第10話

文字数 11,470文字

 厳しかった冬の寒さも和らぎ、春の暖かな陽気が訪れるようになった。
 金曜日、翔は市内にある山へトレイルランに出かけた。山と言っても、ハイキングや遠足で利用されるくらいのなだらかな山だ。携帯電話も問題なく通じる。それでも、普段平野部ばかりを走っている翔にとっては、格好のランニングコースである。実際、翔と同じようなランナーと山道ですれ違うことも多い。この山を使ってランニングスクールを開催するのも楽しいかもしれない。翔はそう思いながら、黙々と起伏のある山道を駆けていった。
 先日、毎年年末に市内で開催されるマラソン大会の開催要項が発表された。宮川は早速、ランナーズベースのスクール生に要項を配り、ぜひ参加するようにと案内した。また、今後はこの大会に出ることを前提とした構成でスクールを実施していくと説明した。さらに、毎週のスクールに加え、参加者を募って特別レッスンや合宿の開催も検討しているとのことだった。
 そして、マラソン大会には翔が出場し、皆の手本となる走りを見せるとともに、サブ2.5を達成すると宮川が勝手に宣言した。日頃世話になっている宮川の意向を拒むこともできず、翔はそれからというもの、本格的に練習をするようになった。
 麓から頂上に至るこの山道の途中には、沢が道を横切る形で流れていた。翔は山道をそれ、沢を上流方面へ向かって走っていった。特に道が整備されているわけではないのだが、流水量は少なめで水深は一センチメートル程度なので、トレイルラン専用のシューズなら、訳なく登っていける。
 この沢を登っていったところに小さな滝があり、その手前がちょっとした水溜まりになっている。ここの水は冷たくてとても澄んでおり、休憩やクールダウンにちょうど良い場所だった。以前、行けるところまで行ってみようと沢を登った時にこの場所を発見し、それ以来、誰も知らないであろう秘密の場所で休憩するために、トレイルランの時はほぼ毎回そこに立ち寄っていた。
 傾斜の大きい上り坂を、足を滑らせないよう慎重に登ると、滝の音が微かに聴こえてきた。五十メートルほど先に滝が見えた。だが、いつもと違うのは、その手前の水溜まりに人の姿が見えたことだった。
 先客がいるのか……。水溜まりを一人占めできると思っていた翔は、少し気落ちした。山で作業をしている地元の人なのだろうか。翔が立ち止まっで目を凝らすと、水溜まりにいるのは女性のようだった。女性は正面にある滝の方を向いて立っていて顔が見えないが、髪を後ろに束ねてポニーテールにしていることは確認できた。
 何をしているんだ? 翔は気配を消し、少しずつ近づいていった。女性は足を肩幅程度に開いて立ったまま、微動だにしていない。
 翔が気になったのは、女性の服装だった。下半身は柄が入ったタイツの上にショートパンツを穿いていたが、上半身は白いスポーツブラらしきものしか着ていなかった。まさか、ここまでその服装で来たのだろうか。いくら気軽に登れる山とはいえ、肌を露出していたら、虫に刺されるし、道端の草木で傷つくだろう。
 いや、おそらくここなら誰も来ないだろうと、上着を脱いだのかもしれない。実際、翔もここで休憩するときは、暑くて上着を脱ぐ時もあるし、夏の季節は上半身裸になって水浴びすることもある。
 さて、どうしたものか。翔は迷った。元来た道を戻るか、それとも何食わぬ顔で水溜まりを通過するか。水溜まりを通過してさらに奥へ進めば、さっきの山道に再び合流するので近道になるのだが、女性とすれ違うのが気まずく感じた。かといって、ここまで来て戻るのも遠回りになって面倒だ。
 翔が立ち尽くしていたその時、女性が動きを見せた。その動きは、翔が全く予期していないものだった。
 女性は前後左右に移動しながら、拳を突き、蹴りを放った。時折動きを止め、何やら独特の構えをした。そして再び移動し、拳や蹴りを繰り出していく。
 これは……、空手の型か? 
