番になってくれ。そして無事に終わってほしい。審査が進むにつれて、翔は何だか落ち着かなくなり、座る姿勢を頻繁に変えたり、手にしていた缶コーヒーを何度も口に流し込んだ。
 初段を受けるための五人組手の部が終わり、ついに、真奈美の番となった。二段の審査を受けるのは真奈美だけで、真奈美の十人組手で今日の審査会は終わると、進行役の男性がマイクでアナウンスした。そして、皆で真奈美を応援するよう、拳士たちを競技面の周りに集めた。
 審判が声をかけると、真奈美が競技面に再び小走りでやって来た。開始線の手前に立ち、両方の拳を腹の前に掲げて待機した。口を真一文字で閉じており、いつもよりも眼光が鋭く、闘志がみなぎっているのが、観客席の翔にも伝わってきた。
 真奈美の前に、学生と思われる男性の黒帯選手が現れた。最初の対戦相手で、真奈美よりも体格が一回り大きい。
 のっけからこんな相手と闘うのか? 翔は心配になった。
 審判の合図で、両者が構えの姿勢をとった。
「始め!」
 真奈美の十人組手が始まった。
 両者が動き出すと、周りの拳士たちが思い思いに声援を送り始めた。
 真奈美は一気に相手に近づき、突きや蹴りを矢継ぎ早に打ち込んでいった。相手は真奈美の勢いに一瞬たじろいだ様子だったが、すぐに応戦し、激しい打ち合いとなった。
 翔が見ても、相手の攻撃は体重が乗っていて、素人がまともに食らったら一発で終わってしまいそうだった。だが、真奈美は何発受けても、ひるむ様子はなく、素早く連続で突きを相手の胸元に打ち込んでいく。
 最初からこんなハイペースで大丈夫なのか? マラソンじゃ、こんなスタートはありえない。
 翔がそう思った瞬間だった。
 真奈美は素早く相手に背中を向けたかと思うと、突如右足を後方へ蹴り上げながら身体を回転させた。蹴り上げた右足は相手の男性の側頭部に当たり、男性はそのまま横方向へ倒れた。真奈美は倒れた男性に向かって残心をとって身構えたが、相手は起き上がらない。
 審査員たちが男性に駆け寄り、声をかけると、男性はようやく身体を起こしたが、軽い脳しんとうを起こしたようで、片手を床についたままだった。真奈美は審判に促され、開始線に戻ると、正座をして待った。
 審査員たちと審判が協議した結果、一試合目は一本勝ちとなった。
 マジかよ……。本当に一本勝ちしちゃったじゃないか。しかも一人目で。
 翔は開いた口がふさがらなかった。
 当の真奈美は開始線の前に立ち、黙々と道着の乱れを直していた。
 あんなに鮮やかな蹴り技を決めたのに、表情は何ひとつ変わっていない。本当にオール一本勝ちする気でいるのだろうか。確かに今、一本勝ちして少し体力が回復できただろうが、この調子で残り九人を相手にしていたら、スタミナ切れになるだろう。
 翔は、真奈美の頭上に格闘ゲームのような黄色の体力ゲージが表示され、徐々に赤色のバーの領域が増えていき、最後にはゲージが全て赤色になってしまう様子を想像してしまった。
 翔と同じことを思っている人がいるのか、道場内から「ペースを抑えろ」と声が飛んだ。真奈美は声のした方を向き、軽く頷くと、現れた二人目の拳士に向かって構えた。
 二人目のこれまた学生と思われる茶髪の女性、三人目の小柄で年配の女性、四人目の翔と同年代くらいの男性と立て続けに対戦した。三人とも一人目のノックアウトを目の当たりにして警戒しているのか、連続技は控え、ヒット・アンド・アウェイで真奈美と対峙した。一方で真奈美はペースをさほど落とさず、積極的に攻撃を繰り出しているものの、さすがに一人目のような一本勝ちには持ち込めず、いずれも時間いっぱいまで激しい応酬となった。例え一本勝ちや有効打がなくても、時間切れまで諦めずに果敢に攻めていれば、一本負けを貰わない限り昇段は確実なんだと、観客席の男性が話しているのが聞こえた。
 そして五人目の相手が現れた。真奈美が話していた同年代の女性拳士だ。さっき、進行役が名前を呼んだので、彼女の名前は菱田瑛子であることがわかった。背丈や体型は真奈美と同じくらい。髪はショートカットで、薄化粧で地味な雰囲気だが、冷静で落ち着いていて隙が感じられない。これまでの拳士たちとは別格だと、素人の翔でも感じた。
彼女との戦いが終われば、マラソンでいうところの折り返し地点だ。一本取られるのだけは何としても避けてほしい。
 翔が祈る中、審判の声で二人の試合が始まった。
