第4話

文字数 6,795文字



 それからというもの、宮川から翔の携帯電話に、何度か電話がかかってきた。最初のうちは、恩師である手前、律儀に電話に出ていたが、話はいつも、「辞めるな」と「辞める」の平行線を辿るばかりであったため、翔は宮川のことを段々煩わしく思うようになり、最近は着信があっても出なくなった。すると、宮川は翔の自宅まで足を運んで来るようになった。翔はひたすら居留守を使ってやり過ごした。宮川は夜に来ることが多いため、その時間帯はなるべく外で過ごすようになった。
 就職活動は、相変わらず何の進展もなかった。宮川のアシスタントを辞めたら、事態が良い方向へ動くだろうと、翔は期待していたが、変なプライドの塊がそれを阻み、ますます悪い方向へ向かっているような感触しか得られなかった。そんな感触がさらなる悪循環を生みだし、時折、就職希望先の企業の面接官と衝突することもあった。その時は自分を抑えることができず、決まって自宅に戻ってから、後悔の念にかられるのであった。そんな自分が、翔はたまらなく嫌で仕方がなかった。
 一ヶ月程経ったある日の夜、また宮川がやって来る時間帯になった。カフェやバー、漫画喫茶など、避難場所も行き尽くして、どこへ行こうか翔は頭を悩ませていた。
そういえばここ最近、ろくに運動をしていない。
そのことに気付いた翔は、思い切り身体を動かして、近頃の悶々とした思いを吹き飛ばそうと決意し、近所の市立体育館に足を運んだ。
 ここの体育館は、数年前に指定管理者制度が導入されて以降、地元の鉄道会社傘下で県内に多数店舗を展開しているフィットネスクラブが、施設の管理・運営を担っている。そのため、体育館内にある個人の利用者を対象としたフィットネスエリアは、マシンが充実しており、専門知識を持ったスタッフも多数いることから、翔は以前からこの場所が気に入っており、時間がある時はこの体育館に通い、汗を流していた。ただ最近は、スクールの手伝いをしていたこともあり、ここに来たのは約三ヶ月ぶりであった。
 券売機で利用券を買い、更衣室で着替えを済ませると、翔はフィットネスエリアに向かった。脇にある二つのスタジオでは、ヨガとエアロビクスのレッスンが行われていた。エリア内は、会社の終業時間に近いこともあり、サラリーマンと思われる中年男性の姿が多く見られた。重い負荷により、苦痛に歪んだ表情でマシンを使っている筋肉質の若者、ストレッチ用のスペースで談笑しながら準備運動をしている女性のグループ、ベルトコンベア式のランニングマシンに設置されているテレビを見ながら、ゆったりとしたペースで走っている初老の女性……。皆が思い思いにトレーニングに精を出していた。
 顔見知りのスタッフたちが、翔に声をかけてくる。翔は彼らと世間話をしつつ、マシンを使って腹筋と背筋を中心にトレーニングを行った。続いて、ランニングマシンに乗り、一時間ほどジョギングに打ち込んだ。マシンは速度や傾斜を自由に変えることができるので、十分刻みでそれらを調整することで、足への負担に変化をつけた。ゴールデンタイムに放送している、大御所芸人が司会のトーク番組を見ながらだったこともあり、一時間はあっという間だった。
 汗で濡れたマシンを備え付けの雑巾で拭き取って元の状態に戻すと、翔はランニングマシンを後にし、靴を脱いでストレッチスペースへ上がり、整理運動を始めた。久々に身体を動かして大量の汗をかいたため、翔は充実感と心地良い疲労感に満ちていた。
 整理運動をある程度済ませ、翔は顔を上げて、マシンエリアに目を向けた。ここでは、専属のトレーナーが個別にトレーニングをレクチャーしてくれるサービスも行われている。主に広背筋を鍛えるラットプルダウンのマシンで、一人の男性が、熱心そうなトレーナーの指導を受けながら、必死の形相でトレーニングをしている姿が見えた。
 翔は、もう少しで声を上げてしまうところだった。トレーニングをしている男性は、宮川のスクール生の磯島秀幸だったからだ。
 あいつもここに通っているのか。
 翔は気が重くなった。宮川と並んで、今一番会いたくない相手だった。次からここに来る時は、この時間帯を避けなければならないではないか。