 翔は、高校時代に体育館で空手部員が稽古に励んでいる光景を、思い出した。
 図らずも翔は、女性の演武に見入ってしまった。一つ一つの動きにキレがあり、ブレがなく、美しかった。普段から体幹を鍛えていなければ、こうはできないだろう。気がつくと、翔は女性のいる水溜まりにさっきよりも近づいていた。もっとよく見てみたいという思いが、足を動かしていた。
 水溜りのすぐ手前の木の陰までやって来た。女性はポニーテールの髪をなびかせて、百八十度向きを変えた。そして凛々しい表情で突きと蹴りを数回放ち、翔の方に近づいてきた。そこで女性と目が合い、翔は「あっ」と声を上げた。女性は翔を見て、ほんの一瞬驚いて恥ずかしそうに俯いたものの、すぐに顔を上げて「あっ……」と声を発した。
「もしかして――」翔は女性に右手を向けて訊ねた。
 女性は翔の質問の趣旨を理解したのか、「はい」と返事した。


 五分後、翔と女性は滝のそばの岩場に、並んで座っていた。
「こんなところで会うなんて、思ってもいなかったよ」
 翔は足を沢の水で冷やしながら言った。すぐ近くで鳥のさえずりが聞こえる。
「私も、よく店でお見かけしていたので、びっくりしました」
 女性が応じた。さっきの演武の時とは違い、表情は穏やかだった。癒しを感じるのは、決してこの沢だけのせいではないと、翔は思った。
「俺は高野翔。君は確か……、城戸さんだっけ?」
 翔が訊ねると、女性は不思議そうな表情を見せた。
「どうして知ってるの?」
「だって、店で働いている時、名札してるから」
「ああ、そうか。それで」
 女性はそこで納得し、笑顔を見せた。
「下の名前は?」
「真奈美っていいます。いつもご来店、ありがとうございます」
「あははっ。こちらこそ、品揃えが良いんで、いつも助かってるよ」
 急に改まってお礼を言われたため、翔はつい笑ってしまった。
 真奈美は、翔や宮川夫妻がランナーズベースで必要な物資を購入しにいつも訪れているショッピングモール内のスーパーマーケットで、レジ打ちのアルバイトをしている。翔は密かに真奈美のことを気に入っており、わざわざ真奈美のいるレジに並んで会計をすることもあった。ルックスや雰囲気が紗希に似ているからというのも、理由の一つだった。
 なので、自分のお気に入りの場所でこうして出会えたことが、翔にとっては嬉しくて、真奈美に対してますます親近感を抱いた。
「ここには、よく来るんですか?」
 真奈美が訊ねた。
「俺、元マラソン選手なんだ。知らない……かな?」
「ごめんなさい。私、スポーツにあまり詳しくなくて……」
 真奈美は申し訳なさそうに言った。
「いや、いいんだ。そんなに大した選手じゃなかったから、知らなくて当然だよ。俺、引退してからこの山でトレーニングしていて、ある時偶然ここの場所に辿り着いて、気に入っちゃったんだ」
「そうなんですね」
「ていうか」翔は真奈美の方を向いて言った。「スーパーの外では、敬語は使わなくていいよ。多分同年代でしょ?」
 翔は自分の生まれた年を言った。すると真奈美は、「びっくり。同い年」と答えた。
「マジかよ」翔もまさか年齢が同じとは思っていなかった。「だったらなおさら、敬語はなしだ」
「わかった。そうするね」
「真奈美ちゃん――」
 翔が口を開くと、今度は真奈美が翔の方を向いて言った。
「『ちゃん』はいらないわ。呼び捨てにして」
「えっ? あっ、そう? じゃあ、俺のことも翔って呼び捨てにしてくれていいよ」
 こんなに急に親しい間柄になってしまっていいのだろうか。翔は嬉しい反面、少し戸惑いも感じた。
「じゃあ、真奈美……は、いつからここに来るようになったんだ?」
「私はつい最近、ここを知ったばかりで」真奈美は滝を見ながら答えた。「なかなか、道場以外で空手の練習ができる場所ってなくて、私もたまたまここに辿り着いて、誰にも見られないから、気に入っちゃったの」
「へえ。テレビドラマとかだと、砂浜とか河原で空手部員が練習してたりするけど、そういうことはしないんだ」
