漁港にて

文字数 1,809文字

  漁港にて

 久しぶりの海の匂い、ふと目にした電柱に、「此処の高さ四メートル、避難場所は→」と小さな看板が取り付けてあった。あの地震の津波の教訓であろうか……。
 広い港に夏の名残を感じさせる熱気を帯びた陽ざしが降り注ぎ、沖に向かって突き出した長い堤防を逆光の中に浮かび上がらせる。
 その堤防の先端近くに、三人の釣り人の姿、それがまるで当然の自然であるかのように風景の中にシルエットを描き、時折蠢く釣り人は、今、この時間を離れた悠久の幻影であるかのような錯覚を僕に抱かせ、残暑を感じさせる少し気怠い初秋の午後の億劫さを弥増す。
 堤防のコンクリートに座り込んだ僕の汒とした記憶の奥のあの出来事に辿り着くのに、そう時間は要らなかった。
 あれは、山育ちの自分が、海の近くに引っ越し、海釣りを覚えて間もない頃の出来事であった……。

 鱚釣りを覚え少し夢中になっていた僕は、独り、魅入られたように鱚の魚信を求め次第に沖へと誘われてゆくのであった。
 河口に広がる遠浅の砂浜に鱚を求め竿を出していたのであるが、穏やかにさざ波打ち寄せる海、見る見るうちに引いてゆく潮の流れ、明るい日の光の下に広々と広がりだした砂浜、僕は、いつの間にか魅入られたようにその引き潮を追い、遠浅の砂浜の奥まで入り込んで竿を振り続けていた。
 沖からの西風が強くなり始め、汐も引き潮から満ち潮へ変わったことに気付くのが遅れた僕は、次第に波立ち始め、じわじわと襲い掛かってくるような波に追われ、仕掛けを仕舞う間も失い、ひたすら岸辺を目指す。
 小走りではもう間に合わない。慣れない海の現象に恐怖を感じ、必死の形相に変わるのに大した時は要らなかった。
 泳げない訳ではない、いや、むしろ泳ぎは得意の内、焦ることは無いさと心に語り掛けるが、やがて走り草臥れ息が上がってくる。草臥れ始め、波の抵抗も相まっていつものようには動かないもどかしい両の足、少しの休みをとる間にも、押し寄せてくるひと波ごとに、くいっ、くいっと波は上がり、股下までの長靴の中に海水が入り込んでくる。
 水の中を急いで歩くには不便な股下迄の長靴を脱ぎ、肩に担ぎ込むと、その長靴とともに竿を抱く様に抱え込み、満ち潮に緩んできた自由にはならない砂浜を必死に駆ける。いや、それは、駆けるというには程遠く、ただただ夢中、水の抵抗に逆らい藻掻いている状態であったが、若い体力は、それでも何とか海水を搔き分け岸へと進んでゆく。
 岸辺が近づいてきたと感じられ、ホッとしたとき、もう股下辺りまで満ちてきた汐に洗われる足は、棒の如く疲れ果てていた。
 振り返れば、俗に「羊が走る」といわれる海荒れの風景が、荒涼とした遠浅の砂浜の沖まで見渡せ、僕をあざ笑うかのように白波を立てながらざぶざぶと打ち寄せる。
 満ち汐と風向きが相乗効果を生み、一気に迫るという現象が僕を襲ったのであろう。
 やっと辿り着いた岸辺にドウと身体を投げ出し倒れ込む。
 青い空がやけに綺麗だ、腰の上から胸元辺りまでびしょびしょに濡れたズボンを脱ぎ、海の明るい陽ざしに広げ乾かしながら、得体のしれない海の亡霊みたいなものに追い詰められていったのであろう自分の姿を振り返った時、「ほぉーっ」と大きく嘆息が口をつき、安堵感が僕を満たしていったが、未だ普段の自分を取り戻すことは出来ていなかった。
 それが出来たのは、バスに乗り込み、長崎の町の賑わいの中に戻ってきた頃であったろうか。

 泳ぎを覚悟で満ち汐に乗れば、危険ということも無かったのであろうが、その時は冷静になる間合いというものを失っていたし、脳裏を「死」という言葉が襲ったのも事実ではある。
 岸辺に座り込み青い空に流れる白い雲を見ながら、ひょっとしたら、「死」というものは、こんな偶然が齎すことも多々あるのではないかと、生まれて初めて実感した時であったのかもしれない。
 今でも、あの穏やかな遠浅の浜が豹変して白い波頭が襲い来る荒涼とした風景を思い出すときがある、それは多くの場合、僕の心が疲れ果て、何かから逃げ出したいと願望するときのように思われる……。
 
 西の空に傾き始めた太陽に、釣り道具を片付け始めた僕は、心の中に満ちてゆくあの時の恐怖を思い出しはするのであったが、遠い思い出のそれを、具体的なものとは捉えきれず、車のハンドルを握り、日常の中に戻ってゆくのであった。

    只今推敲中・・・。

 
 
 
 
 

 
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