 向こうが気付く前に、ここを出よう。翔は急いで残りの運動を済ませると、素早く靴を履いて、フィットネスエリアを出た。
 フィットネスエリアの方をちらと振り返ると、磯島のパーソナルトレーナーが何やら大きい声を出して磯島に発破をかけている様子が見えた。磯島は苦しそうな表情でマシンを動かしていた。
 ランニングスクールに加え、わざわざ高いカネを払って個別指導まで受けてトレーニングしているとは。一体何のために? 肥えた腹をへこませるために、ダイエットでもしているのか? 翔は首を傾げながら更衣室へ向かった。
 シャワーを浴びて着替えを済ませると、翔は体育館内にある大手コーヒーショップに立ち寄った。
 夕飯をまだ食べていなかったため、翔は海老のクリームパスタとアイスコーヒーを注文した。勘定を済ませると、すぐにアイスコーヒーがカウンターに出てきた。パスタは席までお持ちいたしますと、若い女性店員が番号の記されたプレートを手渡した。
 翔はアイスコーヒーを片手に、窓際の四人掛けのボックス席に移動し、入口に背を向ける形で座った。
一昔前までの県の直営時代においては、このような店が体育館にあるなんて考えられなかった。行政もたまには、市民にとって良いことをしてくれるではないか。翔はやや濃い目のアイスコーヒーを飲みながら、ふとそんなことを思った。
「失礼します」
 スマートフォンをいじっていると、さっきの女性店員の声が背後からしたので、翔は振り向いた。
 その瞬間、翔は「あっ」と声を上げてしまった。
 湯気の立った海老のクリームパスタの入った皿を持ち笑顔で立っている女性店員の肩越しに、磯島秀幸とさっきのパーソナルトレーナーが談笑しながら店内に入って来る姿が見えたのだ。さっき見かけた時は何とかこらえたが、今回は声が出てしまった。
「お客様?」
 女性店員が怪訝そうな顔で、翔を見つめてくる。
「あっ、いや、何でも」
 翔は我に返り、店員が持っていたパスタの皿を手で受け取った。
 あいつら、ここで食べてくのか?
 パスタをすすりながら、翔は戦々恐々としていた。二人はカウンターで店長と思しき風貌の男性店員にオーダーしている。
 二人はマグカップに入ったドリンクを手に取った。テイクアウトではなかった。翔のいるボックス席の方に歩いてくる。
 来るな。こっち来るな。
 翔は磯島に気づかれないよう、背中を丸くしながら、パスタを食べた。
「ここでいいですか?」
 背後でパーソナルトレーナーの声がした。
「いいですよ」
 磯島の声。
 マジかよ。今、席を立ったら絶対に気づかれてしまう。翔はさらに身体を小さくした。
 翔の真後ろにパーソナルトレーナーが座り、パーソナルトレーナーの向かいに磯島が座る格好となった。
「ふう、疲れましたね」
 磯島は、疲労感を含んだ声でパーソナルトレーナーに言った。
「磯島さん、今日はよく頑張りましたね」
「ああ。今日は何だか身体が軽く感じるんだ」
「それは何よりです。そういう時に頑張ると、伸びますから」
「そうか。もっと速く走れるようにならないと、サブフォーは難しいだろうからな」
 サブフォー? ということは、やはり磯島はここでもマラソンのためのトレーニングをしているということか。確かに市民ランナーにとって、フルマラソンを四時間以内で完走するサブフォーはひとつの大きな目標であり、その達成に向けて練習しているランナーも少なくない。本屋へ行けば、サブフォーを狙う人向けの本もたくさん置いてあるし、インターネットでちょっと検索するだけでも、玉石混交のアドバイスが溢れている。
「田中さんは、フルマラソンはどれくらいのタイムですか?」
 磯島が尋ねると、パーソナルトレーナーの田中は答えた。
「二時間五十分ちょいですね。一番早かったのが」
「サブスリーですか。さすがですね」
 磯島の驚く声が聞こえた。
 二時間五十分じゃ、大したことないな。翔は心の中でそう呟いた。
「大したことないですよ」田中は謙遜した。「磯島さんは、ベストは?」
「私は四時間半前後だね。まだまだだ」
「十分早いですよ」
「いやいや」磯島は苦笑交じりに言った。「やはりサブフォーは何としても達成したいところだね。というか、達成しないといけないんだ」
「それはまた、どうしてですか?」