 瑛子は、移動はゆっくりだが、繰り出す突きや蹴りの早さが、他の対戦相手よりも群を抜いていた。早いだけでなく、様々な攻撃を組み合わせて、数多く打ち込んでくる。真奈美も防御して耐えつつ、相手の隙を見て攻撃を試みるものの、なかなか攻めきれないまま、時間が経過していった。
 真奈美の表情にやや焦りの色が見え始めた。何とか自分のペースに持ち込みたいのだろう。しかし、攻撃は瑛子によけられることが多くなり、疲れて手数も減りつつあった。
 早くもここでガス切れか。翔が頭を抱えたその時だった。
「はあっ!」
 真奈美がほんの一瞬だけ隙を見せた直後、鋭い咆哮のようなかけ声とともに、瑛子が真奈美の鳩尾に素早く飛び膝蹴りを放った。
「うわっ」翔は思わず声を上げた。
 あろうことか、真奈美は膝蹴りをもろに食らってしまい、その場に思わずうずくまってしまった。
 審判が試合を中断し、真奈美に何やら声をかけて近づいた。真奈美は手で審判を制し、すっくと立ちあがった。そして、足をやや内股にし、両手の拳を胸元に掲げて構え、目を閉じて深く呼吸した。三戦(サンチン)の構えだと観客の誰かが言っているのが、翔にも聞こえた。スマホを取り出して検索すると、三戦は空手の基本の型の一つで、稽古を始める際は、必ずこの構えから入るらしい。おそらく真奈美は、三戦の構えをすることで、気持ちをリセットしようとしたのかもしれない。翔は真奈美の姿を見ながら、そう思った。
 真奈美は通常の構えの姿勢をとると、それまで開始線で待機していた瑛子も、同様に構えた。審判が試合を再開した。残り時間は一分弱。瑛子の飛び膝蹴りを食らう前よりも、真奈美の手数は増えてきており、瑛子も真奈美の攻撃をかわしきれなくなってきた。両者の表情が苦痛で歪んでいるのが、翔の位置からでもわかった。
「やめ!」審判が声を上げ、瑛子との試合が終了した。
 ひとまず、一本負けにはならずに済んだので、翔はほっとした。
 休憩を挟み、後半戦に突入した。後半戦の五人は、これまで対戦した五人がもう一巡する形で真奈美と拳を交える。ただし、一人目の男性は真奈美の回し蹴りで対戦不可となったため、急遽、別の拳士が代わりに相手をすることになった。
 真奈美は前半に比べペースが落ちてきていたが、一発一発、確実に相手に当てていくようになった。スピード重視からパワー重視へシフトしたようだ。真奈美も対戦相手も拳から出血しているようで、両者の道着に血が付着し始めていた。
 翔には、競技面の脇に置いてあるタイマーの残り時間の動きが遅く見えた。早く。早く終わってほしい。
 後半戦はいずれも時間いっぱいまでもつれこみ、ようやく、九戦目が終了した。
最後は再び瑛子との対戦だ。
 真奈美は肩で息をしながら、開始線で待機していた。かなり体力を消耗しているようだ。
ここまで来たんだ。無理することはない。確実に最後まで走りきることだけを考えた方がいい。翔は真奈美の姿を見て、そう思った。
瑛子が一回目の対戦の時と同じく、冷静な面持ちで競技面に現れた。
互いに一礼し、瑛子はゆっくりと構えの姿勢に移った。
真奈美は一旦両腕を上に伸ばして、柔道選手のように仁王立ちした後、素早く構えた。
「始め!」
 審判が試合開始を告げた直後、真奈美が「っしゃあ!」と、道場全体に響き渡るくらいの気合を入れ、瑛子に向かっていった。
 両者の試合は一戦目よりも激しかった。瑛子は当然ながら体力が残っているため、これまでと変わらないスピードで真奈美に攻撃をしかけてきた。真奈美は、瑛子との初戦では防御やステップで攻撃をかわすのが精いっぱいで、反撃に転じることができないケースが多く見られたが、今回は素早く相手の攻撃を捌いた後、間髪入れずに果敢に攻めていった。そのため、瑛子もダメージを受ける回数が増え、その度に表情が歪んだ。
 これまでの四人との対戦とは明らかに動きが違う。この試合に備え、体力を温存していたのだろう。だが、あまり攻めすぎると、さっきの膝蹴りみたいにまともに攻撃を受けてしまいかねない。
 翔がまた心配になってきたその時、試合が動いた。
 真奈美が突きと蹴りの連続攻撃を繰り出した後、ノーステップで素早く右足を高く蹴り上げ、勢いに任せてかかと落としを放った。かかとは瑛子の右肩にヒットし、瑛子は思わず膝をついた。
 道場内から「おおっ」と歓声が上がった。
 翔は思わず腰を浮かせた。ひょっとしたら、一本勝ちか?