「無理無理。人が見ているから、恥ずかしいよ。今だって、翔じゃなかったら、もうここに来るのやめようと思ったくらいだもん」
「そんなに恥ずかしいの? ていうか、俺ならいいのかよ」
 翔が突っ込むと、二人は一緒に笑った。
「知っている人だったからよ」
 笑いながら話す真奈美の姿を、翔はつい眺めてしまった。日頃鍛えているのだろう。無駄のない引き締まった身体でありながら、胸や臀部はグラマラスで、そして腹筋はうっすらと六つに割れていた。さらに下腹部に目を向けると、スポーツ用のショートパンツの腰の部分に、空手の黒帯を締めていた。黒帯には真奈美の名前の刺繍が入っていた。
「それ、普段からしているの?」
 翔は黒帯を指さして訊ねると、真奈美は首を左右に振りながら「ううん」と答えた。
「ここで練習するときだけ、してるの。これをつけていると、何だか気が引き締まって力が湧いてくるんだよね」
 そう言うと真奈美は立ち上がり、両脇そばで拳を作ると、息をすっと吐き、交互に突きを何発か放った。素早い動きで、拳から空を切る音が起こった。
それを見た翔の胸は思わず高鳴った。
「凄いなあ。真奈美って、初段なの?」
 翔が訊くと、真奈美は少しはにかみつつも、こくりと頷いた。
「ねえ。翔は、今何をしているの?」
 真奈美は再び翔の隣に座った。
「今、トレイルランをしているところだよ」
「違う違う」真奈美は慌てて手を左右に振った。「仕事のことよ。さっき、『元マラソン選手』って言っていたから、今は何をしているのかなって」
「ああ。そうか」翔は苦笑しながら頭をかいた。「今は、大学時代の陸上部の監督がやっているランニングステーションの手伝いをしているんだ。それで、そこで必要なものを買いにスーパーへ通ってるんだ」
「じゃあ、たまに一緒にいらっしゃる年配の女性は?」
「あの人は監督の奥さんだよ。奥さんも店を手伝っているんだ」
「そうなんだ。そのランニングステーションってどこにあるの?」
 翔はランナーズベースの場所と概要を説明した。
「あそこの店なら知ってる」
「嘘、知ってるんだ」
「うん。以前、公園に行ったときに見かけて、ちょっと気になっていたの。私、ランニングやってみたいなって思ってて」
「おっ。じゃあ、ぜひうちのスクールに参加してよ。今、生徒を大募集中でさ」
「うん。落ち着いたら、行ってみたい。翔、連絡先教えてよ」
「ああ」
 翔は背中のリュックからスマホを取り出した。画面を見ると、暁子からLINEが届いていた。至急店に来てほしいとのことだった。
「ごめん。急遽店に行くことになったから、もう帰らなきゃ」
「そっか。わかった」
 真奈美は少し残念そうな表情を見せたが、すぐに翔と連絡先を交換した。
「私、今日の夕方、スーパーにいるから」
「本当? じゃあ、店終わったら行くかも。後で連絡するよ。真奈美はまだここで練習するの?」
「うん。もうちょっとだけ」
「そうか。頑張れよ」
「うん。じゃあね」
 翔は真奈美に手を振り、元来た沢を下り始めた。急いでいるからというのもあるが、以前から気になっていた人に意外な場所で出会って仲良くなり、さらに連絡先も交換できたので、いつもよりも足取りが軽く感じた。

「ああ、翔。お休みのところ悪かったね」
 ランナーズベースに入るなり、暁子が両手を合わせて翔に声をかけた。
「どうかしたの?」
 翔が訊ねると、暁子は忌々しそうに言った。
「うちの人、熱があるみたいで、かなりしんどそうだったから、帰ってもらったのよ。今頃、医者に診せに行ってるんじゃないかしら」
「季節の変わり目だから、監督、体調崩したのかな?」
「そうかもしれない。午後のスクール、よろしく頼むね」
 翔は昼食を軽く済ませ、午後、宮川が担当しているランニングスクールの代理講師を務めた。このスクールは平日の午後開催で、中高年の女性の参加者が多いため、ランニングは短めで、体操やストレッチに重きを置いていた。宮川よりも若い翔が来たので、参加者の女性たちは皆テンションが高くなってしまい、翔は彼女たちの相手をするのに疲れてしまった。