 田中が興味のこもった声で、磯島に尋ねた。
 磯島は、少し間を置いて言った。
「私にはね、息子がいたんですよ」
「いた、というのは?」
 ためらいがちに田中が訊いた。
「数年前に死んだんだ。もともと白血病を患っていてね。体力をつけるためにマラソンを始めて、サブフォーを目指していたんだ。白血病ってご存知ですか?」
「名前だけなら……」
「いわゆる『血液の癌』ってやつで、血液中の成分が正常に機能しなくなるんだ。それで免疫力が低下して、別の病気も併発してしまうこともある」
 翔はパスタを食べる手を止めたまま、磯島の話を聞いていた。
 磯島は続けた。
「白血病には、慢性のものと急性のものがあって、最初は息子は慢性の方だったんだ。だが、ある時、突然急性に変わってしまってね……。そこからは、あっという間だった。薬も効かなくなって、みるみるうちに息子は弱っていってしまって……。最後は肺炎を患って、逝ってしまったんですよ」
 そこで、しばらく沈黙が続いた。翔からは二人の様子が見えないが、おそらく磯島は、息子の生前のことを思い出し、話が止まってしまったのだろう。そして田中の方は、そんな磯島に何と声をかけて良いか分からないのか、さっきから黙ったままだった。
「辛いものだよな」
 磯島の声が震えていた。泣いているのだろうか。
「辛いものだよ。自分よりも長く生きていない息子の方が、先に旅立ってしまうのは。毎日、世界のどこかでそういうことが起こっているだろうし、実際、私の身近なところでも、子供の方が先に死んでしまった人が何人かいた。息子が死ぬまでは正直、そんな不幸があっても他人事だと思っていた。ああ、まあ、他人事であることには変わりがないんだが、何というか、我が家ではそんなことは起こり得ないって本気で思っていたんだ。息子の白血病は、時間はかかるが、治療を続けていればいずれは治るって医者にも言われていたしな。ランニングも頑張っていたし、私は息子を信じていた。それが急にあんなことになって……」
 磯島は話しているうちに声が徐々にかすれていった。
「磯島さん、すみません。辛いことを思い出させてしまって」
 ようやく田中が口を開いた。
「田中さんが謝ることはないよ。私が勝手に話し始めたんだから」
 磯島は鼻をすすりつつ、答えた。
「おそらく、見た感じ、あなたは息子と同年代なはずだ。幾つですか?」
 田中は自分の年齢を答えた。
「じゃあ、秀俊の一つ上か」
「お名前、秀俊さんっていうんですか?」
 田中の声のトーンが上がった。
「ああ、そうだが」
「僕も、ひでとしって名前なんです」
「本当か」磯島の声が大きくなった。「字はどう書くのかね?」
「英語の『英』に、敏感の『敏』です」
「そうか。いやはや偶然にしては凄い。これも何かの縁かもしれないな」
「息子さん、僕に似てたりしますか?」
「いや、そうでもないな」
 そこで、二人は声を上げて笑った。
「似てないのかあ。残念」
「あなたの方が、エネルギッシュだ。うちの息子は、小さい時からおとなしくてね。言ってみれば、太陽と月くらいの差があるかな」
「まるっきり正反対じゃないですか」
 二人はまた笑った。
「磯島さん」ひとしきり笑うと、田中は真面目な口調に戻った。「僕、息子さんの代わりにはなれないかもしれないけど、名前が一緒なんで、ひとつ、息子だと思って、これからもよろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ、よろしくお願いします。息子の叶えられなかったサブフォーを早く達成しないとな」
 そこで一時会話が途切れた。さっきの店員が、二人が頼んだパスタを持ってきたからだ。
「この体育館にこの店が入ってるなんて、ちょっといいですよね」
「うん。相当魅力的な施設だよ」
 二人はパスタを食べ始めた。翔も食べるのを再開した。
「そういや」しばらくして、磯島の声がした。
「何です?」田中が反応した。
「最近だが、田中さんの他にも息子と同年代の男に出会ったよ」
「そうなんですか?」
「ああ。実は私は、昔B大の駅伝部の監督をしていた宮川さんがやってるランニングスクールにも通っていてね」