 だが、瑛子はすぐに立ち上がり、開始線に戻った。瑛子が審判の問いかけに頷いて答えると、試合は続行となった。
 タイマーは残り一分を切った。
 今度は瑛子が素早く上段蹴りを繰り出した。真奈美は尻もちをついて倒れた。
 蹴りを食らったかと、翔の顔は一瞬青ざめた。
「大丈夫、スリップだ」観客の誰かが言った。「かすっただけだ。問題ない」
 真奈美はすぐに立ち上がり、試合はそのまま続行された。
道場内から「頑張れ!」「ファイト!」「あと少し!」と、子供拳士たちが声援を送った。
ようやく残り三十秒となった。
 真奈美と瑛子の打ち合いはペースがさらに上がった。真奈美はラストスパートとばかりに、積極的に前へ前へと突き進んだ。気合を入れるためか、疲れを紛らわすためか、「はあっ」「やあっ」「えいっ」と声を出しながら、攻撃を繰り出していく。真奈美の勢いに圧倒されたのか、瑛子がやや後退し始めた。
「残り十五秒だ!」
 誰かが大声で言った。
 真奈美は突如身体を捻り、胴回し回転蹴りを放った。鮮やかな蹴り技に、観客が一瞬どよめいた。だが、瑛子がすんでのところでかわしたため、蹴りは空振りに終わった。
 この期に及んで、あんな大技を繰り出すとは。翔は思わず「凄えな……」と呟いた。ペースを保てばいいとか、一本負けにならなければいいとか、守りのことしか考えていなかった自分が、何だか恥ずかしくなった。
 もう残り数秒だが、二人は試合開始時と変わらず拳を交えた。
「やめっ!」
 審判の声が道場内に轟くと、大きな歓声と拍手が沸いた。
真奈美は十人組手を達成し、二段へ昇段したと、進行役が告げた。
 翔は「よっしゃあ!」とガッツポーズをして立ち上がり、真奈美に拍手を送った。
 真奈美はよろよろとした足取りで、競技面の中央に進んだ。師範と思われる、道着姿の年配の男性が真奈美の前に立ち、二段の認定証と新しい黒帯を真奈美に贈呈した。男性に促され、真奈美はその場でこれまで締めていた黒帯を外し、新しい黒帯を締めた。
 正面を向くと真奈美は、今日これまで全く見られなかった明るい表情で「押忍!」と言い、四方を向いて十字を切った。再び、道場内から暖かい拍手が起こった。


 その日の夜、翔と真奈美は、いつもの商店街近くにある公園の緑道をゆっくりと歩いていた。審査が終わった後、真奈美は道場の打ち上げに冒頭だけ参加した後、翔と落ち合い、二人きりで商店街の焼肉屋で祝杯を上げた帰りだった。
「激しい運動をしたのに、よくもまあ、あんなに食べられるよな」
 翔は少し呆れた調子で真奈美に言った。
「翔ほどは食べてないと思うけど。今日、そんなに動いてないでしょ?」
「まあな」と、翔は苦笑した。
「今更なんだけど」翔は訊ねた。「本当に良かったのか? 道場のお祝い会抜け出して、俺なんかと。今から戻っても間に合うんじゃないか?」
「疲れたから早く休みたいって断ってきたから大丈夫。道場閉める前に、最後の飲み会があるみたいだし。気にしなくていいよ」
「そうは言っても、真奈美のお祝いだろう?」
「お祝いされるのは私だけじゃないから。他の昇段者や昇級者もいるんだし」
「そうか。それならいいんだけど」
 翔は真奈美から目を逸らし、前を向いた。
「翔、ありがとう」
「何が? 焼肉の会計なら気にするなよ。俺からのお祝いだ」
 翔が答えると、真奈美は、「違う!」と口を尖らせた。「今日の審査のこと。応援に来てくれて嬉しかった。昇段できたのは翔のおかげだよ」
「そんな。俺は何もしていない。真奈美の努力の賜物だよ」
 翔はかぶりを振りながら答えた。そして続けた。
「今日の真奈美を見て、俺、いろいろ考えさせられたよ」
「そうなの?」
「ああ。組手の時、真奈美は最初から最後まで全力で戦っただろう? 俺がマラソンやっていた時は、ここまで頑張れば後は流せばいいとか、無理はせずにできる限りペースを保てばいいとか、消極的な姿勢で臨んでいたこともあったから、真奈美みたいに攻めの姿勢を貫ける人って、本当尊敬するよ」
「それって、消極的なのかな? 空手のような試合形式のスポーツとマラソンとは、また違うんじゃない? 全体を見てペースを配分するって、大事なことだと思うけど。私は今日、その点がうまくできなかったって、ちょっと反省しているの」