「終わりましたあ」
 スクールを終えた翔は、ランナーズベースに戻った。スクール生の女性数人も一緒だった。これからカフェで休憩がてらおしゃべりでもするのだろう。
「ありがとう。助かったわ」
 暁子はカウンター席に腰かけた翔に、よく冷えたコーラを差し出した。翔は礼を言うと、早速ぐびぐびと飲み始めた。
「監督、毎週よくやりますよね。俺、このスクールはちょっと苦手だな」
 翔がスクール生に聞こえないように、小声で暁子に言った。
「あら? さっき、ここに入って来たときは、そんな風に見えなかったけど」
「仕事だからですよ。仕事」
「そう、さすがだねえ」
 やや意地悪い反応をする暁子を尻目に、翔はコーラを飲み干すと、着替えを済ませ、店の手伝いに入った。
 手伝いの最中、翔は暁子に訊ねた。
「ねえ、暁子さん。今日、何か買ってくるものとかない?」
「ああ。そういえば、トイレットペーパーが少なくなっているから、買わなきゃって思ってたの」
 暁子が答えると、翔は嬉しそうに言った。
「だったら俺、この後、仕事あがったら夕飯がてら、ショッピングモールへ買いに行ってくるよ」
「本当? じゃあ、お願いしていいかしら」
 暁子は翔に買い物リストのメモを手渡した。
「夕飯食べて帰るから、遅くなるかもしれない」
「構わないわよ。閉店後に戻ってくるんだったら、戸締りとかしっかりね」
「わかった」
 夕方、翔はハイエースに乗り込むと、真奈美に今から行くとLINEを送り、ショッピングモールへ向かった。
 平日だが、夕飯の買い物客で、駐車場に停まっているクルマの数は多かった。翔はクルマを降り、スーパーに近い入口へ向かった。何だか今日は、いつもよりも疲れていると感じた。トレイルランをしたからか、担当外のスクールの講師を急遽引き受けたからか、理由はよくわからなかった。
 翔はスーパーに到着すると、ショッピングカートを引っ張り出し、暁子に頼まれた品物を慣れた調子で次々とかごに入れていった。
 レジに向かったが、真奈美の姿はなかった。
 あれ? いないのか?
 レジのブースを往復して確かめたが、やはり真奈美はいなかった。
 とりあえず会計を済ませようと、翔はセルフレジに向かい、手早く品物を袋に詰め、お金を支払った。セルフレジは慣れてしまえば、有人レジより断然早い。
 翔はレジからエスカレーターを挟んで反対側にあるサービスカウンターへ向かった。そこで駐車場の無料サービス券を貰いたかったし、たまにレジのスタッフが対応していることもあるため、真奈美がそっちにいるかもしれないと思ったからだ。
 すると、サービスカウンターの前では、高齢の男性が大きな声で何やら話していた。その相手をしていたのは、スーパーの制服を着た真奈美だった。
 クレーム対応か。大変だな……。
 翔はサービスカウンターの順番待ち用のベルトパーティション脇で、様子を見ていた。真奈美とちらと目が合ったが、接客中なので、翔に対して特段の反応は示さなかった。
 男性の苦情は、スーパーのポイントカードをなくしたから、なくしたカードについていたポイントを加えた形で再発行してほしいというものだった。カードの再発行であらかじめポイントを付与することは、所持しているカードに不具合が発生した場合を除いてできない旨を、真奈美は丁寧に説明しているのだが、男性は聞く耳を持たず、同じことを何度も繰り返し主張していた。
 できるわけないだろうが。そんな理由が通ってしまったら、不正をはたらく輩が出てくるに決まってる。本当にカードをなくしてしまった人には気の毒だが、世の中善人ばかりじゃないんだ。潔く諦めろよ。
 翔は荷物の重さに耐えながら、心の中でそう呟いた。
 真奈美とクレーマーの応酬は終わりそうになかった。翔は業を煮やして、二人に近づいた。
「すみません、駐車場のサービス券、ください」
 翔が真奈美に声をかけると、真奈美は翔の方を見た。
「おい、こっちの話はまだ終わってないぞ」
 男性が真奈美にさらに近づいて言った。男性の声が大きいため、周囲の客が何事かという表情で翔たちを見ていた。