「宮川監督ですよね。最近、ランニングステーションを始めたみたいですよね」
「そうそう。市民公園の近くの」
「へえ。そちらにも通われているんですか。凄いですね、かけもちなんて。それで、そのランニングスクールの生徒さんに、息子さんと同年代の方が?」
「うん、生徒ではなく、宮川さんの教え子でスクールの助手をしている子がいてね。ほら、以前B大で箱根駅伝でエースをやってた、高野」
「ああ、高野翔ですか。こうやをかける」
「そうそう」
「彼が、宮川さんのアシスタントをしているんですか。凄いランニングスクールですね」
「ね。だけど、私がその彼と些細なことで喧嘩してしまったせいで、彼、それ以来スクールに来なくなっちゃったんだ」
 磯島は、翔と喧嘩に至った経緯を簡潔に説明した。
「そうなんですか」
「宮川さんや他の生徒たちには、スクール始まって早々、悪いことをしたと思って、反省しているんだ。私が大人気ない行動をとらなければ良かっただけの話だからな。それに」
「それに?」
「知っているだろうが、高野くんも実業団に入ってから調子が今一つで、そのまま引退しちゃっただろう。宮川さんの話だと、本人は、再就職先がなかなか決まらずに悩んでいたみたいなんだ。それで、就職先が決まるまでの繋ぎということで、助手の仕事を宮川さんがお願いしたそうなんだ」
「彼は、今、どうしてるんですか?」
「それが、その件以来、音信不通になっているらしい」
「え? 大丈夫なんですか?」
「宮川さん、彼の家にも何度か足を運んだらしいんだが、いつも留守みたいなんだ」
「うーん。ちょっと心配ですね」
「私としても、彼と仲直りして、また一緒にトレーニングしたいんだがね。まあ、彼にしてみたら、私なんて鈍臭く見えるんだろうけど、せっかくなんだから、元箱根ランナーからもいろいろ教わりたいよ」
「磯島さん、偉いですね」
 田中はしみじみとした口調で磯島に言った。
「そんなことないって」
 磯島が軽く身体をのけぞらせ、大げさに手を振って謙遜したところに、磯島のそばに人影が現れた。
「磯島さん」
 磯島は驚きのあまり、餌を待つコイのように口が開いた。
「君は……、高野くん、だよね?」
 磯島の代わりに、田中が声をかけた。
「はい」翔はちらと田中の方を見て返事をし、磯島に言った。
「磯島さん、すみません。話、聞いちゃいました」
 磯島はようやく口を開いた。
「君だったのか。何となく後ろ姿が似ているなとは思ったが」
「すみません」翔は再び謝った。
「いや、いいんだ」
「いえ、この間のことです。俺、磯島さんの事情や思いを知らずに、あんな失礼な態度を取ってしまって……。ごめんなさい」
「もう、いいんだ。私こそ、ついムキになってしまったんだから、お互い様だ」
「申し訳ないです」
 翔は磯島に深々と頭を下げた。
 磯島は慌てて立ち上がり、穏やかな声で言った。
「やめてくれ。そんなことするんだったら、ひとつ、私の頼みを聞いてくれないか」
「え?」翔は顔を上げた。「頼み……とは?」
「宮川さんのスクールに戻ってきてくれないか。聞こえたかもしれないが、宮川さんと君がランニングを指導してくれるなんて、この上なく贅沢なことだと思うんだ。だから皆、スクールに入ったんだよ。就職先がなかなか決まらなくて辛いかもしれないが、皆のためにも、もう一度戻ってきてくれないか。私たちにいろいろ指導して欲しい。お願いします」
 今度は磯島が頭を下げた。
「そんな。頭を上げてください」
 翔は困惑した表情で、磯島に声をかけた。磯島は頭を上げた。
「スクールの皆もそうだが、一番心配しているのは、宮川さんと奥さんだ。二人とも、君に会いたがっている」
「監督、怒ってます……よね?」
「何を言ってるんだ」磯島は苦笑いした。「怒ってなんかいないさ。早くランナーズベースに戻ってきて欲しいって言っているよ」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ。だから、また一緒にトレーニングしよう。あれから私も、大分腹筋はついたんだぞ」
 磯島は、お腹の辺りをさすりながら、得意気に言った。
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