「いや、まあそうなんだけど……。何て言えばいいのかな。真奈美のようなストイックさが、俺には足りなかったのかな。もちろん、トレーニングはしていたけど、どこかで持ち前の才能とかにあぐらをかいていたようなところもあから、結果を出せなかったんだろうなって」
「翔……」
「舐めてたんだろうな、世の中を」翔は下を向いた。「都合の悪いことがあると、自分のことを棚に上げて、周りの人間や環境のせいにしていたし」
 真奈美は黙っていた。
「己に謙虚になり、厳しく律していくことが大事だって、真奈美が教えてくれた。お礼を言いたいのはこっちの方だよ。ありがとう」
「私だって、何もしていないわ。でも、こんな私が翔のお役に立てたようなら、嬉しいかも」
二人は、公園の中心部に位置する噴水広場に辿り着いた。夜なので、噴水自体は既に稼動を終えていて、人もいなかった。
「少し、休もうか」
「うん」
 翔と真奈美は噴水脇のベンチに並んで腰かけた。
「空手、卒業するんだろ?」
「うん。一旦はね」
「そうか。やっぱりもったいない気もするけど」
「もちろん、せっかく二段を取ったんだから、忘れないように、たまには稽古するつもりでいるわ。その時は翔に相手してもらうから」
「サンドバッグになれってか? 勘弁してくれよ」
 二人はそこで声を上げて笑った。
「ねえ」真奈美が笑うのをやめて、翔に声をかけた。
「この間、翔、私に訊いてきたでしょ?」
「何を?」
「空手をやめても一人で生きていくのかって」
「ああ、そういや、訊いたな。いい人が現れれば考え直すって言ってたっけ?」
 翔は、真奈美とハンバーグを食べた帰り道の光景を思い出した。
「うん。やっぱり考え直すことにした」
「おお。ということは、いい人が現れたんだ。どんな男なんだろうな」
「今、私の隣に座っているんだ」
「へえ、そうなんだ……って、俺?」
 翔は思わず自分の顔を指差した。真奈美は恥ずかしそうに俯きつつも、こくりと頷いた。
「実は、スーパーで働いている時から、買い物に来ている翔のことが気になっていたの。言葉通り一目ぼれで。そんなこと、今まで一度もなかったから、自分でも驚いちゃったんだけど」
 翔は言葉が出なかった。
「でも、店員の立場だし、恥ずかしくて、なかなか声をかけられなかった。そんな中、山で稽古している最中に翔と出会って、びっくりしたのと同時に、嬉しかったの。あまりにも嬉しくて、この機を逃してはならないって思ってつい、呼び捨てで呼んでってお願いしたり、連絡先を交換したりしたの」
 どおりで知り合ってからの展開が早かったわけだと、翔は思った。
 翔は意を決して真奈美に言った。
「実は、俺も真奈美のこと、スーパーに行くと、気になっていたんだ」
「どうして声かけてくれなかったの?」
 真奈美がやや不満そうに言った。
「なんだか、俺なんか眼中にもないだろうなって、諦めてたところがあって」
「私、他の男性からもそんな風に見られてるのかな」
「綺麗だからさ。顔も性格も悪い俺には高嶺の花に見えたんだ。きっと、俺なんかよりもいい男と付き合ってるんだろうなって」
「そんなことないよ。高嶺の花だったら、もっとモテていいはずだもん。私、前に話した元カレくらいしか、まともに恋愛していなかったし」
 美人だと、周りの男がはなから諦めて近よらないため、恋愛に発展しづらい傾向にある。以前、テレビかネットで話題になっていたのを、翔は思い出した。
「翔の方こそ、顔も性格も悪いどころか、むしろ良いと思うんだけど。少なくとも私には」
 そこで翔は、真奈美の肩を抱き寄せた。真奈美は抵抗することなく、翔の肩に身体を預けた。
「真奈美にそう言ってもらえて、嬉しいよ。ありがとう」
 翔は真奈美の目を見ながら言った。すると真奈美は周りに人がいないのを素早く確かめると、翔の唇に軽くキスをした。翔はさらに真奈美を抱き寄せ、今度は自分から真奈美に長いキスをした。真奈美から少し吐息が漏れた。
「ありがとう」
 真奈美は翔に微笑みながらささやくと、翔の髪を優しく撫でた。
 しばらくの間、二人とも無言のまま寄り添った後、翔は声をかけた。
「さあ、冷えてきたし、今日はもう帰ろう。ゆっくり休んだ方がいい」
「そうね」
 二人は立ち上がり、近くのバス停へ向かって歩き出した。
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