 翔は男性に向かって言った。
「おっさん、いい歳して、さっきからケチ臭いこと言ってんじゃねえよ。ちょっと考えれば、そんなことできないことぐらいわかるだろう?」
「何だと?」男性が翔の方を向いた。「若造はすっこんでろよ」
「はあ? こっちは駐車場のサービス券を貰いたくて、さっきから並んで待ってんだよ。お前のくだらないクレームのせいで、このクソ混んでいる中、長時間待たされる身にもなってみろよ」
 翔は後方に目を向けた。客たちが苛立った様子でベルトパーティションに沿って並んでいた。
「お前、喧嘩売ってんのか?」
 男性が大声で凄んだ。
「だったら、どうだっていうんだ?」
 翔が応じると、男性は「この野郎」と言うや否や、翔に右手で殴りかかってきた。
 翔が後方に飛び退こうとした瞬間、男性の右手の動きが止まった。
 見ると、真奈美が男性の右手首を右手で掴んでいた。男性は痛いのか、顔をしかめている。
 早っ。しかも片手だし。さすが空手家。
 翔は舌を巻いた。
 真奈美が真顔で男性の右手首を掴んだまま言った。
「お客様、他のお客様のご迷惑になることはおやめください。これ以上、このようなことをなさる場合、警察に通報します」
「なんなら、今すぐ電話してやってもいいんだぜ」
 翔は自分のスマホを取り出し、男性に見せた。
「うるせえ!」
 男性が真奈美の手をふりほどき、翔に襲い掛かった。その直後、真奈美が男性に素早く足払いをかけたため、男性はその場に派手に転び、悲鳴を上げた。
「おい、おっさん、どうしたんだ?」
 翔がとぼけたふりをして、倒れている男性に声をかけると、男性は舌打ちをひとつして立ち上がり、逃げるように去っていった。
「お客様、お待たせして申し訳ございません。サービス券をお渡しいたします」
 真奈美が翔に手を差し出しつつ、声をかけた。
「お疲れっす」
 翔は真奈美に駐車券を渡した。

 翔がハイエースの運転席で待っていると、フロントウインドウの向こう側に真奈美の姿が見えた。翔がパッシングライトを点滅させると、真奈美は気付いて、こちらに駆け寄ってきた。彼女の私服姿を見るのは初めてだったが、奇をてらわない落ち着いたファッションだった。
 真奈美は助手席の大きなドアを慎重にゆっくりと開け、シートに座った。
「ごめんね。帰り際にさっきの件を上司に報告してて、遅くなっちゃった」
「全然大丈夫。大変だったな」
「クレームはよくあることだし、もう慣れちゃった」
 真奈美は苦笑いしながら答えた。
「あとそれから」翔は真奈美に頭を下げた。「ありがとう。荷物が多かったから、真奈美がおっさんを止めてなかったら、俺、あいつのパンチをまともに食らってたかも。助かったよ」
「ううん。怪我がなくて良かった」
 真奈美は後部座席に置いてある荷物をちらと見て、安堵の表情を浮かべた。
「さて、何食べようか」翔は真奈美に訊ねた。
 サービスカウンターでの騒動の後、翔はハイエースに戻り、LINEで真奈美に夕飯を一緒に食べないかと誘った。断られるかスルーされるかもしれなかったが、スマホをいじりながらしばらく待っていると、仕事が終わった真奈美から返事が来た。モール外でだったらOKだとのことだった。モールの中にもレストランはたくさんあるが、スーパーの従業員に見られるのが嫌だからというのが理由だった。もっともだと翔は思った。自分が真奈美の立場だったら同じことを言っただろう。
 ともかく、今日再び真奈美と二人きりになれて、翔は嬉しかった。この感覚、最後に味わったのはいつのことだっただろう。
「翔の好きなものでいいよ。私、そんなに好き嫌いないし」
「そうか。じゃあ、あそこはどう?」
 翔は市内にある手ごねハンバーグのレストランの店名を言った。疲れているので何かスタミナがつくものを食べたかったし、そのレストランは女性にも人気があるから真奈美も喜ぶだろうと思ったからだ。
「いいね。今日、山で修業したから、お腹が空いちゃって。あの店のハンバーグ、美味しいもんね」
「山で修業か。そうだよな。確かにやっていることは修行だな」
翔はつい笑ってしまった。
「よし。じゃあ、行きますか」
 翔はそう言うと、ハイエースのエンジンをかけた。
 十五分ほどクルマを走らせ、レストランに到着した。レストランは空席待ちの客が何組かいたが、たまたま二人掛けのテーブルが空いていたため、幸いにも翔たちは待たずに席に着くことができた。
「はあ、疲れた」
 椅子に座るや否や、翔はつい声を出してしまった。
「大丈夫?」真奈美が声をかけた。
「ああ。何だかちょっと身体がだるくて。だけど、食べれば治るっしょ」
「そうなんだ。じゃあ、何食べる?」
 真奈美はメニューを翔に手渡した。
 メニューが決まると、翔は店員を呼び、ボリュームのあるハンバーグとサーロインステーキのセットと大盛ライスを注文した。
「それをもう一つください」
 真奈美が間髪入れずに店員に言ったので、翔は思わず目を丸くしてのけぞった。
「食うねえ。しかもライス大盛って」
「言ったでしょ。修業したからお腹が空いてるの」
 真奈美は事も無げに言った。
「今日でだいぶ、真奈美に対するイメージが変わったよ」
「幻滅しちゃった?」
 真奈美は不安そうに訊いた。
「いや。むしろ逆だな。気に入った」
「本当? だったら嬉しい」
 真奈美の表情がぱっとほころんだ。
 二人は一旦席を立ち、ドリンクバーへ飲み物を取りに行った。
「そういえば」翔は席に戻ると真奈美に訊ねた。「真奈美がやってる空手の流派って何? 俺あんまり詳しくないんだけど、さっきのおっさんとのやり取りを見てると、もしかしてフルコンタクト系?」
「当たり」真奈美はそう答え、フルコンタクト空手で有名な流派の名を挙げた。
「そうなんだ。しかしまた何で、あえてフルコンを選んだんだ?」
「何でだろう?」真奈美は笑いながら自問した。「当時、十年近く付き合っていた彼氏がいたんだけど、別れちゃって。その時はすごくショックで、もうこれからは一人で生きていこうって心に決めたの。そうなると、自分の身は自分で守らないといけないなって思って」
「それで、護身術として空手を習い始めたというわけか」
「そう。フルコンなら実践的だから、日常でも役に立つかなって思ったの。道場も家の近くにあったし」
「なるほどね。それで頑張って初段まで取ったんだ」
「うん」真奈美はアイスティーを一口飲んだ。
「実は、再来週の日曜日に昇段審査を受けるんだ」
「へえ。そうなんだ。昇段審査って何すんの?」
「二段の場合は、筆記試験をやって、型の審査をして、最後に十人組手をして、一定の基準をクリアすれば合格だね」
「十人組手!」翔は目を見開いた。「なかなかハードだね。そりゃあ、修行も必要だ」
「そうなのよ。初段の時は五人組手だったけど、かなりきつかったからね」
「二段ともなれば、ゆくゆくは指導者にもなれるんじゃないの?」
「まあ、そうかもね」真奈美は頷いた。「でも、二段をとったら、空手は一旦やめようかなって思ってるんだ」
「えっ、どうして?」
今日二杯目のコーラを飲んでいた翔は、顔を上げた。
「実は、通っている道場が今月いっぱいでなくなっちゃうの。それで、今度の昇段審査が最後になるから、それを機にやめようって」
「何だかそれじゃあ、せっかく二段になっても、もったいなくね?」
「ここまでやってこれて、自分に自信もついてきたし、もういいかなって。またやりたくなったら、やればいいし。今は、他に何か新しいことがしたいって思いが強いんだ」
「そうだったのか」
「無事、二段になって、空手を卒業したら、翔のランニングスクールに行こうかな。だから、あと一週間ちょっとは、空手に集中させて」
「もちろんだよ。俺、審査本番、応援しに行くよ」
「本当? 審査は県立武道館でやるから、ぜひ来て」
 二人が話しているところへ、頼んだ料理がじゅうじゅうとシズル音を立てながら運ばれてきたので、早速二人は食べ始めた。ハンバーグでありながら、まるで肉の塊を食べているかと錯覚するくらいジューシーだった。サーロインステーキもミディアムレアで柔らかく、食べやすかった。ソースに玉ねぎとにんにくがふんだんに入っているためか、より一層食欲が増した。
 翔は付け合わせの野菜もたいらげ、完食した。真奈美はまだ終わっていなかったが、食べ始めからペースはほとんど落ちておらず、涼しい顔で食べ続けている。彼女が食べたものは、一体どこへ消えてしまうのだろうか。翔は手品でも見ているような気分になった。
「押忍。ごちそうさまでした」
 真奈美はナイフとフォークを鉄板の上に揃えて置き、満足そうな笑みを浮かべながら、一礼した。
「本当に全部食べちゃったよ」
 翔は、真奈美の空になった鉄板と皿をまじまじと見つめながら呟いた。


 レストランを後にし、翔は真奈美を自宅まで送っていくことにした。
「自転車のことは気にしないで。今からモールへ戻るのも面倒だし、盗まれるような高級車でもないから、大丈夫でしょう。明日は、バスで行けばいいから」
 ハイエースの助手席に座りながら、真奈美は翔にそう言った。普段、真奈美は自転車でスーパーに通っているので、翔にクルマで送ってもらうとなると、明日のバイトまで自転車がモールの駐輪場に置きっぱなしになってしまう。なので、モールまで送ろうかと翔は申し出たのだが、ここからだと自宅の方が近いということで、先の返事が返ってきた。
 市内の幹線道路を走る中、翔は訊ねた。
「空手をやめても、一人で生きていくつもりなの?」
「どうなんだろう」真奈美は苦笑いしながら答えた。「いい人が現れれば、考え直すかも」
「空手を始めてから、いい人はいなかった?」
「いなくはなかったけど、縁がなかったみたい」
「そうか。真奈美、綺麗なのにな」
「ありがとう。お世辞でも、言われて悪い気はしない」
「お世辞なんかじゃないって」翔は真顔で言った。
「翔はどうなの?」
「え?」
「付き合っている人とかいるの?」
「前いたけどね」
 翔は紗希と別れた経緯を説明した。その間、真奈美は翔の顔を見つめながら聞いていた。
「そうだったんだ……。音信不通って、辛いね」
「まあ、ね」
「まだ、その人に対して未練はあるの?」
「うーん……」翔は少し考え込んだ。「別れた直後はもちろんあったけど、最近は正直、どうでもよくなったかな。こうも連絡がとれないようじゃ、もう無理でしょ」
「ねえ、他にいい人とかいないの?」
 真奈美は興味津々な様子で、翔に訊ねてきた。
「いないことはないな」
 真奈美だよ。翔は思わず言いそうになったが、すんでのところでとどまった。今日親しくなっていきなりそんなことを言ったら、真奈美も困るだろう。ひょっとしたら、今度の昇段審査にまで影響が及ぶかもしれない。いや、それは考えすぎか?
 翔が黙っていると、真奈美が言った。
「そっか。その人と今度はうまくいくといいね」
「どうだかね……。先のことは分からないや」
 翔はおちゃらけた調子で答えた。
「あっ、そこ、左ね」
 真奈美は前方の信号機を指差して言った。翔は真奈美の案内に従い、ハイエースを走らせた。住宅街に入ったところで、真奈美が声をかけた。
「ここでいいわ。この辺、道が狭いから。もう、すぐ近くだし」
「そうか?」翔はブレーキを踏んで路肩に停めた。
「今日はありがとう。楽しかった」
 真奈美はクルマを降りると、翔に笑顔を向けた。
「俺も楽しかった。昇段審査、頑張ってな」
「うん。また連絡する」
 真奈美に手を振り、翔はハイエースを再び走らせた。
 ランナーズベースに戻ると、暁子は既に帰っていて、灯りは消えていた。
翔は買ってきた品物を所定の場所にしまうと、店を出て玄関の鍵をかけた。その瞬間、翔は身震いした。今夜はいつもより寒く感じる。そして、頭がぼんやりとした感覚に襲われていた。荷物がなくなったのに、身体がまだ重く感じる。
 今日、早く帰って寝れば、明日には治るだろう。翔は自転車に乗り、自宅への道を急いだ。

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